2026年8月6日木曜日

勝利の生活への道

勝利の生活への道
2016年3月20日、御代田福音集会
ゴットホルド・ベック

第1コリント
1:4 私は、キリスト・イエスによってあなたがたに与えられた神の恵みのゆえに、あなたがたのことをいつも神に感謝しています。
1:5 というのは、あなたがたは、ことばといい、知識といい、すべてにおいて、キリストにあって豊かな者とされたからです。
1:6 それは、キリストについてのあかしが、あなたがたの中で確かになったからで、
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。
1:8 主も、あなたがたを、私たちの主イエス・キリストの日に責められるところのない者として、最後まで堅く保ってくださいます。
1:9 神は真実であり、その方のお召しによって、あなたがたは神の御子、私たちの主イエス・キリストとの交わりに入れられました。

15:1 兄弟たち。私は今、あなたがたに福音を知らせましょう。これは、私があなたがたに宣べ伝えたもので、あなたがたが受け入れ、また、それによって立っている福音です。
15:2 また、もしあなたがたがよく考えもしないで信じたのでないなら、私の宣べ伝えたこの福音のことばをしっかりと保っていれば、この福音によって救われるのです。
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、

15:55 死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。

16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
16:14 いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

勝利の生活への道、あるいは、勝利の生活の秘訣ということについて、一緒に考えてみたいと思います。最後に読まれた箇所をもう一回読みます。

第1コリント
16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
16:14 いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

パウロはこうコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。結局、このことばを通して、勝利の生活への道を示したと言えます。というのは、コリントと言う町の教会において、多くのことが良くなかった。めちゃくちゃでした。けれども、パウロはいわゆるキリスト教の教えを伝えようとしたのではありません。彼の手紙全体は、主の答えそのものです。

コリントにいる、確かに主の恵みによって救われた人々とは、救われてはいたのですけど、圧倒的な勝利者などではなかった。あらゆる点において、ダメになっていたのでした。けど、私たちもまた、多くの挫折をしているのではないでしょうか。私たちは、しばしば主の名誉を汚してしまったのではないでしょうか?しばしば、私たちは、主の働きの妨げになっていたのではないでしょうか?

二つのことが明らかです。ひとつは、あらゆるイエス様に出会った兄弟姉妹は、勝利の生活を営みたいと切に願っています。二番目、聖書は、この勝利の生活がいかに我々に分け与えられるかを、はっきりと私たちに示しています。しかし、これは、敗北の生活ではなく、勝利の生活を送ることが主のみこころであり、目標であることを聖書ははっきり言っているのです。イエス様は次のように言いました。

ヨハネ
8:36 ですから、もし子があなたがたを自由にするなら、あなたがたはほんとうに自由なのです。

イエス様はどうしてこの世に来られたかと言いますと、あらゆる束縛から解放するため、まことの自由を与えるためでした。

ローマ
6:14 というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。

ローマ
8:37 私たちは、私たちを愛してくださった方によって、これらすべてのことの中にあっても、圧倒的な勝利者となるのです。

しかし、これこそ、勝利を意味しているのです。

第2コリント
2:14 神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

これも勝利を意味しているのですけども、今日、私たちはコリントの兄弟姉妹に向かって(語られた)、パウロの言葉について考えたいと思います。

第1コリント
16:13 目を覚ましていなさい。堅く信仰に立ちなさい。男らしく、強くありなさい。
16:14 いっさいのことを愛をもって行ないなさい。

パウロは主の使いとして、彼らに書いたのであります。ここでは、気持ちの良い忠告ではなくて、それ以上の事がらが取り上げられています。すなわち、ここでは福音そのものが宜べ伝えられているのです。すなわち、次のように言われています。生きるまことの神は、あらゆる信者が勝利の生活を送ることができることを可能にしてくれます。主なる神は、命令を実行する力をお与えにならずには、いかなる命令もお与えになりません。私たちは、いかなるよい忠告をも必要としません。私たちが必要とするのは、福音そのものです。イエス様を知ること、イエス様に頼ること、そのものです。

私たちが何をなすべきかを、誰かが我々に語ってくれることは大切かもしれませんけども、はるかに大切なのは、誰かが我々に命令に従う力を与えてくれることなのではないでしょうか。この聖句で問題になっていることは、理論ではなく、実践そのものです。これらの聖句はほとんど、軍隊調の命令のような響きを持っています。

将軍は命令し、最終的に統括します。『これらの事がらが尊重されるならば、勝利が確実にある、』と言うことを将軍は知っているから、そのように行うのです。『目を覚ましていなさい。』信じる者は誰でもイエス様の兵卒です。

第2テモテ
2:3 キリスト・イエスのりっぱな兵士として、私と苦しみをともにしてください。
2:4 兵役についていながら、日常生活のことに掛かり合っている者はだれもありません。それは徴募した者を喜ばせるためです。

