2026年10月23日金曜日

主の申し入れ(限りない愛)

主の申し入れ(限りない愛)
2011年2月26日、西神ラフォルテ家庭集会
ゴットホルド・ベック

ホセア
2:16 その日、――主の御告げ。――あなたはわたしを『私の夫』と呼び、もう、わたしを『私のバアル』とは呼ぶまい。
2:17 わたしはバアルたちの名を彼女の口から取り除く。その名はもう覚えられることはない。
2:18 その日、わたしは彼らのために、野の獣、空の鳥、地をはうものと契約を結び、弓と剣と戦いを地から絶やし、彼らを安らかに休ませる。
2:19 わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

主の申し入れと言ってもいいし、あるいは今、歌の中で出てきた言葉である『限りない愛』、という題をつけてもいいんじゃないかと思います。

集会をやるときは、どういう集会であっても、誕生パーティーであっても、結婚式であっても、葬儀であっても、いつも内容的には同じ。イエス様を紹介するための集いです。真の救いとは、もちろん、死んだ冷たい形だけの信仰ではない。また、決まった規則でも儀式でもない。聖書は法律の本でもないし、たくさんの戒めでもありません。決してそうではない。真実の救いは、人間の心の中に住む主なる神のいのちです。すなわち、イエス様です。

イエス様は、人間一人一人のわがままのために、代わりに罰せられ、十字架につけられました。そして、葬られ、結局、人間一人一人の受けるべき刑罰を受けたのです。けど、イエス様は死んだままではない。よみがえられました。生きておられるお方です。今日も、すべての背後に目的を持って支配しておられるお方です。そして、今、読みました箇所――本当に素晴らしい箇所ですね。もっとも大切な聖書の箇所は、複数形ではなくて単数形になっているのです。それも不思議ではないですか?主は、人間一人一人を考えられないほど大切にするお方です。

ホセア
2:19 わたしはあなた(・・・・あなたたちではない・・・・)と永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

本当に、生きておられる主イエス様は、人間一人一人と契りを結びたく思っておられます。イエス様は、心からこういうふうに願っておられますけど、私たちは、それに対してどのような答えをするのでしょうかね?

ホセア書とは、確かに短い本です。一度、初めから終わりまでお読みになれば・・・・。多くの人々は、聖書の何箇所、何節かを読むのですけど、本全体を読む人は、あまりいないのじゃないかね。私は去年、入院した時、病室にテレビもあったけども、もうはっきり、決心した。一秒もテレビは見たくない。テレビを見ると、やはりこの世のことを見るようになるし、やはり、今度は聖書だけ読もう。

それから、ちょうど二十四日間で、聖書を全部、読むようになっちゃった。よかった!結局、続けて読むと、もうびっくりだよ!聖書は、考えられないほど、素晴らしいものです。聖書と比べられるものはない。聖書は、いちばん古い本でしょうね。けど、時代遅れにならない。天と地はいつか滅び去ります。わたしの言葉は永遠に残ると、イエス様は言われたから、この永遠に残る言葉に頼らない人は、ちょっと気の毒じゃないかね。

このホセア書とは、確かにちょっと変わった本なんです。愛の物語であると言えます。三つのことについて考えたいと思います。第一番目、拒まれた愛。二番目、どこまでも、追い求めていく愛。そして、三番目、勝利の愛について一緒に考えたいと思います。

初めに、拒まれた愛について考えましょう。まことの神は、全人類を救うために、全世界の国民の中からひとつの民を選び出されました。そして、この民に救いの道を示した聖書を与えました。聖書は、本当はユダヤ人に与えられているものです。この民であるユダヤ人は――イスラエルの民とも呼ばれている――今、イスラエルに住んでいる国民です。そして、主なる神は、とくに選ばれたこのイスラエルの民と深い心の交わりを持ちたく思っておられました。それで、主は、この民に、あなたがたはわたしに対して、祭司の国となり、また、聖なる民となると言われました。

このように、主は、イスラエルの民との深い交わりを持ち、この民を通して、ご自分の力、ご自分のご栄光を表そうと思ったのですけど、どうでしょう。まもなく、このイスラエルの民は、偶像を拝する民になってしまったのです。まことの神と親しい交わりを持っていたこの民は、偶像を礼拝する者となったと、聖書は言っているのです。この主なる神からの堕落、主の愛を退ける心、これをホセアは姦淫と名付けています。限りない深い愛を拒み、退けるのは、罪という名のつくものの中で、いちばん大きな罪なのではないでしょうか。

