2022年6月17日金曜日

すぐに起こるはずのこと【第1部】4.パトモスで与えられた幻

第1部

4.パトモスで与えられた幻

黙示録1章9節から20節まで

1.ヨハネに与えられた使命
[1]主にある苦難にあずかる
[2]み国に共にあずかる
[3]忍耐を共にする
2.ヨハネに現われたイエス様
[1]七つの金の燭台
[2]人の子のような方
3.ヨハネが聞いたイエス様のみ声
[1]ヨハネの上にみ手がおかれ、みことばが語られた
[2]初めであり、終わりであり、生者と死者のかぎを持つお方
[3]み使い、つまり教会の象徴

(9)私ヨハネは、あなたがたの兄弟であり、あなたがたとともにイエスにある苦難と御国と忍耐とにあずかっている者であって、神のことばとイエスのあかしとのゆえに、パトモスという島にいた。(10)私は、主の日に御霊に感じ、私のうしろにラッパの音のような大きな声を聞いた。(11)その声はこう言った。「あなたの見ることを巻き物にしるして、七つの教会、すなわち、エペソ、スミルナ、ペルガモ、テアテラ、サルデス、フィラデルフィヤ、ラオデキヤに送りなさい。」

(12)そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。(13)それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。(14)その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。(15)その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。(16)また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。

(17)それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、(18)生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。(19)そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。(20)わたしの右の手の中に見えた七つの星と、七つの金の燭台について、その秘められた意味を言えば、七つの星は七つの教会の御使いたち、七つの燭台は七つの教会である。」(黙示1・9~20)

ヨハネの黙示録1章1節から8節までは、黙示録の序文でした。私たちはこれから9節以降で黙示録の本論を学びたいと思います。前に述べたように、黙示録全体は三つの部分に分けて考えることができます。この三つの部分は1章9節に要約されています。つまり、「あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。」という三つの部分です。したがって、第一の部分はヨハネがすでに「見た事」です。その内容はヨハネがパトモスで与えられた幻です。それを私たちはさらに三つに分けて考えてみましょう。

第一は、ヨハネがパトモスで与えられた使命であり、第二は、ヨハネに現われたキリストであり、第三は、ヨハネが聞いたイエス様のみ声です。

1.ヨハネに与えられた使命


1章9節では、ヨハネは自分のことをあなた方の「兄弟」であると言い、自分が使徒であるということを強調していません。それはヨハネの間違った謙遜さから出たのではなく、ヨハネが「兄弟」という言葉を最もすばらしい言い方だと考えていたからです。使徒たちは確かに特別の使命を帯びていましたが、彼らは決して人の上に立とうとはしませんでした。なぜなら、彼らは自分たちがただ神の声にすぎないということをよく知っていたからです。使徒の働き2章に「そこで、ペテロは十一人とともに立って、声を張り上げ、人々にはっきりとこう言った。」と書いてありますが、これは使徒ペテロが特別の使命を持っていたにもかかわらず、決して他の兄弟たちをだしぬいて彼らの上に立とうとはしなかったといういい実例です。

さらにヨハネは次の三つの意味で、当時の信者たちの友であると言っています。つまり彼は、イエスにある苦難、み国、忍耐に共にあずかる者だと言っているのです。

[1]主にある苦難にあずかる


主にある苦難に共にあずかる者として、ヨハネはその当時パトモスに追放され、孤独でした。だから、彼には苦難がどのようなものであるかがよくわかっていました。しかし主のご臨在があれば、どのような苦難も耐えがたいものではないこともよく知っていたのです。

ヨハネと同じように、パウロもシラスも、かつて捕らわれの身でありながら、主なる神に賛美の歌を歌いました。

真夜中ごろ、パウロとシラスが神に祈りつつ賛美の歌を歌っていると・・・・(使徒16・25)

またイエス様も、「あなた方は世にあっては患難があります。」と言っておられます。イエス様に忠実に従っていく人たちは、誰もが必ず患難にぶつかったのです。しかし、ヨハネやパウロやシラスのような人々は、どのような患難や苦難にぶつかってもくじけることがなかったのです。

[2]み国に共にあずかる


ヨハネはさらに「み国に共にあずかる」者でした。イエス様こそが世界の主であるというのがヨハネの確信でしたから、そのように述べ伝えたのです。そのために彼は憎まれ、迫害され、そして追放されました。しかし彼は、イエス様と悩みを共にする者は、イエス様と共に支配もするということを知っていました。

もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。(第一テモテ2・12)

そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。(第一ペテロ5・1)

[3]忍耐を共にする


ヨハネはイエス様にある苦難とみ国とにあずかる者でしたが、さらに、「忍耐を共にする」者でもありました。しかし、この場合の忍耐とは、ただ単に苦しみを耐えるというだけでなく、「耐え忍んで主を待ち望む」という意味での忍耐です。したがって、私たちもヨハネと同じように主を待ち望むものでなければなりません。迫害は、裏切りや、脱落をともなうものですが、一面では団結を強めるものでもあります。真のキリスト者は、ヘブル人への手紙2章1節にあるように、「後に来ようとしている都を求めて」います。

