2026年8月4日火曜日

生きる水の川

生きる水の川
2026年3月1日、秋田福音集会
藤田匡

コロサイ
1:13 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。

皆さん、こんにちは。久しぶりに秋田集会の皆さんとお会いできて、たいへん感謝です。今日、北秋田の方に来させていただきまして、鍋島君と、また、奈良姉妹と来ていただきまして、主を中心とした交わりの中に入れていただいておりますこと、本当に感謝しております。また、それぞれの場所から、こういうふうに皆さんと顔を合わせて、主が中心におられる場所におらせていただける、本当に考えられないような恵みだなというふうに感じております。しばらくお時間いただきまして、皆様とご一緒に御言葉を味わわせていただいて、主からいただけたら感謝です。

今、お読みいただきましたコロサイ書の1章の13節でありますけれども、イエス様の十字架の御業について示されている箇所です。私たちを強いたげる『暗やみの圧制』、これはサタンの支配であります。これを、主イエス様が打ち破ってくださったと書かれております。そして、イエス様は私たちをご自身のものとしてくださり、この暗やみの圧制から、主イエス様ご自身のご支配のもとに、私たち一人一人を移してくださった、イエス様のものとしてくださったと書いております。

すなわち、イエス様がすべてのすべてであられ、イエス様が支配される御国のものとしてくださった、私たち一人一人をそのような者としてくださったと、それを御自身のいのちを捨てて、なしてくださったと書いております。

この御業は、一点のけがれもない主イエス様のいのちを絶対的に必要とする御業であります。イエス様の死なしでは、私たちは、このいのちの御業にあずかることはあり得ないことでありました。主イエス様は、計り知れないご愛をもって私たち一人一人のために、十字架上で御自身のいのちを捨ててくださり、この唯一の他にあり得ないただ一つの救いの道を、私たち一人一人に対して開いてくださったと、このように信じられないようないのちの御業について、ここに書かれております。

イエス様ご自身の語られた言葉も見させていただきたいと思います。

ヨハネ
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。

イエス様はまず、主イエス様のもとに飢え渇きをもって、何も持たない小さいものとして出ることを、ここで私たち一人一人に求めておられます。だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。このように主は、小さいものとして、本当に飢え渇き、何も持っていない小さいものとして、御前に来ることを求めておられます。そして、そのような一人一人を、主イエス様自身が満たしてくださると書いております。

そして、その人の心の奥底から、イエス様ご自身のいのちの水が溢れ出すまでに満たしてくださると書いております。主イエス様の祝福は、その人にとどまらず、周りの方々にまでも溢れ出て及ぶと、このように信じられないイエス様ご自身のいのちの御業のこと、イエス様ご自身のいのちの御力について書かれております。

『御霊』とあります。すなわち、私たちのうちに生きて働いてくださる主イエス様ご自身であります。この私たち一人ひとりのうちにおられる主イエス様ご自身の計り知れない御業が、ここに示されております。

ヨルダン川は、主のバプテスマの場所、すなわち、主イエス様がこの十字架の死とよみがえりの御業を証しされた場所でありました。この場面を少し見させていただきたいと思います。

マルコ
1:9 そのころ、イエスはガリラヤのナザレから来られ、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマをお受けになった。
1:10 そして、水の中から上がられると、すぐそのとき、天が裂けて御霊が鳩のように自分の上に下られるのを、ご覧になった。
1:11 そして天から声がした。「あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ。」

ヨルダン川におきまして、主イエス様は、神の小羊、十字架のみわざによって御国を打ち立てられるお方として、この世にご自身を示されました。

このヨルダン川においてなされた御業につきまして、他の箇所を見させていただきたいと思います。旧約聖書の列王記第二、5章の1節、ヨルダン川で主によってなされた御業が書かれております。

第二列王記
5:1 アラムの王の将軍ナアマンは、その主君に重んじられ、尊敬されていた。主がかつて彼によってアラムに勝利を得させられたからである。この人は勇士ではあったが、らい病にかかっていた。

ここに書かれておりますナアマンという人物は、有能な将軍でありました。権力も地位も名声も、彼は手にしておりました。しかし、彼には、深い痛みがありました。彼はらい病に侵されていたと書いております。彼の持つ絶大な力も、この病の前には無力でありました。輝かしい歩みをするナアマンの心の奥底で、この病はいつも重苦しくのしかかっておりました。ナアマンは、この深い悩みの中で、主のことを耳にし、主の預言者、エリシャのもとに行きました。

同じ列王記第二の5章の10節、この預言者、エリシャのもとにナアマンが訪ねて行ったときのことが書かれております。

第二列王記
5:10 エリシャは、彼に使いをやって、言った。「ヨルダン川へ行って七たびあなたの身を洗いなさい。そうすれば、あなたのからだが元どおりになってきよくなります。」
5:11 しかしナアマンは怒って去り、そして言った。「何ということだ。私は彼がきっと出て来て、立ち、彼の神、主の名を呼んで、この患部の上で彼の手を動かし、このらい病を直してくれると思っていたのに。
5:12 ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか。」こうして、彼は怒って帰途についた。

