2015年8月23日、御代田喜びの集い
ゴットホルド・ベック
第一 テサロニケ
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、
3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。
3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
3:7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。
3:9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。
3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。
話す前に、私はいつも変な祈りを捧げます。どういう祈りかと言いますと、イエス様、あわれんでください。誰も僕の喋っていること聞こうとしないで、あなたの言わんとしていることを聞かせて。そういう心構えを与えてください。結局、唯一の望みとは、御霊は聖霊の栄光を表しているということです。
今、読んだ手紙は、パウロが初めて書いた手紙です。いつだったか。おそらく、五十年だったのではないでしょうか。書いたところは、コリントでした。
パウロが、三つの安息日でイエス様を紹介した結果、いろいろな人々が導かれ、救われたんです。彼らの心からの信仰、そして、彼らの真の愛こそが、パウロの感謝のもとでした。
御言葉を述べ伝えると、主は働いてくださるとあります。このテサロニケ第一の手紙とは、本当に、パウロの初めて書いた手紙というだけではなくて、非常に大切な手紙です。一章を見ると、テサロニケの教会は最初から、すばらしい出発をしたことがわかります。彼らは、十字架につけられ、そして、よみがえられたイエス様の福音を聞いたときに、大喜びで、それを受け入れました。
言葉を、単に頭で理解したのではなくて、飢え乾いている心で受けた――食べたのです。御言葉を、本当に自分自身のものとして受け入れ、十分に味わった時にのみ、主の大いなる力が働くことができます。
二章を見ると、パウロと同労者たちの働きが、本当に真実なものであったゆえに、虚しく終わらなかったことがわかります。そして、テサロニケの導かれた人々は、マケドニヤとアカヤにいる信者、全体の模範となり、光となったと、聖書は言っているのです。けれども、そのようなすばらしい出発をしただけではなくて、それから、先に成長のことをおろそかにしてはなれません。
子供が生まれることは、確かに大きな喜びでしょうけど、生まれてから、その子供が全然、成長しなければ、やはり悩みの種になります。それと同じように、罪人がイエス様を救い主として受け入れ、新しく生まれ変わるということは、この世において最もすばらしい出来事に違いない。けれども、救われた人々が、やがて、妥協をしてしまい、悪魔の罠に落ち込んで、しまうとしたならば、それは大きな悲しみの理由になれます。
もちろん、生まれることと、出発がなければ、成長もありえないことは明らかです。多くの人は、自分が信者であると言いますが、ただし、出発がなければ、正しい成長もありえないことは、しばしば、ないがしろにされてしまっています。
正しい出発がなされないと、元の状態にとどまってしまうか、さらに悪い場合には、元通りになってしまうのであります。さらに注意しなければならないのは、仮に、正しい出発がされたとしても、それが必ずしも、正しい成長を意味するとは、限りません。
テサロニケの信者の場合は、どうでしょうか。その答えは、3章の中に与えられています。第3章には、なんという表題をつけることができるでしょうか?ふさわしい表題は、何なのでしょうか?『良き信仰』、『信仰によって』、『それにもかかわらず』、『吟味、苦しみを通しての祝福』などとつけることができるのではないかと思います。
第3章は、次のように三つに分けて考えることができます。1節と2節に、奉仕における共同。3節から8節まで、奉仕におくる苦難と患難。そして、9節から13節、奉仕における交わりの喜びとつけることができるのではないでしょうか?
第3章の中で、数多く出てくる言葉は、当然ですけど、信仰という言葉です。信仰という言葉は、いったい、どこに出てくるのでしょうか?
