2022年8月14日日曜日

神の麦打ち場

神の麦打ち場
2022年8月14日、秋田福音集会
翻訳虫

ルカ
3:16 ヨハネはみなに答えて言った。「私は水であなたがたにバプテスマを授けています。しかし、私よりもさらに力のある方がおいでになります。私などは、その方のくつのひもを解く値うちもありません。その方は、あなたがたに聖霊と火とのバプテスマをお授けになります。
3:17 また手にを持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。」

はじめに


今、読んだ箇所の最後に脱穀場ということばが出てきました。

脱穀というのは、収穫した米や麦を乾燥させた後、もみ殻などのいらない部分を取り除け、人間が食べる実だけを集めることを指します。

私は田んぼで囲まれた新潟県の田舎で育ったので、あぜ道に刈り取った稲を干している風景はとても懐かしいものです。今は完全に機械化されていると思いますが、私が子供のころ、古い農家で、千歯扱せんばこきと言う鉄でできた大きなクシのような道具を見たことがあります。



この鉄の歯のあいだに稲の穂先を入れて引き抜くと、米の詰まった籾だけが落ちるというものでした。この外見が何か非常に恐ろしく、昔の拷問具のように見えたことを覚えております。

さて、聖書の時代にも、脱穀が行われました。はじめに読んでいただいた箇所では『脱穀場』と呼ばれており、旧約聖書では、『麦打ち場』とか、『打ち場』となっていますが、元の言葉は同じものです。

その頃の脱穀というのは、平らで固い地面に刈り取った麦の穂を敷き詰め、棒でたたいたり、または、その上に牛を歩かせて、藁やもみ殻を分けていたそうです。これを行う場所が打ち場でした。



この絵にもありますが、大きなフォークのようなもので穂を持ち上げて振ると、殻が飛ばされて、麦の実だけが残ります。この道具が、ヨハネの『手に箕を持って』という言葉にある『箕』と呼ばれるものです。

そして、地面に落ちた麦を集めて倉に納め、あとに残った殻は火で燃やすという形で収穫が行われていました。

旧約聖書には、何かの出来事の舞台として、この麦打ち場が繰り返し現れますが、これは、その出来事に関連した御心を象徴する場として用いられているのではないかと思います。

本日は、まず、聖書に現れる打ち場の例をふたつ見ながら、その意味について、考えてみたいと思います。

オルナンの打ち場


はじめに、オルナンの打ち場と呼ばれる出来事をみてみます。これはダビデ王が、自分の高慢から神の戒めを破り、その罪が打ち場で明らかにされるという話であります。

第一歴代誌
21:1 ここに、サタンがイスラエルに逆らって立ち、ダビデを誘い込んで、イスラエルの人口を数えさせた。

イスラエルの王、ダビデは自分の王国の大きさを誇りたいと言う思いに駆られて、人口調査を命じました。これは、神のみ心に反する行為でした。そして、このためにダビデは神の怒りを受けることになりました。

第一歴代誌
21:7 この命令で、王は神のみこころをそこなった。神はイスラエルを打たれた。
21:8 そこで、ダビデは神に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」

しかし、ダビデが犯したそむきの罪に対して、主は次のように言われました。

第一歴代誌
21:10 ・・・・『主はこう仰せられる。わたしがあなたに出す三つのことがある。そのうち一つを選べ。わたしはあなたのためにそれをしよう。』

神は、三つの罰のうちから一つを選ぶように迫りました。その三つとは、三年間のききん、三か月間に渡る敵の攻撃、あるいは、三日間、疫病が広まって国民が苦しめられると言う、いずれも非常に恐ろしい罰でした。

ダビデは、この問いに対して、疫病を選択しました。

第一歴代誌
21:14 すると、主はイスラエルに疫病を下されたので、イスラエルのうち七万の人が倒れた。
21:15 神はエルサレムに御使いを遣わして、これを滅ぼそうとされた。主は御使いが滅ぼしているのをご覧になって、わざわいを下すことを思い直し、滅ぼしている御使いに仰せられた。「もう十分だ。あなたの手を引け。」主の使いは、エブス人オルナンの打ち場のかたわらに立っていた。

この御使いが現れたのが、オルナンという農夫の打ち場、すなわち、脱穀場でした。自分の罪のために、民が疫病で苦しむのを見たダビデは、この打ち場で初めて、赦しを求める言葉を発します。

第一歴代誌
21:17 ダビデは神に言った。「民を数えよと命じたのは私ではありませんか。罪を犯したのは、はなはだしい悪を行なったのは、この私です。この羊の群れがいったい何をしたというのでしょう。わが神、主よ。どうか、あなたの御手を、私と私の一家に下してください。あなたの民は、疫病に渡さないでください。」