私たちは今日、真剣に自分自身に問うてみましょう。私たちのために、ご自身のいのちを与えてくださった方に、喜んでいただくことが、我々の心からの願いなのでしょうか?主を信じるだけではなく、本当に主に喜んでいただきたいという願いが本当に大切です。この願いを持っていない人は用いられません。

私たちは今日、私たちが恐ろしい闘いの中に放り込まれているという事実を新たに認識したいと思います。

エペソ
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、カ、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

けれども、主に感謝しましょう。最後の勝利はすでに獲得されているからです。イエス様はご自身の死と甦りを通して、悪魔の力に対する完全な勝利を獲得してくださいました。イエス様は父なる神の右に高められ、座しておられます。

イエス様の獲得された勝利を、すべての信者の生活の中で明らかにされるために、聖霊が遣わされました。この御霊に働く余地が与えられますと、私たちはイエス様の勝利にあずかります。それは、我々の勝利ではなく、イエス様の勝利です。この勝利にあずかるため、私たちは何をしなけれぱならないのでしょうか?

みことばの中で、パウロは五つのことに言及しています。一番目、常に警戒し、用心すること。二番目、信頼によって強められること。三番目、成長して完全に大人になること。4番目、主にだけより頼み、依存すること。そして5番目、すべて愛をもって行うことです。

まず、第一の明白な間違うことのない命令は、『目を覚ましていなさい、』という命令です。あなたがたは目を覚ましていなさい。常に警戒し、用心していることが大切です。私たちは見回りをしている兵士に連想されます。目を覚ましていることは最高の掟です。というのは、敵はどんな瞬間でも攻撃を仕掛けてくるからです。これは、私たちすべての者に当てはまるのではないでしょうか。3つの敵が我々に対立しています。すなわち、『この世』、『肉』、『悪魔』です。私たちが絶えず警戒し、用心していないと、これら三つの強力な敵が我々に襲いかかるでしょう。私たちはこれらの敵について何を知っているでしょうか?

私たちを取り巻くこの世について、私たちの内に住む肉について、そして、我々を攻撃する悪魔についてです。

私たちの最初の敵は、私たちを取り巻くこの世そのものです。この世は豊かで美しく魅力的に見えるかもしれない。けど、他方において罪と誘惑に満ちたところでもあります。

私たちも主の恵みによって、信じる恵みに預かるようになりました。確かに私たちは、主じゃなくて、他のものを大切にしたものでした。けれども、イエス様との出会いによって、自分のわがまま、過ち、罪が赦されていることを知りました。それによって、少しも知らなかった喜びを得られました。今からは、イエス様のために生きたいということが我々の切なる願いとなりました。

けれども、取り巻くこの世は、再び、我々をとりこにし、無力にし、麻痺させるようにあらゆる手段を使って攻撃します。私たちがどこで生活するか(に関わらず)、いたるところ、我々を取り巻くこの世は、私たちをめくらにし、惑わし、快適な生活を欲するようにと誘惑します。使徒ヨハネのきわめて大切な御言葉が、我々にも当てはまるのではないでしょうか。

第1ヨハネ
2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。
2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。
2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。

我々の第二番目の敵は、我々の内に宿る肉です。ここで肉とは、根本的に滅びきっており、改善され得ない我々の生まれつきの罪の性質を意味します。パウロはそのことをよく知っていて、次のように書いたのです。

ローマ
7:18 私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。

イエス様に出会って救われたパウロの告白です。そして、最後にパウロはどうにもならず、次のように叫んだのです。

ローマ
7:24 私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

これが終わりではないとは、なんと素晴らしいことでしょうか。さらに、パウロは重荷が降ろされた気持ちで次のように書くことができた。

ローマ
7:25 私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。

主のうちに解放があります。なんとしばしば私たちは、我々の罪深い性質のとりこになることでしょう。これは、私たちが肉の罪、あるいは、霊の罪を犯すときに明らかになります。肉の罪は、ガラテヤ書5章、19節から21節の中で数えあげられています。

ガラテヤ
5:19 肉の行ないは明白であって、次のようなものです。不品行、汚れ、好色、
5:20 偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、
5:21 ねたみ、酩酊、遊興、そういった類のものです。

けれども、霊の罪はさらに巧妙なのではないでしょうか。すなわち、誇り、批判精神、不寛容などです。

我々の第三の敵が、我々を攻撃する悪魔です。悪魔は我々の本当の敵であり、悪魔は強大な力をもっていて、我々一人ひとりを駄目にしようと願っています。悪魔はどんな代価を払ってでも、私たちを罠に陥れる決心をしています。私たちが、勝利の秘訣を知らないならば、悪魔は我々を手玉にとります。悪魔はいろいろな顔をもっています。ある時には、吠えたける獅子として誘惑します。ペテロはこの表現を使ったのです。

