2023年2月23日木曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】17.ふたりの証人

17.ふたりの証人

黙示録11章3節から14節まで

1.ふたりの証人とは誰か
[1]イエス様の証人
[2]二本のオリーブの木
[3]二つの燭台
2.何をするか
[1]行動の時
[2]行動の場所
[3]行動の武器
3.何を体験するか
[1]死
[2]よみがえり
[3]昇天

黙示録の3節から14節までのテーマは、「ふたりの証人」についてです。それはまた、「終りの時代におけるイエス様の証し人の道」、「証しと苦難」、また、「あざけりに満ちた時代における証しの奉仕」、「証人のイエス様への忠実さ」、「多くの敵の中での、精霊に満たされた証し」、と言うことができます。まず、本文を見てみましょう。

(3)それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。(4)彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。彼らに害を加えようとする者があれば、火が彼らの口から出て、敵を滅ぼし尽くす。(5)彼らに害を加えようとする者があれば、必ずこのように殺される。(6)この人たちは、預言をしている期間は雨が降らないように天を閉じる力を持っており、また、水を血に変え、そのうえ、思うままに、何度でも、あらゆる災害をもって地を打つ力を持っている。
(7)そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。(8)彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
(9)もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。(10)また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。(11)しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。(12)そのときふたりは天から大きな声がして、「ここに上れ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。(13)そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。(14)第二のわざわいは過ぎ去った。見よ。第三のわざわいがすぐに来る。(黙示11・3~14)

私たちはこれから、三つの問いについて考えてみたいと思います。まず、「このふたりの証人は誰か。つまり、ふたりの証人の特徴について。」ついで、「ふたりの証人は何をするか。つまり、彼らの活動と使命について。」そして「ふたりの証人は何を体験するか。つまり、彼らの生涯について」です。

1.ふたりの証人は誰か

これについては、三つのことが言えます。まず、「ふたりの証人は、イエス様の証人」であり、「オリーブの木」であり、「燭台」です。

[1]イエス様の証し人


私たちは黙示録の10章1節で、「強い御使い」というのはイエス様であることを見てきました。黙示録の11章3節で、イエス様は明らかに、これらふたりの証人が「わたしの証人である」と言っておられます。「わたしの証人」という言葉はしばしばイスラエル民族の全体に対して用いられます。イスラエルの民は、イエス様の証人となるように召されているのです。

「あなたがたはわたしの証人、主の御告げわたしが選んだわたしのしもべである。・・・・このわたしが、告げ、救い、聞かせたのだ。あなたがたのうちに、異なる神はなかった。だから、あなたがたはわたしの証人。・・・・恐れるな、おののくな。わたしが、もう古くからあなたに聞かせ、告げてきたではないか。あなたがたはわたしの証人。わたしのほかに神があろうか。ほかに岩はない。わたしは知らない。」(イザヤ43・10、12、44・8)

11章の1節で私たちは、「礼拝している人」について学んできました。この3節で私たちは、「証人」について語られているのを見ます。私たちもここに記されているのと同じように、まず「礼拝をささげるために」召され、次に「人々に対して証しをするために」召されているのです。つまりこれは、一つは主に対する奉仕であり、もう一つは人に対する奉仕です。

しかし、この11章3節では、「ふたりの証人」というのはイスラエル民族の全体を指しているのではなく、イスラエル民族の中の「ふたりの」証人を意味しています。証人は遣わされることによって初めて意味を持ちます。つまり「誰が」その人を証人として遣わすかが大切です。そして言うまでもなく、全地を統べておられる主が彼らを遣わされるのです。

かつて多くの人々は、この「ふたりの証人」を「モーセとエリヤである」と考えました。エリヤは天に上りました。ユダヤ人の言い伝えによれば、モーセも同じように天に上ったと言われています。またそれがモーセでないとすれば、もう一人の証人は「エノク」だと考えられました。

「あなたがたは、わたしのしもべモーセの律法を記憶せよ。それは、ホレブで、イスラエル全体のために、わたしが彼に命じたおきてと定めである。見よ。わたしは、主の大いなる恐ろしい日が来る前に、預言者エリヤをあなたがたに遣わす。」(マラキ4・4、5)

マラキ書にはモーセとエリヤのことが記されています。マラキ書に書かれていることは、部分的には洗礼者ヨハネによって成就しました。しかし、マラキ書に語られている預言のすべては、終りの時代に、恐るべき苦難の時に、完全に成就します。

黙示録11章に出てくる「ふたりの証人」は、モーセとエリヤです。なぜなら変貌山で、イエス様の前にふたりが姿を現わしたからです。イエス様がこの地上に来られたように、モーセとエリヤもそのときこの地上に戻ってきて、変貌山でイエス様と苦難と十字架、終りの時代のことなどについて語ったのだと思われます。しかし聖書は、ふたりの証人がモーセとエリヤであると明記しているわけではないので、私たちもこのふたりの証人がモーセとエリヤに間違いないと断定することはできません。しかしいずれにしても、ふたりの証人が「モーセとエリヤの力を持っていた」ということは間違いありません。このふたりの証人は、天においても、地においても、すべての権力を持っておられるイエス様について証しをするのです。

