2014年12月9日火曜日

天に届く祈り(二)

天に届く祈り(二)
2014年12月9日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

ダニエル
9:1 メディヤ族のアハシュエロスの子ダリヨスが、カルデヤ人の国の王となったその元年、
9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。
9:3 そこで私は、顔を神である主に向けて祈り、断食をし、荒布を着、灰をかぶって、願い求めた。
9:4 私は、私の神、主に祈り、告白して言った。「ああ、私の主、大いなる恐るべき神。あなたを愛し、あなたの命令を守る者には、契約を守り、恵みを下さる方。
9:5 私たちは罪を犯し、不義をなし、悪を行ない、あなたにそむき、あなたの命令と定めとを離れました。
9:6 私たちはまた、あなたのしもべである預言者たちが御名によって、私たちの王たち、首長たち、先祖たち、および一般の人すべてに語ったことばに、聞き従いませんでした。
9:7 主よ。正義はあなたのものですが、不面目は私たちのもので、今日あるとおり、ユダの人々、エルサレムの住民のもの、また、あなたが追い散らされたあらゆる国々で、近く、あるいは遠くにいるすべてのイスラエル人のものです。これは、彼らがあなたに逆らった不信の罪のためです。
9:8 主よ。不面目は、あなたに罪を犯した私たちと私たちの王たち、首長たち、および先祖たちのものです。
9:9 あわれみと赦しとは、私たちの神、主のものです。これは私たちが神にそむいたからです。

9:20 私がまだ語り、祈り、自分の罪と自分の民イスラエルの罪を告白し、私の神の聖なる山のために、私の神、主の前に伏して願いをささげていたとき、
9:21 すなわち、私がまだ祈って語っているとき、私が初めに幻の中で見たあの人、ガブリエルが、夕方のささげ物をささげるころ、すばやく飛んで来て、私に近づき、
9:22 私に告げて言った。「ダニエルよ。私は今、あなたに悟りを授けるために出て来た。
9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。そのみことばを聞き分け、幻を悟れ。

10:9 私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。
10:10 ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。
10:11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。私が今から語ることばをよくわきまえよ。そこに立ち上がれ。私は今、あなたに遣わされたのだ。」彼が、このことばを私に語ったとき、私は震えながら立ち上がった。
10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。

10:18 すると、人間のように見える者が、再び私に触れ、私を力づけて、
10:19 言った。「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。あなたは私を力づけてくださいましたから。」

この間に引き続いて、「天に届く祈りの大切さ」について、一緒に考えてみたいと思います。信じる者に対するもっとも大切な召しとは、いったい何でしょうか。すなわち、主と共に働くことです。ダニエル書を見ると、彼は本当に、主と共に働く者でした。したがって、大いに用いられ祝福されたのです。今読んでもらいました箇所を見ても、三回も同じ言葉が出てきました。「神に愛されている人。」

ダニエル
9:23 あなたが願いの祈りを始めたとき、一つのみことばが述べられたので、私はそれを伝えに来た。あなたは、神に愛されている人だからだ。

10:11 それから彼は私に言った。「神に愛されている人ダニエルよ。」

10:19 「神に愛されている人よ。恐れるな。安心せよ。強くあれ。強くあれ。」彼が私にこう言ったとき、私は奮い立って言った。「わが主よ。お話しください。」

「わが主よ。お話しください。」この態度をとることこそが、考えられないほど大切です。人間は確かに一堂みな、耳を持っているけど、聞く耳を持つかどうかが問題です。

昔のサムエルも同じように祈ったのです。歳はちょってわからないけど、十二、三歳の子供だったか、十五、六歳の青年であったかは、わからないけど彼は、「主よ、語ってください、しもべは聞いております。」彼は、この態度をとったからこそ、周りの人々だけではなく、イスラエルの民全体が、祝福されるようになりました。

主が語られるなら、もちろん、真実をもって、ご自分のみ心にあることをそのまま、お語りになります。主は、ダニエルに、「わが愛する人よ」と、み声をおかけになりましたが、そうお語りになるには、何かの理由があるはずです。