第1ペテロ
5:8 あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

別の時には、吠えたける獅子ではなくて、光の天使として誘惑します。

第2コリント
11:14 サタンさえ光の御使いに変装するのです。

別のときには、こういうふうに光の天使について誘惑します。それですから、私たちが悪魔の考えをよく知ることはどうしても必要です。パウロは次のように言ったのです。

第2コリント
2:11 私たちはサタンの策略を知らないわけではありません。

私たちはいかにすれば悪魔に抵抗することができ、その結果、悪魔が逃げ出さなくてならないかを学ぱなければなりません。

この世、肉、そして、悪魔自身は我々を少しも休ませません。私たちは警戒し、用心していないと、わざわいです。それですから、とても大切な命令は、『目を覚ましていなさい。』悪魔があなたがたを陥れないように注意しなさい、という命令であります。誰が、日々、勝利を経験しているのでしょうか?我々の最初の答えは次のとおりでしたね。いつも警戒し、用心している人、目を覚ましている人、眠りに陥らない人です。

次に、二番目の点について、ちょっと考えたいと思います。信頼によって強められることです。『堅く信仰に立ちなさい。』これもまた明白な命令です。パウロは、コリント第1の手紙の15章、非常に有名なすばらしい書でありますけれども、コリント第1の手紙、15章の58節の御言葉を思い出しますね。

第1コリント
15:58 ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから。

ここで大切なことは、信じることだけでなく、主に堅く、信仰に堅く立つことです。

ある新聞に、一冊の本を読む学生の写真が出ていました。彼はメガネをかけ、それによって、かなり学識があるように見えました。そこに書かれている見出しがとても、おもしろいものでした。『成功する人は勉強を始める人ではなく、勉強を始め、かつ、本当にその勉強を続けることのできる人です。』私たちの場合はどうでしようかね。

私たちはしばしば、あきらめないでしょうか?闘いがいっそう激しくなり、攻撃もますます、度を加え、絶望の可能性が非常に大きくなると、私たちはみな内面的に疲れてしまう危険にさらされます。けれども、私たちは、簡単に放棄する根拠を決して、持っていません。と言うのは、堅く立ち、動かされることなく、いつも主のわざに励むようにと命令されているのであれば、これは、主によって可能でもあるからです。

これらのみことばは、よみがえりの書であるコリント第一の手紙15章の終わりにも記されています。この書において、福音の内容が何であるか、それからまた、イエス様の復活の事実と栄光が何であるか、詳しく述べられています。それと同じように、信仰によって主イエス様と結びついている者の復活が述べられています。それから、さらに、私たちの主イエス様の再臨、また、死と黄泉に対する勝利も言及されています。

堅く立つこと、動かされる(動かされない)ことはどうしても必要です。その際、そこにとどまり、堅く立ち、動かされないことを可能にするこの内面的な確信の土台は何でしょうか?何があっても戦い続け、主イエス様の勝利に堅く立つことの土台とは何でしょうか?言うまでもなく、主のことばです。聖書です。私たちがより頼むべきものは、我々の主の大いなる約束です。『信仰に堅く立ちなさい、』と言われる時、私たちはいつも、我々の信仰の唯一の土台は聖書、神のみことばである、ということをはっきり知っておかなけれぱなりません。私たちが考えたり、感じたり、真理とみなしたりするものではなくて、主のみことばが語られることこそ決定的に大切なことです。それだけが、我々の信仰の土台でなければなりません。パウロは愛弟子であるテモテに次のように書いたのです。

第2テモテ
2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。

人は、曲がって聞くこと、すなわち、聖書を自分勝手に解釈することもできます。いわゆる、聖書批判全体は聖書の曲解です。私たちは、決して聖書の一か所だけを聖書全体の関連から取り出してきて、それによって、私たちが好ましいと思うことを基礎づけようとすることをしてはならない。私たちが神のみことばを判断すべきなのではない。神のみことばが我々をさばき、整頓したいと望んでおられます。

『信仰に堅く立ちなさい、』という表現で述べられているもう一つの別の側面は、『主に信頼し続けなさい、』ということです。誘惑や試練によって、屈服させられないようにしなさい。いろいろな困難や悩みがあなたの上に襲いかかり、あなたが理解できないような苦しみに耐えなけれぱならないようなとき、主に対するあなたの信頼を失わないようにしましょう。

悪魔の攻撃目標は我々の信仰です。私たちがもはや主に信頼しないようにと、悪魔はあらゆる代価を払って誘惑します。もちろん私たちは、我々の主を多くの点において、確かに理解できません。しばしば、私たちはなぜ、主が、このことやあのことをお許しになるのか、まったく、わかりません。どんなに努力しても、私たちは背後にある意味を少しも理解できません。しかし、それにもかかわらず、信頼に堅く立つことが本当に大切です。主は、主がなさること、主がお許しになることをご存知です。私たちの信頼の土台は主のみことばであり、主の約束です。ヘブル書の13章6節は皆さん、よく覚えているすばらしい約束です。