[2]二本のオリーブの木

次にふたりの証人は、証人であるばかりでなく、「オリーブの木」でもあります。ゼカリヤ書の次の箇所には、オリーブの木について記されています。

彼(御使い)は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」・・・・私はまた、彼に尋ねて言った。「燭台の右左にある、この二本のオリーブの木は何ですか。」・・・・すると彼は、私にこう言った。「あなたは、これらが何か知らないのか。」私は言った。「主よ。知りません。」彼は言った。「これらは、全地の主のそばに立つ、ふたりの油注がれた者だ。」(ゼカリヤ4・2、3、11、13、14)

このゼカリヤ4章14節によると、オリーブの木は、全地の主のそばに立つ「ふたりの油注がれた者」です。彼らはイエス様が全地の支配者であり、まもまくその支配権が全地に現われることを宣べ伝えるのです。

ゼカリヤ書における二本のオリーブの木は、ヨシュアとゼルバベルを象徴しています。そしてそれは黙示録における二本のオリーブの木をも象徴し、彼らとともにイエス・キリストを指し示しているのです。

オリーブの木はともしびの「力の源」です。私たち人間は、イエス様なくしてほんとうに霊とまことをもって主に仕えることはできません。したがって、「力の源」という意味では、イエス様もオリーブの木も同じことであり、オリーブの木はイエス様を指し示しているのです。ふたりの証人は、王であり祭司としてイエス様を証ししているのです。

主は誓い、そしてみこころを変えない。「あなたは、メルキゼデクの例にならい、とこしえに祭司である。」(詩篇110・4)

ヨシュアもゼルバベルも、神によって特別に備えられた主の証人でした。彼らは、バビロンの捕囚のあとで、エルサレムの神殿を復興するという使命を与えられていました。しかしサタンは、まずイスラエルの民を、偶像を礼拝するようにと誘惑したのです。その結果イスラエルの民は捕らえられ、外国の民族によって支配されることになりました。そしてさらに、サタンはあらゆる方法をもってエルサレムの町と神殿の復興に対して反抗しました。つまり、大きな闇がエルサレムを支配するようになったのです。この闇の中で主の証し人となるためには、人はオリーブの木のようにならなければなりません。オリーブは、聖書によれば「聖霊の象徴」です。これらふたりの証人がオリーブの木であるという意味は、ふたりの証人たちが、聖霊によって完全に満たされていたということを表わしているのです。

[3]二つの燭台


次に、ふたりの証人は、「燭台」でもあります。なぜなら、ふたりの証人は、「燭台」のように燃えているからです。終りの世の闇の中で、ふたりは燭台のように輝いています。そして、これと同じ働きは、私たちにもそなえられています。

しかし、聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、および地の果てにまで、わたしの証人となります。(使徒1·8)

私たちも、主を証しする明りになっているでしょうか。私たちをとおして、光が、学校の中に、職場の中に、家庭の中に、輝いているでしょうか。この終りの時代に遣わされている者は、みなが証し人であり、オリーブの木であり、燭台なのです。

証し人とは、自分を語るのではなく、イエス様を語る者です。オリーブの木は、聖霊で満たされ、特定の使命のために、聖霊の満たしを受けている者を表わしています。

燭台とは、ともしびであり、燃えるものです。イエス様のみこころにかなうように、という願いに燃えている者を表わしています。

肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(第二コリント5・9)

私たちの人生の目的は何でしょうか。迷う人々をイエス様のみもとに連れてくることでしょうか。教会を建てることでしょうか。信仰の復興を起こすことでしょうか。もちろんこれらのことが悪いというのではありません。しかし、これらのことよりも、もっともっと大切なことがあります。それは「イエス様のみこころにかなった生活をする」ことです。私たちの心の中の、もっとも深い願いは何でしょうか。主の前に静まって、このことをよく考えてみたいと思います。

2.何をするか


次に、ふたりの証人の行動と使命について考えてみましょう。ふたりは全地がイエス様のものであることを宣べ伝えるのです。

ふたりは、イエス様こそが全地を支配するお方であり、このお方によってイスラエルが回復されることを宣べ伝えます。ゼカリヤは、全地の王と祭司となるべきお方について、預言の成就を目のあたりに見ていたのです。

また、このふたりは荒布を着ています。これは悔い改めを象徴しています。ダニエルと同じように、ふたりの証人も、イスラエルの罪の下に身を沈めるのです。

この時代には、反キリストが現われ、神の義が踏みにじられて、悲しみが町に満ちていました。ふたりは口先だけで悔い改めを叫んだのではなく、洗礼者ヨハネと同じように自分の全存在をかけて民の罪を告げたのです。すべての人は、イエス様の再臨だけが重要であって、その他の一切のことは第二次的な意味しかないことを知らなければならなかったのです。

悔い改めのしるしとして、旧約聖書の時代においては、人々は悲しみの衣を身にまとわなければなりませんでした。

ヤコブは自分の着物を引き裂き、荒布を腰にまとい、幾日もの間、その子のために泣き悲しんだ。(創世記37・14)

ヒゼキヤ王は、これを聞いて、自分の衣を裂き、荒布を身にまとって、主の宮にはいった。(イザヤ37・1)

「・・・・彼らはとうの昔に荒布をまとい、灰をかぶって悔い改めていたことだろう。」(マタイ11・21)

ふたりはイエス様こそが王の王であること、また来るべき全地の支配者であることを宣べ伝えます。イエス様は王としてまた祭司として、回復されるイスラエルの支配者となられるのです。

さてこれから、黙示録に出てくる「ふたりの証人」について、三つのことを考えてみましょう。まず、ふたりの証人の「行動の時」がいつなのか、次に「行動の場所」はどこか、そして「行動の武器」は何か、どのように戦うのか、などについてです。

