2022年5月13日金曜日

絶えず祈れ[18]「祈る教会」の力

絶えず祈れ(下巻)
ゴットホルド・ベック著
[18]「祈る教会」の力

釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。『なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。』事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもベイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもベイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。」彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・23~31)

「祈る教会の力」、これがこの章のテーマです。

初代教会は「祈る教会」でした。あなたはイエス様を信じるひとびとの群れのなかで、主の御力、主のご栄光があきらかに現わされたことを体験したことがあるでしょうか。あなたがそれを体験したのなら、私はそれがどうしてそうなったのかを言いあてることができます。その信者の群れのなかに、真剣に祈ったひとびとがいたからです。神の力は、ただ「祈る教会」の中だけにあきらかにしめされるのです。

はじめに引用した聖句のなかで、とくにたいせつなところを、もういちどよく見てみましょう。

釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」(使徒4・23、24)

この聖句は、初代教会のひとびとがいかに祈ったかを私たちに示しています。私たちがおなじように祈ると、おなじことを体験することができます。ここではとくに、「ともに祈ることのたいせつさ」が強調されています。

日曜日の礼拝にでれば自分の義務をはたしたと思っている信者がいます。これらのひとびとは、祈り会がそれほどたいせつであるとは思っていません。しかし、それはたいへんな考えちがいです。もちろん多くのご婦人がたにとっては、夜に開かれる祈り会にでることは不可能です。とくに夫がまだ主を信じていないばあいはひじょうにむずかしいことです。ですから婦人がたが、ときにおうじていろいろなところで祈りのために集まり、おたがいにひざをかがめて祈ることはたいへんいいことです。

現代はたいへん困難な時代です。しかし、過去の時代もまた、多くの困難がありました。イエス様を信じる者たちは、いつの時代にもたいへんな困難を経験しました。そして多くの信者は、信仰のゆえに命を失いました。

現代の教会や集会は、多くの問題に直面しています。

どうすれば神からとおくはなれているひとびとがイエス様に出会い、救われることができるでしょうか。どうすれば私たちのご奉仕をとおしてまことの実が結ばれるのでしょうか。どうすれば信者が成長し、どうすれば教会や集会の責任を負うことができるようになるのでしょうか。どうすれば必要な資金が調達されるのでしょうか。どうすれば分裂している信者たちが一致するようになるのでしょうか。問題につぐ問題です。しかもこれらは、多くの問題のうちの、ほんのひとにぎりにすぎないのです。

これらの多くの問題の根本にある原因はただひとつ、「祈り」があまりにも少ないことにあります。主にあるひとびとがこころをひとつにして集まり、主の御名を呼び求め、祈り、大きなことを主に期待するなら、これらの問題はひとりでに解決されます。

教会や集会が「祈る教会」になるとき、のりこえることができなかった困難は消えてなくなり、障害物はとりさられ、奇蹟がつぎつぎと経験されるようになります。「祈る教会」は、やがて「生かされた教会」になります。「祈り」は「存在しているいのちの現われ」です。

祈りは、主をあがめる真の原動力となります。祈りは、主へのご奉仕の真の源泉となります。つきつめていうと、どんな教会にも、どんな集会にも、ただひとつの問題があります。「祈りがたりない」ことです。ですから、すべての信者が、主のまえにともに祈って悔い改めなければなりません。教会は「祈る教会」とならなければなりません。

その後、神である主は、土地のちりで入を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。

そこで、人は、生きものとなった。(創世記2・7)

万物の造り主である主が、アダムに息を吹きこまれてからというもの、人間は空気を呼吸することが必要になりました。空気がなければ人間は生きていけません。空気は酸素と窒素からできていますが、酸素を人工的に供給する技術が化学者によって確立してからは、人工呼吸法によって多くの病人の命が救われるようになりました。患者が自力で呼吸できない状態におちいっても、人工的に酸素を供給することによって、生命を維持することが可能になったのです。もちろん、この人工呼吸装置を停止すると、患者はすぐに死んでしまいます。