はじめに自分が大きな罪を犯したことは認めながらも、ダビデは、「あなたのしもべの咎を見のがしてください」と、自分に対する罰を回避しようと試みただけでなく、神からの問いに対して、民が疫病で苦しむことを選択しています。この時点では、ダビデの悔い改めは口先だけで、本当に心からのものではなかったと言えます。

しかし、17節でダビデは、『悪を行なったのは私です』とうったえ、罰を『私と私の一家に下してください』と懇願するようになりました。ここで初めて、真心からなる悔い改めの言葉を口にしたことになります。

第一歴代誌
21:20 オルナンが振り返ると御使いが見えた。彼とともにいた彼の四人の子は身を隠し、オルナンは小麦の打穀をしていた。

この出来事が、麦打ち場で終わったことは、決して、偶然ではなく、ダビデの信仰が、麦の穂のように打ちたかれて、偽りの悔い改めという殻が取り除かれたことを象徴していたのではないかと思います。

打穀場とは、霊的な歩みの中で、打ち付けられ、踏みつけられることによって、心から混じり物が取り除かれ、実だけが残されるきよめの場所であると言えるのではないでしょうか。

ウザの例 裁きの場


打ち場で起こされた出来事の二つ目の例を見てみます。

今、述べましたように、オルナンの打ち場は、人の心が神の霊によってきよめられる場となりました。しかし、打ち場には他の側面もあります。それは、麦の穂がふるい分けられて、殻が焼き尽くされる裁きの場でもあるという面です。

その例を、同じ第一歴代誌から見てみたいと思います。やはり、発端はダビデが国民に対して発したこのことばでした。

第一歴代誌
13:3 私たちの神の箱を私たちのもとに持ち帰ろう。私たちは、サウルの時代には、これを顧みなかったから。

この少し前の部分で、ダビデは、宿敵であったペリシテ人との戦いに勝利し、神の契約の箱を取り戻しました。ダビデは、この箱をエルサレムまで運ぶことを宣言します。

第一歴代誌
13:6 ダビデと全イスラエルは、バアラ、すなわち、ユダに属するキルヤテ・エアリムに上って行き、そこから、「ケルビムに座しておられる主。」と呼ばれていた神の箱を運び上ろうとした。
13:7 そこで彼らはアビナダブの家から神の箱を新しい車に載せた。ウザとアフヨがその車を御していた。

この箱は神の臨在を表すもので、ユダヤ人にとって非常に大切なものであり、神の箱を動かすときには、細かいところまで定められた手順がありました。しかし、勝利に酔っていたダビデの一行は、この神の指示に従うことを忘れてしまいます。そして、一団が打ち場を通った時、事件が起こりました。

第一歴代誌
13:9 こうして彼らがキドンの打ち場まで来たとき、ウザは手を伸ばして、箱を押えた。牛がそれをひっくり返しそうになったからである。
13:10 すると、主の怒りがウザに向かって燃え上がり、彼を打った。彼が手を箱に伸べたからである。彼はその場で神の前に死んだ。

ここを読むと、ウザは箱が落ちないようにととっさに手を差し伸べただけのように見えます。しかし、この行動に神は怒りを燃やし、その結果、ウザは神に打たれました。

このウザに対するさばきは非常に厳しいものであり、この箇所を読めば、誰もが戦慄し、恐れを抱くのではないでしょうか。

ここで裁かれたのは、神への信頼ではないかと思います。神は無限の愛と慈しみを持った方であることは確かです。しかし、同時に人間の心には及びもつかないほど聖なる方でもあられます。

9節を見ると、牛がその箱を『ひっくり返しそうになった』とあるだけで、実際にその箱が落ちたわけではありません。しかし、ウザは、その瞬間、箱が落ちそうになっている、神が失敗しそうになっており、自分が介入しなければ、神の完全さが損なわれると考えてしまったのであります。ウザは、そのために恐ろしい罰を受けました。

さて、この出来事が起こったのが、やはり、打ち場でした。打ち場は、殻が麦の穂から取り去られる場所であります。その打ち場で、不信仰のむくいとしてウザが滅ぼされたこともまた象徴的であったと言えます。

たとえ、人間の行動が神への愛から出たものであっても、その中に神の完全さに対する絶対的な信頼が欠けていれば、主の裁きが下されることが、このキドンの打ち場の出来事を通して示されたのではないかと思います。

信者にとっての脱穀場の意味


神の麦打ち場で行われた出来事の二つの例を見てまいりました。

ここで、はじめに読んだ、ヨハネの言葉に戻ってみます。これから来られるイエス様が行おうとしていることを説明して、バプテスマのヨハネは次のように言いました。

ルカ
3:17 手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめ、麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くされます。