[1]行動の時


ふたりの証人が出てくるのは、恵みの時ではなく、怒りとさばきの時です。したがって私たちは、ふたりの証人の祈りが、恵みを求めるものでなく、さばきを求めるものだということがわかります。

この点について、すこし説明しておきましょう。私たちがすでに学んできたように、教会の携挙の後で千年王国にいたるまでには、その間に七年の期間が横たわっています。そして、この七年の前半の三年半のうちに、次のようなことが起こります。

彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示6・10)

この期間に反キリストが現われて、イスラエル民族と平和を守る約束をします。

「彼は一週の間、多くの者と堅い契約を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・27)

この期間には、ふたりの証人も現われて、主の御名によって預言を行ないます。

「それから、わたしがわたしのふたりの証人に許すと、彼らは荒布を着て千二百六十日の間預言する。」(黙示11・3)

この後、黙示録11章の4節から13節にわたって、そのときに起こることが記されています。

この期間の中で、かつて黙示録の7章で学んだように、イスラエル民族の十四万四千人の額に、神のしもべとしての印が押されるのです。

そしてこの期間には、十の国が結束した帝国が起こるのです。

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神を汚す名があった。(黙示13・1)

「あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。この者どもは子羊と戦いますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、子羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(黙示77・12~14)

また、これらに関連する旧約聖書の言葉としては、他の章でも学んだとおり、ダニエル書の2章36節から45節まで、7章の7、8節と23節から27節までがあり、あわせてお読みくださるといいと思います。

そして、今学んでいる13章の11節から1節を読むと、にせ預言者が反キリストの側に立つのもこの期間であることがわかります。

さらに、この七年間の後半の三年半にどのようなことが起こるかを説明しておきましょう。

七年半のちょうど中頃において、反キリストは、ユダヤ民族と交わしていた平和の約束を、破ります。そして、二人の証人を殺害してしまうのです。こうしてイスラエル民族にとっての、大きな苦難が始まります。

「彼は一週の間、多くの者と堅い約束を結び、半週の間、いけにえとささげ物とをやめさせる。荒らす忌むべき者が翼に現われる。ついに、定められた絶滅が、荒らす者の上にふりかかる。」(ダニエル9・27)

そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。彼らの死体は、霊的な理解ではソドムやエジプトと呼ばれる大きな都の大通りにさらされる。彼らの主もその都で十字架につけられたのである。
もろもろの民族、部族、国語、国民に属する人々が、三日半の間、彼らの死体をながめていて、その死体を墓に納めることを許さない。また地に住む人々は、彼らのことで喜び祝って、互いに贈り物を贈り合う。それは、このふたりの預言者が、地に住む人々を苦しめたからである。(黙示11・7~10)

しかし、ふたりの証人は、死からよみがえり、神のみもとに上ります。

しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。そのときふたりは、天から大きな声がして、「ここに上がれ。」と言うのを聞いた。そこで、彼らは雲に乗って天に上った。彼らの敵はそれを見た。そのとき、大地震が起こって、都の十分の一が倒れた。この地震のため七千人が死に、生き残った人々は、恐怖に満たされ、天の神をあがめた。(黙示11・11~13)

その後に、この三年半は恐ろしい戦乱と革命の時代になります。この時代に起こることは、黙示録の6章全体に示されています。つまり、すでに学んだとおり、子羊が七つの封印を解き、白い馬、赤い馬、黒い馬、青ざめた馬が現われ、その後に殉教の人々がさばきを叫び、そして大きな地震と星が地上に落ち、地上の主に従わぬ人々が逃げまどい、御怒りの日が来ます。くわしくは、6章の学びをもう一度お読みください。

この時の、まことの信者であるユダヤ人に対する迫害は、例を見ないほどに激しいものになります。そして、これについては、今学んでいる黙示録13章の11節から16節に示されています。このようにして、イスラエル民族の全体が悔い改めにすすむのです。

その日、主は、エルサレムの住人をかばわれる。その日、彼らのうちのよろめき倒れた者もダビデのようになり、ダビデの家は神のようになり、彼らの先頭に立つ主の使いのようになる。その日、わたしは、エルサレムに攻めて来るすべての国々を捜して滅ぼそう。(ゼカリヤ12・8、9)

さらに、いつわりの教会も破壊されます。

この者どもは子羊と戦いますが、子羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、子羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」(黙示17・14)

この世の支配権は、イエス・キリストの再臨によって、破壊されます。

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。・・・・その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば。」と呼ばれた。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。・・・・また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕らえられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕らえられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。(黙示19・11・13・15・19~21)

終りの時代はまた、しるしと奇跡の時代です。獣である反キリストやにせ預言者が、多くのしるしと奇跡とを行ないます。そして、多くの人々が驚きます。しかし、ふたりの証人のしるしと奇蹟は、それらにまさるものです。誰もこのふたりの証人に打ち勝つことはできません。これは、十四万四千人のまことの信者であるユダヤ人にとって大きな励ましとなることでしょう。彼らの証言は、ふたりの奇蹟によって、その真実であることが証明されるのです。もちろん、この世の力は、ふたりの証人の力を消し去ることはできません。

千二百六十日の間、ふたりの証人は反キリストに対抗します。この千二百六十日が終わるまでには、ふたりの力は絶えることはありません。神が彼らの力となられるからです。

そして、この期間はまた、試練のときです。封印のさばきとラッパのさばきは現実的なものです。あらゆるさばき、あらゆる反キリストの力にかかわらず、ふたりの証人の力は絶えることがありません。これはイエス様の全能の力を証しするものです。

