1990年7月12日、春日部家庭集会
ゴッドホルド・ベック
イザヤ書53章4節-6節
4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
この6節の後半は、聖書全体の言わんとしてることを言ってるんではないかと思うんです。主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。旧約聖書の内容とは何であるかと言いますと、どういう状況におかれていてもあきらめる必要はない。造り主なる神、支配者なる神が生きておられ、この神こそが、人間の救い主になる。約束された救い主とは人間の罪の問題を解決するお方である。この約束された救い主について旧約聖書の中で三百三十三の預言の言葉が書き記されています。
この救い主が、たとえばどこの町でお生まれになるのか、それからどういう奇跡をなすようになるのか、いかにして救いの道を開くようになるのか、そういうこと全部、細かく旧約聖書の中で預言されたのです。そして、すべては預言通りになったんです。考えられないほどすばらしい事実です。私たちは確かに神の存在を証明しようと思ってもできません。いくら人間を納得させようと思っても無理です。けども聖書こそが、神の証明そのものであるとはっきり言えます。三百三十三の預言の言葉が全部、キリストを通して成就されたことは考えられないほどすばらしい事実なのではないでしょうか。一つの約束が、今、読みました箇所にあります。すばらしい預言です。もう一回、読みましょうか。
イザヤ書53:4
4 まことに、彼は(・・・・約束された救い主・・・・)私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。
主は私たちのすべての咎を彼に負わせた。今、読みました箇所を分けようと思えば三つの点に分けられるのではないかと思うんです。第一番目は、人間の悩みについて書かれています。第二番目は、神の啓示についても書き記されています。第三番目は、比類なき逃れ道について書き記されています。
人生の特徴とはいったい何でありましょうか?人間が悩んでることではないでしょうか。人間はやはり悩むものです。鳥は飛ぶものです。魚は泳ぐものです。人間は悩むものです。悩んでいない人間はいません。もちろん、自分には別に悩みがなくても、家族の中がうまくいったとしても、結局、親戚の中で、友人たちの中で、知り合いの人々の中で、悩んでる人々がいっぱいです。今の箇所で四つの言葉が出てくるんです。一つは病、もう一つは痛み、もう一つはそむきの罪、そして、四番目は咎。病があるから、痛みがあるから、そむきの罪があるから、咎があるから、人間は悩んでると言えるのではないでしょうか。
今の世界とは一つの大きな病院ではないかと言えます。なぜならば人間はみんな悩んでるからです。一つの悩みの種とは確かに病であり、病気でしょう。人間は疲れてるものです。肉体的に疲れる場合は、別にどうでもいい、そのために神さま信じなくても結構ですし、一晩ぐっすり寝れば元気になるからです。けども精神的に疲れれば、いくら寝ても、どういう薬を飲んでも、なかなか治らないものです。精神的に疲れている人々は非常に多いのではないでしょうか。いちばん広がってる病気とは孤独ではないでしょうか。どこへ行っても人間だらけですけど、それにしても人間は孤独なんです。親しい友だちがいても、やはり人間の孤独とは、ちょっと違った種類のものです。もっと深いものです。心の病のいやしは主なる神だけが提供されています。
この間、北海道で悩んでる一人の夫婦と――二回目だったんですけども――会いまして二人とも精神病院に入っていたらしいし、医者の判断は分裂らしいんです。二人とも、そう言ってるんですけど、私は違うだろうと思ってたんです。精神的に疲れ果ててしまってることだけであって、けども医者は結局、どうしようもなければ分裂だと言うんです。もちろん、神の目から見ると人間はみんな分裂です。程度の差だけです。けどもあの夫婦は、確かに疲れ果ててしまったし、もう希望がなかったし、喜びもなかったし、どうしたらいいかわからなかったですけど、この間、本当に素直にイエス様の御名を呼び求めるようになり、顔の表情が一遍に変わったんです。
