2024年8月11日、新潟福音集会
上田英紀兄
ヨハネ
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
どうも皆さん、こんにちは。それではですね、あの話をしたいと思います。時間厳守で20分をめどにやりますので、時計を置いてやります。
今、富田兄に引用聖句を読んでいただきました。ヨハネの福音書19章2節から5節です。今日のタイトルは、私たちクリスチャンが天国で受ける五つの冠というテーマでお話をしたいと思います。
おりしも今、ご存知のように、パリでオリンピックが開かれております。もう明日で閉会式があるようなことも報じられております。いろんな競技が行われておりまして、今朝のニュースを見ると、金メダルが18個、全体のメダルが42個だったと思うんですけども、また、これからメダルが取られるかもわかりません。メダルは、まずオリンピックに参加するのは、誰でも参加できるわけではないですよね。皆さん、ご存知のように。それはもう選考会があって、その中から選ばれた人がそこに参加して、そして、その世界から集まってくる人たちとそのいろんな競技で競いあって、そしてその中で、一番、二番、三番で金銀銅が与えられると、そういうことです。
私たちは先ほどのパン裂きの紹介において、エペソ書を開かせていただきました。私どもは、世界のもといの置かれる前から選ばれていたと書かれております。
これはものすごく光栄なことではないでしょうか?私どもは、それぞれ、いろんな経緯があってイエス様を信じられたと思うんですけども、でも、すべては神様の御手の中にあって、計画されて、そして、選ばれて、そして、神様の決められた時に、イエス様を信じるように導かれたということが、逆にですね、私たちはそれを知ることができるんではないかと思います。
それで、新約聖書の中に書かれておりますクリスチャンに与えられる冠は、多分、五つあるというふうに言われております。これを順番に――全部はできないと思うんですけども――、お話ししようと思います。
まず一番目は朽ちない冠。この順番は別にとくに何も問題がありません。あの意味はありません。まず一つ目は朽ちない冠ですね。それから、二番目は、望み、喜び、誇りの冠。これ、後でみことばを、順番に見ていきます。望み、喜び、誇りの冠ですね。三番目が、義の栄冠というふうに考えております、聖書では。義の栄冠です。そして、四番目は、栄光の冠と聖書に書かれております。栄光の冠。そして、最後、五番目は、いのちのというふうに書かれております。いのちの冠ですね。
『冠』という言葉は、ギリシャ語でして、日本語の意味で言うと、王族の記章です。バッチです。王族のしるしと言いましょうか?王族の記章、あるいは、誇りのしるし、あるいは、勝者、勝ったものに与えられる賞品、そういう意味があるんだそうです。
ご存知のようにパウロが手紙を書いたその時代というのは、アテネはオリンピック発祥ですよね。ギリシャのね。ですから、冠はたとえばギリシャのスポーツの賞品であった。いわゆる今の金銀銅に相当するものでしょうね。当時の冠は草でできていたという、あのよくご存知なのは、月桂樹ですか。月桂樹はこう編んだようなものが勝者に与えられた。勝者の頭にそれを乗せられたわけです。
新約聖書でも同じように、神に忠実なものたちに、天国でこの冠が与えられると書かれております。先ほど言いました五つあるのです。
その第一番目を、まず見たいと思うんですけども、第一番目は朽ちない冠です。箇所は、コリント人の手紙の第一の手紙の9章の24節から27節になります。
第一コリント
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです。
ですから、先ほど話しましたように、私たちは神様から選ばれたものであるいうことは、み言葉によって確かなんです。
それは、この地上に置かれて、神様の働きのためであるということは、皆さんもよくご存じかと思います。この地上のものはみな、朽ち果てます。ですから、こんなことを言うと、失礼なんですけども、オリンピックで金銀銅をお受けになられた方も、金、銀、銅、金メダルも、それは朽ちるものなんですね。それはこの世に置いていかなければいけないし、例え、その方がクリスチャンであっても、それは、この地上に置いていくのです。朽ちるものです。
しかし、私たちに与えられる冠というのは朽ちない冠です。パウロは、勝者に与えられる草の冠も、やがて、それはもう当然、枯れてしまいます。そういうことも当然、さしてこの御言葉を語っているわけですけれども、天国で与えられる冠は、朽ちることがない。とくに、忠実なものには朽ちることも、汚れることも消えていくこともない資産を受け取ると、――今は開きませんけれども――、ペテロ第一の手紙の一章には書いております。もう一度、あのお読みしますと、朽ちることも汚れることも消えていくこともない資産を私たちは受け取ると、パウロは書きました。
では二番目にいきたいと思います。
もちろん、この朽ちない冠は、もっといろいろなことが教えられると思いますけれど、これは皆さんの方で、また学んでいただければと思います。
では二番目の方に行きますね。二番目は、望み、喜び、誇りの冠とあります。これは新約聖書のテサロニケ人への手紙第一、2章の19節にあります。