私たちは、この地上に永遠の都を持っているのではなく、むしろ後に来ようとしている都を求めているのです。(ヘブル13・14)

もし、私たちがこの世にあってキリストに単なる希望を置いているだけなら、私たちは、すべての人の中で一番哀れな者です。(第一コリント15・19)

もし私たちに、イエス様に対する生き生きとした「待ち望みの信仰」がなければ、私たちの信仰生活は本当に惨めなものです。このような「待ち望みの信仰」こそが教会が主の花嫁である証拠です。なぜなら、黙示録の22章17節に、「花嫁も言う。『来てください。』」とあるからです。ところが当時、信者たちの間にこのような待ち望みの信仰が衰え果ててしまっていました。実は、それこそが黙示録2章と3章が書かれた根本的な理由でした。ですから、イエス様は、ヨハネをただ一人パトモスに導かれ、主なる神だけとの交わりに入るようにされたのです。そして、その交わりを通して、イエス様はヨハネに新しい啓示を与え、その啓示をヨハネを通して教会に与えようとされたのです。ですから、人間的に見ると、ヨハネをパトモスに追放したのはローマ皇帝でしたが、実はそのことの背後にはイエス様が立っておられ、このことを通してご自身に属する人々に新たに語りかけようとされたのです。

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8・28)

あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました。それはきょうのようにして、多くの人々を生かしておくためでした。(創世記50・20)

さて次に、私たちは10節の「御霊に感じ」という言葉について考えてみましょう。そのためにはまず、ローマ人への手紙8章9節にある「御霊の中にいる」という言葉との違いを知る必要があります。

けれども、もし神の御霊があなたがたのうちに住んでおられるなら、あなたがたは肉の中にではなく、御霊の中にいるのです。キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。(ローマ8.9)

すべてのキリスト者は「御霊の中にいる」のです。そしてそれは、いつもそうあるべき状態です。しかしヨハネが書いている「御霊に感じ」という言葉は、キリスト者にとってはまったく特別な、また新しい経験でした。それは新たに主のみ声を聞くときにのみ経験される「特別な体験」です。私たちもヨハネのように主の前に静まって、主からの語りかけをいただき、御霊に感じる体験を持つことが必要です。

同じ10節にある、「主の日」という言葉についても少し考えてみましょう。聖書の中で「主の日」という言葉は何箇所も出てきますが、いつも二通りの意味で使われています。まず、イエス様の再臨と裁きを意味する日を「主の日」と言っています。

主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。(第一テサロニケ5・2)

しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。(第二ペテロ3・10)

これらの箇所では、「主の日」とは、つまり「イエス様の再臨と裁きの日」です。

もう一つの「主の日」は「主のよみがえりの日」、つまり安息です。そして10節の「主の日」とは、この二番目の意味での主の日、すなわち主のよみがえりの日、安息のことです。

当時、「主」という言葉はよく使われていました。しかしほとんどの場合、「主」という言葉はイエス様を指すのではなく、ローマ皇帝を指していたのです。このような歴史的背景を考えるとき、ヨハネが「主の日」という言葉を使っているのは深い意味があります。なぜなら、「主の日」というきわめてキリスト者的な言葉を使うことによって、ヨハネは自分にとって「主はイエス様だけであり、ローマ皇帝ではない」ことを暗黙の内に宣言していたのです。

その日、ヨハネは自分の後ろからラッパの音のような大きな声を聞き、非常に驚きました。そこでヨハネは、自分の見たことを巻物に記せという使命を与えられたのです。主なる神がいったん声に出してみことばを語られたからには、神は必ずご自身のみことばをなしとげられます。そしてそうなれば、神のみことばを与えられたすべての信者たちは責任を免れることはできません。

黙示録であげられている七つの都市はすべて、その当時の皇帝崇拝が行なわれていた中心地でした。ですから、これらの都市に住んでいるキリスト者にとって最も大切なのは、皇帝崇拝に屈服することなく、どのようにして神のみことばだけに従っていくかということでした。主は、ヨハネのためにみことばを与えられたのではなく、ヨハネを「通りよい管」として用い、これらの都市にある教会、キリストの群れのためにみことばを与えられたのです。

2.ヨハネに現われたイエス様


2節に、ヨハネは「語りかける声を見ようとして振り向いた。」とありますが、これは彼が自分自身の考え、自分自身の思い煩い、自分自身の願い、疲れ、気落ちなどを振りすてて、イエス様の方に向きを変えたということです。私たちもヨハネのように、これらのものを振りすてなければ主のご栄光を拝することはできません。ヨハネが見たものは、何も言わなくても多くのことを語っていました。

