2022年6月13日月曜日

すぐに起こるはずのこと【第1部】3.主なる神のあいさつ

第1部

3.主なる神のあいさつ

黙示録1章4節から8節まで

1.イエス様の人格についての事実
[1]忠実な証し人
[2]死者の中から最初によみがえられた方
[3]地上の王たちの支配者
2.イエス様のみわざへの賛美
[1]イエス様が私たちを愛してくださった
[2]イエス様が私たちを罪から解き放ってくださった
[3]イエス様が私たちを王とし、祭司としてくださった
3.イエス様の再臨への備え

この章で学ぶ黙示録の1章4節から8節までは、黙示録の「あいさつ」に当たるところです。黙示録の受けとり手はアジアにある七つの教会でした。その当時、小アジアには七つ以上の教会がありました。しかし、七つの教会を語ることによって、実はすべての教会のことが述べられているのです。「七」という数字は完全を意味する数字です。黙示録の中には七という数字は五十四回、出てきます。その当時のすべての教会は、まことの主から離れてこの世の王に仕える危険を持っていたのです。

(4)ヨハネから、アジアにある七つの教会へ。常にいまし、昔いまし、後に来られる方から、また、その御座の前におられる七つの御霊から、(5)また、忠実な証人、死者の中から最初によみがえられた方、地上の王たちの支配者であるイエス・キリストから、恵みと平安が、あなたがたにあるように。イエス・キリストは私たちを愛して、その血によって私たちを罪から解き放ち、(6)また、私たちを王国とし、ご自分の父である神のために祭司としてくださった方である。キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。アーメン。(7)見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(8)神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示1・4~8)

ヨハネは、当時の主にある兄弟姉妹、教会に恵みと平安とを祈り求めました。はじめに恵みが求められ、その次に平安が祈られていますが、この順序は大切です。恵みの体験なしには本当の平安もありません。恵みの体験は、「自分の罪が赦されている」という確信によって与えられるものです。恵みと平安とは、値なしに与えられるものです。これらは、昔いまし、後にこられる方から与えられるものです。このお方は、出エジプト記3章14節に「わたしはある。」と言われたお方なのです。神はいつでも「わたしはある。」と言われるお方です。神にくらべれば、この世の王などはないに等しいものです。絶対の存在であり、永遠にあるお方です。この常にいますお方は万物の支配者です。すべての者をみ手の内におさめておられるお方です。このお方には、おできにならないことは何一つありません。この方は途方にくれることもなく、弱り果てることもなく、行き詰まることもありません。この万物の支配者である主なる神が、私たちに「恵みと平安を与えよう」と言っておられるのです。

4節にある「七つの御霊」という言葉は、「一つの御霊」の満たしを意味しています。エペソ人への手紙4章4節に「御霊は一つです。」と書いてあります。七という数字は完全を意味する数字ですから、七つの御霊とは、ひとりの神のいろいろな姿の現われ方を意味しています。

イザヤによれば主の霊の現われ方は七通りあることがわかります。

その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。(イザヤ11・2)

黙示録を見ますと、問題に満ちている教会の上に、神の御霊の満たしが現われていることがわかります。問題の満ちるところに、神の霊が満たされるのです。ですから、主なる神の御霊が力強く働かれるところにおいては、私たちの問題もまた解決されていくことがわかります。

1.イエス様の人格についての事実


黙示録のあいさつは、父なる神、子なる神、聖霊なる神からのあいさつです。そしてその中で、特にイエス様の人格と、イエス様のみわざがほめ賛えられています。イエス様の人格とそのみわざについては三つのことが言われています。まず、第一に、「忠実な証し人」であり、第二に、「死者の中からよみがえられた方」であり、第三に、「地上の王たちの支配者」です。

[1]忠実な証し人


まず第一に、「忠実な証し人」としてのイエス様のことを考えてみましょう。イエス様は私たちへの証し人として父なる神のみ前にお立ちになってくださいます。イエス様は私たちへの愛のゆえに、私たちの罪をあがなうために十字架について死んでくださったのです。イエス様の血潮は、イエス様が十字架の死にいたるまでも父なる神に忠実であられたことを証明しています。イエス様に特徴的なことは、死にいたるまでも父なる神に忠実であられたということです。

[2]死者の中から最初によみがえられた方


「最初によみがえられた」ということは、支配権を与えられているということです。特にご自身の後から生まれてくる兄弟姉妹たちに対して支配権を持っておられることを意味します。

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。(ローマ8・29)

イエス様は教会のかしらであり、多くの兄弟姉妹たちの長子なのです。

[3]地上の王たちの支配者


神とサタンとの戦いは、目に見えない世界で行なわれています。私たちの戦いも、多くは目に見えない世界における戦いです。

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)