ヨハネの言葉にあるこの脱穀場とは、あきらかにこれから主イエス様が、救いの働きをされる地上の世界を指しています。

そしてその脱穀所をきよめられる中で、主は二つのことを行われる、すなわち、第一に、『麦を倉に納め』、そして、あとに残された『殻を焼き尽くす』とあります。旧約聖書の時代に麦打ち場で起こった二つの出来事は、この二つのことと結びつけて考えることができます。すなわち、ダビデに対して行われたきよめと、ウザに対してくだされたさばきであります。

イエス様はまず、『麦を倉に納め』るとあります。オルナンの打ち場で起こったことは、ダビデから麦の実、すなわち、真の信仰を取り出して、倉である天の御国に納めるきよめの働きに当たります。

ところで、この脱穀という仕事には、ふたつの面があります。麦の実のほうを見れば、これは不純物が取り去られるきよめの過程であります。一方、茎やもみ殻などからすれば、不要な部分とされて、火で焼かれる場ということになります。

ウザは打ち場で神の裁きを受け、神の御心に沿わないもの、すなわち、殻として切り離され、そして、ヨハネの言葉を借りれば、『消えない火で焼き尽くされ』たと言えるのではないでしょうか。

新約聖書におけるきよめとさばき


では、地上に来られたイエス様が、『手に箕を持って脱穀場をことごとくきよめる』、そして、『麦を倉に納め、殻を火で焼き尽くされ』るありますが、具体的に、どのようなことが行われるのでしょうか?

(1)きよめ


はじめに、『麦を倉に納め』るとありますように、主は人の心をきよめ、実だけを取り出してくださいます。その例として、ペテロに対して語られたことばをお読みします。

ルカ
22:31 シモン、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。

敵であるサタンは、麦である人間が主に対する信頼を失うことを願い、そのために、穀物をふるいにかけるように、攻撃をしかけてきます。ペテロに対しても、サタンはその心を主から引き離そうとして、激しく揺すったのであります。

ルカ
22:32 しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。

麦打ち場の主であるイエス様は、ペテロが誘惑が受けるあいだも、ペテロのために祈り、とりなしをしてくださいました。実際に、ペテロは、主に対する信仰を失いかけましたが、その試練をくぐり抜けました。

私たちに対しても、神は時に、たたきつけられ、ふるいにかけることを許されます。しかし、そのあいだも収穫の主であるイエス様は、私たちの信仰心がなくならないよう祈ってくださることが、この御言葉に示されています。

(2)さばき


しかし、その一方で、穂についていた殻は、消えない火で焼き尽くされるとあります。キリストは、罪をきよめてくださる救い主であると同時に、裁き主でもあります。

『麦を倉に納め、殻を消えない火で焼き尽くす』と言うことばには、み言葉を疑うことなく信じて受け入れるもの、すなわち、麦と、救いを拒むものである殻の運命がはっきりわかれることが告げられているのではないかと思います。

ウザに対するさばきは、非常に厳しいものでした。

今、私たちが生きている世界、そして、これから来る時代において、真の信仰を失った教会や信者に対しても、主が厳しい裁きを下されることは、聖書の最後の書である黙示録の中で繰り返し語られています。

例えば、偶像崇拝に傾きかけたペルガモの教会や、欺瞞に陥っていたラオデキヤの教会に対して、主は次のように言われました。

黙示録
2:16 だから、悔い改めなさい。もしそうしないなら、わたしは、すぐにあなたのところに行き、わたしの口の剣をもって彼らと戦おう。

3:16 このように、あなたはなまぬるく、熱くも冷たくもないので、わたしの口からあなたを吐き出そう。

主は、悔い改めを拒むものとは、ご自身の口の剣をもって戦われる、そして、殻が捨てられるように、ご自身の口から吐き出してしまうと言われています。

最後に、黙示録の終わりに近い部分から、同じような厳しい警告のみ言葉をお読みします。これは、ふたたび地上に来られる主イエス様が行われることを預言した言葉であります。

黙示録
19:15 この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。

主の口から、鋭い剣が出ているという、このみ言葉を読んだ時、私の頭の中には、子供のころ見たおそろしい千歯扱きの姿が浮かびました。

ベックさんは、『すぐに起こるはずのこと』の中で、この節について、終わりの時に至っても、不正や不義を働く者たちに対して、世界の裁き主がご自身で戦われる。そして、神の恵みを受け入れない人々には、容赦ないさばきをくだされると説明されています。

私たちも今、自分がきよめとさばきが行われる神の打ち場に置かれていること、そして、きよめを受け入れることを拒めば、殻として火の燃える炉に投げ込まれる可能性があることを心に留めておくべきなのではないかと思います。

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