2022年8月15日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第2部】4.世俗化したペルガモの教会

第2部
天に上げられたイエス様が教会に与えられたみことば

4.世俗化したペルガモの教会

黙示録2章2節から7節まで

1.偶像崇拝の中心地にあったペルガモの教会
2.ペルガモの教会に対するイエス様の啓示
3.ペルガモの教会に与えられたみことば
[1]警告のみことば
[2]約束のみことば

私たちはここで、イエス様がペルガモの教会に対して語られたみことばを学びましょう。

(12)また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。(13)「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。
(14)しかし、あなたには少しばかり非難すべきことがある。あなたのうちに、バラムの教えを奉じている人々がいる。バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を領き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。(15)それと同じように、あなたのところにもニコライ派の教えを奉じている人々がいる。(16)だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。(17)耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。わたしは勝利を得る者に隠れたマナを与える。また、彼に白い石を与える。その石には、それを受ける者のほかはだれも知らない、新しい名が書かれている。」』(黙示2・12~17)

この部分を学ぶ前に、今まで学んできたエペソとスミルナにあてた手紙と、このペルガモにあてた手紙とを比較しておきましょう。

まず、エペソの教会は、「愛のない教会」でした。そしてスミルナの教会は、「迫害された教会」でした。ここで学ぶペルガモの教会は、「世俗化した教会」です。

エペソの教会は、外面的に見て、「豊かで問題のない教会」でした。スミルナの教会は、「貧しく悩んでいる教会」でした。そして今回学ぶペルガモの教会は、「証ししながら戦っている教会」です。

また、エペソの教会には、「良い働きがありましたが、愛がありません」でした。スミルナの教会には、「死に対する不安と恐れ、そして勝利」がありました。しかし、ペルガモの教会は、別の問題、「この世と妥協する危険性」があったのです。

つまり、エペソの教会に欠けていたのは初めの愛であり、スミルナの教会の特徴は苦難のために召されていたことであり、これに対してペルガモの教会が必要としていたのは「きよめ」です。

ですから、ペルガモの教会についてのこの部分の主題は、「世俗化した教会」、「証ししながら戦う教会」、または「この世との妥協の危険性を持った教会」であり、また、「きよめ」です。

また、「ペルガモ」という名前には、二つの意味があります。ひとつは「結婚によって」という意味と、もうひとつは「高い城」という意味です。ですから、この部分の題名は、「結婚による高い城」とすることもできます。私たちはこの部分を「偶像崇拝の中心地にあったペルガモの教会」、「ペルガモの教会に対するイエス様ご自身の啓示」、「ペルガモの教会に与えられたみことば」の三つに分けて考えてみましょう。

1.偶像崇拝の中心地にあったペルガモの教会


ペルガモは、どのような都市だったのでしょうか。

ペルガモは、エペソで働いていたローマの役人の住んでいた町でした。ペルガモはまた、皇帝崇拝の、つまり、偶像崇拝の中心地でもありました。とくに、ゼウス、アポロ、アスキレピオスの神々が崇拝されていました。

巨大なゼウスの神殿が、ペルガモの町から三百メートル高い所に建てられ、遠くからもよく見えました。このゼウスの神殿の遺跡の一部は、今でもベルリンのペルガモン博物館に保存され、古代の七不思議の一つとされています。また、アスキレピオスは救主と呼ばれていました。アスキレピオスの神殿は、当時、世界に二百以上もあり、ペルガモにあるアスキレピオスの神殿はそれらの中心だったのです。また、アスキレピオスに捧げられたいけにえは蛇だったので、蛇があがめられていました。

ペルガモの町は、このような皇帝崇拝と偶像崇拝、つまり悪魔の中心地だったのです。偶像崇拝と悪魔との間には、つねに密接な関係があります。

私は何を言おうとしているのでしょう。偶像の神にささげた肉に、何か意味があるとか、偶像の神に真実な意味があるとか、言おうとしているのでしょうか。いや、彼らのささげる物は、神にではなくて悪霊にささげられている、と言っているのです。私は、あなたがたに悪霊と交わる者になってもらいたくありません。(第一コリント10・19、20)