イエス様だけがあらゆる孤独から解放してくださるお方です。病、それから痛みという言葉がでてきます。言うまでもなく、肉体的な痛みよりも精神的な痛み、心の痛みを持つことはもっとも苦痛でしょう。ある人は、十年来の友が嘘をついて私を裏切ったと話したんです。一週間、食べ物はのどを通らなかった。理解できません、苦しいと言われました。友だちに裏切られることは確かにつらいことでしょう。精神的に悩んでいる人々は数え切れないほどいます。病、痛み、それからそむきの罪という言葉が出てきます。
そむきの罪とはおもに不真実です。愛を拒むことです。もし主人に裏切られれば、あるいは、子供に捨てられれば、考えられないほどの痛みなのではないかと思います。病、痛み、そむきの罪、四番目の言葉は咎という言葉です。
咎とは人間のわがままなんです。パウロは千九百数十年前に当時の人間について次のように書いたのです。「だれも(みんな)、自分自身のことを求めるだけです。」聖書は時代遅れじゃないんです。現代人は不幸なんです。結局、人間はどうして悩んでるか、どうして孤独になるのか、どうして満たされないかといいますと、みな自分のことしか考えないからです。
私たちが周囲を見ると、何か正常でないものが感ぜられるのではないでしょうか。国々の悩みこそがそれを物語っています。解決のできない経済問題、訴訟問題、精神病院、刑務所、家庭に起きる困難な問題がそれなんです。
それは正常ではありません。いったい、なぜこの世界は悩みと苦しみの世界になってしまったのでしょうか。パウロは次のように書いたのです。
ローマ
5:12 ・・・・ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、――それというのも全人類が罪を犯したからです。
結局、初めの人間であるアダムとエバが悪魔に誘惑され、惑わされ、だまされてしまったから、今の世界はこういう悲しみに満ちたものになってしまったのです。私たちもみんなアダムとエバの子孫ですから、結局、この二人のために、私たちは今日まで悩まなければならないと聖書は言ってるんです。
神の判断とは義人、正しい人はいません、一人も。善を行なう人間はいない、一人もいない。これはすべてを知りたもう真の神の判断です。ですから人類をながめると誰かがすばらしく完成された記念碑にインクをぶちまけ、すべてがだめになったように思われます。すばらしい交響曲の真っ只中に、すべてを壊し、滅茶苦茶にするほどのひどい音をたてるかのような、そんな状態に思われます。人間はわがままであり、自分の知恵、また、力に頼り、気ままに行動し、もはや創造主なる神に尋ねることをしない。だから結果として人間は羊のようにさまよう者になってしまったとイザヤは言ってるのです。
人間はおのおの自分勝手な道に向かう者になってしまった。だからこそこの世界は大きな病院になってしまったんです。人生の特徴とは病であり、痛みであり、そむきの罪であり、また、咎であると書かれています。けど毎回、ただ単に病とか、痛みとか、そむきとか、罪とか書いていません。いつも私たちという言葉が付いているんです。私たちの病、私たちの痛み、私たちのそむきの罪、私たちの咎と書かれています。どうしてかと言いますと、誰でもが含まれているからです。例外なく人間は悩んでる者であるということです。だれでもが病気であり、悩んでいるものであり、そむきの罪、また、咎を犯す者であるからです。
確かに多くの人々はそれを認めようとしないけども、認めても認めなくても事実は事実です。多くの人々は自分の病気を知りません。平気な顔をして毎日を過ごすんです。病気が発見されたら、結局、痛みを感ずるようになってから、手遅れだと聞くとペチャンコになるのです。私もすでにガンになってるかも知れない、まだ感じてないことだと言ってるんです。だから平気な顔をして過ごすんです。大体そういうものなんです。
人間はみんな例外なく精神的に悩んでる。みんな例外なく苦しんでる。結局、みんな孤独なんです。満たされていない。人間は絶えざる喜びを知りませんし、真の心の平安を持っていない者です。ですから6節に、『みな』という言葉が出てきます。「私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分勝手な道に」、もちろん、聖書の言われている罪とは人間の行いとは関係なく、人間が神から離れてる状態を指す言葉です。
