2022年9月12日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第2部】6.実は死んでいるサルデスの教会

第2部
天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば

6.実は死んでいるサルデスの教会

黙示録3章1節から6節まで

1.いのちのない教会
[1]信仰と生活の間に一致がない
[2]実を結ぶことがない
[3]みことばを聞こうとしない
2.汚れのない残された人々
3.勝利を得る者
[1]白い衣を着せられる
[2]その名をいのちの書から消さない
[3]父なる神の御前でその名を言い表わされる

(1)また、サルデスにある教会の御使いに書き送れ。『神の七つの御霊、および七つの星を持つ方がこう言われる。「わたしは、あなたの行ないを知っている。あなたは、生きているとされているが、実は死んでいる。(2)目をさましなさい。そして死にかけているほかの人たちを力づけなさい。わたしは、あなたの行ないが、わたしの神の御前に全うされたとは見ていない。(3)だから、あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。それを堅く守り、また悔い改めなさい。もし、目をさまさなければ、わたしは盗人のように来る。あなたには、わたしがいつあなたのところに来るか、決してわからない。
(4)しかし、サルデスには、その衣を汚さなかった者が幾人かいる。彼らは白い衣を着て、わたしとともに歩む。彼らはそれにふさわしい者だからである。(5)勝利を得る者は、このように白い衣を着せられる。そして、わたしは、彼の名をいのちの書から消すようなことは決してしない。わたしは彼の名をわたしの父の御前と御使いたちの前で言い表わす。(6)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」』(黙示3・1~6)

私たちは、今までに、イエス様が教会に示された四つの手紙について考えてきました。エペソ、スミルナ、ペルガモの諸教会は、イエス様によってそれぞれが「教会全体」として取り扱われていました。

エペソの教会は賜物が豊かで、熱心な教会でしたが、根本が病んでいました。「初めの愛を忘れてしまっていた」からです。

「エペソの教会は、使徒の時代の教会を代表しています。私たちはこの教会に対する「悔い改めて、初めの愛にかえるように」とのイエス様の呼びかけを学んできました。「悔い改めて主の贖いのみわざへの感謝の気持ちを新たにし、主に心を明け渡すように」とのイエス様の呼びかけは、今日の私たちにもあてはまります。

「スミルナの教会は、イエス様の御名のために恐ろしい迫害を受けた教会でした。この教会に対してイエス様は非難をされず、「死に至るまで忠実であるように」との警告を与えられただけでした。この教会は外面的に見ると貧しい教会でしたが、イエス様を中心とし、内側にはイエス様に対する熱い愛の心が残っていたのです。この教会は、西暦三百十六年に至るまでの殉教の時代を代表する教会です。

ペルガモにある教会は、外面的には全く迫害を受けない教会でしたが、その内側では悪魔が少しづつ侵略を始め、妥協することを通して霊的な力が眠らされてしまった教会でした。この教会は三百十六年から五百年に至る時代を代表する教会です。

これらの三つの教会に対して、テアテラの教会はもはや、一つの教会全体としては取り扱われていません。この教会では大多数の人々はイエス様の道具となることができず、ただ少数の人々だけが主の道具となっているだけでした。この教会は西暦五百年から千五百年に至るローマ・カトリック教会の時代を代表する教会です。しかもこの時代は、イエス様の再臨の日まで継続しているのです。

ローマ・カトリック教会の特徴は、偶像崇拝であり、生けるまことの神からの堕落であり、「霊的な姦淫」です。ローマ・カトリック教会は、今までに悔い改めをすることがなく、またしようとはせず、したがって裁きを待つだけの教会です。この教会の中の少数の人々だけが、イエス様に心から従い、真の教会を形造っているのです。

さて、ここから先、私たちはサルデスの教会について学びましょう。サルデスの教会は、千五百十七年以降のプロテスタンティズムの教会を代表しています。

2章までに私たちは、それぞれの教会の中に改革と霊的な覚醒を祈り求めている少数の信者がいることを見てきました。それは、二世紀においてはモンタヌス派と言われる人々でした。十六世紀においてはルターやカルビンやツヴィングリと言われる人々でした。これらの人々は、組織された教会が救いのための最大の障害であることを知っていました。イエス様はこれらの人々に語りかけ、そしてこれらの人々をご自身の道具として用いられたのです。

霊的な覚醒は、常に、祈りと悔い改めと献身に対してイエス様からお答えとして与えられるものです。宗教改革の上にもイエス様は働きかけられ、そして力を現わされました。しかしその後で、人々は再び、全てのことを自らの手によって行なおうとし始めました。そしてその結果は、いわゆるプロテスタンティズムとなりました。プロテスタンティズムは、神のみわざではなく、人間の働きの結果です。このようなプロテスタントの教会を、私たちはサルデスの教会に見ることができます。