ペルガモの町では、ゼウスが全世界の支配者であり、アスキレピオスが救い主であり、蛇が神聖な動物としてあがめられていたのです。

ペルガモの町はまた、文化と学問の中心地でした。前に学んだエペソは政治の中心地であり、スミルナは商業の中心地でした。しかし、ペルガモは文化と思想の中心地だったのです。ペルガモには二十五万冊の書物を蔵している図書館が建てられていました。そして、それらの書物はすべて手で書かれたものでした。それらの書物に使われた用紙は、この都市の名前にちなんで今日もドイツ語でペルガメントと言われています。

ペルガモはまた、富と人間的英知の中心地でした。言いかえれば、ペルガモの町は、「高い城」、「悪魔の王座」が置かれていた所だったのです。

この都市に、イエス・キリストの教会が建てられました。富と人間的英知、偶像崇拝、文化と学問の中心地だったペルガモの市民の中には、これらの人間的な「豊かさ」に満足を見いだすことができない人々がいたのです。そして、このような人々は、イエス様の内にまことの救いを見いだしていたのです。

イエス・キリストの教会は、生ける神の宮です。イエス様ご自身が教会の中に住んでおられます。このような神の宮は、偶像の宮に対立するものです。

まことの信仰に入ってきた人々は、ゼウスが世界の支配者なのではなく、「主なる神が世界の支配者」であり、アスキレピオスが救主なのではなく、「イエス・キリストこそが救い主」であると証ししたのでした。

まことの教会とはどのようなものでしょうか。イエス・キリストのまことの教会とは、霊の有機体です。まことの教会は、聖霊を通して生み出されます。聖霊の内住を通して信者は一つにされるのです。この一致をもたらす力は、人間の内にあるのではなく、信者ひとりひとりの内に内住しておられるイエス様の霊によるのです。したがって教会こそが、神が成しとげられた最大の奇蹟です。

主なる神の創造はすばらしく、また偉大です。人間がきわめることのできない宇宙全体が、この神の創造のすばらしさをほめたたえています。イスラエルの民もまた、神によって造られ、神の栄光をほめたたえる存在ですが、イエス様の教会は、これら全宇宙とイスラエルの創造のすばらしさにまさるものです。

からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。(エペソ4・4~6)

この中で、「すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つ」とあるとおり、神ご自身は、聖霊を通してご自身の教会にお住みになられます。そしてイエス様は、すべての信者の内に宿ってくださるのです。これこそが神の栄光の現われです。

まことの教会とは「キリストの身体」です。まことの教会はそのかしらであるイエス様とつながって、有機的な一つの身体を形成するのです。

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。(エペソ1・22、23)

主なる神は、旧約の時代にすでにイスラエルの民に向かって「あなたがたの神、主であるわたしが聖であるから、あなたがたも聖なる者とならなければならない。」(レビ19・2)と語っておられます。つまり、主なる神は、聖なる民をご自身の民として求めておられるのです。

しかし、イエス様が満ちておられる教会は、イスラエルの民よりもさらにもっと深く、聖なる神との交わりを持つものです。ですから、「あなたがたも聖なる者とならなければならない」と聖書は言っています。

ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5・27)

私たちはこの本の前の部分で、エペソの教会が使徒の時代における代表的な教会であること、また、スミルナの教会が迫害の中におかれた教会の代表であることを見てきました。それらの期間は、西暦百年から三百十六年まで続きました。そして、ペルガモの教会は、三百十六年から五百年にいたる時代の教会を代表しています。

三百十六年は、ローマ皇帝コンスタンチヌスによって、キリスト教が国の宗教として承認された年です。それが国家と教会との結びつきの始まりです。そして国家と教会との結びつきは、ひとつの結婚に、それも不幸な結婚になぞらえることができます。

三百十六年から五百年までの間に、教会はもはや迫害を受けることがなくなり、教会は外面的な平和を楽しむことができるようになりました。つまり、教会と国家との共存の時代が始まったのです。「集会」が「教会」になったのです。