[1]七つの金の燭台


ヨハネが振り向いて最初に見たのは、語りかける声ではなく、七つの金の燭台でした。七つの燭台とは、七つの教会のことでした。

考古学的な発掘によって、エペソの教会から大きな燭台がいくつか発見されましたが、これらの燭台は、当時のローマ皇帝の肖像を照らすためのものだったと想像されています。しかし、ヨハネが見たのは、燭台のまん中に立っておられる、ローマ皇帝とはまったく異なったお方でした。七つの燭台は七つの教会であり、そのまん中に立っておられるお方は、七つの教会のかしらである方、つまりイエス様だったのです。

イエス様がまん中にお立ちになり、イエス様のご支配が明らかにされる所だけが本当の教会です。燭台は光源を支えるだけのものであり、光そのものではありません。光そのものは、もちろんイエス様ご自身です。

イエスはまた彼らに語って言われた。「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(ヨハネ8・12)

イエス様こそが世の光そのものです。すべてのキリスト者は、光を証しする者であり、光を保つ燭台です。イエス様に属する者はイエス様を証しする者でなければなりません。私たちの生活の中心にはイエス様だけがおいでになるべきで、私たちの生活の中心にほかの何ものもあってはなりません。燭台は光がなければ何の役にも立ちません。キリスト者の群れの使命は、イエス様の光を輝かすことです。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2・15、16)

教会、キリスト者の群れは、聖霊によって火をともされ、この世を照らしだすための燭台でなければなりません。テサロニケという町にある教会の信者たちは、このような燭台でした。パウ口は彼らについて喜んで次のように書いています。

あなたがたも、多くの苦難の中で、聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ、私たちと主とにならう者になりました。こうして、あなたがたは、マケドニヤとアカヤとのすべての信者の模範になったのです。主のことばが、あなたがたのところから出てマケドニヤとアカヤに響き渡っただけでなく、神に対するあなたがたの信仰はあらゆる所に伝わっているので、私たちは何も言わなくてよいほどです。私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、また、神が死者の中からよみがえらせなさった御子、すなわち、やがて来る御怒りから私たちを救い出してくださるイエスが天から来られるのを待ち望むようになったか、それらのことは他の人々が言い広めているのです。(第一テサロニケ1・6~10)

彼らは本当に模範的なキリスト者でした。彼らは「世を照らすための燭台」でした。燭台の使命は夜の闇を照らすことです。そして燭台は金でつくられていました。このことはすべてが神によって造られていることを意味しています。

[2]人の子のような方


13節にはヨハネが「人の子のような方」を見たと書いてあります。この「人の子」という表現はダニエル書にも出てきます。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・13、14)

私が目を上げて、見ると、そこに、ひとりの人がいて、亜麻布の衣を着、腰にはウファズの金の帯を締めていた。そのからだは緑柱石のようであり、その顔はいなずまのようであり、その目は燃えるたいまつのようであった。また、その腕と足は、みがきあげた青銅のようで、そのことばの声は群集の声のようであった。(ダニエル10・5、6)

ヨハネは長く足まで垂れた衣を見て、平和と威厳とを感じました。しかしこの衣は、大祭司を意味するものではなく、裁き主を意味する衣です。ダニエル書7章9節には「その衣は雪のように白く」とあり、それは主なる神のことを指していますが、黙示録ではイエス様を現わしています。そして「白い」とは、この方の天的な性質を現わしています。黙示録で私たちは、イエス様を人として、また神として見ることができます。「雪のように白い髪」とは、イエス様の永遠性と限りない知恵を現わしています。

さらに「燃える炎のような目」は、イエス様が裁き主としてすべてを見通される力を持った方であることを意味しています。イエス様は決してごまかされることのない裁き主です。私たちの生活がイエス様の前にあり、イエス様のご支配のもとにあるかどうかを主はよくご存知です。

神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く、たましいと霊、関節と骨髄の分かれ目さえも刺し通し、心のいろいろな考えやはかりごとを判別することができます。(ヘブル4・12)

また、イエスはご自身で、人のうちにあるものを知っておられたので、人についてだれの証言も必要とされなかったからである。(ヨハネ2・25)

イエス様はペテロも、ユダも、パリサイ人もよく知っておられました。主の目は燃える炎のような目です。

15節に、「その足は、炉で精錬されて光り輝くしんちゅうのようであり・・・・」とあります。このことは何を意味しているのでしょうか。鉄はすべてを砕くものですが、炉で精錬された真鍮とは鉄よりもさらに砕くもの、つまり何者も逃れられない裁きのことを意味しています。裁きの中に入る者にはもはや救いはありません。救い主イエスを拒んだ人に対しては、イエス様は裁き主となります。イエス様が足元に踏み砕いた所には、ただ灰が残されるだけです。

あなたがたはまた、悪者どもを踏みつける。彼らは、わたしが事を行なう日に、あなたがたの足の下で灰となるからだ。(マラキ4・3)