黙示録のこの部分の題名を、私たちは「イエス様がサルデスの教会に与えられたみことば」、または「見せかけの、本当でないいのち」、あるいは、「大きな偽り」とつけることができます。

さらに私たちは、この部分を「いのちのない教会」、「汚れのない残された人々」、「勝利を得る者」という三つに分けて、サルデスの教会のことを学んでいきましょう。

1.いのちのない教会


今まで私たちは、それぞれの教会が何らかの形で異端との関係を持っていたことを学んできました。これらの教会は、サタンの攻撃の的でした。

ところが、このサルデスの教会への手紙で、異端については少しも触れられていません。つまりサルデスの教会は正しい教えを守っていたのです。また、殉教、迫害、悪魔の攻撃などにも触れられていません。サルデスの教会は、にせ教師もいず、狂信者もいず、にせ預言者も見あたらなかったのです。

なぜ悪魔は、このサルデスの教会を攻撃しなかったのでしょうか。そのわけは、この教会が「死んでいた」からです。ここにはにせ預言者がいず、秩序が乱れず、しかしいのちがありませんでした。したがって、悪魔もこの教会を攻撃する必要がなかったのです。つまりこの教会では全てが見せかけであり、まことのいのちがなかったのです。それでも人々はこの教会が「生きている」と思っていたのです。この教会は「生きている教会」として知られていました。人々もよく集まり、説教の内容もすぐれたものでした。サルデスの教会の評判は悪くありませんでしたが、しかしその評判は「いつわり」でした。

前に学んだスミルナの教会は、「貧しい教会」と呼ばれ、悩みを持ち、持ち物を奪われた教会でした。しかし、スミルナの教会は、いつでもイエス様の死を身に帯びていた教会でした。ですからこの教会は本当は「富んでいた教会」でした。しかしサルデスの教会は、「生きている」ようだが本当は「死んでいる教会」だったのです。

なぜ現代のキリスト者の多くは、霊的に貧しくなってしまうのでしょうか。なぜ、少数の人々しか霊的に満たされた生活をすることができないのでしょうか。なぜ、少数の人々しか他の信者に対して霊的な助けを与えることができないのでしょうか。

あなたは、私の苦しみのときにゆとりを与えてくださいました。(詩篇4・1)

もし私たちに「苦しみ」が与えられなければ、私たちはかえってみじめな人間です。なぜなら、私たちは苦しみがなければ成長することができないからです。私たちはイエス様に対して、「多くの苦しみをもって、私を祝福してください」と祈ります。イエス様は苦しみや困難を通して私たちをご自身の近くへ引き寄せようとしておられます。「狭く」されることによって、私たちは「広い」ところへ導かれます。また「貧しく」されることによって、「豊か」にされます。イエス様は私たちを苦しめることが目的なのではなく、それは、目的に至る手段なのです。

ダニエルの三人の友だちもそれを経験しました。ゆるぎない信仰と妥協のない態度のために、彼らは燃える火の炉の中に投げ込まれました。すると、火の炉に投げ込まれた三人の人が、一瞬のうちに四人の人に増えました。これが、狭くされることによって広いところへ導かれるということの意味です。誰でも炉は狭いところと考えます。そしてその中から外へ出たいと思うでしょう。しかし、炉の中を決して狭いと感じない少数の人々がいるのです。そのような人々は、ダニエルの友だちと同じように、イエス様のために苦難を喜んで耐え忍び、狭い炉の中に広い場所を見いだすことができるのです。私たちが全ての困難を、イエス様の御手から与えられたものとして受け取るとき、私たちもこのような経験をすることができます。

あなたの目は、麗しい王を見、遠く広がった国を見る。(イザヤ33・17)

なぜ信者の態度にこのような大きな違いがあるのでしょうか。ある信者は困難を喜んで受け入れますが、他の信者はそれを嫌うためにかえって霊的に死んでしまいます。ある信者は狭くされることによって広くされ、ある信者はそれによって力を失ってしまいます。ある信者は苦しみの時につぶやき、そのために霊的な死に至ります。しかし他の信者は苦しみこそがイエス様に至る道であることを知り、広いところへ導かれ、満たされた生活に導かれ、そして解放を経験することができます。

スミルナの教会は、外面的には貧しい教会でしたが、苦しみを通して豊かにされた教会でした。これとは逆にサルデスの教会は、外面的には生きているように見えましたが、内面的には死んだ教会だったのです。他の教会から見ると、サルデスの教会は生きた教会に見えました。しかし実際は、それらは見せかけでしかなかったのです。そしてさらに悪いことには、サルデスの教会自身が「自分の内にはいのちがある」と確信していたのです。この教会は何かが欠けていただけではなくて、もともと教会が持っていないものを持っているかのように思い込んでいたのです。