ここで国家と教会との簡単な比較をしてみましょう。

国家はこの世的な権威を持っています。国家は武力を持ち、また、この世の法律に従います。国家がこの世を治めることは、しかし神のみこころなのです。

人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。・・・・それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行なうなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行なう人には怒りをもって報います。(ローマ13・1、4)

しかし、国家の支配と、イエス様の教会との間には、大きな違いがあります。国家はこの世のものであり、教会は天的なものです。教会はイエス様の支配のもとにおかれ、霊に従うものです。

「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」(マタイ13・31、32)

国家と教会とがいっしょになってしまうとき、その結果は「堕落」です。本来、どんな種よりも小さいはずのからし種が、国家と結びついて巨大なものになってしまったとき、それは不自然な状態です。

この時代、教会は国家と結びつくことによって、この世的な権力を得ました。このような結びつきがどんな結果をもたらすかについては、黙示録17章に次のように記されています。

それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。

さて、ペルガモの教会では、このような危険な結びつきの一つが始まっていたのです。今日でも私たちは、これと同じような例を多く見ることができます。つまり、ペルガモの教会も妥協と共存の危険性を持っていたのです。このような妥協を通して、ペルガモの教会では、この世に対しての明確な一線が失われてしまったのです。

2.ペルガモの教会に対するイエス様の啓示


イエス様のみことばは、いつもイエス様ご自身の啓示です。イエス様は鋭い両刃の剣を持つお方です。12節に、「また、ペルガモにある教会の御使いに書き送れ。『鋭い、両刃の剣を持つ方がこう言われる。』」と書かれてあるとおりです。

イエス様はご自身の教会に対して、「裁き主」として立っておられます。「剣」はイエス様のみことばを象徴しています。イエス様は死んだお方でも、また話すことのできないお方でもありません。イエス様は、ご自身の教会に対して語り続けておられます。

イエス様のみことばは力です。イエス様の裁きのみことばは、両刃の剣のように切り裂くものです。イエス様のみことばを通して、すべてのものは明るみに出され、はだかにされます。イエス様のみことばは、やわらげることのできない言葉です。

イエス様は、ご自身のみことばを通して、ご自身明らかになさいます。イエス様のみことばは、助けといのちをもたらすと同時に、裁きと死とをもたらします。イエス様のみことばは、解放と守りを与えると同時に、裁きを与え、滅びをもたらすみことばです。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4・12)

イエス様の武器は、ご自身のみことばです。

まことに、主が仰せられると、そのようになり、主が命じられると、それは堅く立つ。(詩篇33・9)

イエス様のみことばは、それだけで十分なものです。教会を勝利に導き、教会をあらゆる攻撃から守り通すことができます。

しかし、教会が罪と異端に傾くなら、イエス様はこのような教会を容赦なく罰せられます。イエス様が私たちを罪のなかに放置しておかれず、みことばの剣をもって目覚めさせてくださるということは、ほんとうに感謝すべきことです。イエス様は、すべての教会に対して、その教会が必要としているみことばによって、ご自身を啓示されるのです。

前に学んだエペソの教会は、すべてを所有していましたが、その根本に病を持っていました。エペソの教会は、イエス様との結びつき、つまり、初めの愛から離れてしまったのです。このエペソの教会に対してイエス様は、その教会の中、つまり、燭台の中を歩かれる大祭司としてのご自身を現わされたのです。悔い改めのある所においては、イエス様は大祭司として油をそそがれ、悔い改めのない所では、燭台を取りのけられます。

スミルナの教会は、迫害を受け、恐怖と死にさらされていた教会でした。この教会に対してイエス様は、死に打ち勝った方としてご自身を現わしておられます。イエス様は、スミルナの教会に向かって、「恐れてはいけない。死に至るまで忠実でありなさい。」と励ましておられるのです。

さて、ペルガモの教会は、外面的には証しをしながら戦っている教会でした。しかしこの教会は、外に対する戦いだけを行ない、内に対する戦いを忘れていたのです。この教会は妥協の危険にさらされていたのです。この教会に対してイエス様は、みことばの剣をもって裁かれる「裁き主」として、ご自身を現わしておられます。

