2017年3月12日日曜日

兄弟愛に満たされた教会

兄弟愛に満たされた教会
2017年3月12日、春日部家庭集会
黒田 禮吉

マタイ
13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」


ベック兄は、火曜日の学び会で、今、読んでいただいたところもそうなんですけど、種蒔きのたとえから始まる一連のたとえについて、学んでくださいました。けれども、からし種のたとえを最後として、以後、火曜日の学びの場に立たれることはありませんでした。ですから、私は個人的に、本当にこれが、ベック兄の遺言のようにして、受け取っております。



今日はベック兄が最後にお話されたこのたとえを通して、私たちが歩むべき道について考えてみたいと思います。読んでいただいた箇所をもう一度、読ませていただきます。

マタイ
13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」


もう一箇所、読ませていただきます。

マタイ
17:20 イエスは言われた。「あなたがたの信仰が薄いからです。まことに、あなたがたに告げます。もし、からし種ほどの信仰があったら、この山に、『ここからあそこに移れ。』と言えば移るのです。どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。」


『からし種ほどの信仰があったら、どんなことでも、あなたがたにできないことはありません。』このマタイ17章の箇所を踏まえて、私たちは、からし種のたとえをこのように解釈するのではないでしょうか。つまり、からし種ほどのちっぽけな信仰さえあれば、そこに空の鳥が来て、巣を作るほどの木へと、神様が大きな祝福で持って、成長させてくださるのだと、このように肯定的に読むのではないでしょうか。けれども、ベック兄がメッセージで強調されたのは、これとはまったく逆の別のことでありました。神の国は、この世とは、まったく相容れないものであるとして、次のように語られました。以下、ベック兄のお話しされたことの引用になります。

『イエス様は、宗教としてのキリスト教は、からしの木のようにめきめきと生長して、大きくなると言われました。今日、キリスト教は、経済的にも社会的にも政治的にも、大きな権力を持っている世界宗教のひとつである。それは人々の目を驚嘆させるに充分なほどの、巨大なものに生長しました。けれども、それは、ウドの大木のように、その中には力も強さもありません。からしは、それほど大きな植物ではありません。ところが、ここに書かれているからしの木は、非常に大きく生長していくと書かれています。その姿は、キリスト教が宗教に堕落し、その精神を失って、異常な発展を遂げる有様を示しています。』

『初代教会は、霊的に堕落することによって、この世と妥協した結果、世的な権力を持つようになりました。そして、その堕落したことは、木の様子によって、また、鳥によって現れています。木とは、人間の成した大きな業を、象徴的に表わしています。これは神の意志とは相いれないものです。本来、小さな植物が、単に背丈だけ大きな宗教としてのキリスト教になりました。このキリスト教は、黙示録17章、18章に書かれているように、世的な権力として、大バビロンと呼ばれるようになります。鳥とは、聖書では常に悪魔、サタンの業を示しています。』

ここでマルコの福音書を引用されました

マルコ
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。


『鳥は、蒔かれた種、すなわち、みことばを取り去るものとして、語られています。鳥は、成長したからしの木の枝に巣を作ると書いてあります。つまり、彼ら、悪魔は木であるキリスト教に住まいを持つのです。』

このように話されました。宗教としてのキリスト教に対する驚くべき、警告のメッセージを語られたのであります。けれども、イエス様がこの地上に来られたことによって、神の国の種が撒かれたとの希望も、同時に、このように語ってくださいました。

『主イエス様が昇天されたありさまを見たものは11人の弟子たちだけでした。これは、人間的に見れば、わずかな成果をおさめなかったと言わざるを得ない。けれども、イエス様の死と復活によって撒かれた種は、必ず、時至れば実を結びます。この世と言う畑に撒かれたのは、ただ一粒の種でしたが、弟子たちは全世界に出て行って、福音を述べ伝えると言う使命を与えられました。イエス様は神の国の有様をこのようにたとえによって語られ、それは、はじめは、あるか、ないかのようであるにもかかわらず、終わりのときには、すばらしい結実をもたらすというふうに言われました。イエス様が撒かれた種は小さくはありましたが、混じりけのない種であったのです。』

引用はここで終わりにしますけども、神の国はこの地上で必ず、やがては実現します。けれども、それは人間によって、建設されるのではなく、イエス様が再び、この地上に来られることによって、もたらされます。もちろん、その前に私たち信じるものは、空中で主イエス様とお会いできるとの約束が与えられています。

