2022年10月4日火曜日

すぐに起こるはずのこと【第2部】8.満足し、自信を持っているイエス様なしのラオデキヤの教会

第2部
天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば

8.満足し、自信を持っているイエス様なしのラオデキヤの教会

黙示録3章14節から22節まで

1.真の教会
[1]同じ性質
[2]同じ使命
[3]同じ態度
2.イエス様の三つのお名前
[1]アーメンであるお方
[2]忠実で真実な証人
[3]神に造られたものの根源であるお方
3.すべてを知るお方の、教会への批難
4.すべてをなすお方の忠告
5.常に臨在なさるお方は、交わりを求めておられる

(14)また、ラオデキヤにある教会の御使いに書き送れ。『アーメンである方、忠実で、真実な証人、神に造られたものの根源である方がこう言われる。(15)「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、冷たくもなく、熱くもない。わたしはむしろ、あなたが冷たいか、熱いかであってほしい。(16)このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。(17)あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

(18)わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。(19)わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。

(20)見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。(21)勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(22)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(黙示3・14~22)

あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。(コロサイ2・1)

どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んでください。(コロサイ4・15、16)

イエス様が教会に与えられたみことばの七番めは、ラオデキヤの教会への手紙です。この箇所のテーマは、「満足し、自信を持っている教会」、または「豊かであると言っているが、実は貧しい教会」です。私たちは、終わりの時代における教会をここに見ることができます。

またこの手紙で、私たちはイエス様のこの教会における立場を知ることができます。つまり、イエス様は教会の外に立っておられるのです。さらに私たちは、イエス様のこの教会に対する思いを見ることができます。イエス様はこの教会をあきらめられずに、愛をもって呼びかけておられます。

今までに順に学んできた七つの教会は、教会が「世の光」や「証し」となる責任を、歴史の中でいかに果たしてきたかということについて、時の流れの一貫性を持っています。それは、使徒の時代からはじまって、イエス様が教会の無力と怠惰のゆえに教会から離れさってしまわれる時代に至るまでの歴史です。私たちは、この最後の時代を、ラオデキヤの教会に見ることができます。

くりかえしますが、私たちは七つの教会の中に、宗教としてのキリスト教の七つの状態を見ることができます。これら七つの状態は、それぞれの時代に姿を消してしまったものではなく、後の時代においてもその姿を残しています。ですから今日においても、私たちは、それぞれの教会の特徴を、いたるところで認めることができるのです。

私たちはまた、はじめの三つの手紙を一つのものとして見ることができます。イエス様は、エペソ、スミルナ、ペルガモの三つの教会全体を一つのものとして見られておられます。しかし、四番目のテアテラの教会からは、みこころにかなった教会というよりは、「宗教としてのキリスト教の教会」といったほうがよくあてはまります。しかし、もちろんそれらの教会の中にも少数の残された人々がいて、これらの人たちはイエス様に忠実に従っていたのです。そして、終わりの時代に現われるのが、まだ姿を見せてはいませんが、ただ一つ、ラオデキヤの教会なのです。

未来に起こるのは、教会の覚醒ではなく、教会の神からの堕落です。

私たちは今日、二つの大きな流れを見ることができます。ローマ・カトリック教会では、「この世を教会化」しようということが試みられ、プロテスタント教会では、「教会をこの世化」しようとすることが試みられます。これら二つの教会は、ともに一つになるのです。なぜそうなるのでしょうか。

1.真の教会


真の教会とは、生まれ変わった信者たちの教会です。真の教会は、イエス様をかしらとして信者が結び合わされている有機体です。しかしカトリック教会も、プロテスタント教会も、どちらもこのような意味での有機体ではありません。

確かに、いつの時代にも生きた信者がおりました。しかし全体的に見ると、今日の教会は、宗教としてのキリスト教、つまり、いのちのない人間的な組織になっています。

まもなくこれら二つの教会は、イエス様なしの教会になることでしょう。イエス様なしの教会ということになれば、二つの教会にはどのような区別もなくなり、二つの教会は一つになるのです。そして、教会とこの世との間にも、もはや何の区別もなくなります。これが反キリストの時代なのです。にせ預言者が統合された教会を支配し、反キリストの支配する国家と一つとなるのです。私たちは現在、そのような状態になる過程のまっただ中にいるのです。

ラオデキヤとは、「国民が決定する」という意味です。ラオデキヤという町は、妥協にあふれた町であり、しっかりとした個性をもたない町でした。ラオデキヤの人々は、あいまいな人々であり、しっかりとした態度をとることをしない人々でした。

これらの人々は、お互いに楽しく生きようとする人々なのです。未来の教会も、このような教会となり、信者も未信者もすべての人々を喜ばせよう、というようになることでしょう。

いま私は人に取り入ろうとしているのでしょうか。いや。神に、でしょう。あるいはまた、人の歓心を買おうと努めているのでしょうか。もし私がいまなお人の歓心を買おうとするようなら、私はキリストのしもべとは言えません。(ガラテヤ1・10)

あいまいな教会とは、この世の人々から認められることだけを求めて、みことばと聖霊の声には聞き従おうとしない教会です。これは、キリストなしの教会であり、中心のない、形だけの教会です。

未来の教会では、聖書の真理について、自分の好きなような解釈をすればよい、と言われるようになるでしょう。たとえば、イエス様が処女からお生まれになられたこと、イエス様の死が救いに至る唯一の道であるということ、イエス様がよみがえられたこと、そしてイエス様の昇天のこと、イエス様が父の右に座しておられること、イエス様が再臨されること・・・・。これらのことは、必ずしも絶対であるとされなくなります。

つまり、聖書が何を言っているか、ということではなく、人々がどのように考えどのように決定するか、ということの方が重要だと考えられるようになるのです。

ラオデキヤの教会についてくわしく学ぶ前に、私たちは真の教会とは何であるかをごいっしょによく考えてみましょう。

真の教会とは、イエス様の肢体です。イエス様が肢体のかしらであり、肢体はかしらといのちのつながりをもつものです。真の教会の特徴は、主イエス様とからだ、つまりイエス様と新しく生まれ変わった信者たちとの間に、「完全な一致」が保たれていることです。この一致について、三つの項目に分けて考えてみましょう。