ナアマンは、預言者が将軍である自分を出迎えて、彼の患部に手を置いて治すのが当然であると考えました。しかし、預言者エリシャは、使いを送って伝言を伝えたのみだったと書いております。

主イエス様は、イスラエルのヨルダン川を示されました。しかし、ナアマンは、自分の祖国、ダマスコの川はそれに勝っていると思いました。ナアマンには、主の言葉よりも自分の言葉が正当に思われました。そして、ナアマンはプライドを傷つけられ、怒りに満たされました。

ナアマンは、自分の持つ力や富を拠り所としたまま、主の御前に出ようとしました。そして、自分自身を主よりも上に置きました。主は、これを打ち砕かれました。

第二列王記
5:13 そのとき、彼のしもべたちが近づいて彼に言った。「わが父よ。あの預言者が、もしも、むずかしいことをあなたに命じたとしたら、あなたはきっとそれをなさったのではありませんか。ただ、彼はあなたに『身を洗って、きよくなりなさい。』と言っただけではありませんか。」

ナアマンが、自分の考えを主の言葉よりも上に置き、ナアマン自身の思いにとどまっている限り、主の御業は決してなされませんでした。そして、らい病はナアマンの上にとどまり続けました。

ナアマンは、自分を中心として、自分を主よりも高いものとしました。そして、実は、空中の権威を持つ支配者のもとにありました。この支配者、すなわち、サタンは、『あなたがたは神のようになる』とささやくものであります。この時、ナアマンは知らずのうちに、御国の外に追いやられておりました。ナアマンには主の権威が見えませんでした。

第二列王記
5:14 そこで、ナアマンは下って行き、神の人の言ったとおりに、ヨルダン川に七たび身を浸した。すると彼のからだは元どおりになって、幼子のからだのようになり、きよくなった。
5:15 そこで、彼はその一行の者を全部連れて神の人のところに引き返し、彼の前に来て、立って言った。「私は今、イスラエルのほか、世界のどこにも神はおられないことを知りました。」

ナアマンは、このようにしてヨルダン川に身を浸しました。六回目までは何も起こりませんでした。ナアマンが七回、身を沈め、主の言葉に全く同意し、主の御前に完全にひれ伏した時、主の御業は即座になされました。ナアマンは主を恐れるものとされました。主の御国に入れられるもの、生ける水の川にあずかるものとされました。

ナアマンは自分の思い、また、自分の誇りを主の御前に手放させられました。すなわち、自分の思いにおいて、主イエス様の十字架の死とひとつとされました。主イエス様のご支配のもとに移されました。そして、御国に属するものとされました。

ナアマンは、主イエス様のよみがえりのいのちの御業にあずかりました。主イエス様はご自身のいのちを捨てて、十字架の御業を完成してくださいました。十字架の死とよみがえりの御業にあずかる恵みを、私たち一人一人に開いてくださいました。

ヨルダン川でなされましたもう一つの主の御業を見させていただきたいと思います。モーセが主のもとに召された後、ヨシュアに率いられたイスラエルの民が、ヨルダン川を渡って、主から与えられた約束の地に入る時の記録であります。

ヨシュア記
3:11 見よ。全地の主の契約の箱が、あなたがたの先頭に立って、ヨルダン川を渡ろうとしている。

3:13 全地の主である主の箱をかつぐ祭司たちの足の裏が、ヨルダン川の水の中にとどまると、ヨルダン川の水は、上から流れ下って来る水がせきとめられ、せきをなして立つようになる。

3:17 主の契約の箱をかつぐ祭司たちがヨルダン川の真中のかわいた地にしっかりと立つうちに、イスラエル全体は、かわいた地を通り、ついに民はすべてヨルダン川を渡り終わった。

4:18 主の契約の箱をかつぐ祭司たちが、ヨルダン川の真中から上がって来て、祭司たちの足の裏が、かわいた地に上がったとき、ヨルダン川の水はもとの所に返って、以前のように、その岸いっぱいになった。

イスラエルの民は、四十年ものあいだ、荒野をさまよい続けておりました。これは、イスラエルの民が主にそむき、自分の思いを中心とし、主に背を向けた歩みを示しておりました。そして今、イスラエルの民は、新しい約束の地、主のいのちの地に入ろうとしておりました。

しかし、荒野の旅から解放され、新しい地に入るためには、イスラエルの民、一人一人がヨルダン川を渡る必要がありました。ヨルダン川は、先ほど示されておりました通り、主イエス様の十字架の御業を示す場であります。すなわち、一人一人が十字架の死を通り、十字架のいのちに至る必要がありました。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。

ここに、主イエス様の十字架のもとにとどまるものとされること、主の御前に小さくされ、主に明け渡された空の器とされること、主により頼むものとされることが書かれております。これは十字架の痛みを伴うことであります。しかし、主イエス様は明確な目的を持って、一つ一つ起こされる悩みや困難を用いて、完全にこの御業を成してくださいます。