けども、自分から離れ、堕落し、そむいていたイスラエルの民に対する主なる神の態度は、どういうものだったでしょうか。主は、背きの民を見捨てないで、なお、関心を持っておられ、預言者、ホセアをこの民に遣わしました。この預言者、ホセアは、口先で語るばかりではなくて、身をもって、イスラエルの民の罪を示すべく、主に遣わされた人でした。主は、ホセアに言われた。

ホセア
3:1 主は私に仰せられた。「再び行って、夫に愛されていながら姦通している女を愛せよ。ちょうど、ほかの神々に向かい、干しぶどうの菓子を愛しているイスラエルの人々を主が愛しておられるように。」

ホセアは、自分の子供に喜びの名前をつけて、その誕生を祝うことを許されなかったんです。預言者、ホセアは、自分の子供に、恐ろしい名前をつけなくてはならなかったのです。滅び、憐れみなき者、神の出ない者などという名前をつけ、告げ知らせたのです。

その時、イスラエルの民のある者は、間違いなく、ホセアをあざ笑い、ある者は無関心に聞き流し、本当に自分の悪かったことを主に悔いあらため、主に立ち返った人は、ほとんどいなかったようです。主なる神は、ホセアの子供の名前を通して、イスラエルの民はまことの神を離れ、偶像礼拝に走ったがゆえに、わたしはイスラエルの国を滅ぼし、イスラエルの家を憐れまず、イスラエルの民を、もはや我が民と呼ばない。このように、背きの民、イスラエルの民に語りかけたのです。

ちょっとだけ、私たちのことについて考えましょう。私たち一人一人は、主の御前にどのような状態、どのようなところに、立っているのでしょうか。聖書は、生ける造り主なるまことの神に立ち帰っていない人は、いのちの泉である主から遠く離れている。聖なる主の前に罪がある。だから、怒りのもとにいる。神のいのちから遠く離れているから、神と共にいないもの、未来においても神のない、望みのない者であると言っています。

私たちが、どんなに高い道徳的な生活を送っても、もし、生けるまことの神を心に受け入れていなければ、主の怒りのもとにあります。これを、私たちが、認めても、認めなくても事実です。聖書ははっきり、そう言っているのです。動かすことのできない、事実です。唯一のまことの神は、イエス様を自分の救い主として受け入れたくないもの、イエス様は自分の罪やわがままを赦し、永遠のいのちを与えてくださったという確信を持たない者は、本当に希望なしに生活しなくてはいけない。

聖書のよろこびの訪れとは、何であるかと言いますと、イエス様の血潮は、すべての罪から清めてくださる。そして、主は、人間の罪を赦す――考えられないし、ピンと来ないけど――忘れてくださるのです。わたしは、あなたの罪を、二度と思い出さない。すごい約束なのではないでしょうか。

結局、ホセアは、御言葉を述べ伝えた。しかし、聞く耳を持つ人々は、あまりいなかったのです。そうすると、幸いなことよ、その背きを許され、罪を赦された人は。幸いなことよ、主が咎をお認めにならない人、心に欺きのない、その人はという事実を、もちろん、体験的に知ることができない。ホセア書を読むと、今、話したように、一番目に、このように、拒まれた愛を語っているのです。

けども、それだけではなくて、第二番目、どこまでも尋ね求める愛についても、このホセア書を通して、知ることが、できるのです。イスラエルの民は、前にエジプトの国に捕らわれ、奴隷として、ひどい生活を送っていたことがありました。主は、この民を憐れみをもって、エジプトの国から救い出してくださったんです。けどどうでしょう?主の恵みを、すぐに忘れてしまった民は、荒野で偶像を作り、偶像を拝むといった恐ろしいことをいたしました。

主は、このイスラエルの民に対して、わたしは、憐れみの綱、すなわち、愛の紐で、彼らを導いた。わたしは、限りない愛をもって、あなたを愛している。それゆえ、わたしは絶えず、あなたに真実を尽くしてきたと、深い愛を表しておられたのです。この計り知れない主の愛に対するイスラエルの民の態度は、不真実と堕落でした。