[1]同じ性質


かしらと肢体とは、同じ性質を持っています。

その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1・4)

新しく生まれ変わった信者たちには、このような天的な、自然を超えた性質が与えられているのです。

私たちはキリストのからだの部分だからです。(エペソ5・30)

新しい性質の秘密は、聖霊です。

なぜなら、私たちはみな、ユダヤ人もギリシヤ人も、奴隷も自由人も、一つのからだとなるように、一つの御霊によってバプテスマを受け、そしてすべての者が一つの御霊を飲む者とされたからです。(第一コリント12・13)

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8・9)

[2]同じ使命


かしらと肢体とは同じ性質を持つだけではなく、同じ使命を持つものでもあります。かしらの欲することを肢体が行ないます。ところで、かしらは何を欲しているのでしょうか。かしらは、失われているものを探しだし、救おうとしておられるのです。そのためにイエス様はこの地上に来てくださったのです。そのためにイエス様は十字架につかれ、血を流してくださったのです。そのためにイエス様は復活をなさり、今も生きておられるのです。そのためにイエス様はご自身の聖霊を送ってくださったのです。

イエス様は、かしらとしてその肢体に向かって、「世の中に出て行って、福音を宣べ伝えなさい」と命令を与えておられるのです。

それから、イエスは彼らにこう言われた。「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。」(マルコ16・15)

捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言24・11)

[3]同じ態度


かしらと肢体とは、悪魔に対して同じ態度をとります。かしらも肢体も、ともに悪魔を拒否し、悪魔から自分自身を切り離します。

いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。あなたがたが主の杯を飲んだうえ、さらに悪霊の杯を飲むことは、できないことです。主の食卓にあずかったうえ、さらに悪霊の食卓にあずかることはできないことです。(第一コリント10・20、21)

ラオデキヤはコロサイの近くにありました。福音は、たぶんコロサイからラオデキヤへと伝えられたのでしょう。パウロは、ラオデキヤへ手紙を書き送ったのですが、それは今では失われてしまっています。

どうか、ラオデキヤの兄弟たちに、またヌンパとその家にある教会に、よろしく言ってください。この手紙があなたがたのところで読まれたなら、ラオデキヤ人の教会でも読まれるようにしてください。あなたがたのほうも、ラオデキヤから回って来る手紙を読んでください。(コロサイ4・15、16)

あなたがたとラオデキヤの人たちと、そのほか直接私の顔を見たことのない人たちのためにも、私がどんなに苦闘しているか、知ってほしいと思います。(コロサイ2・1)

パウロは、コロサイ人へあてた手紙が、ラオデキヤでも読まれることを望んでいました。ですからラオデキヤの教会の信者たちは、コロサイ人へ送られた手紙の深い真理を理解することができたはずです。しかしその後のラオデキヤの教会の堕落は、おそるべきものでした。

ラオデキヤの教会は、エペソの教会のように初めの愛を忘れたというだけではなく、彼らの初めの状態がどうであったかということさえ忘れ果てていたのです。ラオデキヤの教会は、イエス様との愛の関係を失ってしまっていました。そしてラオデキヤの教会は自ら独立したものとなり、イエス様の愛を欲しいとも思わなくなってしまったのです。つまり、ラオデキヤの教会は、外側の組織しか持たないものになっていたのです。

ここで、これから学ぶことの順序とテーマとを、あらかじめ要約しておきましょう。

私たちは、このラオデキヤの教会への手紙においても、イエス様のすばらしい啓示をみることができます。イエス様はご自身を「アーメンである方」、「忠実で真実な証人」、「神に造られたものの根源であるお方」の三つのお名前をもって言い表しておられます。それは、イエス様が「すべてを知るお方」、「すべてをなすことができるお方」、そして「つねに臨在なさるお方」であるということです。

「すべてを知るお方」として、イエス様は何も知らない教会に対立しておられます。イエス様は、ご自身については「私は知る」と言われ、教会については「あなたは知らない」と言っておられます。

「すべてをなすことができるお方」として、イエス様は教会に対して忠告を与えておられます。それは救いに至る道です。イエス様はまったく新しい創造をすることがおできになるお方です。

さらに、「つねに臨在なさるお方」として、イエス様は戸の前に立ち、戸をたたき、そして交わりを求めておられます。

これら三つのお名前は、イエス様の偉大さと啓示を私たちに教えます。まず、教会に対して貧しいということ、裸であるということ、見えないということが語られます。そしてこの教会に対して、金と白い衣と目薬を買うという三つの忠告が与えられます。さらにイエス様はこの教会と、光の交わり、いのちの交わり、愛の交わりの三つの交わりを持とうとなさっておられます。

2.イエス様の三つのお名前


さてこれから、イエス様の三つのお名前についてくわしく学んでみましょう。この三つのお名前は、イエス様の啓示です。

[1]アーメンであるお方


イエス様はアーメンであるお方です。ユダヤ教においては、「アーメン」は、神の呼び名です。

「この世にあって祝福される者は、まことの神によって祝福され、この世にあって誓う者は、まことの神によって誓う。先の苦難は忘れられ、わたしの目から隠されるからだ。」(イザヤ65・16)

ここの、「まことの神」とは、「アーメンである神」という意味です。

神の約束はことごとく、この方において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって、「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。(第二コリント1・20)

これは、主なる神がイエス様をとおして語られることを意味しています。

アーメンという言葉は、「間違いなく、確かである」という意味です。イエス様の言われることは確かで、誰も神のみことばを変えることはできません。イエス様は、ご自身のみことばと同じく、いつも変わることのないお方です。イエス様とイエス様のみことばとは、切り離すことができません。主なる神は、ご自身をイエス様に現わしておられます。イエス様のみことばは、イエス様が真理であると同じように、絶対的な真理です。

