2026年10月11日、吉祥寺福音集会
重田定義兄
ヨハネの福音書
10:27 わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。
皆さま、しばらくぶりでございます。前回は直接、吉祥寺集会に出向いて、懐かしい兄弟姉妹がたと、直接、お目にかかって、本当に幸いでした。もう、これが最後だと思っておりましたら、そうはいかない。また、今回はこのような形で、メッセージをさせていただきます。そのために、若い兄弟――私よりも若い兄弟方ですが、数名の兄弟方――が、このような形で、メッセージができるようにと、いろいろと準備をしてくださったことを、心から感謝いたします。
なぜ、このテーマを選んだのかということを、まず、はじめにちょっとお話ししますと、今までの私の人生を振り返ってみますと、私は主に愛されているとも知らないで、本当に主を、なげかせることの多かった愚かな者であったと思います。よく、お見捨てにならなかったと思っております。本当に改めて、主の忍耐とご愛と憐れみに、心から感謝いたします。
そこで、今日は、初心に立ち返りまして、信仰の原点の一つとも言えるテーマについて、お話をしたいと思いました。それが、今日のメッセージのテーマであります。
聖書の中で、羊は神様と私たち人間との関係を最もよく表す動物として、多くの箇所に出てまいります。どうして、羊が出てくるのでしょうか。それは、羊はイスラエルの民の財産として、また、神様への捧げ物として、大昔から飼われていた大切な家畜であり、彼らは、身近にいる羊を愛し、また、その習性をよく知っていたからであります。羊は、おとなしく、弱い動物ですけれども、そしてまた、地理感覚とか方向感覚に欠けて、そのために、迷いやすく、愚かな動物であるとされていることから、聖書では、次のようにこのような羊を、私たち人間に例えております。
イザヤ
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。
旧約聖書には、主なる神様が、弱い愚かな羊のようなイスラエルの民を愛し、ご自分の羊とされ、自ら、羊飼いとなられて、ずっと彼らを養い、導いてこられたことが、詳しく記されています。その中で、主なる神様が、イスラエルの民を、わたしの羊として養い育てると、明言されている箇所が、エゼキエル書にあります。そこの場所を、お読みいたします。
エゼキエル
34:11 まことに、神である主はこう仰せられる。見よ。わたしは自分でわたしの羊を捜し出し、これの世話をする。
34:12 牧者が昼間、散らされていた自分の羊の中にいて、その群れの世話をするように、わたしはわたしの羊を、雲と暗やみの日に散らされたすべての所から救い出して、世話をする。
34:13 わたしは国々の民の中から彼らを連れ出し、国々から彼らを集め、彼らを彼らの地に連れて行き、イスラエルの山々や谷川のほとり、またその国のうちの人の住むすべての所で彼らを養う。
34:14 わたしは良い牧場で彼らを養い、イスラエルの高い山々が彼らのおりとなる。彼らはその良いおりに伏し、イスラエルの山々の肥えた牧場で草をはむ。
34:15 わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる。――神である主の御告げ。――
34:16 わたしは失われたものを捜し、迷い出たものを連れ戻し、傷ついたものを包み、病気のものを力づける。わたしは、肥えたものと強いものを滅ぼす。わたしは正しいさばきをもって彼らを養う。
34:23 わたしは、彼らを牧するひとりの牧者、わたしのしもべダビデ(・・・・究極的には、これはイエス様の、ことを指しておりますけれども・・・・)を起こす。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。
エゼキエル書の34章の11節から16節、そして、23節には、このように書かれております。
イスラエルの民が、主なる神様の羊として養われるためには、羊飼いである主の御声に聞き従わなければなりません。もし彼らが主の御声に聞き従わなければ、エレミア書の18章の10節で、神様が、『もし、それ――それがというのは、イスラエルの民のことですが――がわたしの声に聞き従わず、わたしの目の前に悪を行なうなら、わたしは、それに与えると言ったしあわせを思い直す』と、おっしゃっております。
そのように、彼らは、その場合、神様から見放され、迷える羊となって、狼の餌食になってしまいます。イスラエルの歴史を聖書から見ますと、主が警告されたにもかかわらず、彼らはたびたび、羊飼いである主の御声に聞き従わず、勝手な道に迷い込んでしまうのですけれども、主は、そのような愚かなイスラエルの民をも、お見捨てにならずに、なおも愛し、その度に、杖とむちとで導かれ、正しい道に連れ戻してくださるということが分かります。