サルデスの教会は、「生きている」という評判を持っていましたが、実際には「死んで」いました。ですから「生きている」という評判はいつわりでした。死人が、自分が死んでいることを自覚できないように、サルデスの教会もまた、自分が死んでいることを自覚できなかったのです。この教会のいのちは見せかけだけのものであり、それはいつわりでした。サルデスの教会では、全てのものが見せかけだったのです。人々の満足は間違ったものであり、人々の働きは間違ったものであり、人々の忠実さも間違ったものでした。

私たちは聖書の中で、絶対的な二つの原理を読むことができます。

なぜなら、キリスト・イエスにある、いのちの御霊の原理が、罪と死の原理から、あなたを解放したからです。(ローマ8・2)

第一の原理は、罪と死の原理です。人間の罪の性質から出てくる全てのものは、死の裁きを受けるのです。

第二の原理は、いのちの御霊の原理です。御霊からでるものはいのちであって、裁かれることはありません。

全ての信者は、自分の生活を通して、これら二つの原理を体験します。それは、全ての信者が二つの性質を持っているからです。

肉の性質は罪の性質であり、死の性質です。人はこの性質を生まれながらにして持っています。これに対して、御霊の性質は義といのちの性質です。この性質を、人は生まれ変わりによって持つことができます。

「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(ヨハネ3・6)

もしキリストがあなたがたのうちにおられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊が、義のゆえに生きています。(ローマ8・10)

生まれ変わりのないところでは、人間の霊は死んでいます。全ての人が生まれ変わっていない教会では、たとえどのような活動が行なわれていても、霊的には死が支配しているのです。

サルデスの教会では、信者たちは正しい教義を持ち、熱心でしたが、ほんの少しの人しか真の生まれ変わりを体験していなかったのです。何という悲劇でしょうか。

サルデスの教会では、「いのちの御霊」が支配しないで「罪と死」が支配していたのです。にもかかわらず、この教会には人々がよく集まり、悪魔はそれに満足していたのです。

教会が霊的に死んでいるということは、たとえ全てのことが秩序を保ち、全てのことがイエス様のために行なわれようとしていたとしても、その中には「イエス様とのいのちの交わり」がありません。サルデスの教会の人々は、生まれ変わりを体験せず霊的に死んでいました。彼らは名前だけのクリスチャンであり、しかも、イエス様の教会の肢体となってイエス様に有機的に結びつくことのなかった人々でした。

いのちのない教会は、化粧をして生きているように見せようとした屍のようなものです。いのちのない教会とは、実のない殻です。また内容のない形です。

サルデスの町はその当時、織物と宝石の町として知られていました。着物も宝石も、人が身を飾る装飾品です。人は着物や宝石で身を飾って人の目をごまかします。しかしイエス様は、人のうわべだけを見ることをなさいません。

「人はうわべを見るが、主は心を見る。」(第一サムエル16・7)

彼女の美しさを心に慕うな。そのまぶたに捕えられるな。(箴言6・25)

美しいが、たしなみのない女は、金の輪が豚の鼻にあるようだ。(箴言11・22)

耳をそむけておしえを聞かない者は、その者の祈りさえ忌みきらわれる。(箴言28・9)

「忌わしいものだ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のようなものです。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨や、あらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は人に正しいと見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23・27、28)

イエス様はあらゆる見せかけを憎まれます。礼拝が単なる型式となるとき、それはわざわいです。イスラエルの民においてもそのようなことが起こりました。

わたしはあなたがたの祭りを憎み、退ける。あなたがたのきよめの集会のときのかおりも、わたしは、かぎたくない。たとい、あなたがたが全焼のいけにえや、穀物のささげ物をわたしにささげても、わたしはこれらを喜ばない。あなたがたの肥えた家畜の和解のいけにえにも、目もくれない。あなたがたの歌の騒ぎを、わたしから遠ざけよ。わたしはあなたがたの琴の音を聞きたくない。(アモス5・21~23)

「イスラエルの民は口先だけで神に仕え、実際の心は遠く神から離れている」というのが、主なる神のご判断でした。

外面的に見ると、サルデスの教会は活発な教会でした。しかしサルデスの教会は実のならない美しい木でした。実はいのちのしるしです。実のないところには、いのちがありません。種はいろいろな土地に蒔かれたが、良い土地だけが実をもたらしたのです。私たちは、サルデスには良くない土地に似た人々だけがいたことを知ります。

「岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。」(ルカ8・13~15)

サルデスの教会は、はっきりと主イエス様のみことばを聞き、また受けとりました。しかし彼らはみことばを受け入れましたが、それを守ることをせず、したがって実を結ぶことができなかったのです。彼らのわざが「完全でなかった」ということは、彼らに証しがあってもみごもることも、産むことも、実をならせることもなかったことを示しています。