アーメンであり、真理であるイエス様ご自身が、見せかけにすぎないラオデキヤの教会に向かって語っておられます。他の教会においては、本物とにせ物との間にはまだ隔たりがありましたが、ラオデキヤの教会では隔たりさえもなくなってしまっていたのです。この教会は、傲慢になり、自分はすべてを持っている、自分には欠けたものが一つもないと言っていたのです。ラオデキヤの教会の信仰告白は、ただうわべの言葉にしか過ぎなかったのです。

この教会に対して、イエス様は、アーメンなるお方、真理そのものとして、ご自身を現わされました。何という対立でしょうか。イエス様は、偽りのない神の約束を成就なさるお方です。イエス様は、主なる神が約束されたすべてのことを成就し、与えようとしておられるのです。

ラオデキヤの教会も、アーメンなるお方のものとなり、主なる神の約束を成就するものとなるべきでした。しかし残念ながら、この教会はそのようにはなりませんでした。それゆえ、イエス様はこの教会から離れ、主なる神の約束をご自分で成就しなければならなくなったのです。ラオデキヤの教会は、主なる神がアーメンである、つまり真理であることを証明しなければならないはずでしたが、実際はイエス様がこれを証明なさらなければならなくなったのです。

[2]忠実で真実な証人


イエス様は忠実で真実なお方です。イエス様は、黙示録1章5節において、すでにご自身を「忠実な証人」と表しておられます。イエス様は、ご自身の血をもって私たちを洗いきよめてくださった真実なお方です。

イエス様は、この同じ愛をもって、堕落したラオデキヤの教会に向かっておられます。イエス様はすべてのことを正確に知っておられる証人です。そのイエス様は、この教会の状態を知りながら、助けようとしておられるのです。イエス様は愛のゆえに、ラオデキヤに向かってその真の姿を明らかにしておられます。

イエス様が言われることを、私たちは絶対に信じなければなりません。イエス様が言われることを無条件に信じることこそが、私たちを堕落と罪から守ってくれます。

イエス様は、真実なるお方です。

しかし、神の御子が来て、真実な方を知る理解力を私たちに与えてくださったことを知っています。それで私たちは、真実な方のうちに、すなわち御子イエス・キリストのうちにいるのです。この方こそ、まことの神、永遠のいのちです。(第一ヨハネ5・20)

イエス様は、私たちのことを真に思っていてくださるために、私たちの真の姿を明らかにし、そのことによって私たちを破滅から救おうとなさるのです。

ラオデキヤの教会は、真実で、忠実なものであるべきでした。それこそが、教会の使命です。しかしこの教会が「効き目のない塩」となってしまったために、イエス様はこの教会から離れざるを得なくなり、ご自身が真実なるお方、そして忠実なる証人となられたのです。

[3]神に造られたものの根源であるお方


イエス様は、見える世界と見えない世界の造り主です。

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。(ヨハネ1・3)

なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。(コロサイ1・16、17)

イエス様は、ご自身が造られた教会のかしらでもあります。

また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。(コロサイ1・18)

また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、・・・・(黙示1・5)

イエス様は、天と地をお造りになっただけでなく、信者をも新しくお造りになられたのです。

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。(第二コリント5・17)

私たちはすでに、イエス様の新しく創造される力を体験したのでしょうか。イエス様のみことばだけが、新しい創造をもたらすことができます。イエス様のみことばにすべての権威が与えられていないところでは、貧しく、実りがなく、死が支配するのです。

すべての信者は、新しい創造の初穂なのです。

父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。私たちを、いわば被造物の初穂にするためなのです。(ヤコブ1・18)

すべての信者は、自分の態度の中で、このことを証しするために召されているのです。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。(ガラテヤ5・22、23)

しかし、いわゆる「キリスト教」は、残念ながら、この点において失敗をしています。多くの教会で多くの人々が洗礼を授けられ、イエス様の信仰を告白しますが、その人たちの中に新しいいのちの現われが見られないのです。

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3・5)

そこには、この世と、罪と、悪魔にうち勝つ力がありません。

ここまで私たちは、イエス様の三つのお名前が、イエス様の三つの啓示であることを見てきました。さらに、イエス様の三つの名前と、三つの啓示とについて、もっとくわしく学んでいきたいと思います。

3.すべてを知るお方の、教会への批難


イエス様は忠実で真実な証人です。イエス様は、すべてを知る証人として、教会の状態を知っておられます。イエス様は、15節で「わたしは知っている」と言っておられます。イエス様はすべてを知るお方です。反対に、敗北し、そして証しを失った教会は、「何も知らない」のです。

「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示3・17)

真の証人であるイエス様は、ラオデキヤの教会について、「少しのよいところも見い出すことがない」と、おそるべき証言をされています。

なまぬるいということを、イエス様はもっとも憎まれます。イエス様は、なまるいことよりも、冷たいことのほうを好まれます。熱いお湯、あるいは冷たい水ははっきりとしていますが、なまぬるく中途半端な状態は力にもならず、元気を与えるものにもなりません。「熱いか、冷たいか、どちらかであってもらいたい」とイエス様は言っておられます。

私たちはここに、主なる神の価値の尺度を見ることができます。一番上に、「熱い」人々、つまりローマ人への手紙12章11節にある、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。」という言葉を守っている人々がきます。その次に、「冷たい」人々がきます。それはイエス様を拒絶する人々のことです。

そして一番下にくるのが、「なまぬるい」人々です。イエス様につくのかつかないのか、態度をはっきりさせない人々が、ここにくるのです。

前に学んだ四つの教会に対して、イエス様は、「わたしはあなたに対して責めるべきことがある。」と言っておられます。しかし、ラオデキヤの教会に向かっては、イエス様は、「わたしはあなたが嫌いです。」と言っておられます。たとえば、よく冷えた水が欲しいのに、飲んだ水がなまぬるく、すぐに吐き出してしまいたくなるような水だったからです。