旧約聖書には、主なる神がご自身に敵対するものを足の下に踏みつけられる、あるいは踏み砕かれるという言葉がよく出てきます。

あなたによって私たちは、敵を押し返し、御名によって私たちに立ち向かう者どもを踏みつけましょう。(詩篇44・5)

神によって、私たちは力ある働きをします。神こそ、私たちの敵を踏みつけられる方です。(詩篇60・12)

彼が民の悩む者たちを弁護し、貧しい者の子らを救い、しいたげる者どもを、打ち砕きますように。(詩篇72・4)

イエス様の足の下では、人間的な誇りは陶器が砕かれるように打ち砕かれてしまいます。イエス様の足は、悪者に対する断固たる裁き、また、人間に対しての神の正義を現わしています。

旧約聖書に記されている「祭壇と洗盤」は、同じ青銅でできていました。「金」は常に絶対的な「神の義」を現わし、「鉄」と「青銅」は神の義にもとづく罪に対しての裁きを現わしています。モーセがイスラエル人を罪から救うために造った蛇も、青銅でできていました。火で精錬された銅は、神の怒りを現わします。

15節の後半に「大水の音のような声」が出てきますが、これはイエス様の全能の力を現わしています。この方の声に対抗できる声はこの世にはありません。すべてこの世の声は神の前に死に果ててしまわなければなりません。イエス様がこの世で語られた時でさえも、悪霊はイエス様の声を恐れ、風や海はイエス様の声に従い、また死人は墓の中から呼び戻されたのです。イエス様のみ声を聞き、これに従う人は、主の完全な救いと守りを体験することができます。

イエス様の声はまた、私たちの毎日の生活をも導こうとされます。主の声の前には、この世の勝利の歌も、この世のしがらみも、まったく虚しいものとなってしまいます。15節にある主の声は、最も高い所に座しておられる裁き主の審判をも象徴しています。

続いて、16節に、「七つの星を持った右手」という言葉が出てきますが、この右手はかつて釘を打たれ、その釘あとを残しているイエス様の手です。この釘あとはよみがえられたイエス様の手に残されたものでした。

それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」(ヨハネ20・27)

右の手とはまた、支配し、ことを行なう手を意味しています。イエス様の右の手にはすべての支配権が握られているのです。

当時の貨幣の中には、ローマ皇帝が七つの星を右手につかんでいる像が彫られているものがありました。それはローマ皇帝が全世界の支配権をつかんでいることを象徴していました。七つの星をつかむ者が最高の位につく者を指すことを、その当時の人々は誰でも知っていました。しかし、ヨハネの見た方はローマ皇帝ではなく、七つの教会を通して支配されるイエス様でした。イエス様こそが完全な力を持っておられるからです。また、この16節にある右の手とは、私たちがイエス様の手の中に守られ、またイエス様の右の手に支えられているということを意味しています。この右の手は完全なる守りであり、私たちのあらゆる行為とあらゆる決定に際して導いてくださろうとしている手です。

主は、私の力であり、ほめ歌である。主は、私の救いとなられた。喜びと救いの声は、正しい者の幕屋のうちにある。主の右の手は力ある働きをする。主の右の手は高く上げられ、主の右の手は力ある働きをする。(詩篇118・14~16)

また、16節にある「口から出ている鋭い両刃の剣」とは、イエス様が聖なる主であり、容赦ない裁き主であることを表わしています。

ギリシャでは二種類の剣が使われていました。一つは敵を倒すためのもので、これは長い剣でした。もう一つは獣の体を開くためのもので、これは短い剣でした。ヘブル人への手紙4章2節に「神のことばは生きていて、力があり、両刃の剣よりも鋭く」とありますが、この場合の剣は、体を切り開く短い剣のことです。黙示録の場合も、問題とされているのは戦いではなく、裁きです。というのは、イエス様はもはや勝つために戦う必要がないからです。イエス様はすでにゴルゴダの丘の十字架において完全な勝利をおさめられたのです。イエス様はご自身のみことばによって、ご自身に従わなかったすべての人々を裁かれます。イエス様のみことばは刺し通し、切り裂く剣のようなみことばです。イエス様は私たちを知り尽くし、私たちの罪を明るみに出されます。イエス様は、ご自身に属する者たちがご自身の手から離れ、もはやイエス様によって導かれようとしないときに、そのような人々を惜しむことができません。イエス様のみことばはすべてを裸にしてしまいます。そのみことばは、偽りの贈り物によって弱めることはできません。主はだれがご自身と結びついているかをよく知っておられます。

救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。(エペソ6・17)

黙示録2、3章を読むと、イエス様がいかに鋭くご自身のみことばをもって教会に切り込んでおられるかがわかります。16節の後半にある「強く照り輝く太陽のような顔」とは、勝利者の象徴です。

主よ。あなたの敵はみな滅び、主を愛する者は、力強く日がさし出るようにしてください。(士師記5・31)

そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のあるものは聞きなさい。(マタイ13・43)