エフライムの栄光は鳥のように飛び去り、もう産むことも、みごもることも、はらむこともない。(ホセア9・11)

このサルデスの教会において、私たちは「プロテスタントの教会」を見ることができます。十六世紀のはじめ、ルターを通して、「律法の行ないによらず、神の御子イエス様が完成された贖罪を信じることによって人は義とされ、そして救われる」という神のみことばが明らかにされました。ヨーロッパでは多くの人々がこの新しい教えを喜んで受け入れましたが、少数の例外を除けば、多くの人々はなおも霊的に死んだ状態にとどまっていたのです。当時、イエス様への悔い改めと生きた信仰が欠けていたために、真の生まれ変わりがなされなかったのです。多くの人々がこの新しい教えを知りましたが、しかし本当のいのちを得ることはありませんでした。多くの国王もまたこの新しい教えを受け入れ信仰の告白をしましたが、いのちを得ることはありませんでした。彼らは正しい教えを与えられましたが、真のいのちを得ることはなかったのです。

このことを通して私たちは、人間は正しい教えを知りながら、生まれ変わりに至らないことがあり得ることを知ります。人間は個人的に救いを受けることがなくても、いわゆる改宗者になることができるのです。

その当時、国民も国王も、カトリック教会に対して反抗しました。彼らは神のみことばを受け入れるようになり、カトリック教会の間違った教えと偶像崇拝に対して戦いました。しかし彼らは、神のみことばを受け入れたにもかかわらず、生まれ変わりを経験せず、実を結ぶこともなかったのです。当時のヨーロッパの人々の多くは、イエス様を個人的に受け入れることなしに信仰告白をしたにすぎませんでした。彼らは見かけ上は「生きて」いましたが、実際はほとんどが「死んで」いたのです。

正しい教えを知るだけでは十分ではありません。神によって与えられたいのちが必要です。神によって与えられたいのちがなければ、力もなく、喜びもなく、平安もありません。

サルデスの教会は大きないつわりの中に生活していました。サルデスの教会は「生きた教会」として多くの人に知られていました。しかしイエス様は、表面ではなくその内側をご覧になられます。そしてサルデスの教会では、重要なものが失われていることを見通されました。「あなたは死んでいる」というのが、イエス様のサルデスの教会に対する判断です。

そして、サルデスの死んだ教会に対して、イエス様は神の七つの御霊と七つの星を持つ方として、ご自身を現わされました。このことはイエス様が神の御霊を完全にご自分のものとしておられることを意味しています。イエス様のもとには、いのちがあふれています。星は教会の象徴です。ですからサルデスの教会も、イエス様の御手のうちに置かれているのです。イエス様の御手のうちには御霊が宿っています。ですからサルデスの教会もまた、イエス様の御霊の内に置かれているのです。このことは、サルデスの死んだ教会にも、望みが残されていることを意味しています。

イエス様の御手のうちには、神の御霊が完全に宿っています。イエス様の御手のうちには、完全な力と知恵と真理と聖さとが宿っています。イエス様は全てをご存知であり、イエス様に知られていないものは、何一つ残されていません。イエス様は全てを見ておられ、何ものによっても欺かれることがありません。イエス様は真実な判断をもって裁かれます。イエス様が教会に与えられるみことばは、真実なみことばです。霊的に死んでいる教会に対して、イエス様は全ての御霊を持つ方として、ご自身を現わしておられるのです。

「いのちを与えるのは御霊です。」(ヨハネ6・63)

霊的に死んでいる教会に対して、イエス様は決して無関心ではありません。無関心でないことの証拠に、イエス様は次の五つの命令を教会に与えておられます。

「目をさましなさい」、「死にかけているほかの人たちを力づけなさい」、「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい」、「それを堅く守りなさい」、「悔い改めなさい」。

霊的に死んでいる教会に対して、イエス様は「目をさましなさい」と命じておられます。イエス様は、教会の目を覚まさせ、まことのいのちへと導こうとしておられるのです。

神の霊と神のみことばによって生まれ変わることのなかった全ての人々は、霊的に死んでいる人々です。霊的に死んでいるということは、神に対して死に、罪とこの世と悪魔に対して生きていることを意味しています。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、・・・・(エペソ2・1)

あなたがたは罪によって、また肉の割礼がなくて死んだ者であったのに、神は、そのようなあなたがたを、キリストとともに生かしてくださいました。(コロサイ2・13)

「この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」(ルカ15・24)

「まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。」(ヨハネ5・24)

私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。(第一ヨハネ3・14)

