2015年8月16日日曜日

恐れ退く者ではない

恐れ退く者ではない
2015年8月16日、御代田よろこびの集い
黒澤 錬二

民数記
13:1 主はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」
13:3 モーセは主の命によって、パランの荒野から彼らを遣わした。彼らはみな、イスラエル人のかしらであった。

自分たちの生活している周りには、日々いろいろなことが起こります。

私たちには、神様、イエス様からいただいた少しの知恵と知識がありますから、ある程度のことであれば、起こったことを、自分なりに分析をして、判断をするということができます。ですから、それをもとにして、次の行動を決めていくという一般的な習慣が、私たちの中には身についています。

同じく教育では、今ある情報をいかに分析し、それをもとに、経験的に学びながら、未来を予測して、これからの進む方向を決めていく、そういう力を身につけていこうと学習していくわけであります。

この世で生活をしていくためには、これらの情報処理能力は、これからの時代を生きていくのに欠かせない力であると、一般的には言われていることであります。そんな中で、イエス様を信じる私たちは、どんな判断がもととなっていくべきなのでしょうか。

先ほど、兄弟に読んでいただいた民数記を見ていきたいと思います。先ほどお読みいただいた民数記の13章は、イスラエルの民が奴隷の地であったエジプトを脱出して、二年間さまよって、待ちに待った日が来たということを示しています。

神様からのお許しが出て、イスラエルの民のために与えようとしているカナンの土地を探りに行きなさいという命令が、神様ご自身から、モーセに下ったわけであります。その場面でありました。

民数記
13:1 主はモーセに告げて仰せられた。
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

神様の命に従って出かけていく十二部族の中から、一人ずつ選びなさい、ということでした。それぞれの人の名前が、4節以降に載っております。お読みしませんけども、15節まで、それぞれの名前が載っております。その中には、時代の預言者として活躍するヨシュアの名前も載っております。8節でしょうか。ヨシアの名前は、本名はホセアであります。

16節にも、このことは書かれておりますけれども、ホセアは、救いの意味であります。その名を、ここではモーセは、ヨシュアに変えたと書かれてありました。これは、ヤハウェ、つまり、神とホセヤ、救いの二つの名前を、合体させた名前でヨシュアになった、と書かれています。

まさに神は、救いと言う名前をもらったわけです。これから、ヨシュアの働きが、この時から現されているということが、分かるわけであります。

さて、主からの言葉を受けて、モーセがカナンを探りに出かけていく十二人に向けて話をしている場面が、十七節であります。

民数記
13:17 モーセは彼らを、カナンの地を探りにやったときに、言った。「あちらに上って行ってネゲブにはいり、山地に行って、
13:18 その地がどんなであるか、そこに住んでいる民が強いか弱いか、・・・・

云々とあるわけです

ここでは、モーセは、多くのことをこの遣いに行かせる人たちに話をしているわけです。カナンの地がどんなであるか、とりわけ、そこに住んでいる民は、強いのか弱いのか、少ない人数なのか、多い人数なのか、その土地が良いか悪いか、その住む町は宿営か城壁か、土地は肥えているのか痩せているのか、木があるのかないか、その地の果物を取ってきなさい・・・・などなど、いろいろと命じているわけであります。

ここで、主がモーセに伝えた命令は、何であったかということを、もう一度、見てみたいと思います。

民数記
13:2 「人々を遣わして、わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を探らせよ。父祖の部族ごとにひとりずつ、みな、その族長を遣わさなければならない。」

詳しく見てみますと、ここで主は、モーセに二つのことを命じています。一つは、カナンの地を探らせよということです。二番目は、部族ごとに、一人の族長を遣わせということでありました。

そして、3節以降で示されているように、二番目の命令は確かに、部族ごとに一人の族長を遣わすということについては、それぞれ主の命によって遣わせたと書かれてある通りです。

しかし、ひとつ目の探らせよということについてはどうでしたでしょうか。

モーセは出かけていく十二人に、先ほどお読みしたように、神様の言葉以上に、いろいろと付け加えて、話していたのでありました。主が、ただ『探らせよ』とだけ言ったのに、モーセはそこに住む民の状態はどうであるか、強いか弱いか、多いか少ないか、宿営か城壁に住んでいるのか、木があるかないかと、こと細かに知らせるように命じたわけであります。これは、主の思いを超えて、モーセの思いがここで入ってはいないでしょうか。