試練は恐るべきものですが、これをとおしてイスラエル民族は神の器となります。また、この時代には一つの分離が起こります。つまり、十四万四千人のユダヤ人がユダヤ民族の中から分離されて、全地にわたってイエス様の証人となるのです。

さらに、この時代は恐るべき堕落の時代です。この堕落もまた現実的なものです。しかし、ふたりの証人は彼らを取り巻いている現実を見ることなく、ただ主だけを仰ぎ見たのです。

主は私たちにも、ふたりの証人と同じように、罪に対してはっきりとした態度をとることを望んでおられます。神の証しは、闇の夜における明りです。

[2]行動の場所


次に、私たちはふたりの証人の「行動の場所」について考えてみましょう。

その場所はエルサレムです。かつて使徒たちはエルサレムにおいて証しをしましたが、この終わりの時代においても、ふたりの証人はエルサレムで証しをするのです。エルサレムはかつて「聖なる都」と呼ばれていました。しかし、この都はきわめて反キリスト的となり、獣である反キリストとともに行動するものとなりました。ユダヤ人はこの世から分離することなく、かえってこの世的になってしまったのです。

「ユダヤ人である」ということは、神のものであり、神のためのものである、という意味です。しかし、そのユダヤ人たちは、イエス様の支配と権威とを拒む者の集団となってしまいました。そのために、ユダヤ人であるということは、イエス・キリストに逆らう者、と言う意味にすらとられるようになってしまったのです。それはかつてのイエス様の弟子たちがすべてユダヤ人であったことを考えるとまことに悲しむべきことです。

弟子たちはイエスに言った。「先生。たった今ユダヤ人たちが、あなたを石打ちにしようとしていたのに、またそこにおいでになるのですか。」(ヨハネ11・8)

その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」(ヨハネ20・19)

イエス様に属するべきユダヤ人が、イエス様に敵対するようになったと同じように、かつての聖なる都エルサレムも、ソドムやエジプトと同じように堕落してしまったのです。

ソドムは堕落と誘惑に満ちた町でした。

もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。聞け。ソドムの首領たち。主のことばを。耳を傾けよ。ゴモラの民。私たちの神のみおしえに。(イザヤ1・9~10)

「まことの神から離れることは霊的な姦淫である」と主は言われています。

どうして、遊女になったのか、忠信な都が。公正があふれ、正義がそこに宿っていたのに。今は人殺しばかりだ。(イザヤ1・21)

エジプトは偶像を持ち、かたくなであり、神の民にたいする憎しみに満ちた国でした。またそれらすべての象徴でもありました。ソドムの特徴は姦淫であり、エジプトの特徴は力をもって神の民を押さえつけたことにあります。

聖なる都であるエルサレムは、かつては預言者たちを殺し、イエス様を十字架で殺し、そして終りの時代には、まことの神から離れているこの世の象徴となるのです。エジプトは、まことの神に仕えようとした民を捕らえ、押さえつけた国でした。多くのユダヤ人は、主のために残されたユダヤ人に対して敵対する者になりました。

「エルサレムの預言者の中にも、恐ろしい事をわたしは見た。彼らは姦通し、うそをついて歩き、悪を行なう者どもの手を強くして、その悪からだれをも戻らせない。彼らはみな、わたしには、ソドムのようであり、その住民はゴモラのようである。」(エレミヤ23・14)

イスラエルの歴史には、いつも残された少数の忠実な証し人が存在していました。それは、まことの神から離れたイスラエル国民の中に残された、霊的なイスラエルでした。

エリヤの時代にも、バアルに膝をかがめない七千人が残されていました。

「しかし、わたしはイスラエルの中に七千人を残しておく。これらの者はみな、バアルにひざをかかめず、バアルに口づけしなかった者である。」(第一列王記19・18)

イザヤの時代にも、このような小さな群れが存在していました。この小さな群れが残っているために、主はイスラエルの民を滅ぼすことをなさらなかったのです。

もしも、万軍の主が、少しの生き残りの者を私たちに残されなかったら、私たちもソドムのようになり、ゴモラと同じようになっていた。(イザヤ1・9)

「その日になると、イスラエルの残りの者、ヤコブの家ののがれた者は、もう再び、自分を打つ者にたよらず、イスラエルの聖なる方、主に、まことをもって、たよる。」(イザヤ10・20)

捕囚の時にもこのような人々が存在しました。彼らは少数の群れとなっていたのです。その人々の中に、エステル、モルデカイ、エゼキエル、ダニエルとその友達などがいたのです。

イエス様がお生まれになったときにも、洗礼者ヨハネやシモン、アンナなど、イスラエルの救いを待ち望んでいる人々がいたのです。

ちょうどこのとき、彼女(アンナ)もそこにいて、神に感謝をささげ、そして、エルサレムの贖いを待ち望んでいるすべての人々に、この幼子のことを語った。(ルカ2・38)

現在でも、イエス・キリストを救い主、メシヤであると信じる少数のユダヤ人が存在しています。しかし、大きな艱難の時には、イエス様を救い主として告白する人々は、十四万四千人になるのです。

それから私が、印を押された人々の数を聞くと、イスラエルの子孫のあらゆる部族の者が印を押されていて、十四万四千人であった。(黙示7・4)