3.ペルガモの教会に与えられたみことば


イエス様は、ペルガモの教会の働きや行ないについて語られる前に、まずこの教会の置かれている所について語っておられます。「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている」。イエス様はいつも私たちの状態をすべてご存知です。イエス様は、私たちが置かれている所が私たちにとって何を意味しているかをよく知っておられます。

ペルガモにある教会は悪魔的な権力の集まっているところ、つまり「高い城」でした。しかし、イエス様はこのペルガモの教会に対して、「あなたは、わたしの名を堅く保って、・・・・わたしに対する信仰を捨てなかった。」と言っておられます。この箇所は原書によると、「キリスト・イエスの名にすがりつく」とか「しがみつく」という意味になっています。「わたしの名を・・・・」、つまり「イエス様の名」という言葉には、イエス様というお方と、そのお方がなしとげられた救いのみわざの両方の意味がこめられています。イエス様の名を堅く保っている人だけが悪魔の攻撃に抵抗し、勝利することができるのです。

「また、わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます。」(マタイ10・22)

「また、わたしの名のために、家、兄弟、姉妹、父、母、子、あるいは畑を捨てた者はすべて、その幾倍もを受け、また永遠のいのちを受け継ぎます。」(マタイ19・29)

「そのとき、人々は、あなたがたを苦しいめに会わせ、殺します。また、わたしの名のために、あなたがたはすべての国の人々に憎まれます。」(マタイ24・9)

「しかし彼らは、わたしの名のゆえに、あなたがたに対してそれらのことをみな行ないます。それは彼らがわたしを遣わした方を知らないからです。」(ヨハネ15・21)

そこで、使徒たちは、御名のためにはずかしめられるに値する者とされたことを喜びながら、議会から出て行った。(使徒5・41)

「彼がわたしの名のために、どんなに苦しまなければならないかを、わたしは彼に示すつもりです。」(使徒9・16)

するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。(使徒21・13)

このバルナバとパウロは、私たちの主イエス・キリストの御名のために、いのちを投げ出した人たちです。(使徒15・26)

もしキリストの名のために非難を受けるなら、あなたがたは幸いです。なぜなら、栄光の御霊、すなわち神の御霊が、あなたがたの上にとどまってくださるからです。(第一ペテロ4・14)

「わたしは、あなたの行ないを知っている。見よ。わたしは、だれも閉じることのできない門を、あなたの前に開いておいた。なぜなら、あなたには少しばかりの力があって、わたしのことばを守り、わたしの名を否まなかったからである。」(黙示3・8)

アスキレピオスがペルガモの救主なのではなく、イエス様が彼らの救い主でした。ペルガモの教会の信者は、アスキレピオスの蛇を拝むことをしませんでした。なぜなら、その蛇の背後には「古い蛇」と呼ばれる悪魔がひそんでいたからです。

こうして、この巨大な竜、すなわち、悪魔とか、サタンとか呼ばれて、全世界を惑わす、あの古い蛇は投げ落とされた。彼は地上に投げ落とされ、彼の使いどもも彼とともに投げ落とされた。(黙示12・9)

彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、・・・・(黙示20・2)

彼らは、アスキレピオスの蛇が救いといやしとをもたらすどころか、滅びと死をもたらすものであることを知っていたのです。

ペルガモの教会の信者は、ローマの皇帝を崇めることをしないで、イエス・キリストだけを信仰し、救い主であると告白する人々でした。当時は、イエス様だけでなく、同時にほかの救い手、またほかの王を受け入れているふりさえすれば、だれも、どこからも攻撃を受けることはなかったのです。しかし、ペルガモの信者たちは、イエス様だけをすべてのものの上においていました。イエス様こそが主であり、唯一の正しい救い主であると確信し、言明していたのです。

そして、このイエス様に対する忠実さのゆえに、教会の一つの肢体が死に追いやられたのです。アンテパスはイエス様お一人を信じ通したために殺されました。アンテパスという名前は、「すべての者が一人の人に反抗している」という意味です。このアンテパスを、イエス様は「わたしの忠実な証人」と言っておられます。