第一テサロニケ
2:19 私たちの主イエスが再び来られるとき、御前で私たちの望み、喜び、誇りの冠となるのはだれでしょう。あなたがたではありませんか。
と、パウロは、テサロニケの信者たちに手紙を書いております。もう一つは皆さん、開いていただいてけっこうですけども、ピリピ人の手紙の四章の一節というところでも、パウルは、ピリピ人の手紙の中で書いています。
ピリピ
4:1 そういうわけですから、私の愛し慕う兄弟たち、私の喜び、冠よ。どうか、このように主にあってしっかりと立ってください。私の愛する人たち。
ですから、天に行きまして、この地上において、福音を伝えた友人や知人や家族や親族、そういう人たちが、救われて、その人たちも信仰を守り通して、そして、ともに天に行く。そこでまた再会することができるわけです。
過去にもう召された兄弟姉妹がたがいれば、なおさら、その方と再び天で再会することができる――それはもう何ものにもの変えがたい喜びではないでしょうか?多分、パウロは、そういう意味のことを、このテサロニケ人への手紙、あるいは、ピリピ人への手紙で書いているように思います。それは、天に入って、私たちにとっての冠ですよね。誇りになります。これもすばらしいことではないでしょうか?
では、三番目に行きたいと思います。三番目は、先ほど申しましたように、義の栄冠です。これは新約聖書のテモテへの手紙。四章六節から八節に書かれております。
第二テモテ
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
とパウロは書きました。多分、パウロのこのテモテへの手紙第二を書いている時に、もうその殉教の死が、間近に迫っていたのだと思います。そのテモテに対するお別れの手紙になるような手紙でもあると思います。
ここに、義の栄冠が私のために用意されていると、そのためにパウロは、走るべき道のりを走り終えると、信仰を守り通しました、勇敢に戦いましたと。パウロの場合は、ご存知のように、もう限りない迫害や、妨害や、いろんなものを、乗り越えてきたことが使徒の働き、あるいは、手紙の中に書かれております。
そういう中で信仰を守り通した、そのために主は、義の栄冠を用意しておられるというふうに書きました。ただ、感謝なのは、ここにパウロは、『私だけでなく、主の現われを慕っているものには誰にでも授けてくださる』と書いておりますので、私どもも、主イエス様はいつおいでになるかわかりませんけれども、パウロのように、信仰を守り通すことができれば、あるいは、イエス様の現われを慕って、毎日、忠実に歩くことができれば、義の栄冠が与えられるのではないでしょうか?
それで、関連して、もう一箇所、み言葉を開きたいと思うんですけども、同じテモテ第二の手紙の二章一節から二節、そして、三節から六節までをお読みをしたいと思います。
第二テモテ
2:1 そこで、わが子よ。キリスト・イエスにある恵みによって強くなりなさい。
2:2 多くの証人の前で私から聞いたことを、他の人にも教える力のある忠実な人たちにゆだねなさい。
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。
この『徴募した者』というのは、当然、神様、主イエス様になりますね。
2:5 また、競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはできません。
2:6 労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。
ここで考えたいのは、二章の五節のところを、もう一度、お読みしますけども、『競技をするときも、規定に従って競技をしなければ栄冠を得ることはでき』ない。今回のオリンピックを見ていますと、まさにその通りではないでしょうか?競技によっていろんな細かな規定があります。ルールがあります。
ですから、競技に参加するもの、メダルを目指すものは、それを徹底的に研究して、そのミスをおかさないように、あるいは、よりポイントを取るためにはどうしたらいいかということを日夜、研究しているわけですよね。ですから、私たちもその規定に従って、共有しなければいけない。この規定というのは何だろうかと考えるわけです。これは当然、み言葉になるわけです。
アダムというのは、どうして失敗したんだろうかと考えた時に、彼らは神様から言われた、規定ですね、これをしてはいけないということをしてしまった。悪魔が誘惑したわけです。その他、イスラエルの人たちが、どうして、あんなふうになったのか、とくにあの旧約聖書のあのモーセ五書とか、読んだ時に、彼らは神の規定を守ることができなかったわけです。神様に忠実に規定を守ることができませんでした。
新約の時代に入ります。そのイエス様がその預言の通りに来られたのに、イスラエルの人たちはす。イエスを拒んで十字架に付けました。大変なことなわけです。
新約の時代に入りましても、やはりパウロは、この規定を――み言葉をですね――、規定をしっかりと述べ伝えたわけですので、それを妨害する人たちがたくさん出てきたことが、使徒の働きや手紙の中に書かれているわけです。ですから、私たちもみ言葉をよく研究して、み言葉をよく読んで、み言葉を学んで、そして、この神様も来られている働きに携わることが必要ではないかを思います。