いちばん深い罪は、愛に背く罪なのではないでしょうか。母親が、その子を力の限り愛しているのに、その子が母を嘲笑うなら、それはどんなにお母さんの胸を痛めるでしょう。妻が夫を心から愛しているのに、夫は妻を省みず、他の女に走っていくなら、それは妻に対する、計り知れない打撃であり、罪であると言わなければならない。イスラエルの民は、これに似たことをしました。

自分を愛してくださる救い主なる神を足蹴にしたのです。主は愛した。けど背かれました。けど、主の愛は、それで、とどまることせず、背いた民を追い求めてやめない愛に変わっていったんです。人間の愛は、愛する価値のあるものしか愛することができないでしょう。けど、主の愛は、堕落し、主の愛を受ける価値のなくなったものを愛し抜いています。

人間の愛は、愛の答えをくれるものに向かって行きますが、主の愛は、愛しても、それをなお拒むものに向かって働きます。堕落し、背き去ったイスラエルの民に向かって、主は、ホセア書の驚くべき愛の御言葉を述べていますね。

ホセア
2:19 わたしはあなたと(・・・・複数形ではなくて、あなたたちではなくて、わたしは、あなたと・・・・)永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

裏切り、背き去る民に対して、主は何という愛を示されるのでしょうか。この計り知れない愛をもって、主は、もちろん、私たち一人一人をも愛しておられます。主は、我々を御心に留めておられます。創造主なる神、また、支配しておられる唯一のまことの神は、人間一人一人に対して、ご自分の愛を示されるために、一人子なるイエス様を、この世に遣わしてくださったのです。

主なる神は、御子なるイエス様を我々に遣わし、ご自分と私たちを和解させ、契りを結びたく思っておられます。この驚くべき愛の申し入れを、心から感謝して受け入れようではありませんか。

なんと多くの人々は、苦痛、心配、不安、動揺のうちにいるのではないでしょうか。イエス様は、わたしのところに来なさい。すべて、重荷を負って疲れた人、わたしのところに来なさい。休ませてあげますと言われます。

また、多くの人々は、不幸、不満、不自由でしょうか。心には、本当の喜びがない。イエス様の呼びかけとは、すばらしい呼びかけです。ただ、わたしのところに来なさい。あなたがたはこの世では、悩みがある。しかし、勇気を出しなさい。わたしはすでに、世に勝っていると約束しておられます。

また、多くの人々は、試みが自分の弱い点、自分が逆らうことのできない点を、いつも掴んでいるので元気がない。イエス様は、同じように、おいで、わたしのところに来なさい。わたしに呼び求めよ。あなたは、わたしの内において、すべてのことにおいて、勝ち得て余りがあると、約束しておられます。

また、多くの人々の心の中には、今まで誰も満たすことができなかった癒しがたい空腹があるのではないでしょうか。イエス様は、わたしは、いのちのパンです。わたしのもとに来るものは、もはや飢えることがないと約束しておられます。

また、多くの人々の魂は、どんな医者に診せても治らないような、カラカラに乾いた土地のような乾きを持っているのではないでしょうか。イエス様は同じように、誰でも乾くものは、おいで。わたしのところに来なさいと、招いていてくださるのです。

また、多くの人々の一日は、失望と誘惑と試練に満ちていて、自分の目の前は真っ暗なのではないでしょうか。イエス様は、わたしはこの世の光です。わたしに従ってくるものは闇の中を歩くことがない。魂が罪で汚れているのに驚き、この魂が清められるかどうかと疑っているのではないでしょうか。イエス様は、おいで。わたしのところに来なさい。すぐ来なさい。わたしに呼び求めよう。『たといあなたがたの罪は緋のようであっても、雪のように白くなる。紅のように赤くても、羊の毛のようになるのだ』と、約束しておられます。