このことはきっと、モーセ自身が興味を持って知りたかったことに違いないんです。モーセは、結果的に人間的な思いをプラスして、この主からの命令を偵察に行く部隊に伝えたわけでありました。

自分たちがそこに行ったときに、どんなことに支障があるのか、どういうことが問題となり、あるいは、困難になるのかということが、モーセ自身が知りたかったことではないでしょうか。

でも、本来、主なる神様が探らせたかったのは何だったのでしょうか。これはもちろん、カナンの地のすばらしさではないでしょうか。あらためて言うまでもありません。十三章の二節にも、『わたしがイスラエル人に与えようとしているカナンの地を』云々・・・・と言っているのです。

しかし、四十日の偵察を経て帰ってきた偵察部隊の報告は、このような形でありました。確かに、偵察に行った十二人によって、隅々まで調べられたカナンの地の自然と、そこにできる作物から、まさにすばらしい土地であるということは、間違いありませんでした。

民数記
13:26 そして、ただちにパランの荒野のカデシュにいるモーセとアロンおよびイスラエルの全会衆のところに行き、ふたりと全会衆に報告をして、彼らにその地のくだものを見せた。
13:27 彼らはモーセに告げて言った。「私たちは、あなたがお遣わしになった地に行きました。そこにはまことに乳と蜜が流れています。そしてこれがそこのくだものです。

乳と蜜が流れていると表現されるほどのすばらしさだったわけであります。本来は、このことだけがわかればよかったのではないでしょうか。しかし、それを覆い隠してしまうほどの別の事実も、実は見えてきたわけであります。

民数記
13:28 しかし、その地に住む民は力強く、その町々は城壁を持ち、非常に大きく、そのうえ、私たちはそこでアナクの子孫を見ました。

住む民はたいへん力強い民であった。城壁がありました。大きくて、さらにアナクの子孫を見たとあります。

ここで、カナンの地は、良いことばかりではなく、むしろ、人間的に見れば、厳しいことばかりが、逆にクローズアップされて報告されたような気がいたします。ここに出てきたアナク人とは、後ろの三十三節にあります。

民数記
13:33 そこで、私たちはネフィリム人、ネフィリム人のアナク人を見た。私たちには自分がいなごのように見えたし、彼らにもそう見えたことだろう。

ネフィリム人であるということです。これは、お開きにならなくても結構ですけども、創世記の六章四節には、ネフィリム人のことを、昔の勇士で、名のある者たちであるとあり、さらに大男、巨人であったと書かれています。

【参考】創世記
6:4 神の子らが、人の娘たちのところにはいり、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

また民数記に戻ります。

民数記
13:29 ネゲブの地方にはアマレク人が住み、山地にはヘテ人、エブス人、エモリ人が住んでおり、海岸とヨルダンの川岸にはカナン人が住んでいます。

今、巨人で、たいへん大男であって、力強いネフィリム人がいますよ。さらに今、二十九節でお読みしたように、アマレク人、ヘテ人、エブス人、エモリ人、カナン人と先に住んでいるいわゆる先住民族は、多数にわたっていたということであります。

その多さを知ると、それを聞いた人々は、冷静になることはできませんでした。もちろん、これらの先に住んでいた住民たちは、外から土地に入ってきた人々と、友好的に接するわけがないからであります。戦いを交えることは、火を見るよりも明らかであります。

ですから、十四章の一節に、『全会衆は大声をあげて叫び、民はその夜、泣き明かしたとあるように、民衆はこの事実に、大声を上げて叫んで、その夜は泣き明かしたというほどの大騒ぎに発展したわけであります。それもそうです。エジプトから逃れて、荒野をさまよって、待たされ続けた日々が、やっと終わるかと思ったその時に、このマイナス要素の情報が、自分たちに与えられたわけであります。

自分たちには未来はないと思えるこの情報に、愕然としてしまった民衆たちがいたわけであります。

ここで考えてみたいことは、確かに出かけていった偵察部隊が見てきたことは、嘘偽りのない事実であります。目の当たりにした事実は、確かに自分たちにとって、厳しいことばかりが報告されていたわけであります。

さらに先ほどお読みした13章の33節にもありましたように、巨人のアナク人から見てみれば、自分たちは、いなごのように見えると、ちょっと極端ではあるかもしれませんけども、それぐらい力の差は明らかであるということであります。