2節、あなたがたの信仰を強めるため、5節、あなたがたの信仰を知るため、6節、テモテがあなた方の信仰について知らせた、7節、私たちはあなたがたの信仰によって、慰められた。10節、あなたがたの信仰の足りないところを補いたい・・・・云々とあります。
イエス様を信じるということは、イエス様と結びついていることを意味します。それこそ、パウロが望んでいたことであり、テサロニケの信者が、イエス様と結びついていることこそ、パウロの心からの願いでした。
パウロは、テモテからこの事実を聞いた時、大いに慰められたのです。この書によって、パウロがいかにして、信じる者をイエス様の御手の中に入れたかを、はっきりと見ることができます。さらに、神の御手にある信者たちが、神の導きによって、すくすくと成長していることも分かります。
信仰とは、なんでしょうか。このことについて考えると、おそらく誰でも、へブル書11章を思い出すのではないでしょうか。
へブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。
この言葉によると、信仰とは、二つの面を持っています。うなわち、第1番目、目に見えないものを知ることであり、もう一つは、将来のことを知ることです。
したがって、信仰の代わりに、確信とか、信頼とか、希望、あるいは、望みという言葉を用いても良いでしょう。そして、実際にはまず、イエス様と出会い、イエス様に信頼し、自分自身をイエス様に明け渡すことを意味しています。
真の信仰の内容とは、十字架に付けられ、復活なさり、再び来られる事実です。信仰とは、イエス様との交わり、あるいは、結びつきに他なりません。信じる者は、見えないけど、イエス様を愛し、必ず来られるイエス様を待ち望んでいます。今日、来られるかもしれない。
テサロニケの信者たちに対してパウロが抱いていた最大の関心事は、テサロニケの信者たちが、この信仰を固く守り続けるということでした。すなわち、彼らが目に見えないけど、必ず来られるイエス様を見上げ続け、どんなことが起ころうとも、イエス様との生き生きとした交わりを持ち続けるということでした。
そこでパウロは、テサロニケの信者たちの信仰が固く立っていくかどうかを知りたいと、心から切に願っていたのです。彼は、テサロニケの教会は、もう絶対、大丈夫であるというような確信を持つことをせず、どうなっているか、絶えず心を配り、配慮をしていました。けど、パウロの信仰は、それらの不安や心配を克服しました。というのも、パウロが見ていたものは、彼らの弱さ、彼らの問題などではなく、パウロは、主の真実さ、主の考えられない恵みを見たからです。
彼は、大いなる愛をもって、テサロニケにいる兄弟姉妹のために心を配ったため、アテネの信者たち、コリントの信者たちが、テモテと一緒に働くことを断念し、テモテをテサロニケへ送ったのです。
一つの問いは、いかなる危険が、信者たちの信仰生活を脅かしたのかということです。いろいろなことが、イエス様との交わりのをダメにする原因になり得ます。
三節、『このような困難の中にあって、動揺する者が一人もないように』励ますため、パウロは、同労者テモテを遣わしました。絶えずイエス様を見上げることをしないと、イエス様を見失ってしまう危険性が大いにあるわけです。そして、イエス様を見失いますと、信仰は弱くなります。
いろいろな艱難を通して、そのような状態に陥ることは、まれではなく、イエス様にしっかりと結びつくことができなくなってしまうのです。五節を見ると、そのためにパウロは、もしや、試みる者が彼らを試みはしないかと気づかったのです。
艱難を通してイエス様を見失ってしまうと、試みる者が入ってきて、我々の信仰の土台を崩してしまいます。また、イエス様を絶えず見上げないと、私たちは悪魔の手玉にされてしまいます。
パウロは心から本当に、テサロニケにいる兄弟姉妹のために心を配りました。一節と五節にある、『私はこれ以上、耐えられなくなった』、『もはや我慢できなくなった』という言葉からも知ることができるでしょう。テサロニケの信者、集会が脅かされると、パウロと同労者たちも、同じように信仰が脅かされる、彼らが主にあって固く立つならば、パウロは生きることになるからですと、八節ですね。
したがって集会がダメになることは、パウロにとって、もう死を意味していました。けども、彼らが、イエス様にあって固く立っていることを聞いたとき、パウロは、生き生きとした状態になることができました。
他の兄弟姉妹が苦しんでいるとき、私たちも同じように苦しみを感じているではないか。どうでしょう?カインはかつて、主に向かって言ったのです。私は、弟の番人でしょうかと言いました。
今日でも、多くの人々が、カインと同じような態度を取っているのではないでしょうか。この態度はまさに、殺人犯の態度であります。兄弟姉妹の誰かが罪を犯したとき、それは自分には関係がないという態度を取るならば、それは、まさにカインと同じような態度にほかならない。
パウロは、テサロニケの集会としっかりと結びついて、一つになっており、もはや、離れることができない状態になっていました。そのために、彼らが、主にあって固く立っているときは、パウロも信仰の喜びで、生き生きとしており、彼らの信仰が、ゆり動いて動揺しているときは、パウロも同じように痛みを感じたのです。