日本語を見ると罪という言葉が出てきますけど、それは単数形か複数形かわからない。文法的に日本語は非常に曖昧な言葉なんです。いちばんの専門家の話によると、言葉は二千いくつかあるらしいんです、この世界に。けどいちばん正確な、文法的な、100%正確な言葉は二つしかないらしいんです。ギリシャ語とヘブライ語です。旧約聖書はヘブライ語で書かれているのであり、新約聖書はギリシャ語で書かれてるのです。それも偶然じゃないんです。原語を見ると単数形の『罪』と、複数形の『罪』とは、もちろんはっきりと区別されています。人間の考えてる罪とは全部、複数形の罪だけなんです。すなわち人間の犯す罪です。誰でもがうそをつくことがあるでしょうし、誰でもが怒ったことがあるでしょうし、愛のない態度をとったことがあるでしょうし、これら全部、複数形の罪です。
けれども、神が問題にしているのは複数形の罪じゃないんです。単数形の罪なんです。単数形の罪とは神から離れてる状態をあらわしているのです。そして一秒前に生まれた赤ちゃんであっても、百歳になった老人であっても、人間は神から離れているものです。だから罪人です。罪を犯したからじゃないんです。一秒前に生まれた赤ちゃんは罪を犯さない。けどそれでも罪人です。どうして?罪人の間に生まれたものだからです。かえるはかえるです。ワニの子はワニです。罪人の子は罪人です、当たり前。私たちはアダムとエバの子孫ですから、仕方がなくて罪人として生まれたんです。それはわれわれのせいではない。ですからそのために人間は滅びません。
罪人として生まれたから、過ちを犯したから、地獄だとこれは宗教的な考えです。聖書的じゃないです。もし人間がそのためにだめならば、神はひどい。けども聖書はそう言ってません。どういう人間がいちばんだめになるかといいますと、意識して死ぬまでに神の前に絶対に頭下げません。自分のわがまま絶対に認めようとしません。何があっても正直になれません。救われたくない人は、救われたくない。こういう態度をとる人は結局だめになると聖書は言ってるんです。けど、これは神のせいではないです。人間のせいです。そういう人はもちろんいますし、何人いるのかちょっとわからないけど、私は個人的にはまだ一人も会ってないんです。
ですから病院行くのはちょっと楽しいんです。重病人に会うといつもうれしくなるんです。どうしてかといいますと、いくら頑固な人であっても、今まで「耶蘇教はいやだ!黙れ。」と言う人であっても、死ぬ前に子供のようになっちゃうんです。正直になります。素直になります。「神様、わがままだった。ごめん。」そういう気持ちになっちゃうんです。そういう気持ちになればもう安全です。聖書の知識があってもなくても関係ない。神の要求しているのはそれだけです。
変なことを要求するのは人間です。「聖書を勉強しなさい。いい子になりなさい。ああしなさい、こうしなさい。」それは人間の考えることなんです。聖書の言ってることは違う。人間は罪人として生まれたから、過ちを犯したからだめになるのではない。救われたくないからです。天国へいけない人は、結局、天国へ行きたくない人ばかりなんです。罪とは、神から離れてる状態を表す言葉です。神なしに生活することも、もちろん罪であると聖書は言ってます。
けども、このイザヤ書の中で人間の悩みについて、人間の解決できない罪の問題について書かれてるだけではなく、第二番目に神の啓示についても書かれています。4節に「神」という言葉がでてきます。6節に「主」という言葉がでてきます。もちろん神とは主です。主とは神です。この主なる神は初めのない終わりのない永遠のお方です。永遠とは何でしょうか?もちろん神です。神とは何でしょうか?永遠です。
結局、ピンと来ないんです。つかめません。神を理解できる人間はいない。いくら聖書勉強しても、人間は自分のみじめさを感ずるとありがたい気持ちを持つようになり、神を信ずるようになり、神の救う力を経験することができますけど、神を理解しようと思っても無理です。神とはもちろん無宗教です。
ある人々は変なこと言うんです。真の神は実はキリスト教の神です。仏教の神じゃないと言うんですけど、それは、もちろん的はずれです。キリスト教だって、仏教だって人間の造った宗教でしょう。神は無宗教です。宗教と関係持ちたくないお方です。もしイエス様が今日、この世に来るようになれば、100%あらゆる宗教を否定するようになります。いちばん否定される宗教は、もちろんキリスト教です。当然です。