そこで、こんな事実を疑っても仕方がないわけであります。そう見えたのですから、それが事実であります。でも、ポイントは、そこにあるのではないということです。また、そこに住む民族は、確かに頑丈な城壁を持ったところに住んでいたわけでありますし、この土地の隅々までも、いろいろな民族があふれていたわけであります。これもまた事実、これも疑う余地は全くありません。きっと、この民族と戦いをせざるを得ないことになるんでしょう。

ここに出かけていくということは、イコールそういうことであります。でも、このことも、ポイントになることではないと言っているわけです。

主が自分たちのために用意をしてくれる土地が、良いところであればあるほど誰も住まわない、寒散としたところであるはずがないわけであります。そんな良いところに、誰も住んでいないなんてことは、まずあり得ないわけであります。ある意味、当然の結果であったわけです。

ですから結局、この情報をどのように受け取るかではないでしょうか。ですから、それにのっとって、十人の偵察に行った人々は、口を揃えて、民衆に、見てきた通りの人間的な報告をしたわけであります。つまり、この事態に対して、正対していく中で、自分たちでこの事態を克服することができるのか、やっていけるかどうかと、自分たちができるかどうかということを中心に据えて、調査をしてきたということであります。

そして、その結果を伝えたわけです。ですから、それを聞いた民衆は、『ええっ!』と思うわけです。『なんだそれは!』ということになってしまったわけであります。

今、十人とお話ししましたけれども、実際に偵察に行ったのは、十二人でありました。その二人は、ヨシュアとカレブの二人であります。その二人の判断は違っていたということが、今、この御言葉の中に載っております。ご覧ください。

民数記
13:30 そのとき、カレブがモーセの前で、民を静めて言った。「私たちはぜひとも、上って行って、そこを占領しよう。必ずそれができるから。」

是非とも、出かけていってそこを占領しましょう!と、進言したわけであります。しかも、『必ずそれができる』とも付け加えているわけです。

民数記
14:6 すると、その地を探って来た者のうち、ヌンの子ヨシュアとエフネの子カレブとは自分たちの着物を引き裂いて、
14:7 イスラエル人の全会衆に向かって次のように言った。「私たちが巡り歩いて探った地は、すばらしく良い地だった。
14:8 もし、私たちが主の御心にかなえば、私たちをあの地に導き入れ、それを私たちに下さるだろう。あの地には、乳と蜜とが流れている。」

このような力強い言葉を発したわけであります。

その地はすばらしく良い地だから、私たちが御心にかなうのならば、それを必ず下さるはずだと、主の判断に任せようとしたわけであります。しかし、他の住人は、これをことごとく否定して、これはどうにもならない、土地の者は、私たちも強くて、攻めることは無理だと、私たちを食いつくすなどと、さらに悪く伝えたわけでありました。

マイナス面を、さらに誇張したわけであります。それによって、これからそこを攻めに行こうといったヨシュアやカレブを、石打ちで殺してしまおうというようなところまで発展したわけであります。

モーセも、今までの戦いはどうであったかを振り返って、神ご自身が戦ってきた歴史があるはずだということを合わせて、民衆には説いたわけでありました。しかし、民衆はこれを忘れて、自分では戦えないと思った判断をしたわけであります。その心はいったい何なのでしょうか。心に留めておかなくてはならないことは、何であるかを振り返る時なのではないでしょうか。

結局のところ、民衆は、カナンに住んでいくことを選択はしませんでした。再び、荒れ野に戻るという生活を選択したわけであります。放浪の旅を続けることになったわけです。目の前の事実にばかり注視して、主の導きに従わなかったというわけであります。

新約聖書を見てみましょう。ヘブル人への手紙の3章です。ヘブルの3章は、まさにこの部分のことを言っている新約聖書の部分であります。

ヘブル
3:16 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。
3:17 神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。
3:18 また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。
3:19 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。

『不信仰のゆえに安息に入れなかった』とあります。まさにこのみ言葉通りであったわけです。だからこそ、再び荒野をさまようことになったイスラエルの人々のほとんどは、今後も、カナンの地に入ることなく、多くの人々は、この世を去っていったわけであります。