なまぬるい水は、熱いお湯と冷たい水とを混ぜ合わせてできます。ラオデキヤの教会では、すべての人に対して席が与えられていました。生き生きとした信者に対しても、十字架に敵する人に対しても、同じように席が与えられていました。お互いに楽しく生きよう、というのが、ラオデキヤの教会のモットーでした。その結果は、イエス様とみことばとに対して無関心で中途半端な態度になってしまったのです。

そこには、統一がありました。なぜなら誰もが、すべての人の行く所へついて行こうとしたからです。そこには、平和がありました。なぜならすべての事がらについて、やりたいようにすることが許されていたからです。そこには、あいまいな態度がありました。そして人々は、それを愛であると言っていたのです。人に対する無関心は、大変失礼なことです。しかし、イエス様に対する無関心は、さらに悪いことです。イエス様はむしろ、完全に否定されることの方を欲しておられます。なぜなら、イエス様をはっきり否定する人々の方が、イエス様に無関心な人々よりも早く救われるからです。

今日、何と多くの信者たちが、ラオデキヤの教会に似ていることでしょうか。イエス様に対して燃えるような愛がなく、イエス様に対する時間がなく、この世のことがイエス様のことよりも優先してしまっています。これらの人々にとっては、「イエス様に捧げられた人生」などは何か大げさで仰々しいものに思われ、イエス様を大胆に証しするなどということは大変押しつけがましいことに思われます。彼らは、何の犠牲もはらわなくていい信仰を正しいものだと考え、それで十分だと思っています。

イエス様は、こういう態度に対して、はっきりと拒絶なさいます。なまぬるいことは、イエス様にとって憎むべきことであり、イエス様はそれに耐えることがおできにならないのです。このような教会は、イエス様にとっては、ただ障害であるだけです。

なまぬるいことは、悔い改めの反対です。なまぬるいことは、黙示録3章17節にあるとおり、自己満足であり、おごり高ぶるものです。

ラオデキヤの教会は、自己に満足する教会であり、自ら富み、そして自分のことしか考えない教会でした。

現代の教会でも、多くの人々は自分自身のことだけを考え、自分自身を中心にして生活しています。それは、生きている生活ではなく、まさに死にかけている生活にすぎないのです。ですからイエス様は、自己満足している教会から見せかけの覆いを取りのけて、ありのままの姿を明るみに出そうとしておられるのです。

「あなたはみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸のものである。」と、イエス様は言っておられます。これはまさに、この教会が自分で思いこんでいた自己の状態の逆です。イエス様は、「あなたは富める者でなくて貧しい者であり、あなたは満ちたりた者でなくてみじめで哀れな者であり、あなたは見える者でなくて盲目であり、あなたは着物を着ている者でなくて裸の者である。」と言っておられます。

それは同時に、今日の教会に対するイエス様の判断でもあります。イエス様は、「あなたは目が見えず、耳が聞こえず、歩くことのできない人々の群れである。」と言っておられます。

ラオデキヤの教会は、生まれ変わりのない人々の集まりでした。にもかかわらず、この教会は自らを誇り、また自分のことを多くのものを得ていると思っていたのです。しかしこれらの人々は、霊の実ではなかったのです。霊の実りのない教会は裁きに向っているといえます。

「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。」(ヨハネ15・6)

ラオデキヤの教会では、行ないの人々がその中心に置かれ、そのような人々が良く言われました。ラオデキヤの教会はただ自分のことだけを語り、イエス様のことは語りませんでした。そこがパウロと異なるところです。

それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。(ピリピ3・8、9)

真の教会の証しは、次のとおりです。

というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。(第二コリント5・14、15)

つまり、イエス様だけが大切なのであって、人間は少しも大切ではないのです。しかし、ラオデキヤの教会は、イエス様を中心として生活していたのではなく、自分自身を中心として生活していたのです。

イエス様は、自分自身をむなしくして従う人でなければ、その人を用いることがおできになりません。イエス様にとっては、中途半端な人は用いることのできない人です。そのような人々がイエス様に従おうと思っても、すぐにこの世と妥協してしまい、その結果は悲劇に終わってしまいます。イエス様の口から吐き出されるという悲劇です。

ラオデキヤの教会は、イエス様の名をもって呼ばれていましたが、イエス様にとって役に立たないものでした。そしてこの教会は、イエス様から離れてしまい、イエス様が用いることができない状態にあったのです。

かつては、ラオデキヤの教会も貧しく、赦しを必要としていました。しかし今や、この教会は豊かになり、自らを誇るようになったのです。彼らはイエス様の敵ではありませんでしたが、イエス様とのいのちの交わりを持たない人々になってしまったのです。日常の生活において、彼らはイエス様のみこころをたずねることをせず、自らの道を歩む者となり、気付かずに妥協するようになったのです。

人々がそれと気付かずに自分自身に満足しているのは、悲劇的な状態です。彼らの良心は死んだも同然になってしまい、イエス様は彼らの良心に向かって語ることができなくなってしまいます。そして人々は、もはや自分がイエス様に従っていないことにも気がつかなくなってしまうのです。

私たちはイエス様の前にあって、つねに貧しく、つねに病んでいる者であることを知るように心がけましょう。私たちの富は、私たちの内にはなく、ただイエス様の内にあるのです。

自己満足をし、自分を正しいと思っている教会に対しては、悪魔も攻撃を加えません。なぜならそのような教会は、悪魔にとってまったく危険とはならないからです。ラオデキヤの教会は、誘惑も受けず、迫害も受けませんでした。黙示録のこの箇所には、ラオデキヤの教会がイエス様の御名を拒んだということも、また堕落したということも書いてありません。ラオデキヤの教会は、迫害も受けず、ボイコットも受けることがありませんでした。その理由はただ一つ、ラオデキヤの教会は、この世と全く異なるところがなかったからです。

17節にある、「私たちは乏しいものは何もない」という態度は、非常に危険な態度です。

そこで、目が手に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うことはできないし、頭が足に向かって、「私はあなたを必要としない。」と言うこともできません。(第一コリント12・21)