当時、イエス様のこといちばん憎んだ人々とは、みんな神を信じ、聖書を徹底的に研究した聖書学者たちだったんです。結局、彼らは、「われわれは聖書を勉強した。神のことは知ってる、神のことを理解した。」と思い込んでしまって、傲慢になって結果としてめくらにされてしまったのです。真の神とは無宗教です。宗教を受け入れないお方です。なぜならば宗教の要求してることと、神の要求されてることは全く違うからです。
宗教は、「勉強しなさい。理解しなさい。必死に勉強すればわかるものだ。」と、それは宗教の言ってることです。うそです。聖書に書かれてることはピンとこないこと、ばかりなんです。理性でもってつかめないことばかりなんです。
それから宗教の言ってることは、「がんばりなさい。立派になりなさい。」、うそ!夢の世界だよ。人間は立派になれません。けど神は、「立派にならなくても結構。私のところにきなさい、あなたのできないことは私はできる。」、主は呼びかけておられます。
あなたのたましいはどんな医者に見せても治らないような、からからに渇いた土地のような渇きを持ってるのでしょうか?イエス様は、だれでも渇く者は私のところに来て飲むがよいと呼び掛けておられるんです。あなたの一日は失望と誘惑と試練に満ちていて、あなたの目の前は真っ暗闇でしょうか?イエス様は、私そのものは世の光です。私に従う者は闇の中を歩くことがなく、いのちの光をもつと約束しておられるのです。あなたのたましいが罪で汚れているのに驚き、このたましいが聖められるのかどうかと疑ってるのでしょうか?イエス様は、「私のところに来なさい、私に呼び求めよ。たとえあなたの罪は緋のようであっても雪のように白くなる。」と約束しておられます。このようなみ言葉によって、約束によって、主なる神が自分自身を明らかにしておられるのです。
このイザヤ書の中で人間の悩みについて、神の啓示についてだけではなく、比類なき逃れ道についても書き記されています。主なる神によって備えられた比類なき逃れ道とは、もちろん一つの宗教ではありません。道徳でもないし、一つの教えでもありません。彼なんです。『彼』という言葉は、何回も何回も何回も出てきます。彼とはもちろん約束された救い主であります。十字架につけられたイエス様であります。ですから、このイザヤ書53章の中に出て来る『彼』という言葉は――6回も出て来る言葉ですけれども――『彼』の代わりに、『十字架につけられた主イエス様』と入れたほうがわかりやすいのではないでしょうか。ちょっとこういうふうに入れましょう。
まことに、『十字架につけられた主イエス様』は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。『十字架につけられた主イエス様』は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。しかし、『十字架につけられた主イエス様』は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。『十字架につけられた主イエス様』への懲らしめが私たちに平安をもたらし、『十字架につけられた主イエス様』の打ち傷によって、私たちはいやされた。私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を『十字架につけられた主イエス様』に負わせた。
聖書の救いとは、すなわち贖いです。罪の赦しです。この最後の問題が解決されなければ、真の救いはあり得ません。罪の報酬は死であると彼は判断したのであります。罪を犯したたましいは、必ず死ぬと聖書は言ってるんです。刑罰は背負われねばならないと言うことになります。たとえば泥棒が自分の過ちを正直に告白しても、それは、もちろん十分じゃない。警察官はあなたは正直に認めたからいいよ、帰っても結構ですとは絶対言わないと思うんです。裁判官はそのような態度とろうと思ってもとれません。自分の子供がやってもとれません。刑務所に入ってる人が後悔したら、それだけで決して十分じゃない。刑罰を受けねばならない。刑罰を済ませてはじめて自由の身となります。だから裁判官の同情だって役に立たない。裁判官があの犯罪人をいくら愛していても、理解することができても、それは結局、役に立たない。刑罰を済ませることのみが、救うのであると聖書ははっきり言ってるのです。