私たちは、主がなされる一つ一つのことに対して、『アーメン』と主を礼拝し、御前にひれ伏す者へと、主イエス様ご自身によって変えられていきます。先ほどのナアマンは、この恵みを受け取りました。

主の御前に砕かれ、小さくされた一人一人を通して、その傷を通して、主イエス様のいのちが流れます。そして、その人たち自身にとどまらず、満ち溢れ出て、主イエス様のよみがえりのいのちの喜びが、御体なる教会全体に及びます。このようにして、民全体が新しい地に入れられました。いのちの水がイスラエルの民全体を満たしました。詩篇をお読みしたいと思います。

詩篇
1:1 幸いなことよ。悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人。
1:2 まことに、その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ。
1:3 その人は、水路のそばに植わった木のようだ。時が来ると実がなり、その葉は枯れない。その人は、何をしても栄える。

ここで一節に、『幸いなことよ』と書いております。幸いな人について書かれております。一節にありますように、『悪者のはかりごとに歩まず、罪人の道に立たず、あざける者の座に着かなかった、その人』と、このように書いてあります。

この幸いな人は、主によって、悪から遠ざけられていた人でありました。この人が、空中の権威を持つ支配者、サタンの支配から守られているのを見ます。しかし、この人自身が、強い者であるとは全く書かれておりません。二節にこの人の様子が書かれております。『その人は主のおしえを喜びとし、昼も夜もそのおしえを口ずさむ』と書いております。

この人は主の教えを喜びとしました。すなわち、主の御心、主イエス様の望まれることが、幸いな人の喜びでありました。この人は、自分自身の弱さ、また、無力さを知っておりました。一歩、歩むのにも、主イエス様が必要でありました。そしていつも、主イエス様のもとに身を置きました。これが幸いな人の歩みでありました。この人は主イエス様が支配される御国に属する者とされておりました。

この詩篇1編の3節に、この人は、『水路のそばに植わった木』に例えられております。この木は、水の流れのほとりに植えられておりました。木は水を得て生きているために、水路のそばに留まる必要がありました。

木自身には、自分を満たすものはありませんでした。水路から水を絶えず受け取り、いのちの水がこの木の内で働き、葉を茂らせ、実を実らせました。この人は自分自身では歩む力を持たない、貧しい小さい者として、主に満たされることを心から求めました。

そして、主に明け渡されたこの人を通して、主イエス様ご自身がこの人の内で、いのちの御業をなされました。『時が来ると実がなり』と、ここに書かれております。主イエス様ご自身は、実を結ばれるお方であります。主は間違いなく、実を結ばれるそのようなお方であられます。主イエス様ご自身が、この幸いな人の内で御業をなされ、豊かな実を結ばれました。

黙示録には、来たるべき御国でのこのいのちの水の川が示されております。

黙示録
22:1 御使いはまた、私に水晶のように光るいのちの水の川を見せた。それは神と小羊との御座から出て、
22:2 都の大通りの中央を流れていた。・・・・
22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、
22:4 神の御顔を仰ぎ見る。・・・・

この1節から2節に、『神と小羊』とあります。そして、御座から出るいのちの水の川が示されております。神と小羊、すなわち、父なる神様と小羊、主イエス様であります。そして、御座から出るいのちの水の川、聖霊であります。父なる神様と小羊、主イエス様と聖霊が三位一体のひとつのお方として、ここに示されております。

また、都とあります。都は、小羊の花嫁とされる新しいエルサレムであります。すなわち、主イエス様に属するすべてのもの、一人一人からなる御体なる教会であります。

そして、このいのちの水の川につきまして、この一節から二節の箇所に、いのちの水の川は都の中央を流れているとこのように書かれております。また、三節には、神と小羊の御座が都の中にあると書かれております。ここには、何者にも妨げられることのない主と、主に属する私たち一人一人との絶えざる交わりが示されております。

完成された御国がここに示されております。御国では、主がすべてのすべてであられます。主イエス様の完全なご支配がここにあります。主イエス様は、いのちを捨てて、私たち一人一人にこの御国への道を開いてくださいました。これは計り知れない大きな恵みであります。

この主に、すべての栄光が帰されますように。主の御前に小さいものとしてへりくだりを持って出る一人一人を、主は心から喜んで、ご自身によってあふれるばかりに満たしてくださいます。最後に御言葉を読んで終わらせていただきたいと思います。

黙示録
22:14 自分の着物を洗って、いのちの木の実を食べる権利を与えられ、門を通って都にはいれるようになる者は、幸いである。

22:16 「わたし、イエスは御使いを遣わして、諸教会について、これらのことをあなたがたにあかしした。わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である。」
22:17 御霊も花嫁も言う。「来てください。」これを聞く者は、「来てください。」と言いなさい。渇く者は来なさい。いのちの水がほしい者は、それをただで受けなさい。

どうも、ありがとうございました。

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