私たちは、真の生まれ変わりを経験しているのでしょうか。あるいは、そのように思い込んでいるだけなのでしょうか。

サルデスの教会は、外面的には模範的な教会でした。正しい教えを持ち、活動的でしたが、イエス様はこの教会に対して「死んでいる」と判断されたのです。この判断は私たちを驚かせ、自分たちの教会がほんとうはどんな状態であるかを深く反省するきっかけとなります。人々が自分では「生きている」と確信しながら、その実は「死んでいる」ということが、実際にあり得るのです。私たちは日々、心からの畏れをもって「私たちの教会が霊的に死んでいるのか、生きているのか」を問い続けなければなりません。

私たちが「霊的に死ぬ」危険にさらされるのは、どのような時なのでしょうか。

[1]信仰と生活の間に一致がない


それはまず、私たちの信仰が、日常の生活において認められなくなってしまった時です。

多くの人々は、信仰は信仰、仕事は仕事だと割り切っています。これでは信仰と生活の間に一致がないのは当然です。私たちとイエス様との結びつきが、周囲の人々に主イエス様に対する飢え渇きを与えず、また、私たちが人々の中にあって異分子のような存在となっていないようなら、私たちは何か根本的な欠陥があると言えましょう。

信仰とは、私たちが罪を犯した時に、イエス様のもとに急いで立ち返り、流された血潮に対して感謝をささげることです。信仰とは、自分の失敗をすなおに認めることです。

[2]実を結ぶことがない


次に、「霊的に死ぬ」危険性があるのは、実を結ぶことがない場合です。

未信者が、私たちを通して真の信仰に導かれることがないとすれば、それは重大な問題です。私たちがイエス様との交わりを持っているなら、他の人々も新しい生まれ変わりへと導かれるはずです。「死にかけているほかの人たちを力づけなさい」。

私たちの周囲にいる人々は、死にかけている人々です。その中にいながら、他の人々に対して無関心であったり、他の人々に対して祈らないとしたら、その人自身がはたして生まれ変わっているかどうか疑わしいと言えましょう。もし、イエス様との交わりを持っているなら、信仰を自分だけのものにして、他の人々に分かち与えないということはあり得ません。自分のことだけを考えて、他の人のことを心配しない人は霊的に死んでいる人です。

[3]みことばを聞こうとしない


次に、「霊的に死ぬ」危険があるのは、人々が神のみことばを聞こうとしなくなる時です。現在私たちは、みことばを通してイエス様に罪を指摘していただく備えができているでしょうか。また、みことばによって、私たちはイエス様に導いていただく備えができているでしょうか。イエス様のみことばがその人の生活において権威を持たず、その人の生活を支配しないようであれば、その人は自分自身と周囲の人々に対して目が見えなくなっているのです。

では自分の場合はどうだろうかと、おののきながら自問自答するなら、それは生まれ変わっている証拠です。しかし、このようなおののきが自分自身と自分の教会に対してない場合には、私たちはまさに死の危険の中にいるのです。

サルデスの教会に対して、イエス様は、完全な御霊と完全ないのちの満たしを持つ方としてご自身を現わしておられます。イエス様はいのちを与えることができ、そしてそれを望んでおられます。サルデスの教会によく似た状態が、エゼキエル書の18章、33章から37章までに書かれています。エゼキエル書の中においても私たちは、霊的な死を見いだすことができます。この場合にも御霊がいのちを与えたのです。

「神である主はこれらの骨にこう仰せられる。見よ。わたしがおまえたちの中に息を吹き入れるので、おまえたちは生き返る。」(エゼキエル37・5)

「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。」(エゼキエル37・14)

前に述べた五つの命令は、心からの悔い改めへの呼びかけです。しかし同時に、これらは五つの約束でもあります。これらは人間的な行ないを私たちに要求するものではなく、全能の主の創造的な力の私たちへの提供なのです。イエス様は生まれ変わりを提供し、私たちの目を覚まそうとしておられます。生まれ変わっていない人々は、永遠の滅びに向かう人々を救い出すことができません。死のあるところに、いのちは起こり得ません。間違った見せかけだけのところにおいては、いのちも、力も、存在しえないのです。

見えるところは敬虔であっても、その実を否定する者になるからです。こういう人々を避けなさい。(第二テモテ3・5)

イエス様とのいのちの交わりを持たない人は、他の人をいのちに導くことができません。そして、死からいのちへと生まれ変わった人には、死にかけている人を救い出す使命が与えられているのです。

捕えられて殺されようとする者を救い出し、虐殺されようとする貧困者を助け出せ。(箴言24・11)