ある兄弟に対して、「彼は私に何も与えてくれない。彼の言うことは重要なことではない」という態度をとるのは危険なことです。ラオデキヤの教会の人々は、主に対してこのような態度をとっているのです。この教会がとったのは、「私たちは主を必要としない、私たちは自分一人で全てのことをすることができる」という態度でした。

イエス様はヨハネ15章5節の中で、「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない」と言っておられます。ラオデキヤの教会は、イエス様とちょうど逆のことを言っていました。「私たちはあなたなしに何でもできる」と言ったのです。このような信者は、ラオデキヤだけでなく、コリントにもいました。

あなたがたは、もう満ち足りています。もう豊かになっています。私たち抜きで、王さまになっています。(第一コリント4・8)

このように、イエス様に対して自己満足の態度をとること、そして恵みの御座に近づこうとしないことが悲劇の始まりとなります。ですからイエス様は、ラオデキヤの教会に対して、「あなたがたは何も知らない。あなたがたは、自分たちの霊的な状態に対して何も見えていない」と言っておられるのです。

イエス様は、彼らの真の姿を三つの言葉で表現しておられます。貧しいこと、裸であること、見えないことです。

すべてをご存知で、真実で、忠実な証人であられるイエス様が、私たちの目を開いてくださる時、私たちは自分たちがいかに思い上がっていたかということを体験的に知ります。私たちは自分が価値があると思っていても実は全く価値のない者であり、イエス様なしにはまったく貧しい者であり、自分では何一つ持っていない者であることに気がつくのです。

さらに、私たちは自分自身の破産を体験し、自分の持っているものがいかに実質のないものであるかを体験します。イエス様なしには私たちはまったく裸です。イエス様だけが、私たちの永遠のよりどころであり、また確かな避けどころなのです。

また私たちは、今まで何も見えない者だったことに気がつかされます。人間的な知識や物を見る目など、イエス様の前には何も見えないのと同じであることに気がつくのです。

イエス様は、「わたしは知り、あなたは知らない」と言っておられます。「あなたのところにあるものは、すべてが見せかけであり、真なものは一つもない」と言っておられます。「あなたの持っている富は見せかけの富であり、あなたは実際は何も持たず、貧しい」と言っておられます。「あなたが着物で身を包んでも、何の役にも立たない。あなたは私の前に全く裸であり、あなたの裸は私の目に明らかだ」と言っておられます。「あなたが見えるというのは誤りで、実際はあなたは全く何も見えない」と言っておられます。

すべてを知るお方であるイエス様は、きびしさをもって、すべてのものを明らかにしておられます。

イエス様は、真実で忠実な証人です。そして、ご自身の血を流して、その愛と忠実さを証明してくださったお方です。そしてイエス様は、私たちに診断を与えられただけでなく、救われる道をもそなえてくださいました。イエス様は、私たちの貧しさと、裸と、見えないことをそのままにしてはおかれません。イエス様は、ラオデキヤの教会に対して、きびしい批判をされるだけではなく、愛をもって彼らに語っておられます。「あなたがたが救われたいと願いさえすれば、わたしはあなたを助けよう。私はあなたを助けることができる」と。イエス様はけっしてお見捨てになることはないのです。

4.すべてをなすお方の忠告


イエス様は、神に造られたものの根源であるお方です。それは、イエス様が全能のお方であるということです。全能のお方として、イエス様はラオデキヤの教会に忠告を与えておられます。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。」(黙示3・8)

イエス様の忠告こそが、私たちの逃れ道であり、また救いへの道です。全能のお方であるイエス様は、私たちを完全に新しく造り変えることのできるお方です。

このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。(ローマ4・17)

イエス様は、無から有をとり出される方です。ドイツには、「忠告を受けいれない者を助けることはできない」ということわざがあります。

さて、ラオデキヤはフルギアの首都で、紀元前三世紀にできたギリシヤの植民都市でした。ラオデキヤは三つのことで有名でした。まず、アジア地方全体の通貨を扱う銀行があり、裕福な都市でした。紀元六〇年にラオデキヤが完全に破壊された時に、ローマが復興のために資金を提供しようとしました。しかし、ラオデキヤはその申し出を断ったのです。それほどまでに、この町は豊かだったのです。

次にラオデキヤを有名にしたものは、黒く染められた生地でした。そのためラオデキヤは非常に豊かになり、人々はそれを誇りとしていました。

さらに、ラオデキヤには医学校があったことでも有名でした。特にフルギアの鉱石を原料とする目薬が有名でした。この目薬を作った人は、ガレン博士といいました。

以上の、金と、布地と、目薬が、ラオデキヤの三つの特産物でした。

ですからイエス様は、彼らに対して、「あなたがたのところには、有名な銀行がある。しかしそれは真の富ではなくて、見せかけのものである。だからわたしのもとに来なさい。そして真の富を見いだしなさい」と言っておられます。

さらに、「あなたがたの布地はどこでも評判だ。しかしいくらいい布地の着物を着ても、あなたがたはわたしの前に立つことはできない。だからわたしのところに来てわたしの着物を着なさい。この着物を着れば、主なる神にいつでも受け入れていただけるのだから」と言っておられます。

また、「ガレン博士の目薬は、非常に有名でよく売れている。しかしその目薬は、あなたがたが霊的な盲目から解放されるためには何の役にも立たない。だからわたしのもとに来なさい。そして真理を見いだしなさい」と言っておられます。

ここでイエス様はラオデキャに三つの物を提供しておられます。まず、火で精練された金です。イエス様はそれをまことの富であると言っておられます。火で精練された金は、まことの信仰であり、イエス様との真の交わりであり、それらは迫害と試練とによって精練されるものです。

信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。(第一ペテロ1・7)

ご承知のように、あなたがたが先祖から伝わったむなしい生き方から贖い出されたのは、銀や金のような朽ちる物にはよらず、・・・・(第一ペテロ1・18)

