2022年10月23日日曜日

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい。

いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。全ての事について感謝しなさい。
2022年10月23日、吉祥寺福音集会
重田 定義

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

今、読んでいただきましたこの聖書の箇所は、すでにベック兄をはじめ、多くの兄弟がたによって学ばれておりますけれども、この中に、『これがイエス・キリストにあって、神があなたがたに望んでおられることです』とありますように、私たち信者にとって、ここはたいへん重要な箇所だと思われますので、あらためて今日、ご一緒に学びたいと思います。

この箇所は、パウロがテサロニケ教会にあてて、信者はどのような心構えで日々、過ごすべきかを懇切ていねいにしたためた手紙の一節であります。しかし、主を信じておられない方はもちろん、私たち信者であっても、このみことばを実践するのは、至難であるということを思い知らされます。

けれども、主は、これを行うように、実践するようにと、私たち信者に望んでおられるのであります。では、私たち信者はどうしたら、この主のご期待に応えられるのでありましょうか?ひとつひとつ考えていきたいと思います。

まず、『いつも喜んでいなさい』というみ言葉ですけれども、いつも喜んでいるとは、どんなときにも――苦しい時も、悲しいときも――、常に喜んでいるということであります。いったい、そんなことができるでしょうか?

そのことを考えるにあたっては、いつも喜ぶことができる喜びとは、いったいどんな喜びであるかを考えてみる必要があります。パウロは、キリスト者は何を喜びとするか、また、どうして喜べるかについて、ローマ書の5章で、次のように言っております。

ローマ
5:2 キリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。
5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

パウロは、キリスト者は患難さえも喜ぶことができる。それは、キリスト者に与えられた聖霊によって――御霊によって――、神の愛が注がれ、将来、神の栄光にあずかることができるという確かな希望を持っているからだ。このように説明しているのであります。このパウロの説明によって、信者の喜びは、この世の人の喜びのような肉的な喜びとは全く違う霊的な喜びであることがわかります。

また、パウロはコリント第二の手紙の七章で、『私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています』と言っております。

【参考】第二コリント
7:4 私のあなたがたに対する信頼は大きいのであって、私はあなたがたを大いに誇りとしています。私は慰めに満たされ、どんな苦しみの中にあっても喜びに満ちあふれています。

そして、また同じ第二コリント六章では、自分は『悲しんでいるようでも、いつも喜んでいる』とも言っております。

【参考】第二コリント
6:10 悲しんでいるようでも、いつも喜んでおり、貧しいようでも、多くの人を富ませ、何も持たないようでも、すべてのものを持っています。

パウロは、イエス様に愛され、慰められ、支えられている自らの体験を通して、たとえどんなに肉の悲しみ、苦しみにあっても、霊的な喜びは、それを遥かに超えたものであるということを、ここで証しをしているのであります。そして、パウロは、それは自分だけではなくて、すべての信者がこのように、いつも喜んでいることを、主が望んでおられると、ここで、言っているのであります。

さらにパウロは、ピリピ人への手紙の四章四節で、『いつも主にあって喜びなさい。もう一度言います。喜びなさい』とも言っております。この霊的な喜びは、パウロが言っておりますように、いつも主にあって、すなわち、いつも主と共にいることによって、いつも霊的に主と結びついていることによって、御霊を通して与えられるものであり、主から離れていては決して得られない喜びなのであることを忘れてはなりません。

次に、二番目の『絶えず祈りなさい』という言葉について、考えたいと思います。

私たち人間は、何に祈るのでありましょうか?主がどんなお方なのかを知らない信者は、手当たり次第に、むなしい偶像の神に祈ります。けれども、私たち信者は違います。私たちは、感謝なことに、信仰によって全知全能の生ける真の神様、そして、私たちの恐ろしい罪をあがなってくださった御子イエス様を知る恵みにあずかることができました。その主なる神様、主イエス様に祈ることができるという私たちは、なんという幸せなことでありましょうか?