その後、四十年間、再び荒野をさまよったわけであります。しかしそれでも、信じて進もうとしたヨシアとカレブは、四十年の時を経て、カナンの地に入ることができるわけであります。今日はその部分は、触れませんけれども、そんな歴史が、これから続いていくわけであります。

ここで、今日の話を少し振り返ってみたいと思います。四つのことを振り返りたいと思います。

一つ目。神は、カナンの地の状態を当然、知っていたわけであります。でもあえて、探りに行きなさいと言われました。でも、偵察した結果を聞いた民衆の嘆きは、どこから生じたのでしょうか。

これはただ、カナンの状態を聞いた神様に、人間の判断や言葉が加わることによって、人は迷うという結果になったわけであります。嘆きさえ、生じさせてしまったということです。それは、見えてきたマイナス面を、自分の力で何とか解決しようとしているからであります。自分で、どうもできない、どうしようもできないと判断したからこそ、生まれてきた迷いだし、嘆きであったわけであります。

でも、ここで足りないのは、そこではなくて、神様への信頼であります。判断のポイントは、そこにあるということです。

二つ目。きっと、イスラエルの人々は、カナンの地を、この世の天国と思っていたことでしょう。しかし、カナンはあくまでも、この世の土地に過ぎないということです。神様が導いてくれるところは、この地上の天国と、イスラエルの民は、思っていたようであります。でもこれは、仕方のないことなのかもしれません。

なんとなく私たちにも、そういうところはないでしょうか。神が導くのであれば、神様が導いてくださるのであれば、平安で、何の恐れもない結果が、自分たちは待っているのではないかと、考えてしまうことはないでしょうか。でもそれは、なんとも、ご都合主義ではないでしょうか。

私たちの信じる信仰は、ご利益宗教ではありません。必要に応じて、主なる神様は、私たちの成長のために、やはり試練もお与えになる方であります。だからこそ残念ながら、カナンの地も、すばらしいところであるには、かわりないのですけども、良いことばかりではないということであります。

でもこの地に住むのが、最善であると、主が整えていくくださったわけであります。喜んで、受けるに値する場所でありますし、我々の行うべき役目がその場所にはあるということを、主が示しているのではないでしょうか。

三番目。申命記の1章の2節のところに、モーセがエジプトを出て、神様から啓示を受けたホレブの地から、カナンに行くまで、実際に十一日で行ける距離だということがわかります。

でも、実際にこのことが起こるのに、二年間かかっているんです。さらに、この件があったために、さらにカナンに実際に入るまでの期間は延びて、最終的には四十年かかったわけであります。

この数字的なものは、いったい何を表しているのでしょうか。神様は、何のためにこの日数を民衆に与えたのでしょうか。私たちも、主の判断は遅いと感じることがあるかもしれません。しかし、実際には、その判断のもとになっているのは、私たち自身のためであるということが多いようであります。

神様は、人間に妥協することなく、確かな道を設けるためには、時間的なことは全く関係ないと思っておられるんです。荒野をさまようことのこの期間は、必要な期間であったということです。主の最善は、時間を超越しているということです。

四番目。偵察に出かけた十二人とは、いったい何を示しているのでしょうか。この十二人は、イスラエルを形作っている人々の代表だというふうに書かれておりました。つまり、私たちの人間の基本と言ってもいいのではないでしょうか。この十二人の言葉は、私たちの心の中を映しているのではないでしょうか。

それは、恐れ退く心と、前に進もうとする心であります。私たちはそのような二種類の心を常に持っていて、目の前の状況を見過ぎて、弱気になって尻込みをしたり、ある時は御霊の導きを感じて、志を高く持って前に進もうとしたり、このような心の戦いの日々なのかもしれません。

でも、乳と蜜の流れるこの地に入るためには、進まなくてはならないということです。信じて命を保つためには、戦わなくてはいけない場面もあるということであります。事実の分析で物事が成り立っているのではないということです。

この調査をどのように受け止めるか、それは、ヘブル書の10章に書かれております。

ヘブル
10:39 私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

恐れ退く者ではないという力強い言葉こそ、真実であるということです。

今日は、私たちに示される日々の情報について、聖書を通じて考えてまいりました。私たちの必要な情報は何なのでしょうか。それはどんな情報であっても、神様、イエス様を信じるという前提を元にした判断をするということであります。

そのことは目の前にある事実を超えて、目に見えないことを確信するために、必要なことだということであります。

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