こんにち、世にある多くの教会は、いきいきしたところがなく、なまぬるく、力つきはてています。よく「この教会は死んでいる」と言われます。というのは、真のいのちのしるしがほとんど見られないからです。全能である主のはたらきがまったく見られないからです。主のご臨在も、主からの啓示も、そこにはまったく見ることができません。

霊的な酸素は聖霊です。この聖霊が働かれるために、ほんのすこしの余地もあたえられていないとしたら、すべてのいのちがなくなり、おとろえるのはとうぜんです。しかし聖霊が働かれる余地があれば、ひとびとは祈らざるをえなくなります。そしてひとびとが祈るところでは、主のいのちがいきいきと現われ、信者たちは活気と活力にあふれることを体験します。

教会が「祈る教会」でなければ、霊的な実は生まれません。どれほど多くのひとびとが教会につどったとしても、どれほど信者たちがけんめいにがんばったとしても、どれほど熱心に主のためにご奉仕したとしても、教会が「祈る教会」でなければ、霊的な実を結ぶことはできません。主が祝福してくださらないなら、すべての努力はむなしい結果におわります。主が祝福してくださらないなら、私たちはやめたほうがいいでしょう。そして主は、私たちがこころをひとつにして集まり、主の御名を呼び求め、真剣に祈るときにだけ、祝福してくださいます。

では、「祈る教会」の特徴とはなんでしょうか。使徒の働き4章の23節から37節までに、七つの答えが私たちにあたえられています。

1.祈りの重要性がみとめられていること
2.信仰の目は期待に満ちて主に向けられていること
3.この世をべつの目で見ること
4.しるしと奇蹟をこころから待ち望むこと
5.聖霊が主イエス様を啓示なさること
6.神のみことばが力づよく宣べ伝えられること
7.大きな恵みが現わされること

1.祈りの重要性がみとめられていること


「祈る教会」の第一の特徴は、「祈りの重要性がみとめられている」ことです。つまり、自発的に祈りたいという要求が強く存在していることです。

ペテロとヨハネは牢獄に投げこまれました。なぜならかれらは、妥協しないで主に従い、どのような状況にあってもイエス様の福音を宣べ伝える決心をしていたからです。釈放されたあと、かれらはほかの信者たちのところにいそぎました。そして自分たちが体験したことを報告しました。もういちど23節を読んでみましょう。

釈放されたふたりは、仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちが彼らに言ったことを残らず報告した。(使徒4・23)

エルサレムの教会の信者たちは、ペテロとヨハネが体験したことを聞いたとき、どのようなことをしたのでしょうか。つぎの24節を見てみましょう。

これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」(使徒4・24)

かれらは祈ることがいかにたいせつであるかを確信していました。ですからかれらはすぐ、自発的に祈りはじめたのです。かれらはそうせざるをえなかったのです。かれらは主をほめたたえ、主に自分たちの願いをうちあけました。

信者たちが祈ることの重要性を信じていず、自発的な祈りの要求をもっていないとすれば、とうぜん、まわりのひとびとは救われず、主が祈りを聞きとどけてくださるかただと信じることはありえません。私たちがこころをひとつにして、真剣に、忍耐強く主のみまえに立ちつづけ、祈りつづけるときにのみ、あふれるばかりの祝福がながれでるくだになるのです。そして、そのときにだけ、主のみこころが実現されます。

2.信仰の目は期待に満ちて主に向けられていること


「祈る教会」の特徴の第二番目は、「信仰の目は期待に満ちて主だけに向けられていること」です。「祈る教会」の信者たちは、「主にだけ信頼したい」という自発的な決心によって特徴づけられています。

これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。・・・・」(使徒4・24)

つまりかれらは、人間から目をそらし、現在の困った状態から目をそらし、ただ主だけを見あげていたのです。かれらが見あげた主は、あらゆる悩みを克服してくださり、どんな状況をも完全に支配してくださるおかたです。かれらの態度はまた、ダビデが詩篇に書きのこした態度でもありました。

神こそ、わが岩。わが救い。わがやぐら。私はゆるがされることはない。(詩篇62・6)

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の望みは神から来るからだ。(詩篇62・5)