結局、神の義は死の判決の執行なしには罪を赦すことができない。そうすると罪人だって死なねばなりません。けど主なる神の愛は罪人が死んで欲しくはない。神の愛は、罪人を救いたいと切に望んでるのです。けど神の愛と神の義とは、どのようにして一つになることができるのでありましょうか。主なる神の愛は世界がはじまる前、すなわち人間に罪が入り込む前にその答えを見出したのです。聖書の中で、この世界が造られる前に「ほふられた小羊」という言葉を使ったのです。
結局、人間が罪人にならないようにと、神が思ったならばできたはずです。当然です。人間を造る前に、悪魔を滅ぼしたほうがよかったんです。そうすれば人間は誘惑されなかったし、惑わされなかったんです。神はどうしてそうしなかったか、わからない。死んでからイエス様に聞きましょう。今いくら考えてもわかるもんじゃないんです。けども結局、罪の問題が起こる前に神ははっきり救いの道を備えてくださった。キリストは世界が造られる前に、ほふられた小羊と呼ばれるようになったのです。すなわち人間の罪の問題を解決するお方と呼ばれたんです。結局、考えられないことが起こったのです。主なる神ご自身はひとり子なる御子、すなわち、イエス様に刑罰を背負わせたのです。それは罪人が自由の身となり生きるためです。これこそが救いの驚くべき秘密であり、ゆるぎない逃れ道です。パウロはこの事実について次のように書いたことがあります。
ローマ人への手紙8:32
32 私たちすべて(・・・・例外なく・・・・)のために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。
結局、「神が御子を死に渡された。」とあります。もっとひどいことはあり得なかったと思います。人間はひどいことするかも知れないけど、神のなさったことはずっとひどい。考えられないほどひどかったんです。罪のない、全く聖い、罪を犯す可能性を持っていなかったイエス様は死に渡されてしまったんです。罪のないイエス様は全人類のための代表者として、人間が受けるべき天罰をお受けになったのです。罪のないイエス様の上に、この全人類の罪を置かれました。どんな重荷だったのでありましょうか?もしどなたか間違って訴えられ刑務所に入るようになれば、確かにそれは大変な問題だと思うんです。一人の人間が一つの罪の代わりに罰せられることは考えられない重荷でしょう。けどもイエス様は、すべての人間の代わりに罰せられたんです。すべての人間の過ち、わがままを犯した者として取り扱われたのです。結果として死に渡されたのであります。あんまりひどいから、ちょっと考えられません。
罪を知らない聖なるイエス様は、すべての罪、過ち、わがままをご自身の上に背負われたのであり、生まれたすべての人間は結局イエス様の死の原因です。罪を知らないイエス様はわれわれの代わりに死を背負われたのです。イエス様の上にわれわれの罪をおかれたのです。
このイザヤ書53章4節から6節まで、10の事実について書かれてます。すなわち十字架につけられたイエス様は、(1)私たちの病を、もうすでに負ったのであり、(2)私たちの痛みを、もうすでにになったのであり、(3)私たちの代わりに、もうすでに罰せられたのであり、(4)私たちの代わりに、もうすでに打たれたのであり、(5)私たちの代わりに、もうすでに苦しめられたのであり、(6)私たちの代わりに、もうすでに十字架の上で刺し通されたのであり、(7)私たちのために、もうすでに砕かれたのであり、(8)私たちのために、もうすでに懲らしめられたのであり、(9)私たちのために、もうすでに打ち傷を持つようになったのであり、また、(10)私たちのために、われわれのすべての咎が彼の上に、負わせられたのである。と、ここで書かれています。
人間は例外なく苦しめられること、刺し通されること、砕かれることを避けたいのではないでしょうか。「いいよ。苦しんでもかまわないよ。」、と思う人間はいないと思います。マタイの福音書の中で、27章27節の2~3ヶ所お読みします。有名なマタイの受難曲の中に出てくる言葉なんです。ヨハン・セバスチャン・パッハはこの曲を作った時、あんまり食べようとしなかったらしいんです。奥さんが、ご馳走を作って呼んでも来ない。彼の部屋に運んで行っても食べたくなかったようです。彼は聖書の前に平伏して、泣きながらこのマタイの受難曲を作ったらしいんです。