ラオデキヤの銀行の金貨は、その価値が安定していたために信用を得、大きな富が集中しました。しかしイエス様は、これらすべての金も貧しいものであり、にせものであると言っておられます。「わたしのもとに来なさい。そうすれば、あなたがたはほんとうに豊かになることができる」と言っておられるのです。人間が持てるものは、本来貧しいものにすぎません。なぜなら、すべての富はイエス様の中にあるからです。

このキリストのうちに、知恵と知識との宝がすべて隠されているのです。(コロサイ2・3)

すべての人間的な富は、いつかは価値のないものであることが明らかになります。イエス様にあって、真に豊かになっている人は幸いです。

次にイエス様は、ラオデキヤの教会に対してご自身の「義の白い着物」を提供しておられます。

私たちの着物、自分自身を正しいとする着物は、ラオデキヤの黒く染められた布地と同じように黒い着物です。それは、私たちの不義、私たちの恥を覆い隠すためには何の役にも立ちません。イエス様は、赦しとご自身の義を提供してくださいます。イエス様の義の衣を与えられてはじめて、私たちは主なる神の御前に出ることができるのです。

その当時、裁判で訴えられた被告人は、黒い着物を着て法廷に出ました。そして有罪判決を受けた人は、着物を脱がせられました。そのために、イエス様は17節で、「あなたは裸である」と言っておられるのです。イエス様もまた、十字架につけられる前に裸にされたのです。しかし、無罪の判決を受けた人は、白い衣を着せられました。

イエス様は教会に有罪判決を与え、教会を裸にすることを決して望んではおられません。逆に白い衣を提供し、教会を聖め、無罪の宣告を与えることを望んでおられるのです。

「ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。」(マタイ22・11~13)

またイエス様は、ラオデキヤの教会に対して、ものが本当に見えるようになる目薬を提供しておられます。自分で作った目薬など、何の役にも立ちません。

ラオデキヤの教会は、霊的なものの価値に対して目が開かれていませんでした。しかし彼らはイエス様から、目薬によってそれらが見えるようになりなさい、という申し出を受けていたのです。人の心の目は、聖霊の働きによってはじめて開かれます。聖霊を持つ人は自分の真の状態を知っているので、自分自身を決して大した者だと思うことはありません。

神の聖霊は、人のすべての自己満足を打ち砕きます。私たちは、イエス様に従えば従うほど、自分自身がいかにだめな者であるかがよくわかるようになります。

イエス様はラオデキヤの教会に対して、「あなたは目が見えない」と言っておられます。目が見えないということは、貧しく、そしてきれいな着物を着ていないことを意味します。貧しさと裸との理由は、目が開かれていないことにあります。

イエスは彼らに言われた。「もしあなたがたが盲目であったなら、あなたがたに罪はなかったでしょう。しかし、あなたがたは今、『私たちは目が見える。』と言っています。あなたがたの罪は残るのです。」(ヨハネ9・41)

イエス様を拒む人は、すべて霊的に目が見えない人です。ラオデキヤの教会も霊的に目が見えなくなっていて、イエス様を拒み、自分たちですべてのことができると思っているのです。この教会に向かってイエス様は、「あなたは貧しく、裸であり、目が見えない」と言っておられます。そしてこの教会に対してイエス様は、金と、白い着物と、目薬とを提供しておられるのです。

金、つまりイエス様との交わりこそが、永遠の価値を持つものです。

白い衣、つまりイエス様の赦しこそが、私たちに永遠の平安を与える唯一のものです。

目薬、つまりイエス様から与えられる聖霊の働きが、私たちに、主なる神のきよさと、人間の債務と、救いについて目を開かせてくれる唯一のものです。それは何というイエス様のご忠告でしょうか。

「わたしはあなたに忠告する。豊かな者となるために、火で精練された金をわたしから買いなさい。また、あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。また、目が見えるようになるため、目に塗る目薬を買いなさい。わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3・18、19)

ルカの福音書14章23節で、主人はしもべたちに、「無理にでも人々を連れてきなさい」と言っています。同じようにイエス様も、ラオデキヤの教会に向かって強い忠告を与えておられます。

「わたしから買いなさい。あなたはただ良いものだけを受け取る」と。しかし、良いものを受け取るために、ラオデキヤはいったい何を支払ったらいいのでしょうか。

「ああ。乾いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。(イザヤ55・1)

御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。(黙示22・17)

ここに書いてあるとおり、イエス様は、常にただで、価なしに与えようと言ってくださるのです。イエス様が求めておられるのは、私たちが罪を告白することと、支配権をイエス様に委ねることだけなのです。

この世では、私たちは何かをただでもらうことはありません。いつも代価を払って何かを買わなければなりません。そして人々は、つまらないことのために、健康や、名誉や、きよさを失ってまでも、それを手に入れようとします。

しかし、私たちがイエス様から受け取るものには、つまらないものは何一つありません。しかもそれらをただで受け取ることができるのです。イエス様との、つまりみことばとの交わりを通して、はかりしれない富が私たちのものとなります。

私たちが、貧しい者、裸の者、見えない者として、イエス様のところに来るとき、私たちは真に豊かになり、平安に満たされ、そして目が開かれるのです。イエス様のところに来て、何ももらえなかった人は、ひとりもいません。イエス様が与えてくださるものは、代価がいらない贈り物です。

ラオデキヤの教会は、イエス様に捨てられ、滅された教会ではなくて、イエス様に愛された教会でした。19節にこの愛が示されています。ラオデキヤの教会は、病気になった子供のようなものです。イエス様はこの子供を愛し、そして助けようとしておられるのです。

イエス様の愛は、あきらめるということがありません。イエス様は、みことばによって救うことができない時には、懲らしめによって救おうとなさいます。19節では、「わたし」という言葉が強調されています。それは、「わたし」だけがそれができるという意味です。イエス様のように愛してくださるお方はほかにはいないのです。