それでは、もう少し。では、四番目に行きましょうか?四番目は、栄光の冠ですね。これはペテロの手紙第一、五章の4節に書かれております。栄光の冠。お読みいたします。
第一ペテロ
5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。
5:2 あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。強制されてするのではなく、神に従って、自分から進んでそれをなし、卑しい利得を求める心からではなく、心を込めてそれをしなさい。
5:3 あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。
5:4 そうすれば、大牧者(・・・・これは主イエス・キリストです・・・・)が現われるときに、あなたがたは、しぼむことのない栄光の冠を受けるのです。
ここに書かれている通りでして、長老、監督、その集会の信者の世話をする方に対しても、とくにあの冠だというふうに、この御言葉からわかるかと思います。
よろしいでしょうかね。では、五番目に行きましょうか?五番目、すみません。あの長老だけでなくて、私たちもこの栄光の冠にあずかることができるというところを見たいと思うんですけども、場所は、ローマ人への手紙、8章18節、ここをお読みいたします。
ローマ
8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。
だから、私たちは天に帰った時に、その朽ちない体が与えられる。そして、それは新しい体であり、主と同じような栄光の姿に変えられるというふうにみ言葉には書かれております。そこで、私たちのこの有限の頭では想像することができない栄光を見るということが、み言葉の中に書かれております。
とくに、ヨハネの黙示録のところを見ると、そういうことがたくさん書かれているように思われます。皆さんの方で、それを見て、覚えていただければと思います。
もう一点ですね、今のことと関連して見たいと思います。ヨハネの手紙第一の3章の一節から二節をお読みをいたします。
第一ヨハネ
3:1 私たちが神の子どもと呼ばれるために、――事実、いま私たちは神の子どもです。――御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。
3:2 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。
これは栄光のイエス・キリストですよね――それを目のあたりに見るわけです。そして、私たちは、御言葉の中に何度も書かれていますように、主イエス様にあって、私たちは神の子供という立場が今、与えられているわけです。これもすばらしいことではないでしょうか、
英国の国王、以前はエリザベス女王でしたよね、あの女王が亡くなられまして、今、チャールズ皇太子が国王になりましたよね。それはすばしいことだと思います。私たちは、そういう血筋は全くないんですけど、神さまから選ばれて、そして、イエス・キリストの十字架と復活によって、イエス様のあがないによって、神の子供とされたということは、すばらしい光栄ではないかと思います。
冒頭に、富田兄に引用聖句を読んでいただきました。私たちがこのようなすばらしい光栄に預かるために、主イエスさまが人となられて、お受けになられた冠というのは、いばらの冠でしたね。そう書いてあります。
人間は、まったく無知な人間は、イエス様にいばらの冠をかぶらせました。ご存知のようにいばらっていうのは、創世記に書かれているんですけども、呪われた土地から出たものだと書いております。ですから、イエス様は私たちに代わって、呪われたものとなってくださったとも思えるのではないかと思います。
その尊いあがないの犠牲と、あがないによって、私どもはこんなすばらしい冠を受けることができる者と今、されていることを覚えます。
最後、五番目、いのちの冠。これはみことばを読んで終わりをさせていただきたいと思いますが、いのちの冠については、ヤコブの手紙、一章の12節に書かれております。
ヤコブ
1:12 試練に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。
私たちは、救われていろんな試練を受けることがあります。いろんな艱難を受けることがありますけれども、それは私たちの成長のためであると聖書の中に書かれております。とくに、ヤコブは、いのちの冠は神を愛するすべてのものに与えられると言っているわけです。
ですから、私たちは今、見てきましたように、その救われたことも、もうばく大な光栄ですし、そして、この地上に置かれておりまして、神様の働きのために労する、そして、そのために冠が用意されている、その報いが用意されているということを覚える時に、神様のその計り知れないみわざを覚え、また、それに感謝したいと思います。
ありがとうございました。
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