このイエス様の光輝くみ姿は、私たちに、暗い夜のあとで主なる神の最後の勝利が現われることを語っています。イエス様は、かつて歴史的にそのような方が存在したというだけでなく、栄光の主、つまりこの世とご自身の教会にとってのあらゆる光の源であるお方です。イエス様が太陽として輝くことができない所は、どこでも寒さと冷たさがあります。むなしい空虚な冷たさがあるだけです。イエス様の光は本当に圧倒的な光であり、黙示録21章23、24節にあるようにその光があるところにはもはや太陽も月もいりません。変貌の山でのイエス様の輝きは主の栄光を現わしていますが、黙示録での主の輝きは、主の裁きの権威を現わしています。ヨハネに現われたキリストの特徴は、主が裁き主としてご自身を現わされているところにあります。裁き主の目、裁き主の足(黙示2・18)が記されているのです。

そしてさらに、裁き主の口(黙示2・16)、裁き主の判断(黙示3.2)、裁き主の診断(黙示2・23)、怒り(黙示2・5)、拒絶(黙示3・16)などの箇所が、イエス様の特徴をよく現わしています。しかし、黙示録3章19節を見ますと、イエス様がすべてこれらのことを愛をもって行なっておられることがわかります。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3・19)

1章5節で見てきたように、イエス様は私たちを愛してくださったばかりでなく、今も愛していてくださるお方です。イエス様によって愛されていることは何というすばらしい特権でしょう。ですから、この19節によって、私たちはイエス様の裁きの上にもなおイエス様の愛があることを知ることができます。そしてこの場合には、恵みの時の裁きが語られているのであって、最後の審判の時の裁きが語られているのではありません。この審判の時の裁きについては、黙示録に次のように書き記されています。

また私は、大きな白い御座と、そこに着座しておられる方を見た。地も天もその御前から逃げ去って、あとかたもなくなった。また私は、死んだ人々が、大きい者も、小さい者も御座の前に立っているのを見た。そして、数々の書物が開かれた。また、別の一つの書物も開かれたが、それは、いのちの書であった。死んだ人々は、これらの書物に書きしるされているところに従って、自分の行ないに応じてさばかれた。海はその中にいる死者を出し、死もハデスも、その中にいる死者を出した。そして人々はおのおの自分の行ないに応じてさばかれた。それから、死とハデスとは、火の池に投げ込まれた。これが第二の死である。いのちの書に名のしるされていない者はみな、この火の池に投げ込まれた。(黙示20・11~15)

しかしもちろん、ヨハネが1章10~16節を経験している間は、ヨハネはまだこのことについてはっきりとわかってはいませんでした。ここに現われたイエス様は、ヨハネに向かってそのことをまだ一言も語っておられなかったからです。

3.ヨハネが聞いたイエス様のみ声


16節までの箇所で、ヨハネはイエス様を見たと言っていますが、まだイエス様のみ声を聞いたとは言っていません。ヨハネはイエス様を見た時に、そのありさまに圧倒されてイエス様の足もとに倒れ伏したと書かれています。ヨハネは死ぬほど驚いて倒れました。これとよく似た体験は、ヨハネ以前の主のしもべたちも経験していました。

また仰せられた。「わたしは、あなたの父の神、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは神を仰ぎ見ることを恐れて、顔を隠した。(出エジプト3・6)

エゼキエル、イザヤ、ダニエル、サウルもやはり同じような経験をしていました。

その方の回りにある輝きのさまは、雨の日の雲の間にある虹のようであり、それは主の栄光のように見えた。私はこれを見て、ひれ伏した。そのとき、私は語る者の声を聞いた。(エゼキエル1・28)

そこで、私は言った。「ああ。私は、もうだめだ。私はくちびるの汚れた者で、くちびるの汚れた民の間に住んでいる。しかも万軍の主である王を、この目で見たのだから。」(イザヤ6・5)

この幻は、私、ダニエルひとりだけが見て、私といっしょにいた人々は、その幻を見なかったが、彼らは震え上がって逃げ隠れた。私は、ひとり残って、この大きな幻を見たが、私は、うちから力が抜け、顔の輝きもうせ、力を失った。私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。(ダニエル10・7~9)

ところが、道を進んで行って、ダマスコの近くまで来たとき、突然、天からの光が彼を巡り照らした。彼は地に倒れて、「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」という声を聞いた。(使徒9・3、4)

「地にひれ伏す」ということは、普通は礼拝を意味していますが、これらの箇所の場合にはそうではありません。17節の「倒れて死者のようになった。」という言葉は礼拝を意味するのではなく、驚き、あるいは、恐れを意味しています。ここに表現されていることは、「神と人との隔たり」、あるいは「天と地との隔たり」です。イエス様の見たこともない姿の前に、ヨハネはひれ伏したのです。

[1]ヨハネの上にみ手がおかれ、みことばが語られた


しかし、その見たこともないみ姿は、恐れるヨハネを地に倒れ伏したままにはしないで、その手をヨハネの上におかれたのです。「右の手を人の上に置く」ということは、聖書の中ではその人に活力を与える、また、憐れみを与えることを意味しています。