ヘブル
13:5 主ご自身がこう言われるのです。・・・

だから大切ですね。

13:5 ・・・「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」
13:6 そこで、・・・

すなわち、唯一の土台なるものは、神の約束です

13:6 ・・・私たちは確信に満ちてこう言います。「主は私の助け手です。私は恐れません。人間が、私に対して何ができましょう。」

私たちは次のような時に、主の勝利にあずかることができます。すなわち、まず第一に、いつも警戒し、用心して、眠り込まないときです。第二に、信頼によって強められるときです。その土台は主の真実なることばです。主のみことばに基づいて、私たちは信頼することができます。主は決して失望させません。これだけを考えると嬉しくなるのではないでしょうか?

最後に、ちょっとだけ、成長して完全に大人になることが要求されます。ですから、『男らしくなりなさい、』という表現は、成長して大人になること、つまり、本当の意味で成長することを意味しています。ここで大切な問いが現れてくるんじゃないかな?私たちは、もうどのぐらいのあいだ、主のものとなっているのでしょうか?私たちは霊的な領城において、まだ、幼いのでしょうか。次のように、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのであります。

第1コリント
13:11 私が子どもであったときには、子どもとして話し、子どもとして考え、子どもとして論じましたが、おとなになったときには、子どものことをやめました。

これはパウロの告白です。我々の場合はどうでしょうか?私たちも、『子どものことをやめた』のでしょうか。未成熟のしるしは、ねたみや争いです。また、パウロはエペソにいる兄弟姉妹を励ますために、書いたでしょう。

エペソ
4:13 ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。

大切なことは信仰の一致に達すること、御子に関する知識の一致に達すること、完全に大人になることです。けども、これはどうすれば可能なのでしょうか?どうすれば私たちはいつも警戒し、用心していることができるのでしょうか?どうすれば私たちは信仰によって強められることができるのでしょうか?どうすれば私たちは、成長することができ、もはや幼子ではなく、大人として信仰生活を送ることができるのでしょうか。

私たちすべての者にとって明らかなことは、このことが自分の力では絶対に無理、できないということです。私たちがどうして、絶えず挫折するのか、その根拠は次のようなことでしょう。すなわち、私たちは、主がご自身の勝利の生活を私たちの中に生かすことがおできになるために、主に働く余地を与えることが必要なのですが、その代わりに、自分で勝利の生活を送ろうとしてしまう。私ではなく主、(私)の内におられるキリスト、これこそが勝利の秘訣です。

すべての挫折は、私たちが主の御霊の導きと働きに従う代わりに、自分の力でやろうとしたということを示しています。私たちが挫祈するのは当然のことです。というのは、私たちはとても不可能なことを自分でやろうとするからです。だれ一人、(自分の力で)主に喜ばれる生活を送ることはできません。それは、まったく不可能なことです。だれ一人、自分の力で勝利の生活を送るほど強くはない。けども、イエス様は勝利者です。

このイエス様に頼ると経験します。イエス様は何でもできるお方です。信頼するとイエス様は、必ず答えてくださるのです。

主により頼むこと、依存することこそが、要求されています。このことが私たちの大切な約束ごとです。自分の力でやろうとすることは意味のないことです。私たちはこの世と、この世の霊によって影響されずに、この世で生活することは絶対にできません。私たちは、私たち自身の堕落した性質を直そうとしたり、克服したりすることは絶対にできない。私たちは、自分の力で悪魔に対して勝利を勝ち取ることは無理、できません。ですから、パウロは有名なエペソ書6章の中で書いたのです。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能のカによって強められなさい。

聖書のどこにも、がんばり、一生懸命になって、自分の力で強くなりなさい、とは書かれていません。主にあって強められなさい。主の大能の力によって強められなさい、と聖書は言っています。さらにパウロは、ことばを続けて、神の武具を身につけることが、この闘いで勝利者となるために、どうしても必要であると記しています。

私たちの腰は真理の帯を締められなければならない。私たちは義の胸当てを胸につけなけれぱならない。私たちは平和の福音を宣べ伝える備えをしていなけれぱならない。信仰の大盾が意識的に用いられなけれぱならない。必要不可欠なものは、御霊の与える剣としての主のみことばです。

だれ一人、敗北を喫する必要はありません。私たちが挫折するのは私たちが自分の力でやったから。悪魔は我々のちっぽけな試みを見て、あざ笑います。決して自分により頼まないようにしましょう。主にだけより頼むと、『やっぱり主はすばらしい、何でもできるお方である』と、新たに知ることができ、大いに喜ぶことができるに違いない。

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