以上のことから明らかなように、ふたりの証人の「行動の場所」は次のとおりです。

まず、ふたりの証人の行動の場所」は、預言者たちとイエス様とが殺された都です。

そこで、ピラトは彼らのためにバラバを釈放し、イエスをむち打ってから、十字架につけるために引き渡した。(マタイ27・26)

次に、ふたりの証人の「行動の場所」は恥とのろいの場所です。

イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。(ヘブル12・2)

キリストは、私たちのためにのろわれた者となって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれた者である。」と書いてあるからです。(ガラテヤ3・13)

また、ふたりの証人の「行動の場所」は、救いを拒まれた、死の都です。

祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」(ヨハネ19・6)

「・・・・人の子は、祭司長、律法学者たちに引き渡されるのです。彼らは人の子を死刑に定めます。そして、あざけり、むち打ち、十字架につけるため、異邦人に引き渡します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」(マタイ20・18、19)

これらは決して魅力のある場所、快適な場所ではありませんでした。私たちは、神が私たちを困難な状況と、困難な働きの場所に導かれるときに、このふたりの証人によって励ましを受けようではありませんか。主は言われます。

「わたしは、あなたの苦しみと貧しさとを知っている。・・・・わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」(黙示2・9、13)

[3]行動の武器


次に、ふたりの証人の行動の「武器」について考えてみましょう。彼らは何を武器にして戦うのでしょうか。

ふたりの証人が置かれる場所も、時代も、たいへんきびしいものですが、このような状況の中で彼らは十分な武器を与えられるのです。それは「彼らの立場」、「彼らの持つ証し」、そして「彼らの防衛力」の三つです。

まず「彼らの立場」は、全地の支配者である主の前に立つ者です。全世界はふたりの証人に敵対しますが、主は、ふたりの証人の味方となられます。

神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。(ローマ8・31)

エリヤも、「私たちの仕えている神」と言っています。

・・・・エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしのことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(第一列王記17・1)

エリヤが主に仕えていると言ったときには、エリヤは主の前に立ち、主から使命を授けられ、主の使いとなることを意味していたのです。エリヤは主の使命をなしとげるときに、神の権威を授けられたのです。

アブラハムも、堕落し、まさにさばきに会おうとしていた民をかばって、主の御前に立ち続けました。

ふたりの証人もまた、主の前に立ち、主のみ旨にかなうことを求めるので、闇の世の中で光となります。

次の武器は、「彼らの持つ証し」です。彼らが持つのは主の権威です。ふたりの証人は、天を閉ざしたエリヤと同じような、また水を血にかえたモーセと同じような主の権威を持つのです。

このふたりの証人は、エリヤとモーセに共通したところがあります。ふたりの証人は、天と地と海に対する権威を持っています。ふたりの証人は、不正な者に反抗し、彼らを悩まし、決して彼らを避けたりしません。彼らは、主と人の正しさを足で踏みにじる者に対して、苦しみとなります。そして、主に対して忠実に生きる者に対しては、慰めと励ましとなります。

私たちは、モーセがエジプトにわざわいをもたらしたとき、彼がいかにエジプトを悩ませたかを思い出します。

主はモーセに仰せられた。「パロの心は強情で、民を行かせることを拒んでいる。あなたは朝、パロのところへ行け。見よ。彼は水のところに出て来る。あなたはナイルの岸に立って彼を迎えよ。そして、蛇に変わったあの杖を手に取って、彼に言わなければならない。ヘブル人の神、主が私をあなたに遣わして仰せられます。『わたしの民を行かせ、彼らに、荒野でわたしにつかえさせよ。」ああ、しかし、あなたは今までお聞きになりませんでした。」(出エジプト7・14~16)

すると、主はきわめて強い西の風に変えられた。風はいなごを吹き上げ、葦の海に追いやった。エジプト全域に、一匹のいなごも残らなかった。(出エジプト10・19)

さらに私たちは、コラの家族に対する主のさばきについて思い出すのです。

彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。(民数記16・33)

さらに、三年半にわたって、天を閉ざしたエリヤのことを思い出します。

・・・・エリヤはアハブに言った。「私の仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。私のことばによらなければ、ここ二、三年の間は露も雨も降らないであろう。」(第一列王記17・1)

あるいはエリヤがその敵を火で滅ぼしたことを思い出します。

エリヤはその五十人隊の長に答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から火が下って来て、彼と、その部下五十人を焼き尽くした。(第二列王記1・10、12)

それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「あなたがたが、このようなことを言ったので、見よ、わたしは、あなたの口にあるわたしのことばを火とし、この民をたきぎとする。火は彼らを焼き尽くす。」(エレミヤ5・14)

ふたりの証人の口から出ていた火は、彼らのさばきの言葉を意味していると思われます。

「それゆえ、見よ、わたしはあなたがたを全く忘れ、あなたがたと、あなたがたや先祖たちに与えたこの町とを、わたしの前から捨て、永遠のそしり、忘れられることのない、永遠の侮辱をあなたがたに与える。」(エレミヤ23・39)

しかし、彼が知恵と御霊によって語っていたので、それに対抗することができなかった。(使徒6・10)

ふたりの証人の言葉は、すでに悔い改めを求める最後の呼び掛けであるというよりは、さばきの言葉です。イエス様が、ふたたび来られること、すべての真理に敵対している人々に対するさばきがくだされることを告げるのです。