しかし、悪魔はこの戦いにおいて、しばしばこの世のものを道具として用います。特に、地上の王が悪魔の道具として用いられます。イエス様は、すべての敵がご自身の足元にひれ伏してしまうまで、ご自身に敵対するものと戦われるのです。

2.イエス様のみわざへの賛美


このイエス様のあいさつに対する教会の答えは、イエス様と、イエス様のみわざへの賛美でした。

それはまず第一に、イエス様が私たちを愛してくださったことへの賛美でした。第二に、イエス様が血を流して私たちを罪から解き放ってくださったことへの賛美でした。そして第三に、イエス様が私たちを王として、また祭司としてくださったことへの賛美でした。

[1]イエス様が私たちを愛してくださった


私たち信者は、イエス様の愛によってこの世から選び出されたのです。イエス様の愛が私たちの喜びの土台です。「イエス様に愛されている」ということが、私たちの心からの喜びでなければなりません。その喜びは、イエス様が私たちを愛してくださった、というだけでなく、イエス様が今日も、また、これからも「永遠に愛し続けてくださる」ことへの喜びです。黙示録の3章19節を見ますと、罪を犯したラオデキヤの教会をも、主は変わらず愛しておられることがわかります。イエス様の懲らしめは、主の愛の証拠です。イエス様は万物の支配者であり、王の王であるばかりでなく、私たちを罪から解き放ち、いまも私たちを愛していてくださるお方なのです。イエス様に愛されているということは、なんと幸せなことでしょう。イエス様との交わりの土台はイエス様の愛にあるのです。

[2]イエス様が私たちを罪から解き放ってくださった


次に、イエス・キリストがその血によって私たちを罪から解き放ってくださったことについて考えて見ましょう。イエス様が私たちを愛してくださることが確信できるのは、イエス様が私たちを罪から解放してくださったことによってです。イエス様との交わりの土台は、私たちが罪からの解放を与えられていることにあります。確かにイエス様は、すべての人のために十字架におつきになられました。しかし、イエス様の十字架は、罪からの解放のただ一つのよりどころとして、すべての人に「個人的」に体験されなければなりません。

罪とは何であるか、ということを知る人だけが、イエス様の十字架を通して、罪からの解放を体験することができます。そしてまた、イエス様の十字架による解放を体験した人だけが、罪とは何であるかを本当に知ることができるのです。

罪とは、人を縛りつける力であり、そして救いとは、人を縛りつけている力から人を解放して自由にする力です。罪に縛られている奴隷は、自分の解放のために何をすることができるでしょうか。もちろんそのような人は自分のために何もできません。ただ主なる神だけが、そのような人を解放することができるのです。イスラエルの民は、小羊の血によってエジプトから解放されました。小羊の血が解放のための代価として支払われたのです。そしてイエス様の十字架による解放のための支払いは、ただ一度だけ行なわれて、それによってすべてが解決されたのです。

ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。(ローマ5・9)

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。(ヘブル10・14)

イエス様の血による罪からの解放は、すでに完成していることです。しかし、罪からの聖めについては、みことばによって日々新たにそれをいただくことが大切です。

キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり・・・・(エペソ5・26)

罪の赦しの確信こそが、罪からの本当の解放なのです。

幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。(詩篇32・1)

[3]イエス様が私たちを王とし、祭司としてくださった


このことは、イエス様の私たちに対する愛の現われであり、また、私たちを罪から解き放ってくださったことの目的です。私たちイエス様を信じる者が、イエス様に愛され、そして罪から解放されているのは、私たちが主なる神に仕えるようになるためです。「主なる神に仕える」ということこそが大切なのです。私たちは決して救われるために救われたのではありません。救いによって、祭司の民がつくり出されたのです。イエス様によって救われた人々は、王となり、祭司となって主なる神と人とに仕える者になるのです。祭司とされた人々は、他の人々をも、イエス様のみもとへ連れてこようとします。このために、祭司とされたすべての人々は、他の人々のために祈るようになります。祭司とされた人々の特徴は、主なる神に対して祈り、他の人々のために主なる神にとりなしの祈りをすることです。祭司とされた人々は自分を忘れ、イエス様が自分のまわりの人々の生活の中心になるように祈ります。ヨハネは、アジアにある七つの教会が、このような意味において祭司の民であると言っているのです。祭司であることの特徴は、まず第一に、神の前に祈り人として、そして礼拝者として立つということです。