イエス様は、懲らしめのために懲らしめられるのではなく、すべてのことは、イエス様の愛と忠実さの現われであると言っておられます。イエス様は、裁きのために裁くのではなく、ご自身のみもとに立ち返らせるために裁くのだと言っておられます。イエス様の懲らしめは、外科医ががんを取り除くように非常に深くまで達するものです。それによってイエス様はうぬぼれを打ち砕き、悔い改めの実を要求し、悔い改めを命じられるのです。

最初に、私たちはイエス様の拒絶を見ました。「あなたがなまぬるいのでわたしの口から吐き出そう。」というみことばです。

次に、私たちはイエス様の真剣さを見ました。「あなたは貧しく、裸で、盲目である。」というみことばです。

そして最後に、私たちはイエス様が救いに導こうとなさる徹底した態度を見ました。「わたしから買いなさい。」というみことばです。

19節の終わりにある「悔い改めなさい」というみことばは、新しくやり直しなさいという意味です。ラオデキヤの教会は、自分自身に満足していました。しかしイエス様は、この教会に対して、新しいやり直しを提供しようとしておられるのです。「悔い改めとは、単に打ち砕かれるだけでなく、大きな喜びを与えるものです。ちょうど放蕩息子が父の家に帰ってきたように。全てのことが失敗し、そして罪に落とされてしまっている時に、再び新しくやり直すことができることほど、すばらしいことはありません。

イエス様は悔い改めを要求しておられます。そして間違った道から立ち返り、新しくやり直すことを求めておられます。イエス様は悔い改めて新しくやり直しなさいと言っておられます。そしてやり直した状態にいつもいることを求めておられます。ちょうど陸上選手が目標を目指して走り続けるように、そのようでありなさいと言っておられるのです。

イエス様は、目標を目指して走る者を探しておられます。決して散歩する者を探しておられるのではありません。イエス様は散歩する者を吐き出してしまわれます。

わが子よ。あなたの心をわたしに向けよ。あなたの目は、わたしの道を見守れ。(箴言23・26)

主はその御目をもって、あまねく全地を見渡し、その心がご自分と全く一つになっている人々に御力をあらわしてくださるのです。(第二歴代16・9)

さて、黙示録の2章から3章にわたる七つの教会へあてた手紙は、私たちが学校でもらう通信簿のようなものです。これによって、人は自分の状態がどうであるかを知ることができます。これらの手紙の目的は落第させることではなく、忠告を与えることです。イエス様がラオデキヤの教会に与えられた手紙も、決して最終的な評価ではなく、この教会の状態を中間的に評価した通信簿であると言えます。イエス様はその通信簿で、「あなたは貧しく、裸で、目が見えない。そしてあなたはなまぬるい。」と言っておられます。ラオデキヤの教会は、おそるべき自己満足におちいっていたのです。しかし、イエス様の批判は決して愛のない、冷たいものではありません。イエス様は、「にもかかわらず愛しておられる」のです。

「わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。」(黙示3・19)

あなたの人生の最悪の時にも、あなたを愛するイエス様は、常にそのできごとの背後に立っていてくださいます。あなたの生活を新たにし、あなたの恥を覆い隠してくださるイエス様に、すべてを委ねるようにしてください。

5.常に臨在なさるお方は、交わりを求めておられる


黙示録3章20節から22節では、イエス様はアーメンなるお方、常に臨在なさるお方として、ご自身を現わしておられます。ご臨在なさるお方として、イエス様は戸の外に立ち、戸をたたき、そして交わりを求めておられます。

イエス様との交わりには、三つの交わりがあります。「光の交わり」、「いのちの交わり」、そして「愛の交わり」の三つです。

「見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3・20~22)

「戸の外に立ってたたく」とあるように、イエス様はその教会の戸の前に、見知らぬ人のように、忘れ去られた人のように、立っておられるのです。この教会は、高慢であり、目が見えず、自らに満ち足りている教会です。この教会の中にはイエス様の居場所がなく、イエス様は戸の外に立たされておられるのです。

イエス様の中にこそ、主なる神の栄光と富とがあります。イエス様は死とよみとのかぎを持つお方であり、また天国へのかぎを持つお方です。にもかかわらず、イエス様は戸の中に入ろうとはなさらないで、戸の外に立って、戸をたたいておられるのです。イエス様は、戸をたたき、そして待っておられるのです。

昔、家の中に入るためには、鉄の輪を打ち鳴らすか、あるいは声をかけるかしました。イエス様は、その両方をなさっておられます。それは、イエス様がどうしても家の中に入りたいという気持ちを表しています。イエス様は、常に臨在しておられ、あらゆる権利が与えられているにもかかわらず、まるで中に入る権利を持たない客か亡命者のように、戸の前に立って懇願しておられるのです。

イエス様は、ご自身を受け入れることを誰にも強制されることはありません。

戸を開くということは、イエス様のみことばをよく聞くことであり、イエス様のことばを真剣に聞くことであり、そしてそのみことばに心から従うことです。

戸を開くと、そこに、奇蹟が起こります。懇願するイエス様が栄光ある王となられ、そのお方が私たちに食事を与えてくださるようになります。私たちが食事を差し上げるのではなくて、客が主人となり、イエス様の方から豊かに与えてくださるのです。

イエス様は、光であり、あらゆる恥を隠してくださるお方です。光であるイエス様を見つめる人は、イエス様の前に悔い改めをしないわけにはいかなくなります。真の悔い改めによって、私たちは喜びと自由とを与えられます。イエス様の光の中に、明るみに出されたものは、もはや罪ではなくて光なのです。ラオデキヤの教会と同じように、私たちもイエス様との光の交わりを必要としているのです。

しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。(第一ヨハネ1・7)

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)

自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。(箴言28・13)

ダビデは、このような光の交わりの祝福をよく知っている人でした。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。(詩篇32・1~5)

光の交わりから、いのちの交わりが生まれてきます。つまり、イエス様との生きたつながりが生まれてくるのです。私たちにとって、この交わりに留まることほど大切なことはありません。イエス様なしに、私たちは何物も持つことはできません。イエス様なしには、私たちは何の進歩もありません。私たちは、自分自身はぼろぼろですが、イエス様との交わりをとおしてのみ、満足と満たしとを体験することができます。イエス様は、すべての人が悔い改めて「戸を開く」ように、私たちにあわれみを与えてくださいます。光の交わりの中から、罪の赦しの喜びと、解放を受けた平安が得られるのです。そしてそこから、イエス様とのいのちの交わりが始まるのです。