真理に対する意識的な反抗は、モーセに逆らったパロに、またエリヤに逆らったアハブとイゼベルに見ることができます。しかしどの場合も、彼らはモーセやエリヤの言葉の背後に全能の主が立っておられることを知っていたのです。

天を閉ざすということは、単に雨を止めるというだけでなく、恵みの雨をも閉ざすことを意味しています。恵みを拒まれた者は、さばきに向かうのです。

黙示録11章6節にある、「水を血に変え」という言葉は、現代の水質の汚染などを意味するだけでなく、愛も、家庭も、芸術も、文化も、あらゆる人間の営みが混乱して汚されることを意味しています。

さらに、ふたりの証人の「防衛力」について考えてみましょう。

彼らの防衛力は、5節にあるとおり、「口から出る」火です。彼らに害を加えようとする者があれば、この火が敵を滅ぼし尽くします。彼らの防衛力は主が許された千二百六十日だけ続きます。

エリヤは彼らに答えて言った。「もし、私が神の人であるなら、天から火が下って来て、あなたと、あなたの部下五十人を焼き尽くすだろう。」すると、天から神の火が下って来て、彼とその部下五十人を焼き尽くした。(第二列王記1・12)

それゆえ、万軍の神、主は、こう仰せられる。「あなたがたが、このようなことを言ったので、見よ、わたしは、あなたの口にあるわたしのことばを火とし、この民をたきぎとする。火は彼らを焼き尽くす。(エレミヤ5・14)

ふたりの証人は、その使命を果たし終えるまでは、死ぬことがありません。

ヤコブとヨハネは、かつて、イエスの時代に、天からの火を求めたことがあります。

弟子のヤコブとヨハネが、これを見て言った。「主よ。私たちが天から火を呼び下して、彼らを焼き滅ぼしましょうか。」しかし、イエスは振り向いて、彼らを戒められた。(ルカ9・54~56)

イエス様は彼らをきびしく戒めて、「あなたがたは神の子ではないか。それなのに、なんということを言うのか。」と言われたのです。このときはまだ「恵みの時」でした。しかし、黙示録ではすでに恵みの時が終わり、さばきの時が始まっているのです。

3.何を体験するか


[1]死


さて次に、ふたりの証人は何を「体験する」のかを考えてみましょう。

ふたりの証人は、「全地は主イエス様のものである」と証言します。ふたりは、反キリストの獣に反抗するのです。そして獣は全地の所有者などではなく、イエス様こそがそのお方であると証言するのです。洗礼者ヨハネと同じように、ふたりの証人はイエス様が来られる日の近いことを証言します。イエス様は再び来られ、支配される日が近いことを証言するのです。

パロの前に立ったモーセと同じように、アハブの前に立ったエリヤと同じように、主がじっさいにおられることをふたりは証言するのです。

この証言の結果、何が起こったでしょうか。私たちはその結果として、十四万四千人のユダヤ人が印を押され、最初の三年半の間に、あらゆる国民の中から多くの人々が救われることをすでに見てきました。7章をとおして、彼らの証言の結果がどうなるか、直接的に、また間接的に語られています。

さらにその結果として、獣との激しい戦いが起こります。6章ではこの獣のことが語られています。ここでは、白い馬に乗り、いわゆる平和の人の姿を装って現われるのです。

ダニエルは、四つの獣に象徴された四つの帝国を見たのですが、黙示録においては、ヨハネは第四番目のもっとも恐ろしい獣を見たのです。11章7節に出てくる「底知れぬ所から上ってくる」獣がその獣です。

また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭があった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。(黙示13・1)

・・・・・・しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。(黙示17・8)

この獣である反キリストは、底知れぬ所から上ってきて、ふたりの証人に戦いをいどみ、ふたりの証人を物が言えなくし、その後ふたりを殺そうとするのです。ふたりの証人の活動する期間は三年半です。つまり四十二カ月であり、千二百六十日です。この期間は主によって定められた期間です。この期間が過ぎ、彼らの使命が終わるときに、この獣は、ふたりの証人を殺すことが許されるのです。

このことは、かつてエルサレムで起こったことの繰り返しです。かつてユダヤ人は、イエス様を取り除け、と言いました。

もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる。(ヨハネ11・48)

このことが黙示録でも再び繰り返されています。反キリストは、イエス様がまことの支配者であるという証言を、取り除こうとしているのです。そのために、その証人を殺すのです。しかし、反キリストが殺すことができるのは、ふたりの証人の肉体だけであり、それは悪魔の真の勝利とは言えません。ふたりの証人の「まことのいのち」は殺すことができないのです。

「からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」(マタイ10・28)

反キリストがふたりの証人を殺すことができるのは、全能者である主がそのことを許されるからです。ですから黙示録全体の中に、「与えられた」という表現がたくさん出てくるのです。

・・・・彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出ていった。(黙示6・2)

彼はまた聖徒たちに戦いをいどんで打ち勝つことが許され、また、あらゆる部族、民族、国語、国民を支配する権威を与えられた。(黙示13・7)

あらゆる民族、国語、部族、国民が、ふたりの証人の死体を眺めます。それはこのことが全世界の目の前で起こったことを意味しています。おそらくこのできごとは、世界中の人々がテレビやラジオで目撃することになるでしょう。ふたりの証人が殺されることによって、全世界の人々は大いに喜ぶのです。彼らの死体が都の大通りにさらされる、ということは、晒し者にされて抹殺されることを意味しています。