私たちがどのような苦しみのなかにおかれようとも、私たちがどのような問題に直面しようとも、私たちがどのような攻撃を悪魔から受けようとも、ただひとつたいせつなのは、私たちと主とのむすびつきです。私たちと主との交わりです。そしてまた、「私たちのなかで、私たちをとおして、主のみこころだけが行なわれますように」という私たちのこころからの願いです。そのとき主はぞんぶんに働くことができ、全能の力を現わすことがおできになるのです。

私たちがおかれる状況は、ときとしてまったく絶望的で、めちゃくちゃで、なぐさめようがないように見えるかもしれません。しかしそういう状態から目をそらし、主を見あげる者は、主のご臨在を、ご栄光を、あきらかに経験することができます。「祈る教会」の目は、はっきりと主だけに向けられています。ではつぎに、私たちが見あげる主とはどういうおかたなのかを、ごいっしょに考えてみましょう。

・主は「主権者」である
・主は「ご自身を啓示なさる」おかたである
・主は「すべてをごらんになる」おかたである

この三つは、私たちにとって非常にたいせつなことです。つまり、すべてを御手におさめておられる「主権者」である主を見あげること、「ご自身を啓示」なさり、おやくそくをすべて成就なさる主を見あげること、そして「すべてをごらんになる」主を見あげることです。

・主は「主権者」である


24節と28節を見ると、主がいかにおおいなる支配者、また主権者であられるかがわかります。

これを聞いた人々はみな、心を一つにして、神に向かい、声を上げて言った。「主よ。あなたは天と地と海とその中のすべてのものを造られた方です。」(使徒4・24)

あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。(使徒4・28)

そして初代教会の信者たちは、このことをよく認識して祈りに専念したのです。主権者である主をあおぎ見ることは非常にたいせつです。

・主は「ご自身を啓示なさる」おかたである


つぎに、主は「ご自身を啓示なさる」おかたです。この「ご自身を啓示なさる」主をあおぎ見ることはたいせつです。25節を見ると、そのころの信者たちが旧約聖書の預言を思いだし、また、主がかつてなさったことを思いだしながら祈ったことがわかります。

あなたは、聖霊によって、あなたのしもべであり私たちの先祖であるダビデの口を通して、こう言われました。「なぜ異邦人たちは騒ぎ立ち、もろもろの民はむなしいことを計るのか。」(使徒4・25)

そして、26節から28節を見ると、主が御子イエス・キリストや預言者をとおしてどのようにご自身を啓示なさったか、初代教会の信者たちが、主にどれだけより頼み、信仰を守りとおしたかがわかります。

「地の王たちは立ち上がり、指導者たちは、主とキリストに反抗して、一つに組んだ。」事実、ヘロデとポンテオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民といっしょに、あなたが油を注がれた、あなたの聖なるしもベイエスに逆らってこの都に集まり、あなたの御手とみこころによって、あらかじめお定めになったことを行ないました。(使徒4・26~28)

・主は「すべてをごらんになる」おかたである


それから、三番めに、「すべてをごらんになる」主を見あげることです。

当時の信者たちは、主にたいして、つぎのように語りかけました。

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒4・29)

「あなたのしもべたちにみことばをだいたんに語らせてください」。そのころの信者たちは、自分たちの苦しみを見ようとはしませんでした。支配者の力も見ようとはしませんでした。ペテロとヨハネがふたたび、つかまえられるという可能性、危険性をも見ようとはしませんでした。かれらはこころをひとつにして、主が関与してくださり、不可能なことを可能にしてくださることを期待しながら、主の御名を呼び求めたのです。

私たちがおなじように行動するとき、なにが起きるのでしょうか。

私たちには解決できない問題が、たくさんあります。しかし主は、私たちがこころをひとつにして主の御名を呼び求め、主のまえに立って、主がこたえてくださるまで祈りつづけることを待っておられます。

3.この世をべつの目で見ること


「祈る教会」の特徴の三番めは、「この世をべつの目で見ること」です。つまり、イエス様のことを知らずにほろびに向かうひとびとに福音を宣べ伝えたいという自発的な願望をもち、この世を福音をつたえる対象として見ることが、信者たちの特徴となっていることです。つぎの29節は「大きな挑戦」です。