これこそが全ての信者に与えられているイエス様の命令です。エゼキエル書の中においても、同じ命令が与えられています。

「人の子よ。わたしはあなたをイスラエルの家の見張り人とした。あなたは、わたしのロからことばを聞くとき、わたしに代わって彼らに警告を与えよ。わたしが悪者に、『あなたは必ず死ぬ。』と言うとき、もしあなたが彼に警告を与えず、悪者に悪の道から離れて生きのびるように語って、警告しないなら、その悪者は自分の不義のために死ぬ。そして、わたしは彼の血の責任をあなたに問う。もしあなたが悪者に警告を与えても、彼がその悪を悔い改めず、その悪の道から立ち返らないなら、彼は自分の不義のために死ななければならない。しかしあなたは自分のいのちを救うことになる。」(エゼキエル3・17~19)

近づいている裁きを宣べ伝えることは、教会の使命です。現在のような不信仰と絶望の時代にあって、近づいている裁きを宣べ伝え、人々をイエス様のもとへと導くことこそ、教会の使命です。ただ自分自身のことだけを考え、この使命を果たそうとしない人はわざわいです。まず自分が生まれ変わり、その後で、永遠の死に向かっている人を救いに導くことができるのです。

「あなたは死んでいる」というイエス様のみことばは、現在の全ての「ヒューマニズム」の上にもあてはまります。人々をより良いものにしようとするのではなく、人々に、裁きのもとにあること、生まれ変わりを通して新しいいのちが与えられることを伝えることこそが重要です。

さて、3節には、「あなたがどのように受け、また聞いたのかを思い出しなさい。」とあります。これは神のみことばだけに従い、神のみことばへと立ち返ることを意味しています。

続いて「それを守りなさい。」とありますが、これは神のみことばだけにより頼み、自分の考え、意志を捨て去ることを示しています。イエス様の前にこのような態度をとる時に、イエス様は私たちの目を開けられます。霊的な覚醒とは、あらゆる見せかけの仮面を取り去ることです。そしてそれに続くのは悔い改めです。悔い改めとは百八十度方向を変えることです。自分からイエス様へと方向を変えることです。そしてイエス様との深い交わりを持つことです。

悔い改めとは、生きておられるイエス様に出会って、イエス様との交わりに入ることです。霊的に死んでいる者をいのちへと導こうとしておられるイエス様は、単なる道徳の教師ではありません。イエス様ご自身が、目を覚まさせ、力を与え、思い出させ、堅く守らせ、悔い改めを与えようとしておられるのです。これこそが恵みです。しかし、恵みが人間によって拒まれる時、裁きが与えられます。これが、「イエス様が盗人のように来られる」というみことばの意味です。

目を覚まさせようとして、イエス様は私たちに与え、満たそうとしておられます。しかし、眠る者が目を覚まされることを好まない時には、イエス様は目を覚まさせる方としてではなく、人の持ち物を奪い去る盗人のように来られるのです。これが裁きです。

目覚まし時計が鳴っていても、それを止めて眠り続けることはできます。イエス様は、悔い改めを呼びかける目覚まし時計のようなものです。これを聞く者はプレゼントをいただき、そして満たされます。しかし悔い改めようとしない者は、その人が持っていると思いこんでいる物までも取り去られてしまいます。

このように、イエス様が盗人のようにやって来られるということは、裁きを意味しています。新約聖書において私たちは、イエス様が盗人のように来られるというみことばを、七箇所で見ることができます。

兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。(第一テサロニケ5・1~4)

盗人は気づかれないうちに、盗むために突然やってきます。ほんとうに生まれ変わった人々は花嫁です。イエス様はこれらの人々のためには盗人としてではなく、花嫁を迎える花婿として来られるのです。イエス様の再臨はまことの信者にとっては裁きではなく、限りない喜びです。

しかしサルデスの教会に対しては、イエス様は再臨のとき、花婿としてではなく盗人として来られるのです。つまりイエス様はサルデスの教会全体を、花嫁としてではなくこの世に属する者として見ておられます。サルデスの教会では、この世が支配しているのです。ここで私たちは、二重の意味、つまりカトリック教会がこの世を支配し、プロテスタントの教会がこの世の力に支配されている姿を見ることができます。

イエス様の再臨の時に、誰が霊的に生き、誰が霊的に死んでいるかが明らかにされます。ほんとうに生まれ変わっている信者はイエス様のもとに引き上げられ突然その姿が見えなくなります。

泥棒は不法を犯して物を盗ります。彼は自分のことだけを考えています。しかしイエス様は、ご自身の血をもって買い取られた人々をご自身のもとへと引き上げられます。イエス様はご自身のことを考えておられるのではなく、私たちの救いと私たちの栄光を考えておられるのです。

「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・3)

「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。」(ヨハネ17・24)