そして同じことが、かつてのイエス様に起こりました。イエス様は殺され、苦しまれただけではなく、辱めをも受けられたのです。

イエスは言われた。「エリヤがまず来て、すべてのことを立て直します。では、人の子について、多くの苦しみを受け、さげすまれると書いてあるのは、どうしてなのですか。」(マルコ9・12)

イエス様は、私たちの罪のために死んでくださっただけではなく、辱めの死をも受けられたのです。

当時は、墓に納められないということは、大きな辱めを意味していました。反キリストは、9節にあるように、ふたりの証人の死体を墓に納めることを許さず、ふたりの証人を辱め、その名誉も取り去ろうとするのです。そして、10節にあるように、人々は喜び祝って互いに贈り物を贈りあうのです。かつて、イエス様がお生まれになったとき、贈り物が贈られたように。なぜ喜び祝ったかというと、ふたりの証人によって「地に住む人々は苦しめられた」からです。

かつて悪霊は、イエス様に対して「なぜ、まだその時でないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか」と言いました。

すると、見よ、彼らはわめいて言った。「神の子よ。いったい私たちに何をしようというのです。まだその時ではないのに、もう私たちを苦しめに来られたのですか。」(マタイ8・29)

エリヤもまた、イスラエルの民にとって、心を動揺させ、平安を乱し、彼らを苦しめる者として受け取られていました。

アハブが、エリヤを見るや、アハブは彼に言った。「これはおまえか。イスラエルを煩わすもの。」(第一列王記18・17)

アハブは、エリヤを敵と見なしたのです。パロもモーセに対して、さばきがこないようにしてくれるようにと願いました。

家臣たちはパロに言った。「いつまでこの者は私たちを陥れるのですか。この男たちを行かせ、彼らの神、主に仕えさせてください。エジプトが滅びるのが、まだおわかりにならないのですか。」(出エジプト10・7)

私たちは、ここに人間の本当の姿を見る思いがします。なぜなら、すべての国民がふたりの証人の死を喜ぶからです。これは悪魔的な喜びです。イエス様が十字架につけられる日に、ピラトとヘロデが仲良くしたように、ふたりの証人の死のときにも、人々は喜びの声をあげるようになります。獣の勝利が、全世界によって祝われるのです。

[2]よみがえり


次にふたりの証人のよみがえりについて考えてみましょう。

ふたりの証人は殺され、辱められますが、人々の喜びは短く、三日半続くだけです。エルサレムの人々の目の前で、またテレビで見ている全世界の人々の目の前で、突然、ふたりの証人はよみがえるのです。そして立ち上がるのです。何という驚きでしょうか。人々にとっては大きな喜びの後で、大きな驚きと不安とが襲ってくるのです。二人の証人は次のみことばを体験するのです。

もしイエスを死者の中からよみがえらせた方の御霊が、あなたがたのうちに住んでおられるなら、キリスト・イエスを死者の中からよみがえらせた方は、あなたがたのうちに住んでおられる御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも生かしてくださるのです。(ローマ8・11)
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ふたりの証人のよみがえりは何を意味しているのでしょうか。これは神がふたりを受け入れておられることを意味しています。神は、彼らの肉のからだを、霊のからだへと変えられるのです。

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。(エペソ1・19)

イエス様を死者の中からよみがえらせた神の力が、ここに現われるのです。イエス様のからだは霊のからだでした。復活した後でも、イエス様のからだを巻いていた麻布はそのまま残されていました。イエス様は、霊のからだをもって閉ざされた家の中に入り、弟子たちの前に姿を現わされたのです。また、イエス様は「霊」だけでなく「霊のからだ」もお持ちでした。ですからイエス様は、弟子たちの前で魚をとって食べることができたのです。霊は食べたりはしません。ただからだのあるものだけが、食べることができるのです。

ふたりの証人の死は、それだけでひとつの証しです。イエス様は彼らにとって偉大なお方であり、そのために彼らはいのちを捧げるのです。これが彼らの証しです。

彼らの死は終りでなく完成です。これによって彼らは自分たちの使命を達成するのです。彼らは使命を果たし、獣に打ち勝つのです。死に至るまで、ふたりは自分のいのちを惜しまなかったのです。

兄弟たちは、子羊の血と、自分たちのあかしのことばのゆえに彼に打ち勝った。彼らは死に至るまでもいのちを惜しまなかった。(黙示12・11)

ふたりの証人の死によって、一時、神の口はふさがれます。このために世界はその欲するままを行うようになり、何をするにも自由になります。すべての人々は自分の知恵と力に頼って生きるようになります。

しかし、自分の知恵と力に頼って生きるということは愚かなことです。また自分の力で生きることは、永遠の滅びを意味します。「神の証人が死んだのは、神が死んだからであり、我々は自分のしたいことを自由にすることができる」という考えはもちろん間違っています。

11節にあるとおり、三日半の後よみがえったふたりの証人は、彼らに向かってそれとは正反対のことを身をもって証しします。つまり、ふたりが復活することによって、主が生きておられるということ、イエス・キリストもまた生きておられ、主のみことばは生きており、したがってふたりは滅びることがないことを証明するのです。それで人々は、「神のみことばが偽ることがないゆえに、われわれは滅び去る」と言わざるをえなくなり、これが彼らの大きな恐怖と不安に襲われる原因となるのです。

山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と子羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示6・16、17)

[3]昇天


人々はその目でふたりの証人のよみがえりを見るとともに、耳でも天からの大きな声を聞くことになります。これはヨハネが黙示録4章1節で聞いたのと同じ声です。これはまた、ふたりの証人を天の御国へと呼び入れる声です。12節にある「雲に乗って天に上る」というその雲は、主のご臨在、主のご栄光を表わしています。

