2016年1月26日火曜日

パウロの祈り

パウロの祈り
2016年1月26日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

第一テサロニケ
3:1 そこで、私たちはもはやがまんできなくなり、私たちだけがアテネにとどまることにして、
3:2 私たちの兄弟であり、キリストの福音において神の同労者であるテモテを遣わしたのです。それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、
3:3 このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。
3:4 あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。
3:5 そういうわけで、私も、あれ以上はがまんができず、また誘惑者があなたがたを誘惑して、私たちの労苦がむだになるようなことがあってはいけないと思って、あなたがたの信仰を知るために、彼を遣わしたのです。
3:6 ところが、今テモテがあなたがたのところから私たちのもとに帰って来て、あなたがたの信仰と愛について良い知らせをもたらしてくれました。また、あなたがたが、いつも私たちのことを親切に考えていて、私たちがあなたがたに会いたいと思うように、あなたがたも、しきりに私たちに会いたがっていることを、知らせてくれました。
3:7 このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。
3:8 あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。
3:9 私たちの神の御前にあって、あなたがたのことで喜んでいる私たちのこのすべての喜びのために、神にどんな感謝をささげたらよいでしょう。
3:10 私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。
3:11 どうか、私たちの父なる神であり、また私たちの主イエスである方ご自身が、私たちの道を開いて、あなたがたのところに行かせてくださいますように。
3:12 また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。
3:13 また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。

私たちは、パウロのことについて考えると、本当にすごい、主に用いられた兄弟だと認めざるを得ない。けれども、彼の書いた手紙を見ると、我々とちょっと似ているのではないかね。彼は、「私は心配している、私は産みの苦しみをしている、私は困っている」と、彼は正直に告白したのです。

このあいだ、言いましたように、このテサロニケ第一の手紙は、パウロが初めて書いた手紙です。書いたところは、コリントだったのです。彼はテサロニケで、イエス様を紹介しました。だいたい三週間だったのです。

結果は、主の体なる教会ができたのです。いろいろな人々が悔い改めて、イエス様を受け入れただけではなくて、彼らは、パウロの礼拝するもとになったのです。パウロはもう、感謝せざるを得なくなったのです。もちろん、パウロは、これは自分の努力の結果であると一秒も思ったことはない。主が、憐れんでくださった。どうして主は、こういうふうに働いたのか、さっぱり解らない。ですから、主にだけ栄光あれ!そういう気持ちでいっぱいだったのです。

この今、読んでもらいました第三章には、何という表題をつけることが、ふさわしいのでしょうか。信仰という言葉は、いったいどこに出てくるのでしょうか。そして、信仰とは何なのでしょうか。四番目、如何なる危険が信者の信仰生活を脅かすのでしょうか。五番目、パウロは、いかにして信者たちのために、信仰の危険の警告をしたのでしょうか。六番目、パウロはこのテサロニケの教会について、いかなる情報を得ていたのでしょうか。そして、七番目、信者のためにパウロはいったい何を、心から望んだのでしょうか。

一章を見ると、テサロニケの兄弟姉妹は、最初からすばらしい出発をしました。彼らは、十字架につけられ死んで復活なさったイエス様の福音を聞いたとき、大よろこびで、それを受け入れました。彼らは、みことばを単に頭で理解したのではない。それを霊の糧として食べたと言っても、いいのではないでしょうか。みことばを、本当に自分のものとして受け入れ、充分に味わった時にのみ、主の大いなる力を経験することができます。

ニ章によると、パウロの同労者たちとの働きが、本当に真実なものであったゆえに、空しく終わらなかったことが、わかります。そして、テサロニケの集会は、マケドニアとアカヤとにいる信者たち全体の模範となり、光となったのです。けれども、そのようなすばらしい出発をしただけでなく、それから先の成長のことも、おろそかにしてはなりません。

子供が生まれると、誰にとっても大きなよろこびでしょう。けど、生まれてから、その子供が全然、成長しなければもうたいへんです。悩みの種になります。親にとって悲しみそのものです。

それと同じように、罪人がイエス様を救い主として受け入れ、新しく生まれ変わるということは、この世において、もっともすばらしい出来事に違いないけれども、神の子とされた者が、やがて妥協してしまい、悪魔の罠に落ち込んでしまうと、大きな悲しみとなってしまいます。

もちろん、生まれることと出発とがなければ、成長があり得ないことは明らかです。多くの人は、自分は信者であると言いますが、正しい出発がなければ、正しい成長もあり得ないことが、しばしば、ないがしろにされてしまっているのではないでしょうか。正しい出発が成されないと、元の状態に留まってしまうか、さらに悪い場合には、後戻りしてしまいます。