黙示録1章5節には、「忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリスト」とありますが、アンテパスはここで同じように「忠実な証人」と呼ばれています。ですから、この「忠実な証人」という名前こそ、信者に対して与えられる最高の栄誉です。

アンテパスは、だれか他の権威者の証人となったのではなくて、ただイエス様だけを証ししたのです。それゆえ、アンテパスは殺されなければなりませんでした。彼は人を恐れることをせず、また苦難から逃げることもしませんでした。

私たちはイエス様を告白する者でしょうか。それともイエス様を拒む者でしょうか。もし告白しなければ、それは拒むことです。

[1]警告のみことば


2章14、15節では、イエス様は大変きびしいことを言っておられます。まず始めに、「あなたには少しばかり非難すべきことがある。」と語っておられます。しかし、「少しばかり」という言葉は決して「どうでもよい」という意味ではありません。むしろ、非常に重要なことを示しています。なぜなら、この箇所を通してイエス様は、悔い改めを勧めておられるからです。そして、悔い改めるということは、「百八十度の転換をする」ことです。

外から見ると、ペルガモの教会は、はっきりとした態度をとっていました。しかし、その内部では、偶像や悪魔の問題があまり真剣には取り扱われていませんでした。つまり、二つのことがイエス様をたいへん悲しませていたのです。一つはバラムの教えを信じている人々がいたことです。もう一つは、ニコライ派の教えを信じている人々がいたことです。

もちろん、それは、教会の全ての人々がこれらの教えを信じていたということではありません。しかし、教会はこれら異教の教えを奉じている人々の存在と教えを黙認していたのです。これがこの教会の「罪」でした。

私たちは次に、バラムの教え、ニコライ派の教えについて、少し考えてみましょう。

まず、バラムの教えとは何でしょうか。14節には、「バラムはバラクに教えて、イスラエルの人々の前に、つまずきの石を置き、偶像の神にささげた物を食べさせ、また不品行を行なわせた。」と書かれています。

バラムの物語は民数記22章から24章までに書かれています。モアブの王バラクはイスラエルから攻撃を受けました。バラク王はイスラエルの側に神がついておられることを知り、自分が無力であることを知りました。それで、バラク王は預言者バラムを自分のところへ連れてこさせました。預言者バラムは、バラク王から、呪いによってイスラエル側にある霊的な力を打ち破るように頼まれました。しかしバラムは、神がイスラエルを祝福しておられることと、来たるべき救い主についての預言を四回にわたって告げました。ところが預言者バラムは、実は二心のある人間でした。彼は、神とマモンの両方に仕えようとしたのです。バラムはイスラエルに呪いをかけることはできませんでしたが、しかし彼は自分の利益のために、イスラエルの霊的な力を打ち破るための恥ずべき助言を与えたのです。それは、モアブの娘たちをイスラエル人に近づけて偶像を拝むようにし向ければいい、という助言でした。モアブの娘たちとの結婚によってイスラエルの人々の力を失わせるようにし向けたのです。そして事実、民数記25章1節から3節にある通りになりました。

預言者バラムの助言は、「神の敵とひとつになれ」ということでした。彼の助言は、モアブとイスラエル、神とバアルとをひとつにしようとするものでした。

これによって、神の恵みが失われてしまいました。イスラエル人はモアブ人といっしょに食事をし、彼らと交際し、彼らと結婚し、ついには彼らの神々に仕えるようになったのです。異邦人とのあいだの分離が放棄され、イスラエルの民はもはや、神に選び分けられた民とは言えなくなってしまったのです。

バラムの教えは、外から見るとまったく無害で、とるに足りない小さなことに思われたのです。バラムは決して、イスラエルに大軍をさし向けたのではありません。娘たちをイスラエルにつかわしたのです。バラムはまた、モアブの祭りにイスラエル人を招待するようにすすめました。なぜなら、その祭りをともにすることによって、イスラエルの人々は偶像礼拝に誘われ、さらに不品行に誘われるようになると思ったからです。

バラムの教えは小さなものでした。しかし、それがわなだったのです。14節における「不品行を行なわせた」という言葉は、原書では「わなにかかるように誘われた」「罪に誘われた」という意味です。