主よ。いま彼らの脅かしをご覧になり、あなたのしもべたちにみことばを大胆に語らせてください。(使徒4・29)

初代教会のひとびとは、ペテロとヨハネが釈放されたという奇蹟を見て、ともに主を賛美しました。その賛美はつぎのような願いへと進んでいったでしょうか。「おお主よ。どうかペテロとヨハネをお守りください。二度とかれらがとらえられないようにしてください」。いいえ。決してそうではありません。かれらの願いはべつのことに向かっていったのです。「主よ。私たちがいままでよりももっとだいたんに福音を宣べ伝えることができるようにしてください」と。

また、かれらは決して、次のようにも願い求めませんでした。「主よ。こんなおそろしいことはもうなさらないでください。二度とこんなことが起こらないようにしてください」。そうではなく、かれらのこころからの叫びはつぎのようなものでした。「あなたのしもべたちにみことばをだいたんに語る力をあたえてください」。

これこそが「祈る教会」の最大の願いであり、特徴です。

なによりもたいせつなことは、「多くの失われたたましいが救い主の福音を聞くこと」です。ひとりでも多くのかたがたにイエス様のことが宣べ伝えられることです。イエス様をまだご存じないかたがたは、一日もはやく、ひとりでも多く、イエス様の救いに導かれなければなりません。この願いが信者のこころを満たしていないようなら、そのひとの信仰生活は主によろこばれることができません。

現代の教会や集会は、失われているたましいをイエス様のみもとに導くことが、こころからの願いになっているでしょうか。失われているたましいを暗闇からイエス様の光のなかへ導くことが、こころからの願いになっているでしょうか。それとも私たちは、福音を宣べ伝えるよりも「組織づくり」をしたいのでしょうか。「会員をふやしたい」のでしょうか。たいせつなことは、ひとびとが「教えを受ける」ことではなく、主イエス様を「知り」、イエス様との交わりにはいることです。

「祈る教会」の特徴とは、どんな犠牲をはらってでもひとびとを主イエス様のみもとに導きたい、どんな代価をはらっても絶望しているひとびとに福音を宣べ伝えたい、イエス様を知らせたいと望んでいるひとびとの群れであることです。

4.しるしと奇蹟をこころから待ち望むこと


「祈る教会」の四番めの特徴は「しるしと奇蹟をこころから待ち望むこと」です。しるしと奇蹟を願い求めて自発的に祈り、それを経験することは「祈る教会」の信者たちの特徴です。

聖書は、真剣な祈りがなされるところでは、主がかならず奇蹟を現わしてくださると、はっきりしるしています。祈りにたいする主からのお答えはすべて、私たちには理解できない奇蹟です。私たちが真剣に祈るならば、主は大きなみわざをもってこたえてくださいます。エルサレムの初代教会の信者たちも、おなじことを経験したのでした。

御手を伸ばしていやしを行なわせ、あなたの聖なるしもベイエスの御名によって、しるしと不思議なわざを行なわせてください。(使徒4・30)

この祈りは聞きとどけられたでしょうか。たしかに聞きとどけられました。主は奇蹟をなしてくださいました。

よく「奇蹟のときはすぎさった」、つまり、現代ではもはや奇蹟は起こりえない、と言うひとびとがいます。しかしこれは大きなあやまりです。私たちの祈りにたいする主のお答えは、すべてが神の奇蹟なのです。主が行動してくださるから、こんにちもなお奇蹟が起きるのです。

四つの福音書と使徒の働きのなかで、私たちは多くのしるしと奇蹟について読むことができます。主イエス様がたしかに約束された救い主であり、イエス様の弟子たちがほんとうの弟子たちであることを証明するために、多くの奇蹟が行なわれました。ですから、使徒の時代はしるしと奇蹟の時代だったのです。では、私たちの時代はどうでしょうか。私たちの時代は、次のみことばによって特徴づけられています。

確かに、私たちは見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。(第一コリント5・7)