もう一つの質問について考えましょうか。パウロはいかにして、自分たちのために、信仰の危険を警告したのかと。4節を見ると、やがて、患難に会うことを、あらかじめ、預言しておいたことがわかります。
パウロは、必ずやイエス様に従うことは、十字架を背負うことを意味し、いろいろな艱難や苦しみを経験することになる、遭遇するはずであると言ったのです。
けども、ただ単に警告しただけでなく、なぜ艱難に合わなければならないかについても、語っています。その第一の理由は、信者がこの世にあっては、言わば、異分子のようなものであり、寄留者、また、旅人であるため、思いはこの世ではなく、天国にあるため、妥協しなければ、必ず艱難が伴わざるを得ないということです。
第二に、艱難によってのみ、我々の信仰は清められ、強められるということです。例えば、金は千度の熱さで鍛えられます。そして、信仰は、聖書の中で金に例えられます。
ペテロ第一の手紙一章7節。しかも、私たちの信仰は、試されて、火で精錬されても朽ちて行く金よりもはるかに尊いとあります。
【参考】第一ペテロ
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
艱難がなければ、我々の信仰が鍛えられ得ずしたがって成長しないということです。それですから、パウロは、艱難をも喜んでいると書いたのです。
パウロは、信者たちの信仰を強め、励ましたのです。そして、彼らの信仰の足りないところを補いたいと願っていたと書いてあります。パウロは決して、気休めの言葉や、事実に反するようないいかげんなことを言わなかった。信仰が成長するためには、どうしても多くの艱難が必要であると言っています。
パウロの心からの願いは、イエス様に出会った信じる者の信仰が強められ、成長することでした。パウロの生活の特徴は、自分自身を忘れ、信者の幸せを願うということだったのです。我々の場合はどうでしょうかね。他の信者たちに対して、どのような態度を、我々は取るのでしょうか。
もう一つの質問について考えましょう。すなわち、パウロがこの教会について、いかなる情報を得たかということです。6節を見ると、テモテが良い知らせを持ってきたことが分かります。テモテは、テサロニケの教会の信仰と愛とについて知らせました。
テモテはテザロニケの信仰が、信仰によって主としっかり結びついていることを、自分の目で確かめました。彼らは決して、宗教団体を形成していたのではなく、イエス様との生き生きとした交わりを持っていたのです。
そして、自発的な交わりを形成させたものとは、愛に他ならなかったのです。8節を見ると、彼らが主にあって固く立っていたことが分かります。ところが、今日、多くの信者は固く立っておらず、いつも動揺しているのではないでしょうか。
しかし、固く立つことは決して、自分の力によるのではない。イエス様にあって初めて実現されます。したがって、主に会って固く立つということは、自分自身の虚しい努力をやめて、すべてをイエス様にゆだね明け渡すことにほかならない。
パウロは、彼らの正体をつぶさに聞いて、そのために大喜びで感謝しました。けど、パウロはそれで満足したとか、それで結構であるとかいうことではなく、さらに高い目標を見上げて、それを目指していました。
確かに新しい命を得るためには、多くの戦いは必要ないでしょう。信者となってからの信仰の成長のために成される戦いの方が大きい、また、激しいものです。パウロは、信者たちに対して、いかなる目標を望んでいるかということを、祈りの中で表しているのです。
信者のために、パウロは何を思ったでしょう。何を望んだのでしょう。
すなわち、10節、信仰を完全なものとするために、彼らの信仰の足りないところを補うということでした。そのために、愛を増し加えて、豊かにしてくださるため、主に祈ったのです。
また、それと同時に、主が彼らの心を強め、きよく、責められるところのないものにしてくださるようにと、パウロは、彼らのために、心から祈ったのです。そして、10節によると、パウロはそのために、日夜、しきりに願い求め、祈り続けたとありますね。
実際、パウロが信者のためにどのようにして、どれほどの祈りをしていたかについては、ほとんど想像することができません。すなわち、パウロは自分自身の苦しみや問題などを忘れて、他の信じる者のために、日夜、真剣に祈ったと聖書は言っているのです。このようなパウロの態度と祈りへの答えとして、主はテサロニケの教会を豊かに祝福してくださったのです。
今日、必要とされていることは、パウロと同じように、自分のみならず、他の兄弟姉妹に対しても真剣に祈り、力を注ぐことなのではないでしょうか。そのような人々を、主は探しておられます。
主はそのような者を、通りよき管として用い、他の信者も祝福することを望んでおられます。その意味で私たちは、全てを主によって自由に用いてもらいたいのではないでしょうか。
ペテロ第一の手紙を読んで終わります。
第一ペテロ
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。
パウロはこういうふうに、当時の信じる者に書くことができたのです。もし、主が我々に対して同じような思いを持っていれば、本当にありがたいのではないでしょうか。
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