その当時は、動物を偶像にささげ、その後でそれらを食べることが一般に行なわれていました。肉そのものは悪い物ではありませんが、それが偶像をあがめるために用いられている場合は、良い物であるとは言えません。

ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。(第一コリント10・14)

偶像にささげた肉を食べるだけではなく、別の不品行も行なわれていました。その当時、コリントには寺女と呼ばれる売春婦たちが千人以上もいて、その人々に「聖なる結婚」という名前のもとに不品行を行なわせていたのです。これと似たようなことを、私たちは今日、統一教会において見ることができます。そこでは不品行が「聖なること」としてとり扱われているのです。

「不品行を行なう」という場合には、二つの意味があります。イスラエルのバラムの教えには、モアブの女性と結婚するという意味と、偶像に仕えるという意味があったのです。神から離れるということは、常に神に対して姦淫を行なうことを意味しています。

十戒における第一の戒めと第六の戒めとは、お互いに密接な関係をもっています。第一の戒めは「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」とあり、第六の戒めは「姦淫してはならない」とあります。ほかの神々があってはならないということは、ほかの女性をもってはならないということと密接に関連しています。忠実であるということは、神に対してであれ、女性に対してであれ、いずれの場合においても、二心を持たないということです。自分の妻に対して忠実でない人は、神に対しても忠実ではありません。

ペルガモには、まちがったバラムの教えを奉じている人々がいました。彼らは、真の神の宮と異邦人の神の宮とのあいだに妥協の道を作ろうとしていた人々です。また神の知恵と、人の知恵のあいだに妥協の道を作ろうとしていた人々です。そして、神の言葉と人間の哲学の間に、また、教会の聖なる生活と異邦人の肉的な生活との間に妥協の道をつくろうとしていた人々です。

この人々は、教会とこの世との混合を求めていたのです。しかし、その結果、教会を毒することになったのです。もし、主を信じる心が、主を喜ばせることだけに向かっていないときには、偶像崇拝と不信仰とにつながります。

これがペルガモの教会の問題でした。しかし教会全体は教会の平和を保つために黙って忍耐するだけだったのです。教会はこの問題に対して、はっきりとした態度をとらず、中立的な態度をとったのです。

エペソの教会の場合には、人々はニコライ派のまちがった行ないに対して憎しみをもって対抗しました。また、テアテラの教会の人々は、イゼベルの行ないを忍耐しました。

そして、ペルガモの教会では、正しいグループと間違ったグループとのあいだに「平和な共存」がはかられたのです。外面的に見ると、彼らは寛容な人々でした。しかし、このような二つのグループの間で中立を保つということは、必ず不忠実のはじまりとなります。

主に対する不忠実は、しばしばもっとも忠実に見える人々の中からおこります。悪魔は非常に狡猾です。ですから全ての人々は、自分自身をよく吟味しなければなりません。

ですから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。(第一コリント10・12)

悪魔は明確な態度をとらないように、また我慢するように、そして、妥協しやすいようにしようとしているのです。

イスラエルの人々の中に、その当時、聖なるものと俗なるものとの混同が行なわれていました。そして、西暦三百十六年から五百年に至るまでの教会でも、このような混同が行なわれていたのです。キリスト教が国家宗教となり、キリスト教が高い地位を得るようになり、異邦人の神殿がキリスト教の教会に利用され、キリスト教の祭りが強制されるようになったのです。

国家と教会との結びつきができあがり、このことを通して、教会の世俗化がはじまりました。

「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです。彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。」(ヨハネ17・14~16)

イエス様は、鋭い両刃の剣を持つお方です。剣は神の言葉であり、いっしょになってはならない物を二つに分ける剣です。国家と教会も同じです。これら二つのものは、一つになれないのです。ですからこれら二つのものを区分けするために、神の言葉が必要なのです。

真の教会は、この世のものではありません。この世といっしょにされるものではありません。真の教会は、この世に対して権力をふるうものであってはならないのです。

「真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。」(ヨハネ17・17)