新約時代になってからは、主なる神様に代わって、御子イエス様が、父なる神様の御心に従って、人の姿をとり、イスラエルの民だけではなく、全ての人間の良き羊飼いとして、この世に来てくださいました。イエス様は、次のようにおっしゃっておられます。
ヨハネ
10:11 わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。
10:12 牧者でなく、また、羊の所有者でない雇い人は、狼が来るのを見ると、羊を置き去りにして、逃げて行きます。それで、狼は羊を奪い、また散らすのです。
10:13 それは、彼が雇い人であって、羊のことを心にかけていないからです。
10:14 わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。
10:15 それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同様です。
このお言葉の通り、イエス様は、滅びに向かって歩んでいることもわからない愚かな羊のような、私たち人間を愛し、狼であるサタンの手から救い出すために、良き羊飼いとなって、尊いいのちを捨ててくださったのであります。このイエス様の尊いいのちの犠牲によって、恐ろしいサタンの手から救い出されて、イエス様の羊とされたもの、それが、私たち信者なのであります。
けれども、イエス様が愛し、いのちを捨ててまでして、ご自分の羊としてくださった私たち信者は、一体、自分がどれだけ、主に愛されているかを、本当に分かっているのでありましょうか。今の御言葉で、イエス様は、『わたしのものは、わたしを知っています。それは、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです』と、おっしゃっておられます。
もし、私たちが父を知っている、もし私たちが、主イエス様にどれだけ愛されているか、本当に分かっていれば、私たちは、イエス様が私を知っているのと同じように、私はイエス様を知っています。また、イエス様が私を愛してくださるのと同じように、私もイエス様を愛していますと、言えるでありましょう。そのようにイエス様を知っているのであれば、また、そのようにイエス様を愛しているのであれば、私たちは、イエス様以外の声に心を惑わされることなく、イエス様の御声だけに聞き従って、イエス様についていくはずであり、しかし、実際にはどうでありましょうか。イエス様は、次のようにも言われました。
ヨハネ
10:4 彼は(・・・・すなわちイエス様は・・・・)、自分の羊をみな引き出すと、その先頭に立って行きます。すると羊は、彼の声を知っているので、彼について行きます。
10:5 しかし、ほかの人には決してついて行きません。かえって、その人から逃げ出します。その人たちの声を知らないからです。
このようにあります。私たちは、一体どうでしょうか。果たして、私たちは、この羊のように、イエス様の声を知って、イエス様だけについていき、知らない声の人には決してついていかないと、言い切れるのでありましょうか。
最初に読んだ御言葉の中で、『わたしの羊はわたしの声を聞き分けます』と、イエス様がおっしゃっておられました。もし、私たちが本当にイエス様の羊であれば、イエス様の声とサタンの声を、聞き分けることができるはずであります。けれども、実際にはどうでしょうか。私たちは、しばしば、イエス様の声と、サタンの惑わしの声の区別ができないような、愚かな羊になってしまっているのではないでしょうか。
一体、それではどうして、このイエス様の声を聞き分けられないようなことが、起こるのでありましょうか。その原因は、二つあると思います。
一つは、イエス様の御声を、本当に知ってはいないからであります。イエス様の御声は、私たちの自我が砕かれ、自我によって閉ざされていた霊が開かれた時に、初めて知ることができるのであります。それは、自分の力や努力によっては、決してできません。イエス様が私たちをあわれんでくださり、私たちのかたくなな自我を砕いて、霊を開いてくださることによってのみ、可能なのであります。
かつてイエス様は、一人のろうあ者をあわれんで、彼の耳を開き、口がきけるようにされるという奇蹟をなさったことがあります。
マルコの福音書
7:32 人々は、耳が聞こえず、口のきけない人を連れて来て、彼の上に手を置いてくださるように願った。
7:33 そこで、イエスは、その人だけを群衆の中から連れ出し、その両耳に指を差し入れ、それからつばきをして、その人の舌にさわられた。
7:34 そして、天を見上げ、深く嘆息して、その人に「エパタ。」すなわち、「開け。」と言われた。