・・・・彼らが主の宮の東の門の入り口で立ち止まると、イスラエルの神の栄光がその上をおおった。(エゼキエル10・19)

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マタイ17・5)

イエス様に忠実な者に対しては、イエス様もまた忠実であられます。これは殉教の道です。しかしこれによって、主がご栄光をお受けになるのです。ふたりの証人の死はいのちへ至る道であり、ふたりの滅びは携挙に至る道です。

ふたりの証人の昇天の結果は何でしょうか。人々はふたりが昇天するありさまを見ます。ちょうど弟子たちが、イエス様の昇天を見たのと同ようにです。イエス様の昇天を見ていた弟子たちは天使たちによって驚かされました。そして天使たちは彼らに再臨を語りました。

イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着たひとがふたり、彼らのそばに立っていた。(使徒1・10)

終りの時代においては、人々は、天使たちによって驚かされるのではなく、さばきによって驚かされるのです。そのさばきとは13節にあるとおり地震のことです。地震は、イエス様の死の時にも起こりました。また、イエス様の復活のときにも地震が起こりました。

すると、見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。そして、地が揺れ動き、岩が裂けた。(マタイ27・51)

すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。(マタイ28・2)

黙示録6章12節にも、子羊が第六の封印を解いたとき、大きな地震が起こったと書いてありますが、これは自然と人間に対する主の御怒りのみわざを記したものであり、11章13節の地震は、大きな都であるエルサレムに対して主がどのように働かれるかが書いてあるのです。

地震によって、三つのことが起こります。

まず第一に、都の十分の一が破壊されます。このことは13節に示されています。都の十分の一とは何を意味しているのでしょうか。これは、すべてのものはもちろん主に属していますが、イスラエル人は自分たちの十分の一だけを主に捧げていたことを意味しています。

十分の一という言葉は、いつも「全体を代表する」意味をもっています。この都はすべてのものを主にささげる備えがなかったのです。それゆえ、大きなさばきが起こったのです。「十分の一が破壊された」ということは、「すべてのものが破壊されるべきである」ということを意味しています。主は、「都の全体が破壊されるにあたいする」と言っておられるのです。

第二に、13節にあるとおり、七千人の人々が死にます。

エリヤの時代に、まことの神とバアルのどちらが真に力を持っているかという争いが起りました。この争いは、まことの神に仕える忠実な民と、バアルに仕える不忠実な民との間に起こりました。その当時、忠実だった民の数が七千人でした。これに対して黙示録では、不忠実な民の数が七千人とされているのです。

さらに13節では、生き残った人々は恐怖に満たされ、彼らは天の神をあがめたことが記されています。彼らは獣にではなく、まことの神に栄光を帰するのです。

しかし、彼らの間には、悔い改めが欠けています。それはダニエルとその友人たちがした祈りとはまったく違うものです。

王は怒り、大いにたけり狂い、バビロンの知者をすべて滅ぼせと命じた。・・・・彼らはこの秘密について、天の神のあわれみを請い、ダニエルとその同僚が他のバビロンの知者たちとともに滅ぼされることのないようにと願った。(ダニエル2・12、18)

悔い改めのないところに、救いはありません。エリヤの時代に、カルメルの山から、神に栄光を帰したのです。

エリヤが民全体に、「私のそばに近寄りなさい。」と言ったので、民はみな彼に近寄った。それから、彼はこわれていた主の祭壇を建て直した。(第一列王記18・30)

当時、すべてのイスラエルの民が神に栄光を帰したにもかかわらず、真に礼拝を捧げたのはその中の七千人だけでした。

モーセの時代にも、パロはまことの神、主の存在を認めました。しかしエジプトは滅ぼされました。

「パロとその戦車とその騎兵を通して、わたしが栄光を現わすとき、エジプトはわたしが主であることを知るのだ。」(出エジプト14・18)

主に「栄光を帰する」ということは、必ずしもイエス様を受け入れ、救われることを意味するわけではありません。それは単に神を認めるだけのことであって、決して罪を悔い改めることではないからです。そして罪の悔い改めのないところには、赦しも救いもありません。

私たちは初めに、ゼカリヤ書3章に記されているヨシュアのことを見てきました。

ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」(ゼカリヤ3・3、4)

ヨシュアとゼルバベルとは、黙示録のふたりの証人を指し示すものでした。ヨシュアは汚れた衣を着ていました。汚れた衣とは罪の衣であり、罪とは神と人とをへだてる壁です。しかし御使いがヨシュアのよごれた服を脱がせたので、ヨシュアは自分の罪が赦されたことを知りました。

ふたりの証人の場合にも、罪を赦された人々を見ることができます。ふたりは、罪の赦しを体験したからこそ、罪の赦しを宣べ伝えるのです。

その日、ダビデの家とエルサレムの住民のために、罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる。・・・・わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。(ゼカリヤ13・1、12・10)

主はご自身の霊を、イスラエルの民の上に注ぎ出されるのです。このことをとおして十四万四千人のイスラエル人が救われることになるのです。

私たちが罪の赦しの確信を持っているかどうかは大きな問題です。イエス様がヨシュアに言われたように、「あなたの罪は赦された」と私たちにも言われるときに、私たちは本当に幸いな者となるのです。

御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」(ゼカリヤ3・4)

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