私はそのことばの声を聞いた。そのことばの声を聞いたとき、私は意識を失って、うつぶせに地に倒れた。ちょうどそのとき、一つの手が私に触れ、私のひざと手をゆさぶった。(ダニエル10・9、10)

彼が私に語りかけたとき、私は意識を失って、地に倒れた。しかし、彼は私に手をかけて、その場に立ち上がらせ、そして言った。「見よ。私は、終わりの憤りの時に起こることを、あなたに知らせる。それは、終わりの定めの時にかかわるからだ。」(ダニエル8・18、19)

弟子たちは、この声を聞くと、ひれ伏して非常にこわがった。すると、イエスが来られて、彼らに手を触れ、「起きなさい。こわがることはない。」と言われた。(マタイ17・6、7)

これらのみことばは、主が人の上に手を置かれることが人に力を与えるということを示しています。そしてまた、「手を置く」ことは憐れみを意味している場合もあります。

さて、ひとりのらい病人が、イエスのみもとにお願いに来て、ひざまずいて言った。「お心一つで、私はきよくしていただけます。」イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」(マルコ1・40、41)

イエス様は、当時だれも手を触れることを許されていない、らい病人に手を触れられました。そして、これこそ、らい病人の救いに必要なことでした。さらに、「手を置く」という言葉は、その人を受け入れることも意味していました。

ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」(マタイ14・30、31)

ダニエルにとっても、らい病人にとっても、そしてペテロや弟子たちにとっても、イエス様に触れられることがただ一つの救いの道だったのです。

地に倒れ伏したヨハネは、ただ「手を置かれた」だけではなく、その方の言葉も聞きました。しかし、ヨハネはその方の言葉を聞いたとたんに、その方がイエス様だとわかったのです。ヨハネによる福音書21章7節を見ると、復活されたイエス様がテベリヤの湖畔に現われたとき、ヨハネが他の誰よりも先にわかったことが書かれています。その時ヨハネは「主です。」と叫んだのでした。また、黙示録1章17節で、主はヨハネに対して「恐れるな。」と言われています。すでに何度も主は弟子たちにこのように言われました。

しかし、イエスは彼らに言われた。「わたしだ。恐れることはない。」(ヨハネ6・20)

しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。(マタイ14・27)

主はいつでも恐れと戸惑いの中にある人々に「恐れるな」と語りかけておられます。イエス様の足元にひれ伏してへりくだる人は、イエス様の権威を恐れる必要がありません。イエス様を受け入れた人には、主を恐れる理由はないのです。ですから信者は、イエス様がたとえ裁き主であろうとも、主を恐れる必要はありません。なぜなら信者は裁かれることがないからです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8・1)

[2]初めであり、終わりであり、生者と死者のかぎを持つお方


黙示録1章17、18節で、主は四つの事実によってご自身を現わしておられます。

イエス様は、「わたしは最初であり、最後であり」と言っておられます。
イエス様は、「わたしは生きている者である」と言っておられます。
イエス様は、「わたしは死んだが」と言っておられます。
イエス様は、「死とハデスとのかぎを持っている」と言っておられます。

これから、この四つの事実について考えてみましょう。

旧約聖書の中にすでに、主はご自身を「最初であり、また最後である」と語っておられます。

イスラエルの王である主、これを贖う方、万軍の主はこう仰せられる。「わたしは初めであり、わたしは終わりである。わたしのほかに神はない。」(イザヤ4・6)

「わたしに聞け。ヤコブよ。わたしが呼び出したイスラエルよ。わたしがそれだ。わたしは初めであり、また、終わりである。」(イザヤ48・12)

神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示1・8)

また言われた。「事は成就した。わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。わたしは、渇く者には、いのちの水の泉から、価なしに飲ませる。」(黙示21・6)

「最初であり、最後である方」は神ご自身です。神には始めも終わりもありません。つまりアルファであり、オメガです。このことは、私たちのような小さくて限りある人間には理解できないことです。

次に、イエス様は「わたしは生きている」と言われました。このような表現もまた旧約聖書の時代から主について使われていました。

ヨシュアは言った。「生ける神があなたがたのうちにおられ、・・・・」(ヨシュア3・10)

「まことに、わたしは誓って言う。『わたしは永遠に生きる。』」(申命記32・40)

私たちがどのようにあなたがたに受け入れられたか、また、あなたがたがどのように偶像から神に立ち返って、生けるまことの神に仕えるようになり、・・・・(第一テサロニケ1・9)

イエス様はあなたの生活のすべての中心になろうとしておられます。そして、これも主が「初めであり、終わりである」ことの現われです。イエス様は生きておられる方として、私たちの生活の中にご自身のお姿を現わしてくださいます。