7:35 すると彼の耳が開き、舌のもつれもすぐに解け、はっきりと話せるようになった。
このろうあ者は、長いこと、自分が耳も聞こえず、口も聞けないことを苦しみ、嘆いていたに違いありません。人々から蔑まれたり、冷たい仕打ちを受けることも、少なくなかったでありましょう。イエス様は、その彼を深く憐れました。『天を見上げ、深く嘆息して』と、おっしゃった聖書の御言葉から、そのことがうかがわれます。
彼をご覧になったとき、すでに彼の自我が砕かれているのを見抜かれたイエス様は、『エパタ』とおっしゃって、彼の霊を開かれました。彼は開かれた霊で、イエス様の御声を聞き、直ちにイエス様に従い、イエス様が自分にしてくださったことを、伝えてやまなかったのであります。このろうあ者のように、私たちも自我が砕かれたときに、イエス様が霊を開いてくださり、イエス様の御声が聞こえるようになるだけではなくて、イエス様の御声を知って、その御声に従うことができるようになるのであります。
しかしながら、イエス様を信じるものであっても、肉の衣を着て、この世を生きている間は、この自我というものが完全に砕かれていくことが、いかに難しいか、そのことは、私たちがしばしば痛感するところであります。従いまして、常に自分が主の御声に従うものであるかどうかを、イエス様に祈り、そしてまた、主の御前に自分の思いではなく、主の御心の道を求めるようにという祈りを、常にしなければなりません。
もし、自我が砕かれないままに、信仰生活を過ごしておりますと、知らず知らずのうちに、肉の思いに支配されて、せっかく聞こえていた、イエス様の御声も聞こえなくなってしまい、イエス様の御声とサタンの声との区別もつかなくなってしまうのであります。このような信者を狙って、サタンは巧妙に光の天使を装って、誘いの声をかけ、イエス様の羊の群れから引き離すばかりか、イエス様に逆らうものとさえ、変えてしまうのであります。
もう一つ、イエス様の御声とサタンの声を聞き分けられない原因というのは、御霊に満たされ、御霊に委ね、導かれていないからであります。イエス様を信じる者のうちには、主の御霊が住んでくださり、御霊が、何がイエス様の声か、何がサタンの声かを、教えてくださいます。
第一ヨハネ
2:27 あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油(・・・・すなわち、御霊・・・・)があなたがたのうちにとどまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべてのことについてあなたがたを教えるように、――その教えは真理であって偽りではありません。――また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリストのうちにとどまるのです。
と、ある通りであります。けれども、私たちはいつも、御霊に満たされ、御霊に導かれて、イエス様のうちにとどまっている――言い換えれば、イエス様の御霊に従っているのでありましょうか。そうではなくて、さっき申しましたように、自我の思いによって、御霊の導きを拒んでしまい、イエス様の御霊から、イエス様のみもとから、御霊の導きから迷い出てしまう愚かなものではないでしょうか。
それでも、イエス様はそのような私たちを、『わたしのもの』、『わたしの羊』として、なおも、愛して、憐れんでくださり、迷い出た羊の名を呼びながら、見つけるまで探し出してくださるのであります。マタイの福音書で、イエス様は、
マタイ
18:12 ・・・・もし、だれかが百匹の羊を持っていて、そのうちの一匹が迷い出たとしたら、その人は九十九匹を山に残して、迷った一匹を捜しに出かけないでしょうか。
18:13 そして、もし、いたとなれば、まことに、あなたがたに告げます。その人は迷わなかった九十九匹の羊以上にこの一匹を喜ぶのです。
と、おっしゃっております。ご再臨が間近い今、もう一度、私たちは、イエス様の御前に静まって、本当に自分が、イエス様の御声を正しく知っているだろうか。そして、知っているなら、そのイエス様の御声に、従っているだろうかを、御霊によって、深く吟味していただく必要があるのではないかと思います。
そして、もし、迷い出た羊になっていることを、御霊によって示されたならば、直ちに悔い改めて、主イエス様のみもとに立ち返って、自分のために祈り続けて待ってくださったイエス様の御愛と、御霊の導きに従って、イエス様の忠実な羊として、平安と喜びと感謝をもって、イエス様のご再臨を待つ者となれるように切に祈る、そのことが、大切であると思います。

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