マタイの福音書27:27-31
27 それから、総督の兵士たちは、イエスを官邸の中に連れて行って、イエスの回りに全部隊を集めた。
28 そして、イエスの着物を脱がせて、緋色の上着を着せた。
29 それから、いばらで冠を編み、頭にかぶらせ、右手に葦を持たせた。そして、彼らはイエスの前にひざまずいて、からかって言った。「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」
30 また彼らはイエスにつばきをかけ、葦を取り上げてイエスの頭をたたいた。
31 こんなふうに、イエスをからかったあげく、その着物を脱がせて、もとの着物を着せ、十字架につけるために連れ出した。
マタイの福音書27:39-44
39 道を行く人々は、頭を振りながらイエスをののしって、
40 言った。「神殿を打ちこわして三日で建てる人よ。もし、神の子なら、自分を救ってみろ。十字架から降りて来い。」
41 同じように、祭司長たちも律法学者、長老たちといっしょになって、イエスをあざけって言った。
42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。
43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから。」
44 イエスといっしょに十字架につけられた強盗どもも、同じようにイエスをののしった。
ご存知のように、一人の強盗は後で心の態度を変えて救われちゃったんです。一つの考えられない奇跡です。どうして態度を変えたかわからないけど、やっぱりイエス様の祈りだと思うんです。イエス様は自分を殺した人々のために祈ったんです。「父よ。彼らの罪を赦して」、普通の人間にはできないことです。結局、彼はわれわれと違う、このイエス様は。われわれは自分の犯した罪のために、こういうふうに死刑になっちゃったけど、彼は違う。ですから、彼は一言だけ祈って救われちゃったんです。『主よ。イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください。』そうすれば、もう天国だ、考えられない事実です。けども彼は必ず安心して、希望を持って死に向かうことができたのです。彼はいわゆる聖書の知識を持っていなかったんです。イエス様は彼に知識を与えようとしなかったんです。いいチャンスだったんです。相手は逃げられなかったからです。十字架につけられていたからですけど、イエス様は何かを教えようとしなかったんです。人間は一つの教えによって救われないからとわかったからです。大切なのは心の気持ちです。あの犯罪人の心の気持ちは正しい気持ちでした。「私は駄目な者だ、もうおしまいです。イエス様が恵んでくださらなければ見込みがない。だから私を子どもにして。」と言ったんです。イエス様は、『あなたは今日、わたしと一緒に天国に行く』と、約束をしてくださいました。
十字架につけられたイエス様とは、確かに考えられないほど悩んだのです。聖書は何て言ってるかといいますと、ガラテヤ人への手紙3章13節ですけれども、次のように書かれてます。
ガラテヤ人への手紙3:13
13 キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。
木にかけられる者とは十字架につけられることを意味してるのです。十字架につけられる者は、すべて例外なくのろわれた者ですと聖書は言ってます。イエス様も十字架につけられたのです。従ってイエス様ものろわれた者、神によって捨てられた者になってしまったのです。どうしてでしょうか?ここではっきり書かれてます。自分が過ちを犯したからじゃない。自分のわがままのためではなかった。私たちのためですと書いてあります。キリストは私たちのためにのろわれたものとなった。われわれのような者のために、イエス様はのろわれても結構、捨てられてもよろしい、殺されてもかまわないという態度をお取りになったのです。