私たちは、主が来られるまでのあいだ、初代教会の人々のように、つつしみや貧しさを維持しながら、混じりけのない信仰を持って、主が来られるのを少しでも早める使命があるのではないでしょうか。私たちは、この世の権力を持つに至った、からしの木のような教会に注意しなければなりません。私たちは、この世から迫害を受けることがあるかもしれませんが、妥協して、堕落することのないようにしなければなりません。また、外面的に、人々の目を引くことに力を浪費せず、内面的、霊的に成長した世の光となるようにと、願うべきではないかと思います。

マタイ
13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
 


からし種のたとえの次に書かれている、パン種のたとえ話も、同じような注意喚起であります。聖書では、パン種が人の罪の象徴として使われています。そして、そのような罪は、瞬く間に膨れ上がり、胸の中に霊的な腐敗をもたらします。過ぎ越しの祭りではパン種の入っていないパンを食べましたが、それは、罪のないキリストの体を食べることを意味していました。そして、パウロはこのように語っています。

第1コリント
5:6 あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。
5:7 新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。
5:8 ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。


イエス様は、からし種のたとえ、パン種のたとえを通して、教会の中に、人間の罪の行いが、全体に広がっていくさまを予言されたのであります。よい穂だけで出発した初代教会に、やがて、高ぶり、おごりが生じ、偽りの教えや不法な行いが入ってきます。黙示録2章、3章を見ますと、教会が誕生してから60年ほどしか経っていないのに、イエス様はヨハネの黙示録を通して、悔い改めを求めておられます。教会が腐敗するのは、外側からではなく、内側からです。それが、ご存知の7つの教会の話であります。私たちはこれを他人事と考えるべきではありません。その部分をお読みしたいと思います。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。
2:5 それで、あなたは、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて、初めの行ないをしなさい。もしそうでなく、悔い改めることをしないならば、わたしは、あなたのところに行って、あなたの燭台をその置かれた所から取りはずしてしまおう。


イエス様が御霊を通して、エペソの教会に対して語られた非難であります。最初は模範的であったエペソの教会は、イエス様に対する純粋な愛が保たれていました。パウロは、エペソの人々に宛てて、次のように書いて祈りました。

エペソ
3:17 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、
3:18 すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。


けれども、エペソの人々は、パウロが去った後、サタンの攻撃を受け、はじめの愛、すなわち、イエス様との交わりを次第に失ってしまったのであります。私たち、キリスト集会は、このエペソのような初代教会を模範として歩んできました。エペソからパウロが去ったように、ベック兄も昇天されました。ですから、私たちも、エペソの教会と同じような過ちに陥る危険性がないわけではありません。

使徒
20:29 私が出発したあと、狂暴な狼があなたがたの中にはいり込んで来て、群れを荒らし回ることを、私は知っています。
20:30 あなたがた自身の中からも、いろいろな曲がったことを語って、弟子たちを自分のほうに引き込もうとする者たちが起こるでしょう。
20:31 ですから、目をさましていなさい。私が三年の間、夜も昼も、涙とともにあなたがたひとりひとりを訓戒し続けて来たことを、思い出してください。
20:32 いま私は、あなたがたを神とその恵みのみことばとにゆだねます。みことばは、あなたがたを育成し、すべての聖なるものとされた人々の中にあって御国を継がせることができるのです。


兄弟姉妹の一人一人が、この世の価値観である民主主義や人道主義、ヒューマニズムを集会に持ち込むことがないように、また、現代社会が受け入れようとしているさまざまな価値観や多様性とは一線を画して、ひたすら、御言葉だけに頼り、主イエス様だけを見上げることができるようにと、祈らざるを得ません。そして、兄弟愛に満ちたフィラデルフィアの教会のように歩みたいものであります。

第1ヨハネ
3:10 ・・・義を行なわない者はだれも、神から出た者ではありません。兄弟を愛さない者もそうです。

3:14 私たちは、自分が死からいのちに移ったことを知っています。それは、兄弟を愛しているからです。愛さない者は、死のうちにとどまっているのです。
3:15 兄弟を憎む者はみな、人殺しです。いうまでもなく、だれでも人を殺す者のうちに、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。
3:16 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。


『兄弟』と語られていますけれども、もちろん、兄弟姉妹のことであります。ヨハネは兄弟愛について、このように驚くべきことを書きました。すなわち、『兄弟姉妹を愛さないものは、神から出た者ではありません』と。集会にも、私自身も含めて、いろいろな兄弟姉妹がおられますが、そのような兄弟姉妹を愛しているから、私たちは死からいのちに移されています。兄弟姉妹を憎むものは人殺しであり、永遠のいのちがとどまっていることはないのです。イエス様は私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。ですから、私たちは兄弟姉妹のために、いのちを捨てるべきです。このように、書かれています。