次に、イエス様は「わたしは死んだが」と言われました。しかしイエス様はよみがえられて永遠のいのちをもっておられます。イエス様は一度死ぬことによって悪魔と死の力を滅ぼされました。ですからイエス様は、神の力と権威によって死から私たちを解放してくださることができるのです。「私は死んだことがある」という表現は、イエス様の人としての面をあらわす言葉です。しかし、ヨハネが見たのは父なる神のひとり子である、「御子なる神」としてのイエス様でした。

さらにイエス様は「死とハデスのかぎを持っている」と言われました。これはイエス様が限りない支配権を持っておられるということです。ローマ皇帝といえども死を前にしては何と無力だったことでしょう。それに対してイエス様は死をも克服された勝利者でした。このイエス様がヨハネに「恐れることはない」と言われたのです。イエス様がおられなければ、人は死から解放されることはないのです。

イエス様は「私は死とハデスのかぎを持っている」と言われました。ハデスとは死の国のことです。かぎを持っているということは、その国の主人であるということです。かぎとはその国に対しての権威を表しています。

19節については前に学びましたが、この節は黙示録全体を解く特に重要な鍵で、黙示録全体はこれよって三つの部分に分けることができます。ここでもう一度おさらいをしておきましょう。第一の部分は1章です。1章ではヨハネが見たイエス様の「み姿」が記されています。

第二の部分は2章と3章です。その当時、ローマの支配下にあったアジアには七つの教会がありました。これら七つの教会は教会時代の終わりに至るまでのすべての教会を代表しています。

第三の部分は4章から終わりまでです。この部分には教会時代が終わるときに何がおこるかが示されています。この部分では、神がその時にイスラエルとそのほかの諸民族をどのように取り扱われるかが記されています。

[3]み使い、つまり教会の象徴


最後に1章20節について考えてみましょう。「七つの燭台」とは七つの教会のことです。これら七つの教会はほとんど異邦人の教会でした。これらの教会は、イスラエル人のものではなく、それまで聖書を知らなかった人々の教会だったのです。そして、イエス様はここで、「あなたがた異邦人は金の燭台であり、選ばれたものであり、解放されたものである」と言っておられます。しかし、ユダヤ人たちにとっては、これは自分たちに対する一つの挑戦でした。多くのユダヤ人はこのことを認めたくなかったのです。また異邦人にとっても、これらの教会は一つの危険でした。というのは、当時は国家が信教の自由を認めていたのはユダヤ人だけでしたから、もし、異邦人とユダヤ人との関係が悪くなれば、当然の結果として異邦人の存在全体が危険にさらされるからです。

20節に「み使い」という言葉が出てきます。教会の「み使い」とは何を意味しているのでしょう。これには多くの説明がなされてきました。代表的な三つの説明について見てみましょう。

ある人は、この「み使い」は教会の代表者のことだと考えています。つまり、「七つの教会からヨハネのもとへ七人の代表者がつかわされてきた」という解釈です。その当時、すべてのユダヤ人の会堂では代表者が一人選ばれて、人々の前でみことばを読んでいたのです。そしてこの代表者のことを「使い」または「み使い」と呼んでいました。ダニエル書12章3節ではこのような「使い」、あるいは「み使い」を夜空に輝く星にたとえています。この箇所だけをみると、このような解釈でもよいように思われます。しかし、黙示録の中には「み使い」という言葉はこの箇所以外に六十七回出てきますが、人間を意味している箇所は一つもありません。たとえば、2章5節を見ると、これはエペソの教会の「み使い」に語られた言葉ですが、決してひとりの人間に対して語られたのではなく、教会全体に向かって語られていることがわかります。

アドルフ・シュラッターは、教会全体の霊的な状態にたいして、たった一人の人だけがすべての責任を負わされていることは、決して聖書的ではないと言っています。たった一人の信者がすべてのことを行なうことができるでしょうか。みことばを宣べ伝えること、奉仕をすること、霊を見分けること、悔い改めにみちびくこと、兄弟姉妹に教えることなどをたった一人の信者ができるでしょうか。初代教会では、一人の人がすべてのことをするのではなく、兄弟姉妹全体が協力していろいろなことをしていました。これらを考えますと、20節に出てくる「み使い」が一人の信者をさしているとは言えないと思います。

第二の解釈は、この「み使い」が人間をさすのではなく、文字どおり天使をさすのだという解釈です。たとえばダニエルは、イスラエルの国の「君」を「ミカエル」と呼んでいますし、ペルシヤやギリシヤなどの異邦人の国にも悪霊の「君」がいると言っています。

その時、あなたの国の人々を守る大いなる君、ミカエルが立ち上がる。国が始まって以来、その時まで、かつてなかったほどの苦難の時が来る。しかし、その時、あなたの民で、あの書にしるされている者はすべて救われる。(ダニエル12・1)

ペルシヤの国の君が二十一日間、私に向かって立っていたが、そこに、第一の君のひとり、ミカエルが私を助けに来てくれたので、私は彼をペルシヤの王たちのところに残しておき、・・・・(ダニエル10・13)