さらに注意しなければならないことは、仮に正しい出発が成されたとしても、それが必ずしも、正しい成長を意味するとは限りないということなのではないでしょうか。

テサロニケの信者たちの場合は、どうだったでしょうか。その答えは、今、読んでもらいました三章の中に与えられているのではないでしょうか。『良き信仰によって』、『それにもかかわらず、吟味、苦しみを通しての祝福』などと付けることができます。第三章は、次のように三つに分けて考えることができるのではないでしょうか。第一番目、1節と2節を見ると奉仕における共同。ニ番目、3節から8節まで、奉仕における苦難と患難。三番目、9節から13節における、交わりのよろこびが書いてあります。

第三章の中で、数多く出てくることばは、いうまでもなく、信仰ということばです。信仰ということばは、いったいどこに出てくるのでしょうか。2節ですね、「あなた方の信仰を強めるため、強めるため、強め励ますため」、5節、「あなたがたの信仰を知るため」、6節、「テモテが、あなたがたの信仰について知らせた」、7節、「私たちは、あなたがたの信仰によって慰められた」、10節、「あなたがたの信仰の足りない所を補いたい」とあります。

イエス様を信じるということは、イエス様と結びついていることを意味します。それこそ、パウロが望んでいたことであり、テサロニケの兄弟姉妹がイエス様と結びついていることこそ、パウロの心からの願い、また、祈りでした。

パウロは、テモテからこの事実を聞いた時、大いに慰められたのです。「良かった!主よ、感謝します」と、思ったに違いない。この3章によって、パウロがいか何にして信者たちに注意したのか、イエス様の御手の中に入れたかを、はっきりと見ることができます。さらに、主の御手にある信者たちが、主の導きによって、すくすくと成長していることもわかります。

三番目の質問は、信仰とはいったい何でしょうか・・・・ということです。へブル書の中に、書かれています。「信仰は望んでいる事がらを確信し、また、知っていない事実を確信する・・・・」とあります。

ヘブル
11:1 信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

このみことばによると、信仰とは、ニつの面を持っているのではないでしょうか。すなわち、目に見えないものを見ることであり、もうひとつは、将来のことを知ることであります。したがって、信仰の代わりに、確信とか、信頼とか、希望、あるいは、望みという言葉を用いても良いのではないのでしょうか。

そして、実際には、まず、イエス様と出会い、イエス様に信頼し、自分自身をイエス様に明け渡すことを意味しています。真(まこと)の信仰の内容は、イエス様が十字架につけられ、よみがえられ、再び来られるということです。信仰とは、イエス様との交わり、あるいは、結びつきに他なりません。信じる者は、見えないけれどもイエス様を愛し、やがて来られるイエス様を待ち望んでいることです。

第一ペテロ
1:8 あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、いま見てはいないけれども信じており、ことばに尽くすことのできない、栄えに満ちた喜びにおどっています。

当時の信じる者に、ペテロは、こういうふうに書くことができたのです。テサロニケの信者たちに対して、パウロが抱いていた最大の関心事は、テサロニケの信者が、この信仰を堅く守り続けるということでした。すなわち、彼らが、目に見えないけれども、必ず来られるイエス様を見上げ続け、どんなことが起ころうとも、イエス様との生き生きとした交わりを持ち続けるということでした。

そこで、パウロは、テサロニケの信者たちの信仰が堅く立っているかどうかを知りたいと、心から、切に望んだのです。パウロは、テサロニケの兄弟姉妹は、もう絶対大丈夫!というような確信を持つことができなかったのです。どうなっているか、絶えず心を配り、配慮していました。けれども、パウロの信仰は、それらの不安や心配を克服しました。というのは、パウロが見ていたものは、彼らの弱さや問題などではなくて、イエス様の真実さ、イエス様の恵みだったからです。

パウロは大いなる愛をもって、彼らのために心を配ったため、アテネとコリントで、テモテと一緒に働くことを断念し、テモテをテサロニケへと送ったのです。

次の質問は、いかなる危険が信者の信仰生活をおびやかしたかということです。いろいろなことが、イエス様との交わりを駄目にする原因となり得ました。パウロは、もちろん、それをよく知っていたのです。このような苦難の中にあって、動揺する者が一人もないように励ますため、パウロは同労者、テモテを遣わしたのです。

絶えずイエス様を見上げることをしないと、イエス様を見失ってしまう可能性が大いにあるわけです。そして、イエス様を見失うと、信仰は、もちろん、弱くなります。けれども、いろいろな患難を通して、そのような状態に陥ることは、稀ではなく、イエス様にしっかりと結びつくことができなくなってしまうのです。