たしかに私たちは、見るところによってではなく、信仰によって歩んでいます。主は私たちを、「あらゆる苦しみから奇蹟をとおして解放したい」と思っておられるのではなく、「あらゆる苦しみにもかかわらず私たちをたかめ、強め、それによって主に近づけたい」と願っておられるのです。しかし、もし主が私たちの不信仰と、祈るのをやめることによって両手をしばられてしまうようなことがあれば、奇蹟を行なうことがおできになりません。私たちがこころをひとつにして祈ると奇蹟が起こります。私たちが祈るとき、ひとびとは罪をみとめざるをえなくなり、イエス様のみもとにさけどころを求めるようになります。私たちが祈るとき、まったく不可能なことが可能になります。

「祈る教会」の特徴はなんでしょうか。

祈りながら「しるしと奇蹟をこころから待ち望むこと」です。そこには、恵みの奇蹟を経験する自発的な祈りがあるのです。また、主は、霊的な領域においてだけではなく、物理的な領域においても奇蹟をなさりたいのです。主にとって、しるしと不思議なわざをなさるのは、ほんの小さなことです。

「主に不可能なことがあろうか。…」(創世記18・14)

主に不可能なことがあるでしょうか。いいえ、決して決してありません。主はなんでもおできになるおかたです。主にとって不可能なことはありません。主を完全に信頼しましょう。私たちが祈ると主はかならずこたえてくださり、大きなことを行なってくださいます。主は生きておられ、こたえてくださるとやくそくしてくださっています。

5.聖霊が主イエス様を啓示なさること


「祈る教会」の五番めの特徴は、「聖霊が主イエス様を啓示なさる」ことです。祈る教会の信者たちは、ただ主イエス様だけによろこばれたいという自発的な行為によって特徴づけられます。

初代教会の信者たちはこころをひとつにして祈りました。すると予想もしなかったことが起こりました。

彼らがこう祈ると、その集まっていた場所が震い動き、一同は聖霊に満たされ、神のことばを大胆に語りだした。(使徒4・31)

神の御霊に満たされたことは、かれらの祈りの結果でした。しかしかれらは、聖霊に満たされることを目的に祈ったのではありませんでした。かれらの祈りの目的は次のようなものだったのです。「もっともっと、あなたのみことばを宣べ伝える勇気を、私たちにあたえてください」。

また、かれらのこころからの願いは次のようなものでした。「主よ、あなたに従順であることができますように、あなたによろこばれることができますように、私たちをお助けください。」

神の御霊の目的は次のようなものです。イエス様は言っておられます。

「御霊はわたしの栄光を現わします。」(ヨハネ16・14)

この御霊とひとつにされている者は、御霊とおなじ目的をもっています。つまり、それは「主イエス様おひとりだけが中心であられ、私たちはどんな代価をはらってでも主イエス様にだけよろこばれたいのです」という目的です。主イエス様のご栄光が現わされることだけがたいせつです。ですから主は、ひろく知らされなければならないのです。しかもできるだけはやく知らされなければならないのです。できるだけ多くのひとが福音を聞くべきであり、できるだけ多くの永遠の実が結ばれるべきです。

6.神のみことばが力づよく宣べ伝えられること


「祈る教会」の六番めの特徴は「神のみことばが力づよく宣べ伝えられる」ことです。まだイエス様を知らないかたがたがひとりでも多く、どうしても救われてほしいという自発的な祈りが信者たちの特徴となっていることです。神のみことばが力づよく宣べ伝えられ、その背後に「祈る教会」が立つとき、多くの罪人が悔い改めるようになり、救いの確信をもつようになります。

最大の伝道者のひとりC・H・スポルジョンは、不思議な方法で主にもちいられ、かれをとおして多くのひとびとが救われました。それはなぜだったのでしょうか。じつは何百人という信者たちが日曜日ごとにかれの伝道活動の最中に祈りつづけていたのです。つまり、多くのひとびとが信仰に導かれ救われたのは、その教会が「祈る教会」だったからです。

たいせつなことは、私たちがもっともっと「主のみことばを宣べ伝えるひとびとのために祈りつづける」ことであり、主がそのひとびとをもちいることがおできになることであり、奉仕するひとびとが自分自身のための栄光をもとめないことであり、かれらが意識して「主により頼みたい」と願うことです。