では、私たち信者は主に何を祈るのでしょうか?いったい本当の祈りとは何か?これについて、ベック兄は、『絶えず祈れ』の本の中で、次のように述べておられます。

『多くの人々は祈りとは主に何かを願い求めることであると言います。しかし、本当の祈りとは、主との交わりを持つことなのです。多くの人は、祈りとは、ただ苦しい時だけのものと思っています。例えば、危険に直面した時とか、重い病気にかかっている時とか、混乱に陥っている時とか、全く望みの無い状態にいる時、そのような時にだけ、祈りが必要だと思っています。しかし、祈りとは、それ以上のものです。祈りとは、主により頼むこと、主から離れては何もできないと知ること、そして、主に信頼することを意味しています。祈りとは、主との交わりです。つまり、祈りとは、主に対して一方的に語るのではなく、主とともに語る、つまり、主と語り合うことなのです。祈りとは、私たちが欲しいものを主に強制することではなく、私たちが主の御心を知り、私たち自身を主に明け渡し、主のみこころが成就することです。』

このようにベック兄は述べておられます。本当の祈りとは、まさにこの祈りであります。

私たち信者が絶えず祈らなければならないのは、いったいどうしてでしょうか?それは、この祈りを通して、信者は主と絶えず、霊的な交わりをしなければならないからなのであります。

ある兄弟がメッセージの中で、『祈りは霊的な呼吸のようなもので、人間は呼吸をしないと窒息して死んでしまうのと同じように、絶えず祈らないと霊は窒息してしまうのです』と言われました。全くそのとうりであります。

主に救われ、サタンに属する者から、主に属するものと変えられた私たち信者の肉の体は、天の御国に入ることを許されるまでは、まだ、サタンに支配されているこの世に置かれております。サタンは、主に属するものとされた信者を、イエス様から引き離して、再び自分の支配下に置こうと、さまざまな手を用いて、絶えず誘惑してまいります。サタンの誘惑は極めて巧妙で、私たちの弱い肉の部分を突いてまいります。このサタンに勝つ唯一の方法は、絶えず主と霊的な交わりを持ち、絶えず霊において主に祈ることであります。

また、サタンは、地上に置かれた生ける主のみ体なる教会を憎み、教会が主のご栄光を輝かすことを阻止しようと、必死で攻撃してきます。そして、その攻撃の的は、主の御体を構成しているひとりひとりの信者に向けられます。そのためにも、私たち信者は、絶えず主と交わり、主に祈り、霊的な力に満たされている必要があります。

そして、パウロが、エペソ人、六章十八節で、『すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい』と勧めているとおり、私たちは自分のためだけではなくて、キリストのみ体なる集会を構成している、愛するすべての兄弟姉妹が守られるように、絶えず霊の目を覚まし、忍耐の限りを尽くし、御霊によって祈り続けなければなりません。

三番目、『全ての事について感謝しなさい』ということについて考えたいと思います。

全ての事について感謝するとは、いったいどういうことなのでしょうか?また、誰に対して感謝するのでしょうか?全てのこととは、よいことでも悪いことでもすべてです。

人間はよいこと、すなわち、自分にとってよいことがあったとき、例えば、自分や家族の病気が治った時とか、働きたくても仕事がなくて困っていたけれども、やっと就職できた時などに、心に感謝の思いが生じます。また、災害で家族を失い、家を失い、仕事を失って悲しんでいる時に、多くの支援の手が差し伸べられたことを、私たちは感謝します。

このように感謝は、自分によくしてくれた人、あるいは、自分を助けてくれた人、励ましてくれた人、支えてくれた人に対して向けられるのが普通であります。増して、人間は自分にとって嫌なこと、悪いと思われることや、自分を苦しい目に合わせたり、辛い目に、悲しい目に合わせた人間に感謝できるでしょうか?そんなことは、なかなかできるものではありません。

一方、信者にとって感謝する相手は、人間ではないんです。主なる神様、イエス様であります。では信者は、いったい主に何を感謝するのでありましょうか?