パウロは、神は、罪を知らない聖なるイエス様をわれわれの代わりに罪の固まりにされてしまったと書いてあります。悲劇そのものです。あんまりひどいから人間の言葉でもって言い表せない、考えられない。私たちは、聖い、罪を知らない、全く聖なるイエス様が、人類の罪を背負い神を退けた刑罰をお受けになったということを、いくら考えてもちょっと考えられません。ピンときません。いのちの君と呼ばれていたイエス様は殺されてしまった。死の確かなしるしとしては、血が流される時、いのちはなくなるというところにあります。人は生きてるかどうか確かな証拠は、もし血がなければもうだめだとはっきり言えます。
昔のお医者さんたちはちょっとおかしかったのです。昔の本を読むとわかります。どなたか重病人になったとき、医者は血を抜いたんです。血を抜くと人は元気になると100%信じてしまったのです。アメリカの有名な大統領はこういうふうに殺されてしまったのです。ちょっとした風邪を引いたんです。喉が痛くなって。そしてやっぱり心配している医者は助けようと思って、全部で四リットルの血を抜いたんです。それで死んじゃったのです。当然のことです。健康な人でも四リットルの血抜くと死んじゃう。終わり。当然です。結局、当時のお医者さんたちが聖書だけを読んでいれば、そんな馬鹿らしいことしません。
聖書の中で、血の中にいのちがあるとはっきり書いてあるんです。血がなければいのちがない当然です。イエス様の流された血潮は何を意味しているかといいますと、イエス様は実際に亡くなったのであるということです。死の確かなしるしは、結局、血がないということです。与えられたいのちのしるしは流された血潮です。だから私たちはイエス様の流された血によって、罪の赦しを得るのです。血潮は執行された死刑のしるしです。執行された裁判のしるしです。ですから聖書の中で、この事実を非常に強調してるのです。
宗教は何を強調するのか?やっぱり勉強しなさい。ただ「主よ。主よ。」、信じ込めばそれでけっこうです。とんでもない。聖書の言ってることは、血を注ぎ出すことがなければ罪の赦しはない。ヨハネは喜びをもって何を書いたかと言いますと、
ヨハネの手紙第一、1:7
7 御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
これこそが聖書の喜びのおとずれです。イザヤ書に戻りまして、53章4節、5節に面白い表現が書かれています。すなわち「私たちは思った。しかし、われわれは信じ込んでしまったけど」という言葉です。4節からもう一回読みましょう。
イザヤ書53:4
4 まことに、彼は(・・・・すなわち十字架につけられた主イエス様は、・・・・)私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
自分の過ち、自分のわがままのために罰せられ、神に打たれた。しかし彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、結局、われわれの代わりに刺し通され、天罰をお受けになり、私たちは思った。しかし、それはとんでもない思い違いだった。私たちは確かにそう思ったんだけど、今、私たちは本当のことを知るようになったんです。すなわちイエス様への懲らしめが私たちに平安をもたらし、イエス様の打ち傷によって、私たちはいやされた。イエス様の代わりの死を通して、私たちの罪は赦されている。われわれは、神との平和を持っている。われわれは永久的に救われてるということです。ペテロは、このイザヤ書の箇所を引用して次のように書いたのです。
ペテロの手紙第一、2:24-25
24 そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。
25 あなたがたは、羊のようにさまよっていましたが、今は、自分のたましいの牧者であり監督者である方のもとに帰ったのです。
救いとはいったい何なのでしょうか?二年前だったと思うんですけど、沖縄の帰り道でちょっと鹿児島行きまして、飛行場の近くにある姶良(あいら)というところで家庭集会を持つようになったんです。第一回目だったと思うんですけど、集会終わってから一人の悲しそうな奥さんが、「救いとは何ですか?救われたい。」と言ったんです。若いのにそんなに悩んでるのか、とちょっと思ったんですけど、彼女の質問は、もっとも大切なのではないかと思ったんです。救いとは何でしょうか?どういうふうにすれば救われるのでありましょうか?