ダニエルの時代、もちろん、多くの主を信じる者がいっぱいいましたけど、こういうふうに声をかけられたのは、ダニエルしかなかったようです。「わたしは、あなたを愛している。」これは、ダニエルに対する天の判断でした。もし、我々にも同じみことばがかけられるなら、どんなに幸いなことでしょうか。もちろん、ダニエルは、主に愛された者であるとはっきり、書いてあります。けれども、聖書を読むと、ダニエルだけではない。我々も主に愛されている者であるとわかります。信じがたい。信じられない。どうして愛されているか、わからないけど関係ない。聖書がそう言っているから、間違いなくそうです。聖書の中でいちばん知られていることばは、言うまでもなく、ヨハネ伝三章十六節でしょう。

ヨハネ
3:16 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を(・・・・私を、あなたを・・・・)愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

ローマ
5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

第一ヨハネ
4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。
4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

今、話したように、ダニエルという男は、主と共に働く者でした。とりわけ、祈りにおいて、主と共に働く者であったから、主に大いに愛された人と呼ばれていたのです。天にまで届く祈りは、いったい、どのような祈りなのでしょうか。

このあいだ、一緒に考えたのは、天に届く祈りとは、みことばに基づいているものです。

ダニエル
9:2 すなわち、その治世の第一年に、私、ダニエルは、預言者エレミヤにあった主のことばによって、エルサレムの荒廃が終わるまでの年数が七十年であることを、文書によって悟った。

これを見ると、ダニエルは、聖書を――その時の預言者エレミヤの本を――読んでいたことがわかります。主のみことばは、ダニエルの第一の場所を占めていました。彼は、自分の考えを交えないで、祈りながら、主のみことばを読みました。彼は、ただ聖書の知識を蓄えるだけではなくて、み心を正確に知りたかった。また、み心を行おうとして、みことばを熱心に学びました。

結局、聞く耳を持っていたのです。ダニエルが祈ったとき、その祈りは、天に届きました。それは、ダニエルが、主の御心をよくわきまえていたからです。旧約聖書だけではなく、新約聖書の時代を見てもわかります。パウロは、全世界に伝道旅行し、全世界の信者と連絡をとり、各地で奉仕しました。

けれども、主はそのパウロを突然、牢屋に入れることを良しとされたのです。主のせいでした。どうして、主は反対しなかったのでしょうか。それは、パウロに、今の時代における主の御心が何であるかを知らせるためだったのです。パウロが牢獄で記した手紙――牢獄に入ることによって急に暇人になっっちゃった――ですから、手紙を書く用意があったし、エペソ書、コロサイ書、ピリピ書は全部、刑務所の中で書かれたものです。信じる者は、キリストのからだであり、全く天的な者であり、頭にイエス様をいただいている者であるということを、彼に示されたのです。

多くの人々は、信じる者の群れが全く天的なものであり、霊的なものであり、世界的なものであることを知らないから、すなわち、本当の主の目指す教会とは、人間の作った組織ではない。有機体です。頭はイエス様であり、このイエス様と繋がっている人々とは、御心にかなう教会です。パウロは、エペソ書の終わりに書いたのです。

エペソ
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

絶えず祈り、どんなときにも御霊によって祈り、すべての聖徒のために祈りなさいとあります。

天にまで届く祈りとは、今、話したように、みことばに基づいているものです。

二番目、天にまで届く祈りとは、生活の内に生きた証しを持っている人でなければできません。ダニエルの祈りは、聞き届けられました。いったいどうしてでしょうか。彼は、あらゆる点において、主に反するものから全く離れた生活をしたのです。

ダニエルは、自分自身を喜ばせることから離れていました。もし、私たちが主の目的を思わず、自らの願いだけを祈るなら、祈りは天に届かないでしょう。自らの目的は、まことの祈りを妨げます。ダニエルは、自らを喜ばせようとする何ものも持っていなかったと言えます。主は、「愛されている人よ」と、ダニエルに呼びかけることができたのです。パウロは、ピリピにいる大部分の兄弟姉妹のことで悩んでいました。だから、書いたのです。