人が滅びに至る近道は、殺人を犯したり、姦淫を犯すことではない。この主なる神の愛の申し出を断ることこそ、永遠の滅びに至るいちばんの近道なのではないでしょうか。

ホセア書は、このように拒まれた愛、それから、追い求める愛について、語っただけではなくて――三番目になりますけど――、勝利の愛についても語っています。イスラエルの民が不真実であり、堕落していたにもかかわらず、この民を愛する主の愛は、とどまるところを知りませんでした。ご自分の愛を拒み通すイスラエルの民に対して主は、何と言ったのでしょうか。ホセア書の十四章の四節、『わたしは彼らの背信をいやし、喜んでこれを愛する』とあります。素晴らしい呼びかけではないでしょうかね。

背きつまづいたイスラエルの民は、この計り知れない愛の言葉を耳にした時、主の愛に砕かれ、打ち負かされ、私の不義をことごとく赦してください!と答えずには、おられなかったんです。人間の想像を絶する計り知れない主の愛は、人のすべての罪を押し流し、背きをいやし、つまづきを取り除かれた。ですから、このホセア書二章の言葉は、素晴らしい言葉ですね。

ホセア
2:19 わたしはあなたと(・・・・みんな含まれています。あなたと・・・・)永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

『主を知る』とは何でしょうかね?それは、イエス様と我々との深い交わりを意味しています。よみがえられたイエス様との交わりがあるところには、本当の喜び、平和と、平安があります。また、主との交わりのあるところ、我々の貧しさは、主の富によって覆われ、どこかへ行ってしまいます。

イエス様が地上に来ておられた時、そこに、一人のらい病人がやってきて言ったんです。『主よ、御心ならば、癒していただけるのですが』と願った時、イエス様は、『我が心なり。きよくなれ』と、御声をかけになり、その男の頭に手を置いて言われた時、らい病は直ちに癒されたと、聖書は言っています。

今日でも、このイエス様のみもとに来て、『イエス様よ、御心ならば、契りを結ばせたまえ』と、申し上げるならば、イエス様は間違いなく、『我が心なり、なんじは、我が物なり』と、言われるに違いない。

イエス様が、本当に、私たちを、限りなく愛しておられるという動かすことのできない証拠があります。それは、イエス様が、私たち一人一人の身代わりに、我々のわがまま、過ちを全部、背負って、ゴルゴタの丘の上で、ご自身のいのちを捨ててくださったという事実です。イエス様は、ご自分のいのちをかけて我々を買い取り、契りを結ぼうと言われます。

何という素晴らしい申し入れなのでしょうか。これは、あたかも、王様が見捨てられたこじきの娘に求婚するようなものです。イエス様は、私たちが申し入れを受け入れることを、心から願っておられます。もし、自分の悩みや、自分の罪、わがまま、過ちを持って、イエス様の御前に、そのままで出て行くと、イエス様はご自分を私たちにお与えになります。私たちは、罪の赦しと永遠のいのちを受けます。そして、主は呼びかけておられます。すなわち、わたしはあなたの罪を、二度と思い出さない。あなたの過ちを決して心に止めないと、約束しておられます。

イエス様を知りたい。イエス様を深く自分のものにしたい。イエス様の愛を知りたいと、願わない人がいるのでしょうか。私たちは、イエス様なしには、永遠に滅んでいかなければならない。これは、私たちの深く知るところです。私たち、全部が驚くべき救いの喜びにあずかるために、このホセア書二章の御言葉に耳を傾けたいのではないでしょうか。

ホセア
2:19 わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。
2:20 わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。

イエス様に心を許し、すべてをおゆだねした人で、後で後悔する人は一人もいない。なんという、ご真実な主でありましょうか。主の愛は、決して、我々を裏切り背くことのない愛です。パウロは、愛弟子であるテモテに書いたことがあります。テモテ第二の手紙の一章の十三節です。皆さんも、暗記していることばですけども、毎日、覚えるべきなのではないかと思います。

第二テモテ
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。

結局、私たちはもちろん、どうしもないものですけど、これと、関係ない。イエス様は違う。真実です。もう一箇所、読んで終わりましょうか。

イザヤ
54:10 「たとい山々が移り、丘が動いても、わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、わたしの平和の契約は動かない。」とあなたをあわれむ主は仰せられる。

人間が何かを約束しても、本当かどうかは分からないけど、十字架の上で代わりに死なれたイエス様が何かを約束すると、もう礼拝させざるを得ないのではないでしょうか。主の愛は、ここでも書かれているように、変わらない愛です。この主に愛されていることとは、最高の幸せなのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