5節を見ると、そのためパウロは、もしや試みる者が、彼らを試みはしないかと、気遣ったのです。患難を通して、イエス様を見失ってしまうと、試みる者が入って来て、我々の信仰の土台を崩してしまうのです。また、イエス様を絶えず見上げていないと、私たちは、悪魔の手玉にされてしまいます。

パウロは、心から本当に、テサロニケの信者たちのために心を配っていたのです。1節と5節を見てもわかります。「私は、それ以上に耐えられなくなっている。私はもはや、我慢できなくなった・・・・」という言葉からも、知ることができるのではないでしょうか。テサロニケの集会が脅かされると、パウロと同労者たちも同じように、信仰が脅かされ、彼らが主にあって堅く立つならば、パウロたちも生きることになるのであります。8節に、そういうふうに書いてありますね。したがって、集会がダメになることは、パウロにとって死を意味するに等しいことでありました。けれども、彼らが主にあって堅く立っていることを聞いた時、パウロも、生き生きとした状態にあることができたのです。

他の兄弟姉妹が苦しんでいる時、私たちも同じように苦しみを感じているのでしょうか。かつて、カインは、主に向って、「私は、弟の番人でしょうか」と言いました。今日でも、多くの人が、カインのような態度を取っているのではないでしょうか。この態度は、まさに、殺人犯の態度のようなものです。兄弟姉妹も、誰かが罪を犯した時、それは、自分自身には関係がないという態度を取るならば、それこそまさに、カインと同じような態度に他なりません。

パウロが、テサロニケの集会としっかりと結びついて、ひとつになっており、もはや、離れることができない状態になっていました。そのために、彼らが主にあって、堅く立っている時は、パウロの信仰も、よろこびで生き生きとしており、彼らの信仰が揺れ動いて動揺している時は、パウロは同じように、痛みを感じました。

もうひとつの質問は、パウロはいかにして信者たちのために、信仰の危険を警告したのでしょうか・・・・ということですね。4節を見ると、やがて患難に会うことをあらかじめ預言していおいたことがわかります。パウロは必ず、イエス様に従うことが、十字架を背負うことを意味し、いろいろな患難や苦しみに遭遇するはずであると言っていましたが、けれども、ただ単に警告しただけでなく、何故、患難に会わなければならないかについても、語っています。

その第一の理由は、信者がこの世にあっては、いわば異分子のような者であり、寄留者、また、旅人であるため、思いは、この世ではなく、天国にあるため、妥協しなければ、必ず患難が伴なわざるを得ないということでした。

第ニに、患難によってのみ、私たちの信仰は聖められ、強められるということです。たとえば、金は、千度の熱さで鍛えられます。そして、信仰は、聖書の中で、金に例えられています。

第一ペテロ
1:7 信仰の試練は、火を通して精練されてもなお朽ちて行く金よりも尊いのであって、イエス・キリストの現われのときに称賛と光栄と栄誉に至るものであることがわかります。

患難がなければ、我々の信仰は鍛えられないで、したがって成長しない。それですから、パウロは患難をもよろこぶと、ローマ書5章3節に書き記したのであります。

【参考】ローマ
5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

パウロは、信者たちの信仰を強め、励ましました。10節を見ると、彼らの信仰の足りないところを補いたいと願っていました。パウロは、決して、気休めの言葉、また、事実に反するようないい加減なことを言わなかったのです。信仰が成長するためには、どうしても多くの患難が必要であると言ったのです。パウロの心からの願いとは、何だったでしょうか。信じる者の信仰が強められ、成長することでした。

パウロの生活の特長は、自分自身を忘れ(ることでした。)私たちの場合はどうでしょうか。パウロは結局、信じる者の幸せだけを願ったのであります。だからこそ、彼は用いられるようになりました。そして、パウロは――10節を見るとわかりますが――そのために日夜、しきりに願い求めて祈り続けたとあります。困ると誰でも祈りますけど、祈り続けることこそが要求されています。実際、パウロが、信者たちのために、どのようにして、どれほど配慮していたかについては、ほとんど想像することができません。

すなわち、パウロは、自分自身の苦しみや問題などを忘れて、他の信者のために日夜、真剣に祈ったのでした。このようなパウロの態度と、パウロの祈りの答えとして、主は、テサロニケのからだなる教会を豊かに祝福してくださったのです。

今日、必要とされているのは、いったい何なのでしょうか。パウロと同じように、自分のみならず、他の兄弟姉妹に対しても、真剣に祈り、力を注ぐことであります。そのような人々を、主は探しておられるのです。主は、そのような者を、通り良き管として用い、他の信者をも祝福することを望んでおられるのです。その意味で、私たちは、すべて主によって、自由に用いていただこうではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