第1ヨハネ
4:20 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。
4:21 神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。


本当に書いてあるように、目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛するものは、兄弟姉妹をも愛するべきです。私たちはしかし、このような御言葉に素直に従えないものではないでしょうか。けれども、イエス様が聖書の至るところで模範を示してくださっています。ひとつの例を紹介したいと思います。 


マタイ 

13:24 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、こういう人にたとえることができます。ある人が自分の畑に良い種を蒔いた。 
13:25 ところが、人々の眠っている間に、彼の敵が来て麦の中に毒麦を蒔いて行った。
13:26 麦が芽生え、やがて実ったとき、毒麦も現われた。
13:27 それで、その家の主人のしもべたちが来て言った。『ご主人。畑には良い麦を蒔かれたのではありませんか。どうして毒麦が出たのでしょう。』
13:28 主人は言った。『敵のやったことです。』すると、しもべたちは言った。『では、私たちが行ってそれを抜き集めましょうか。』
13:29 だが、主人は言った。『いやいや。毒麦を抜き集めるうちに、麦もいっしょに抜き取るかもしれない。
13:30 だから、収穫まで、両方とも育つままにしておきなさい。収穫の時期になったら、私は刈る人たちに、まず、毒麦を集め、焼くために束にしなさい。麦のほうは、集めて私の倉に納めなさい、と言いましょう。』」


これは、からし種のたとえの前に書かれている毒麦のたとえであります。このたとえは、神の御言葉を受け入れたとされている人々の中に、偽物も混じっていることを表しています。目に見えるかたちでは、神の国に属しているように見えて、実は属していない人たちがいるということです。それは、敵である悪魔がしたと言っています。

このたとえで大切なのは、主人が毒麦の刈り取りを収穫の時までやめさせたところではないでしょうか。その理由は麦も一緒に抜き取るかもしれないということです。

よく、私たちが知っているヨハネ3章の16節には、『御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである』と、書かれています。毒麦があるからと言って、一緒に滅びる人がいてはならないということであります。イエス様には、明らかにされるまで待つという忍耐の働きがおありになります。誤った判断を下さず、収穫まで待ってじっくりと、実が結ばれるまで、大きな愛をもって待つことをなさいます。実は、イエス様の十二弟子の中にも悪魔の子がいました。イスカリオテのユダであります。彼は、イエス様を裏切りました。ご自分を裏切ることを分かっておられたのに、なぜ、イエス様は彼を追放しなかったのでしょうか。明らかにされるまで待つという忍耐と愛を働かせておられたからではないでしょうか。

私たちは何がよいことで、正しいかをすぐに吟味する性質を持っていますが、主が戻って来られるまで、早まった判断をしてはいけないということです。裁くことができる方はイエス様だけであります。

第1ペテロ
1:15 あなたがたを召してくださった聖なる方にならって、あなたがた自身も、あらゆる行ないにおいて聖なるものとされなさい。
1:16 それは、「わたしが聖であるから、あなたがたも、聖でなければならない。」と書いてあるからです。
1:17 また、人をそれぞれのわざに従って公平にさばかれる方を父と呼んでいるのなら、あなたがたが地上にしばらくとどまっている間の時を、恐れかしこんで過ごしなさい。


エペソ
4:14 それは、私たちがもはや、子どもではなくて、人の悪巧みや、人を欺く悪賢い策略により、教えの風に吹き回されたり、波にもてあそばれたりすることがなく、
4:15 むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達することができるためなのです。


昨年も本当に、とんでもないことが起こりましたけども、今年、やはり思いがけないことが、これから、予想もしないことが起こるのではないかと思います。しかし、私たち信じる者には、現実がどうであれ、世の中がどうであれ、希望があります。もうすぐ主が来てくださるとの約束があるからであります。最後に、御言葉を読んで終わりにしたいと思います。

ルカ
17:20 さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。
17:21 『そら、ここにある。』とか、『あそこにある。』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」

 

地上における神の国は、イエス様が再び来られてから、はじめて実現します。けれども、イエス様の支配されているところ、そこが神の国であるならば、イエス様を主として受け入れ、御心に従いたいと願う人は、イエス様に対する心からの愛に満ちており、このような人たちは、今日(こんにち)、既に地上において天国のすばらしさを味わい知っている人ではないでしょうか。

おわり

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