ピリピ
2:21だれもみな自分自身のことを求めるだけで、キリスト・イエスのことを求めてはいません。

もちろん、意識してそうしなかったのです。けど、本当でした。パウロは、『私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です』(ピリピ1:21)と言うことができました。

ダニエルは、この世のやり方から全く離れていたとも言えます。異邦の民が願い、目指している主に反する目的、やり方には、少しも彼は妥協しませんでした。多くの信じる者は、この世と同じ生き方をしているのではないでしょうか。ダニエルについてだけではなくて、一緒にいた友だちについて聖書は言っています。

ダニエル
3:16シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王(・・・・当時の世界を治めた王様・・・・)に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18しかし、もしそうでなくても(・・・・これはいいことばです・・・・)、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

多くの信じる者は、この世にあって認められ、賞賛されようとつとめ、上にある朽ちないものを求めようとしないのではないでしょうか。この世の流行、この世と同じ生き方をして、どうして証しができましょう。

ダニエルのもう一つの大切な特長は何であったかと言いますと、彼は人を恐れなかった。彼は、当時もっとも権力を持っていた王でさえ、恐れなかったのです。

ダニエル
1:8ダニエルは、王の食べるごちそうや王の飲むぶどう酒で身を汚すまいと心に定め(・・・・強制されたのではない。自分で心に定めた・・・・)、身を汚さないようにさせてくれ、と宦官の長に願った。

6:10ダニエルは、その文書の署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かってあいていた。――彼は、いつものように(・・・・たまにではなく・・・・)、日に三度、ひざまずき、彼の神の前に祈り、感謝していた。
6:11すると、この者たちは申し合わせてやって来て、ダニエルが神に祈願し、哀願しているのを見た。

6:16そこで、王が命令を出すと、ダニエルは連れ出され、獅子の穴に投げ込まれた。王はダニエルに話しかけて言った。「あなたがいつも仕えている神が、あなたをお救いになるように。」

6:23そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。

主に信頼する者は、奇跡を経験します。信頼すると悪魔でさえも、どうすることもできません。もし、私たちが人を恐れ、人にへつらうならダニエルのように力ある祈りは、決してできません。

もう一つのダニエルの特長とは何であったかと言いますと、彼は、この世のいかなる関係にも心を奪われなかったということです。この世と関係を持たないことは、ダニエルとその友だちにとって、決して簡単な、生易しいことではなかったのです。ダニエルは、獅子の穴に投げ込まれ、友だちは燃える火の炉に投げ込まれたのです。けれども、主によって守られたのです。

彼らの祈りは聞き届られました。もちろん、彼らの前には、その時、二つの道が置かれていたでしょう。一つは、世と妥協して、居心地の良い生活をすること。もう一つは、獅子の穴と火の炉でした。彼らは、主の道を選びとりました。妥協せず、自らを主に捧げきって、命までも惜しみませんでした。主は、彼らの祈りを聞き、御栄(みさかえ)を現しました。

ダニエルは、このように主なる神に反するものから全く分離していましたが、それとともに、ひとつの目的に心を定めていました。

ダニエル
10:12 彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

心を込めて、ダニエルの心は主のご目的に集中されきっていました。私たちの心は、イエス様に許嫁(いいなずけ)とされた聖い乙女である、集会のために集中され、祈りにその心を注ぎ出すことができるでしょうか。パウロは、主のみ心を知って祈りました。彼の捧げた祈りとは、コリント第二の手紙に書かれています。

第二コリント
11:2というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。

このように、パウロはコリントにいる兄弟姉妹に書き送ったのです。

浮き草のように定まらない心ではなくて、主のご目的に思いを定めた心を、主は必ず、祝福してくださいます。私たちは、信じる者がめいめい、主を――イエス様を――頭とする生ける神の教会であるとの人格を持って集まり、心を定めて祈るなら、天の窓が開き、祈りは豊かに聞き届けられます。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。

第一コリント
9:24競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
9:25また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ピリピへの手紙の中にも、似ている箇所があります。