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

2.汚れのない残された人々


私たちはサルデスの教会において、宗教改革の後で堕落していった教会の姿を見ることができます。宗教改革は、ローマカトリック教会の堕落と権力から多くの人々を解放しました。なぜなら「イゼベル」はもはや教えることができなくなったからです。そして信仰によって義とされるという教えが、唯一の真理として認められるようになりました。しかし多くの人々にとっては、この教えが単なる正しい教えというだけにとどまっていて、この教えを真に自分のものとして体験することがなかったのです。

このような人々の中にも、イエス様が喜ばれる少数の人々の群れ、「残された者」がいたのです。サルデスという言葉は、「残された者」という意味です。エペソ、スミルナ、ペルガモの諸教会においては、忠実な信者はなお多数、存在していました。そしてこの忠実な多数の信者たちが、間違った教えを説く少数の信者たちに惑わされないようにと忠告していたのです。

しかし、テアテラの教会では、イエス様の側にはっきりと立つ人々は、多数ではなく、少数の人々になってしまっていました。サルデスの教会では、「残された者」はただ数人にしかすぎませんでした。このようなわずかな人々の持つ特徴とは、何だったのでしょうか。これらの人々は、イエス様の流された血潮のきよめる力を体験した人々でした。このような人々は赦しを知り、イエス様はもはや「私の罪を覚えておられない」ということを知っていたのです。

これらの人々はまた、聖い歩みをした人々でもありました。汚れた衣とは、罪を意味する言葉です。サルデスの教会では、異邦の宗教や習慣へ転落する罪がありました。「汚れた衣」とは、文字通りの姦淫と、イエス様に対しての姦淫の両方を意味する言葉です。

黙示録19章の7節から8節は、イエス様の花嫁のことが記されています。その花嫁は、「光り輝く、きよい麻布の衣を着る」とあります。この衣は、この人々の「正しい行ない」を意味しています。

「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(黙示19・7、8)

これらの信者たちは、自分の力によって着物をきよく保ったのではなく、イエス様の流された血潮のきよめの力によって、自分の着物をきよく保ったのです。

そこで、私は、「主よ。あなたこそ、ご存知です。」と言った。すると、彼は私にこう言った。「彼らは、大きな患難から抜け出て来た者たちで、その衣を小羊の血で洗って、白くしたのです。」(黙示7・14)

「兄弟たちは、小羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。」(黙示12・11)

彼らは決して、自分の力によってではなく、イエス様の恵みによって白くされ、打ち勝つことができたのです。すべてはただイエス様の贈ってくださった恵みによる結果です。

私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けたのである。(ヨハネ1・16)

ですから私たちは日々新たに、イエス様が流された血潮の赦しと、きよめと、守りの力に、感謝を捧げようではありませんか。

イエス様が私たちにくださった恵みだけが、全てに勝利することを可能にします。悪魔は今も、私たちが衣を汚すように攻撃を加えてきます。悪魔は、例えばテレビや週刊誌などを用いて、私たちの思いを汚そうとしてきます。悪魔に対して意識的に反抗することをせず、またイエス様の血潮による「守る力」に助けを求めようとしない人はわざわいです。私たちは、自分の力で着物をきよく保つことはできないからです。

いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7・1)

ここに書かれている聖さを全うすることは、私たちが意識的に悪魔に抵抗し、イエス様の血潮の守りを得ることによってだけ可能です。私たちは自分で自分を守ることはできません。ただイエス様が私たちを守ってくださるのです。

あなたがたを、つまずかないように守ることができ、傷のない者として、大きな喜びをもって栄光の御前に立たせることのできる方に、すなわち、私たちの救い主である唯一の神に、栄光、尊厳、支配、権威が、私たちの主イエス・キリストを通して、永遠の先にも、今も、また世々限りなくありますように。アーメン。

3.勝利を得る者


私たちは今までに、「いのちのない教会」、「汚れのない残された人々」について学んできましたが、これから私たちは「勝利を得る者」について考えてみたいと思います。勝利を得る者については、5節で次の三つの約束が与えられています。それは、「白い衣を着せられる」、「彼の名をいのちの書から消さない」、「神の御前でその名を言い表わされる」という三つの約束です。

[1]白い衣を着せられる


第一の約束は、彼らが「白い衣を着せられる」という約束です。白は勝利の色です。これらの勝利者はローマ人への手紙8章37節にあるように、「圧倒的な勝利者」としての体験をすることができます。しかし、ここで言う「白い衣」は、信者が生まれ変わったときに与えられるイエス・キリストの「義の衣」とは異なる衣です。人が義とされるのは、勝利を得たからではなく、イエス様の義に基づく信仰を持つようになったからです。

イエス様の「義の衣」は、決して汚されることはありません。勝利者の着せられる「白い衣」はイエス様の本質、つまりイエス様の光の本質を象徴する言葉です。

そして彼らの目の前で、御姿が変わり、御顔は太陽のように輝き、御衣は光のように白くなった。(マタイ17・2)