いろんな話を聞いたところ、結局ご主人は二年前に亡くなったのです。会社も倒産してしまったし、そして彼女は子供三人と結局、がんばらなければならなくなったんです。普通のスーパーで働くようになり、もう精神的に疲れ果ててしまったんです。ご主人が死ぬ前に、どこかの教会の牧師さんが飛んで来て、ご主人は意識不明だったんですけど、洗礼を授けたんです。異例なことです。それでその牧師は何と言ったかと言いますと、「ご主人は今、洗礼を受けたから天国です。あなたは今、洗礼を受けなければ地獄だ。」彼女はもちろん考える余裕がなかったし、では、先生お願いしますと言ったんです。洗礼を受けたんです。その後、その牧師は一回も訪ねて来なかったし、『どうですか?』と心配しようとしなかった。ひどいんです。キリスト教はそういうもんなんです。ひどい。結局、彼女は救いとはなに?どうして救われていないのでしょうか?と尋ねたんです。
彼女も結局、イエス様に頼るようになったのです。そのとき今、読みました24節、25節も読んでたんです。彼女と、救いとは何かを話していた時、ちょうどこの箇所を思い出したんです。救いとは、キリストの打ち傷によっていやされることです。洗礼を受けることじゃないんです。キリスト教に入ることでもありません。キリストの打ち傷によっていやされることです。すなわち、罪の赦し、神との平和を自分のものにすることです。さまよっていた羊が、たましいの牧者であられる主のもとに帰るなら救われます。
十字架の上で死なれた、主イエス様の流された血潮の中には、どんな力があるのでしょうか?その血潮には、地上と天においても、今まで罪が全然なかったかのように、その罪をぬぐい去ることのできるただひとつの力があります。この血潮は、主なる神さえ見ることができないほど、きれいに罪をぬぐい去る驚くべき力を持ってます。イエス様は罪の大きな債務のために、その支払いとして、ご自身の血を与えられました。だからこそイエス様は権威をもって、よく次のように言うことができたのです。
マタイの福音書9:2
2 「子よ。しっかりしなさい。あなたの罪は赦された。」
イエス様の口からこの言葉を聞いた人々の人生は、一遍に変えられたんです。キリストはうそつきではない。イエス様は自分の約束を守るお方です。赦されたと確信することができたからです。いかに深く罪の中に落ち込んだとしても、また、その傷がただれても、いかにその傷が醜くても、イエス様の血潮によっていやされることができます。
イザヤ書の中で、非常に素晴らしい言葉が書かれてます。1章18節です。よく読まれる箇所なんです。新約聖書の神の呼びかけは、「来なさい。」ただ、そういう呼びかけですけど、旧約聖書の呼びかけも、もちろん同じ呼びかけです。神は今日も、昨日も、いつまでも変らないお方であるからです。
イザヤ書1:18
18 「さあ、来たれ。論じ合おう。」と主は仰せられる。「たとい、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとい、紅のように赤くても、羊の毛のようになる。」
これは神の呼びかけであり、素晴らしい約束ではないでしょうか。43章に同じような言葉が書かれてます。
イザヤ書43:25
25 わたし、このわたしは、わたし自身のためにあなたのそむきの罪をぬぐい去り、もうあなたの罪を思い出さない。
永久的に忘れる。44章にも同じ言葉が書かれてます。
イザヤ書44:22
22 わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。
主の呼びかけとはこういう呼びかけです。結局、神は人間から何にも要求なさいません。努力しろ、立派になれじゃないんです。主は、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。これは過去に行なわれた事実です。信じても信じなくても、認めても認めなくても、結局、主は救いの代価を払ったから、だから「私に帰れ」と呼びかけておられるのです。「私に帰れ、私はあなたを贖ったからだ。」ここで複数形ではなくて、幸いに単数形になってるんです。結局、一人一人は、主によって大いに愛されてるのであり、一人一人のために代価を支払ってくださったのです。主なる神は、私たちのすべての咎を十字架につけられたイエス様に負わせた。だからこそ、われわれはあきらめる必要はない。だからこそ、私たちは、安心して主に近づくことができるのです。主は、「私のもとに来なさい。私は休ませてあげます。」「罪を赦します。」「絶えざる喜び、生き生きとした望みを与える。」と約束してくださるのです。

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