ピリピ
3:14キリスト・イエスにおいて上に召してくださる神の栄冠を得るために、目標を目ざして一心に走っているのです。

へブル書の著者も、同じ事実について書いたのであります。

へブル
12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。

ダニエルは、大いに用いられました。どうしてでしょう?今、話したように、彼は、主に反するものから、全く分離していたからです。二番目の答えは、彼はひとつの目的に心を定めたから。

最後に、もうひとつの答えは、彼は忍耐を持っていたからです。

ダニエル
10:12彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。
10:13ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、・・・・

ダニエルは、心を込めて二十一日間、ちょうど三週間、主の前に祈った。祈り続けました。ひとつの問題のために、二十一日間、祈るということは、決して簡単ではない。我々の場合は、いったいどうでしょうか?このような祈りを捧げたことがあるのでしょうか。

主の御前にひとつの問題を携えて、ほんのしばらくのあいだ祈り、すぐに立ち上がってしまいます。だから、何も祈りの答えがない。ダニエルは、忍耐深く、ひとつの目的のために、主の御前に留まり、祈り続けました。忍耐深い祈りをもってして、初めて、ダニエルのようにすばらしい経験をすることができます。

アブラハムについても、同じようなことが書かれています。

創世記
18:22アブラハムはまだ、主の前に立っていた。

19:29こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。

ダニエルが用いられたもう一つの理由は、彼の節制だったでしょう。ダニエル書、10章12節によると、ダニエルは、「主の前でへりくだろうと決めた」と書いてありますが、これは、ダニエルが己に打ち勝った、その戦いを表わしているのではないでしょうか。

【参考】ダニエル
10:12彼は私に言った。「恐れるな。ダニエル。あなたが心を定めて悟ろうとし、あなたの神の前でへりくだろうと決めたその初めの日から、あなたのことばは聞かれているからだ。私が来たのは、あなたのことばのためだ。」

ダニエルは、自分の考え、自分の意思、自分の感情に負けずに、それを克服しました。ダニエル書10章の3節にも、ダニエルがいかに節制したかが書かれています。

【参考】ダニエル
10:3 満三週間、私は、ごちそうも食べず、肉もぶどう酒も口にせず、また身に油も塗らなかった。

ダニエルは、少しの自分に益することをも考えないで、すべてを主にお捧げしたということです。聖霊が我々を支配してくださり、私たちがただひとつ、主のご目的を成さんとする熱意に燃えるようにしてくだされば、本当に幸いです。パウロは、コリントにいる兄弟姉妹に次のように書いたのです。

第一コリント
9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。

ダニエルの用いられた、また、別の原因とは、彼の確信でした。ダニエル書10章12節、「あなたのことばは聞かれている」と書かれています。すでに聞かれた。いつか聞かれるかもしれないのではない。『もう聞かれた』と、ダニエルは確信しました。ダニエルは、主の御心を知っていましたし、祈りのとおりに主は成してくださることを信じて、待ち望んでいました。祈りが主に聞き届けられるには、このように主の心を知り、結果を期待し、確信することが必要です。主の御心を知っていなければ、何をどのようにして祈ったらいいかわかりません。

もし、私たちが主のみことばにより、そのみ心を知るならば、それは、私たちの力となることは間違いない。主と共に働くことこそが、我々に与えられているもっとも大切な使命です。私たちは、ダニエルと同じように、主は何を成さんとしておられるかを知っているのでしょうか。もし、それを知ると、ダニエルにおそったように、悪の霊の働きの攻撃も、身近に感じるようになるでしょう。主のみ心を知った者は、悪魔の攻撃の目標となります。パウロも同じことを経験しました。悪魔は、パウロを集中的に攻めました。

コロサイ
4:2 目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。
4:3 同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。

パウロは、このように書いたのです。もう一箇所、読んで終わります。

第一テサロニケ
2:18 それで私たちは、あなたがたのところに行こうとしました。このパウロは一度ならず二度までも心を決めたのです。しかし、サタンが私たちを妨げました。

主が、ダニエルやパウロにしてくださったように、我々の心の目を開き、何があってもまず、主と共に働く者となりたいという願いをもたらしめてくださるなら、本当に幸いと思います。主が我々に向かって、「大いに愛される人よ」と、呼びかけられるようになったら、本当に幸いと思います。

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