聖めることとは、聖別されることです。聖別はただ真理を通して与えられます。そして真理とは、神の言葉です。この世と結びつくことは、姦淫になるのです。

貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4・4)

この世の神は悪魔です。したがって、この世と結びつくこと、この世といっしょになることは、悪魔と結びつくことになります。

世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(第一ヨハネ2・15、16)

というのは、肉の思いは神に対して反抗するものだからです。(ローマ8・7)

この世とのはっきりとした分離が必要であることを知らない人は、すなわち、バラムの教えを信じる人です。

しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。(ガラテヤ6.・14)

次に第二番目のニコライ派の教えについて考えてみましょう。

ペルガモの教会の中にはまた、ニコライの教えを奉じている人々がいました。前に学んだエペソの教会の中にも、このニコライ派の人々がいました。しかし、エペソの教会では、ニコライ派の人々の行ないはありましたが、ペルガモの教会のように「ニコライ派の教えを奉じる人々」がいるまでには至っていなかったのです。エペソの教会の人々は、ニコライ派の行ないを主が憎まれるように憎む心があったのです。

ニコライ派という意味は、国民の支配者という意味です。ニコライ派の人々は平信徒と聖職者のあいだに区別をもうけたのですが、それによって万人祭司制が無視されたのです。

ペルガモの教会においては、ニコライ派が唱えた階級制を主が作り出されたかのように誤って説かれ、それを奉じる人々がいたのです。

真の主のみからだである教会は、けっして牧師や監督や法制によって導かれるものではなく、直接、聖霊の導きを受けるものです。

後に、人間的な祭司制度をとる人々が、この制度に従おうとしない信者たちを迫害するようになりました。このことによって、多くの信者たちが組織された教会の迫害を受け、そして殺されたのです。

しかし、ペルガモの教会は、はっきりとした態度をとることをしませんでした。これこそ、非常に危険なことです。パウロはいつもはっきりとした態度をとった人でした。

しかし、私たちであろうと、天の御使いであろうと、もし私たちが宣べ伝えた福音に反することをあなたがたに宣べ伝えるなら、その者はのろわれるべきです。(ガラテヤ1・8)

この言葉は、間違った教えに対する寛容さを許さず、間違った教えに対して、はっきりとした分離を宣言するものです。

ペルガモの教会では、大部分の信者の良い行ないが、少数の信者のまちがった行ないによって、打ち消されてしまったのです。

あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。(第一コリント5・6)

イエス様はこのような教会に向かって悔い改めを求めておられます。イエス様は、「悔い改めて自分の債務のもとにへりくだり、妥協をしようとする人々に対して抵抗し、わたしの憎んでいるわざを憎みなさい」と言っておられます。

多くの信者たちが霊的な復興のために祈っています。それはたいへん大切なことです。そしていま述べたことは、この霊的な復興のための道です。悔い改めをし、はっきりとした態度をとり、妥協を排すれば、豊かな祝福が私たちの上にくだるのです。

イエス様はたしかに、ペルガモの教会の外面的な証しを喜ばれましたが、その教会内の誤った教えへの沈黙を喜ばれることができなかったのです。

そして、イエス様の非難のあとに、悔い改めに対する要求が続いています。イエス様は裁かれるだけではなく、悔い改めを求めておられます。非難の言葉のあとに悔い改めの求めが続いています。しかし、もし悔い改めがなければ、イエス様の次のような恐るべき言葉が待っています。

「だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。」(黙示2・16)

イエス様の忠告と悔い改めのみことばを受け入れる者は、イエス様のみことばである剣によって解放されますが、悔い改めようとしない者に対しては、イエス様のみことばがその人に裁きをもたらすものとなるのです。

かつて繁栄し「高い城」と呼ばれたペルガモの町は、やがてモハメッド教の小さな町となりはててしまいました。ペルガモの教会が悔い改めをしなかったために、イエス様はご自身のみことばである剣をもって、怒りをこの教会と町にもたらされたのです。