信者は、主の愛と恵みに感謝します。主の愛と恵みによって救われたことを感謝します。主の愛と恵みによって、死に打ち勝つ永遠のいのちを与えられたことを感謝します。主の愛と恵みによって、天の御国の国籍が与えられていることを感謝します。主の愛と恵みによって、日々、守られていることを感謝します。

このように、私たち信者は、主がよくしてくださったことを感謝します。

では、自分にとって悪いことでも不幸せと思えたときでも、また、苦しい時でも悲しいときでも、私たちは主に感謝できるでしょうか?これはなかなかできないのが事実であります。けれども、主はすべてのことについて、すなわち、苦しい時にも悲しい時にも感謝するようにと、私たち信者に望んでおられるのであります。

しかし、これは私たちの肉が砕かれ、霊の目が開かれていなければ、主に自分の全てを明け渡していなければ、主に全き信頼を置いていなければ、そして、主を心から愛していなければできないことであります。

パウロは、ローマ書の8章の28節で、『神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています』と言っております。彼が言っておりますように、私たち信者が、主を心から愛するならば、主はすべてのこと、すなわち、苦しみも痛みも、私を愛してくださる主から来るんだ、そして、艱難をも働かせて益としてくださる――そのことを主に感謝できるのであります。

主は、信者がそのように感謝ができるように、信者に試練を与え、信者の頑なな自我を砕いてくださるのであります。

ヘブル
12:5 ・・・・「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。
12:6 主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」
12:7 訓練と思って耐え忍びなさい。神はあなたがたを子として扱っておられるのです。

12:10 ・・・・霊の父は、私たちの益のため、私たちをご自分の聖さにあずからせようとして、懲らしめるのです。
12:11 すべての懲らしめは、そのときは喜ばしいものではなく、かえって悲しく思われるものですが、後になると、これによって訓練された人々に平安な義の実を結ばせます。

主の懲らしめや試練は、主が信者を愛するがゆえに与えられるものであり、ご自分の聖さにあずからせるためにあると、この試練の意味を説明しております。

詩篇の119篇71節で、この詩篇の作者は、『苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました』と、苦しみにあったことを感謝しております。また、イザヤはイザヤ書の38章17節で、ああ、『私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。あなたは、滅びの穴から、私のたましいを引き戻されました』と、主に感謝しております。また、詩篇の66篇の作者も、主に感謝をしております。

詩篇
66:10 神よ。まことに、あなたは私たちを調べ、銀を精練するように、私たちを練られました。
66:11 あなたは私たちを網に引き入れ、私たちの腰に重荷を着けられました。
66:12 あなたは人々に、私たちの頭の上を乗り越えさせられました。私たちは、火の中を通り、水の中を通りました。しかし、あなたは豊かな所へ私たちを連れ出されました。

このように、苦しみをも感謝できるのは、試練という主の訓練によって、私たちの心が、自我が砕かれ、どんな時にも主が自分を愛してくださっているという確信を持つことができた結果、主を無条件で信頼することができ、自分のすべてを主に委ねることができたからであります。

しかし、このように感謝できるのは、この詩篇の作者やイザヤだけではありません。私たちは、この詩篇の作者やイザヤと同じように、大きな艱難や試練にあっても、それを感謝しておられる集会の多くの兄弟姉妹がたの証しを知っております。このようにすべてのことを感謝することができる信者を通して、主はご自身のご栄光を現わされるのであります。

今日の世界は、吹き止まぬ嵐のような様相を呈し、人々は希望もなく、不安と恐れの日々を過ごしております。しかし、私たちは、信仰によって、それが主のご再臨の前兆であることを知ることができるのは、なんという幸いなことでありましょうか?

この時にあって、私たち信者は、『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことに感謝しなさい』と望んでおられる主のご期待に添えるように、御霊によって満たされ、強められ、支えられて、いつも喜び、絶えず祈り、すべてのことを感謝する信仰生活を通して、また、主なる神様、御子イエス様を御存じない方々に、主を証しすることができ、これによって、主がご栄光を現されることができるように、切にご一緒に祈りたいと思います。

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