イエス様とのいのちの交わりとは何でしょうか。それは、毎日イエス様のみことばを聞き、イエス様に自分を明け渡すことです。イエス様のみことばが、食べ物となり、力となり、喜びとなります。人は、イエス様のご臨在を体験し、そして主にあって喜ぶようになります。そして人は、見える物に依り頼むのではなくて、見えないイエス様に目をとめるようになります。人は自分の惨めさをますます知るようになり、イエス様にあって富むようになるのです。人は、自己中心の生活をしなくなり、イエス様のみこころを問うようになり、自分の思いではなくイエス様のみこころがなるようにと願うようになるのです。

光の交わりから、いのちの交わりが生まれ、その次に愛の交わりが生まれます。

悔い改めによって、人は恵みをいただき、イエス様とともに歩む特権を与えられます。そしてイエス様との光、いのち、愛の交わりによって、私たちは、イエス様とともに御座に着かせていただくのです。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

このラオデキヤの教会への手紙は、最大の罪の告発、もっとも鋭い警告、もっとも激しい悔い改めへの呼びかけ、もっとも深い愛、そしてもっとも高い約束です。

イエス様は、十字架によって勝利を得、その時から全てを支配しておられます。教会は、今なお戦い続けています。しかしイエス様は、この教会をご自身の御座にまで高めようとしておられるのです。

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17・24)

イエス様は、まだご自身の御座には着いておられません。イエス様は、今は父なる神の御座の右に着いておられるのです。しかし間もなく、イエス様はご自身の御座にお着きになるでしょう。そして私たちもまた、イエス様の御座に、ともに着かせていただけるようになることでしょう。

「ユダヤ教は、天国で座している方は主だけであり、その他の全ての人々は立っているのだ、と教えています。しかし、黙示録3章21節では、イエス様の花嫁である勝利を得る者は、イエス様のそばにともに座ることが約束されているのです。この約束は、私たちの想像をはるかに超えています。

神の御座については、黙示録の中で四十七回にもわたって述べられています。神の御座は、天と地におけるすべてのできごとの出発点です。イエス様は、このような御座をすべての勝利者に備えていてくださるのです。そしてこのお約束を、イエス様ご自身に対してなまぬるい態度の教会に与えておられるのです。ラオデキヤのようなイエス様に無関心な教会に対して、イエス様は、「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。」と約束しておられるのです。

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」(黙示3・22)

さて、この手紙をとおして、聖霊は何を語っておられるのでしょうか。御霊は、イエス様について語っておられます。御霊は、イエス様を全ての中心にし、イエス様に栄光を帰させようとしておられるのです。それによって、教会の真の姿も同時に明らかにされます。

アーメンであるお方、忠実で真実な証人であるお方、そして造られたものの根源であるお方であるイエス様は、私たちにご自身を啓示され、そして私たちの答を待っておられます。

イエス様は、私たちのなまぬるさを批難し、妥協する者を赦さず、私たちが自己満足を捨て去ることを期待しておられます。

イエス様のご支配に身をゆだねる者は、まわりの人々をイエス様のみもとに導こうとするようになります。

私たちは、フィラデルフィヤの教会にイエス様の再臨を待ち望んでいる少数の人たちがいることを学びましたが、ラオデキヤの教会は名前だけの教会であり、もうそこにはイエス様を待ち望む者は誰もいなかったのです。

フィラデルフィヤの少数の人々は黙示録22章20節のように「アーメン。主イエスよ、来てください」と言っていましたが、他の多くの人々は「イエス様はまだまだ来ない」と言っていました。

「ところが、もし、そのしもべが、『主人の帰りはまだだ。』と心の中で思い、下男や下女を打ちたたき、食べたり飲んだり、酒に酔ったりし始めると、しもべの主人は、思いがけない日の思わぬ時間に帰って来ます。そして、彼をきびしく罰して、不忠実な者どもと同じめに会わせるに違いありません。」(ルカ12・45、46)

初めの人々は、油を用意して待っていた賢い娘たちのような人々であり、その他の人々は、外に出て戸をたたいたが開けてもらうことのできなかった愚かな娘たちに似ています。

ラオデキヤの教会への手紙の中で、イエス様は、ご自身の名を持つ教会への裁きを告げておられます。

「あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。」(マタイ5・13)

かつて、イスラエルの民はこの地上の塩であり、証し人でした。しかしこの塩は力をなくしました。そのために捨てられてしまったのです。

そして、イスラエルの民に代わって、教会が塩となる使命を与えられるようになりました。しかしラオデキヤの教会は、なまぬるく、力がなく、そのためにイエス様の口から吐き出されるようになってしまったのです。パウロは、イスラエルの民と教会について、ローマ人への手紙11章20節から23節までに書き記しています。イスラエルの民が神の裁きを受けたのと同じように、名前だけの教会も神の裁きを受けるのです。

イエス様の口から吐き出される、という裁きがくる時に、真に生まれ変わった信者たちは天に引き上げられていくのです。大いなる苦しみの日がくる前に、これらの信者たちは引き上げられると約束されています。

そして、主の花嫁が取り去られた後には、いのちを持たない、名前だけのキリスト教徒が残されるのです。これらの人々がイエス様の口から吐き出されるのです。つまりこれは、イエス様に属していない人々だけが裁かれるということを意味しています。なまぬるさ、目が見えないこと、そしてうぬぼれとが、すでにいたるところに見られます。

まもなくイエス様は、真のいのちを持つ花嫁の所に来られ、ご自身の御座にまで高く引き上げてくださるのです。

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。(第一コリント15・51)

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・17)

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです。」(ヨハネ17・24)

しかし、私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。(ローマ8・37)

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

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