ここでは平和の神であるイエス様が、戦いの宣言をしておられます。イエス様の戦いの宣言は、この世との妥協を行なう人々に対して向けられています。その宣言は、一つにはバラムの教えを奉じている人々に向かってなされました。これらの人々は、主なる神に対する忠実さを失い、神に対して姦淫を犯した人々でした。さらに、イエス様の戦いの宣言は、ニコライ派の教えから離れない人々に対しても行なわれました。ペルガモの教会の信者たちは、しばしば主の憎まれるものを憎むことをしなかったのです。

イエス様は、「悔い改めることをしない人は、みことばの剣によって裁かれる」と忠告しておられるのです。

[2]約束のみことば


もし私たちが、神のみことばによってこの世と分離するなら、それが私たちの救いになります。みことばによるきよめの後には、必ず祝福がともないます。

17節に「耳のある者は御霊が諸教会に言われることを聞きなさい。」とありますが、このことによってのみ、私たちは救いを受けることができるのです。

私たちは、イエス様のみことばを聞く用意ができているでしょうか。正しく聞くということは、悔い改めをし、そして神のみことばに従うということです。私たちがもし危険を見抜き、いっさいの妥協を退けることができるなら、私たちは幸いです。

イエス様は勝利を得た者に対して三つのことを約束しておられます。勝利を得るということの意味は、悔い改めをするということ、服従するということ、そして、イエス様のみこころに対していっさいの妥協を排して従う、ということです。

第一の約束は、「隠れたマナ」です。

隠れたマナを食べるということは、イエス様との完全な交わりを持つ、ということです。イエス様ご自身が、この隠れたマナです。

「・・・・というのは、神のパンは天から下って来て、世にいのちを与えるものだからです。」そこで彼らはイエスに言った。「主よ。いつもそのパンを私たちにお与えください。」(ヨハネ6・33、34)

「わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。」(ヨハネ6・38)

「わたしはいのちのパンです。・・・・わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。またわたしが与えようとするパンは、世のいのちのための、わたしの肉です。・・・・わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。わたしは終わりの日にその人をよみがえらせます。わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物だからです。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしも彼のうちにとどまります。生ける父がわたしを遣わし、わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。これは、天から下って来たパンです。あなたがたの先祖が食べて死んだようなものではありません。このパンを食べる者は永遠に生きます。」(ヨハネ6・48、51、54~58)

隠れたマナであるイエス様は、すでに来られたお方であり、常に臨在しておられるお方であり、そして、やがて来ようとしておられるお方です。イスラエルの民が荒野でマナによって養われたように、私たちもまたイエス様との交わりによって完全な満足を得なければなりません。

勝利を得る者とは、この世のあらゆる偶像との食事を拒絶して、イエス様の隠れたマナを食する者です。これによって、彼らはイエス様との交わりを持ち、そして真の満足を得るのです。

第二の約束は、「白い石」です。

この白い石にはいろいろな意味があります。その昔、裁判では、黒い石は有罪を意味し、白い石は無罪を意味しました。また昔のオリンピックの勝利者には、冠のほかに自分の名前を刻んだ白い石が与えられました。ですからこの白い石は勝利のしるしでした。

17節にある白い石は、主なる神のみこころを満足させたということ、イエス様への忠実さが認められたということを意味しています。ここで私たちは、あらゆる迫害のさなかにあっても、イエス様が私たちを顧み、私たちのそばにいてくださるということを知ることができるのです。

第三番目の約束は、「新しい名前」です。

「新しい」という言葉が黙示録の中で出てくるのは、この部分が初めてです。黙示録の後のところでは、「新しい歌」とか「新しいエルサレム」とか「新しい天」という言葉が次々とでてきます。

「新しい」という言葉は、創造者である神のまったく新しい行為を意味しています。お互いに愛しあっている人々のあいだには、二人の間でしか通用しない名前を呼びあうことがあります。この「新しい名前」とは、イエス様と勝利を得た者との間の密接な関係を表わしています。誰からもさまたげられることのない、イエス様との交わりを意味しています。イエス様は二度までも「わたしが与える」と言っておられます。そしてイエス様は、私たちに向かっても「わたしが与える」と言っておられます。問題は、私たちがそれを受ける用意があるかどうかということです。

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