そこで、彼は言った。「私が、なぜあなたのところに来たかを知っているか。今は、ペルシヤの君と戦うために帰って行く。私が出かけると、見よ、ギリシヤの君がやって来る。しかし、真理の書に書かれていることを、あなたに知らせよう。あなたがたの君ミカエルのほかには、私とともに奮い立って、彼らに立ち向かう者はひとりもいない。(ダニエル10・20~21)

多くの人々は、ちょうどそれぞれの国にその国の「君」がいるように、それぞれの地域教会にもそれぞれの教会の「天使、み使い」がいると考えています。しかし、これは正しい解釈でしょうか。もしそうならば、主は天にいるみ使いたちにみことばを与えるために、わざわざ地上にいるヨハネを通して天上のみ使いたちにみことばを書き送る、ということになります。それはおかしなことではないでしょうか。

第三の解釈は、ここに出てくる「み使い」とは象徴的な存在であるとする考え方です。ちょうど金の燭台を諸教会の象徴とするように、この「み使い」もまた象徴的なものとして解釈するのです。金の燭台は教会をあらわします。それとおなじように、「み使い」も教会をあらわします。つまり、教会は二つのものにたとえられているのです。まず、金の燭台ですが、この言葉によって教会と主との関係が特に強調されています。燭台に油を与えるのは主ご自身なのです。

彼は私に言った。「あなたは何を見ているのか。」そこで私は答えた。「私が見ますと、全体が金でできている一つの燭台があります。その上部には、鉢があり、その鉢の上には七つのともしび皿があり、この上部にあるともしび皿には、それぞれ七つの管がついています。また、そのそばには二本のオリーブの木があり、一本はこの鉢の右に、他の一本はその左にあります。」(ゼカリヤ4・2、3)

彼らは全地の主の御前にある二本のオリーブの木、また二つの燭台である。(黙示11・4)

主ご自身が教会にその光のもとを与え続けてくださるのです。教会は主の愛と配慮の対象です。

また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(黙示1・5、6)

次に、教会は「み使い」、あるいは「星」にたとえられています。このたとえは教会と教会をとりまく人々との関係を表すときに用いられます。

それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです。そうすれば、私は、自分の努力したことがむだではなく、苦労したこともむだでなかったことを、キリストの日に誇ることができます。(ピリピ2・15、16)

あなたがたは、世界の光です。山の上にある町は隠れる事ができません。(マタイ5・14)

あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。(エペソ5・8)

燭台は油をさされてはじめて光を放つことができます。惑星は自分で光るのではなく、輝く太陽の光を受けてはじめて光ります。私たちもイエス様との交わりを持ちつづけるときに主から光を受け、その光を反映することができるのです。教会はイエス様のための使いであり、道具でなければなりません。「み使い」が神に用いられているように、教会もまた神に用いられるものでなければなりません。教会の使命、つまり、「み使い」、「燭台」の使命については、エペソ人への手紙3章10節にこう記されています。

これは、今、天にある支配と権威とに対して、教会を通して、神の豊かな知恵が示されるためであって、・・・・(エペソ3・10)

黙示録1章に現われるイエス様のみ姿は、裁き主です。イエス様が裁き主であり、教会は裁かれるものです。裁きはこの世から始まるのではなく、まず、神の家から、教会から始まります。

なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。(第一ペテロ4・17)

しかし、教会にたいする裁きは、あわれみの裁きです。

わたしは、愛する者をしかったり、懲らしめたりする。だから、熱心になって、悔い改めなさい。(黙示3・19)

このあわれみの裁きが、終わりの日に私たちを神の怒りの裁きから守ってくれるのです。ローマの皇帝にではなく、イエス様に世界の支配権が与えられています。これがヨハネの見たところです。そしてヨハネはイエス様の足もとにひれふしました。イエス様の足もとは、もっとも安全な場所です。「世界の支配者であるお方が自分の主である」。これがヨハネの喜びでした。

私たちはこの箇所を正しく理解するために、教会の課題が何であるかということをいつも考えていなければなりません。教会の使命は、「暗闇を照らす」ことです。まことの光はイエス様ご自身ですが、イエス様はご自身の光をご自身の身体である教会を通してこの世に与えようとしておられます。イエス様は教会を、ご自身の道具として用いられたいのです。これらを表す言葉が「燭台」であり、「星」であり、「み使い」です。教会はちょうど「み使い」のようにイエス様のご用に仕えなければなりません。また、「燭台」のようにイエス様の前に光となり、「星」のように世の人々の光とならなければなりません。

私たちの内からは暗やみしか出てきませんが、イエス様の内からは光が輝きだします。イエス様が私たちをお用いになることができればできるほど、イエス様の光が私たちの内から輝きだします。イエス様が私たちを救われたのは、私たちをお用いになるためです。私たちの内からイエス様ご自身の光が輝きだすためです。これが教会の使命であり、また、課題です。

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