この時のイエス様の御姿は、イエス様の内側からの光によって輝いたのです。

織物と宝石の町だったサルデスは、外側を大切にする町でした。外側のものによって人はだまされます。サルデスの教会は外側から見れば生きていましたが、その内側は死んだ教会でした。しかし勝利を得る者の衣はこれとは逆です。それは本当の衣であり、全てにおいてイエス様ご自身であり、そこには人間的なものや、また人間の自己の力によるものは、全く残されていないのです。この衣を着せられるということは、イエス様との永遠の交わりを与えられることを意味しています。

「着物を着せられる」ということは、無罪の宣告を与えられること、永遠に受け入れられることを意味しています。

彼らはあなたの小高い家をくつがえし、高台をこわし、あなたの着物をはぎ取り、あなたの美しい品々を奪い取り、あなたをまる裸にしておこう。(エゼキエル16・39)

あなたの裸の恥を現わさないために着る白い衣を買いなさい。(黙示3・18)

見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。(黙示16・15)

[2]その名をいのちの書から消さない


第二の約束は、「勝利を得る者の名前がいのちの書から消し去られることは決してない」という約束です。勝利を得る者は、勝利のための戦いが人間に対する戦いではなく、悪の霊に対するものであることを知っています。彼らは自分の力によって戦うことをせず、完全にイエス様により頼み、神の武具で身を固めて戦うのです。

古代においては、人々は死人の名前を名簿から消し去ることを習慣にしていました。それと同じように、「生きているというのは名前だけで実際には死んでいる人々」は、イエス様によっていのちの書からその名前を消し去られてしまうのです。つまり、神の国においては、その人の歩みの全てが消し去られてしまうのです。

また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。(黙示20・12)

生まれ変わった人々の名前は、ひとり残らず「いのちの書」に記されています。

その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。(ダニエル12・1)

そのとき、主を恐れる者たちが、互いに語り合った。主は耳を傾けて、これを聞かれた。主を恐れ、主の御名を尊ぶ者たちのために、主の前で、記憶の書がしるされた。(マラキ3・16)

シオンに残された者、エルサレムに残った者は、聖と呼ばれるようになる。みなエルサレムでいのちの書にしるされた者である。(イザヤ4・3)

「だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。」(ルカ10・20)

ほんとうに、真の協力者よ。あなたにも頼みます。彼女たちを助けてやってください。この人たちは、いのちの書に名のしるされているクレメンスや、そのほかの私の同労者たちとともに、福音を広めることで私に協力して戦ったのです。(ピリピ4・3)

いのちの書に名前が記されず、またいのちの書から名前が消し去られる人々は、神の国から追放されているのです。

彼らがいのちの書から消し去られ、正しい者と並べて、書きしるされることがありませんように。(詩篇69・28)

全ての人々の名前が、いのちの書に一度は書き記された、と言えましょう。なぜなら、全ての人々が救いに召されているからです。しかし、せっかく提供された救いを個人的に受け入れず、またイエス様に自分の生活の支配権をゆだねようとしない人は、いのちの書から名前が消されるのです。これが、「滅び」です。

いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示20・15)

[3]父なる神の御前でその名を言い表わされる


第三の約束は、イエス様が父なる神の御前で、その人の名を言い表わしてくださるということです。裁きにおける第一の証人は、イエス・キリストです。1節から2節の後半において、イエス様はサルデスの教会を訴えられましたが、5節においては、勝利を得る者に対して身代わりとなることを約束しておられるのです。

・・・・主は彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、こう言われます。「わたしは御名を、わたしの兄弟たちに告げよう。教会の中で、わたしはあなたを賛美しよう。」またさらに、「わたしは彼に信頼する。」またさらに「見よ、わたしと、神がわたしに賜わった子たちは。」と言われます。(ヘブル2・11~13)

イエス様は訴える時には「神の御前」という言葉を用い、身代わりを約束される時には「父の御前」という言葉を用いておられます。死んでいるサルデスの教会においては、裁かれる「神」が臨まれ、賞賛を与える「父」が臨まれるのではないのです。

「ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。」(マタイ10・32)

全ての人の救いも誉れも、ともにイエス様にかかっています。イエス様を拒む人には、永遠の滅びがあるだけです。もしイエス様があなたの父になっていなければ、イエス様に罪の赦しを求め、イエス様に全てを明け渡し、そしてイエス様の霊に満たされるようにと願い求めてください。

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)

「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい」。みことばを通して神が教会に対して言われることを聞く者は、希望を得ることができます。あなたの状態がどのようなものであったとしても、イエス様は「霊の満たし」を持っておられます。ですからイエス様のみもとにいこうではありませんか。イエス様はあなたを満たし、あなたをご自分の道具としてお用いになりたいと思っておられるのです。

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