私たちは日曜日ごとに、どのようにして集まればいいのでしょうか。「祈りながら、また主から大きなことを期待しながら」集まるべきです。

7.大きな恵みが現わされること


最後に、「祈る教会」の七番めの特徴は、「大きな恵みが現わされる」ことです。

・・・・大きな恵みがそのすべての者の上にあった。(使徒4・33)

「大きな恵み」は、「キリストに似た者にされる」と言いかえることもできます。というのは、恵みによって信者たちが造りかえられるからです。「自分から祈って造りかえられること」は、「祈る教会」の信者の大きな特徴です。かれらはこころをひとつにして祈りました。その結果、かれらは聖霊に満たされました。33節には「大きな恵みがそのすべての者のうえにあった」と書いてありますが、その大きな恵みは、三つのことをとおして経験されたのでした。

・ひとつになる恵み


はじめに、「ひとつになるための恵み」が経験されたのでした。

信じた者の群れは、心と思いを一つにして、・・・・(使徒4・32)

かれらの祈りの結果は、「御霊の一致」でした。

平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。(エペソ4・3)

ここで聖句のおわりのことばに注意してください。御霊の一致を一生けんめいにつくりだしなさい」ではなく、「保ちなさい」となっています。なぜなら、「御霊の一致」はもうすでに与えられているからです。

ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。(ガラテヤ3・28)

ここには「あなたがたはみな・・・・ひとつだからです」とあります。「ひとつになるべきだ」ではなく、もうすでに「ひとつだから」と書いてあるのです。初代教会のひとびとが実際に経験したことは、まさにこのとおり、イエス・キリストにあってみながひとつとなったことでした。

イエス様を信じるひとびとの「一致」よりもすばらしいものがあるでしょうか。教会のかしらである主イエス様が、信者の不一致のゆえにどれほど苦しんでおられるか、私たちは考えてみたことがあるでしょうか。「ひとつになる」ための秘訣は、まことの、こころからなる、正直な、ともに祈る「祈り」にあります。私たちはみな、主の前にまったくちいさな者になるからです。主の前にはもはや、ほかのひとを批判したり、さばいたりする勇気をもつひとはだれもいません。

・断念する恵み


つぎに「断念する恵み」があきらかにされました。

・・・・だれひとりその持ち物を自分のものと言わず、すべてを共有にしていた。(使徒4・32)

初代教会の信者たちは、主の愛をいただき、その愛をどうしてもまわりのひとびとと分かちあいたいと思ったのです。このようにイエス様の愛をまわりのひとびとと分かちあうことが、こんにち、なによりたいせつです。私たちのまわりのひとびとは、なにかを「教えられたい」のではなく、「愛されたい」のです。

私たちは「断念する」覚悟があるでしょうか。私たちは次のような態度をとる覚悟があるでしょうか。「私や、私が持っているものなど、どうなってもかまいません。イエス様が栄光を現わしてくださり、イエス様の恵みが私たちの生活をとおしてあきらかになるのだったら、私はなんであろうとよろこびます」と。私たちがともに真剣に祈ることによってこの霊は私たちにあたえられます。

・寛大さの恵み


三つめは「寛大さの恵み」です。

・・・・すべてを共有にしていた。(使徒4・32)

このような思いは人間の生まれつきのものではありません。このような寛大さは、聖霊に満たされたことの結果なのです。

彼らの中には、ひとりも乏しい者がなかった。地所や家を持っている者は、それを売り、代金を携えて来て、使徒たちの足もとに置き、その金は必要に従っておのおのに分け与えられたからである。(使徒4・34、35)

私たちは「祈る教会」の特徴について、ごいっしょに考えてきました。教会とは聖霊によって生まれ変わったひとびと、また、聖霊によって主イエス様のからだに属するようになったひとびとの集まりであり、交わりです。「祈る教会」とは、ともに祈るひとびとのことです。私たちのキリスト集会もまた、主によろこばれる「祈る教会」であるために、すべてのことをしようではありませんか。主によろこばれる「祈る教会」とは、決してあれやこれやをすることではなく、また、聖書を勉強して精通することではありません。ただ「祈る」ことによってのみ、それが実現されるのです。私たちがみな、いままでよりもっと祈りに専念するようになれば、さらに多くの主のはたらきと奇蹟を経験するようになります。

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