黙示録1章3節には、「燭台」について述べられています。燭台はいつも幕屋の中に置かれていたものでした。これと同じように、祭司たちの務めも、まず第一に、目立った所で行なわれるのではなく、人の目に見えない隠れた所で、つまり、神だけが臨在しておられる幕屋の中で行なわれました。しかしそれと同時に、祭司はまた、人の前に立って主なる神の口となる務めも持っていたのです。つまり祭司は、祈り人、また礼拝者であると同時に、預言者であり、また証し人でもあるのです。すべてのキリスト者は、神の前に立ち、祈り人、そして礼拝者となるように召されており、また同時に人の前に立ち、イエス様を証しする者として召されているのです。5節と6節にあるように、私たちがイエス様に愛され、罪から解き放たれ、そして祭司として召されているということは、すばらしい体験です。このすばらしい体験から、「キリストに栄光と力とが、とこしえにあるように。」という賛美が生まれてくるのです。愛され、解き放たれ、召されているその当時の信者たちは、キリストに栄光と力を与えるために、ローマ皇帝に与えるべき栄光と力を無視しなければならなかったのです。キリストを信じあがめることは、皇帝を拒絶することです。これは彼らにとって、戦いであり冒険でした。イエス・キリストを信じ、あがめる者は迫害を覚悟しなければなりませんでした。主なる神に祈る人は、必ず「神の口」にさせられます。そしてそれは、必ず迫害を受けることになったのです。しかし、キリストに栄光を与えることは、ヨハネの心からの願いでした。

「栄光」という言葉は黙示録の中で十七回出てきます。イザヤ書8章2節に同じ意味の言葉が出てきます。「輝きもなく」となっていますが、原語によると「栄光がなく」という意味です。

イエス様がこの世に来られたときは、見るべき何の栄光をもお持ちになりませんでしたが、天に上げられた今は、限りない栄光を持っておられます。すべてのものが崩れさっても、二つのものは必ず残ります。つまり、信ずる群れには「恵みと平安」が残ります。そしてイエス様のためには「力と栄光」が残ります。

この5節、6節に出てくる賛美は、黙示録における最初の賛美です。ヨハネはパトモスという島にいました。そして主なる神は、このパトモスという島をご自身のご臨在によってエデンの園に変えられたのです。パトモス島で一人とり残されたヨハネの苦しみと悩みは、主なる神のご臨在のゆえに、たいへん軽いものとなりました。ヨハネが自分の主と主の流された血潮のことを思うとき、ヨハネの苦しみと悩みはぬぐい去られて、ただ感謝だけが残ったのです。使徒の働き16章5節に、パウロとシラスは牢屋の中で賛美の歌を歌ったとあります。もし私たちが、目の前にある苦しみを見ないでイエス様の愛だけを見つめるなら、私たちもまたヨハネのように歌うことができます。このことをヨハネは七つの教会に間接的に伝えようとしたのです。

3.イエス様の再臨への備え


最後に、イエス様の再臨への備えについて考えてみましょう。7節にはイエス様の再臨のことが書かれています。

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示1.7)

「見よ。彼が、雲に乗って来られる。」それは、イエス様が大きな力と栄光とともに来られることを意味しています。ヨハネはまるで、イエス様がもう来られたかのように、確信を持って「見よ」と言ったのです。このイエス様の再臨は、預言者たちによってすでに預言されていたことでした。

見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の前にある。(イザヤ40・10)

良い知らせを伝える者の足は山々の上にあって、なんと美しいことよ。平和を告げ知らせ、幸いな良い知らせを伝え、救いを告げ知らせ、「あなたの神が王となる。」とシオンに言う者の足は。・・・・見よ。わたしのしもべは栄える。彼は高められ、上げられ、非常に高くなる。多くの者があなたを見て驚いたように、――その顔だちは、そこなわれて人のようではなく、その姿も人の子らとは違っていた。――そのように、彼は多くの国々を驚かす。王たちは彼の前で口をつぐむ。彼らは、まだ告げられなかったことを見、まだ聞いたこともないことを悟るからだ。(イザヤ52・7、13~15)

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。(ダニエル7・13、14)

このように昔の預言者たちは、早くからイエス様の再臨について預言していました。また、イエス様ご自身も、再臨について約束しておられます。

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。(マタイ24・30)

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26・64)

また、イエス様の再臨は、御使いたちによっても証しされています。

ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。(使徒1・11)

そして、使徒たちもイエス様の再臨を宣べ伝えました。

そういうわけですから、あなたがたの罪をぬぐい去っていただくために、悔い改めて、神に立ち返りなさい。それは、主の御前から回復の時が来て、あなたがたのためにメシヤと定められたイエスを、主が遣わしてくださるためなのです。このイエスは、神が昔から、聖なる預言者たちの口を通してたびたび語られた、あの万物の改まる時まで、天にとどまっていなければなりません。(使徒3・19~21)

イエス様は再び来られます。この希望が私たちに生きる力を与えてくれます。そして私たちは、喜びをもって主の再臨を待ち望むべきです。7節にすべての者たちが彼を見ると書いてありますが、この場合のイエス様との出会いは、実は、恐ろしい出会いなのです。しかし、聖書の中には、イエス様とのもうひとつの喜ばしい出会いのことも書かれています。黙示録の章4節に、神のみ顔を仰ぎ見る、喜ばしい出会い、神のしもべたちの最高の喜びの時が記されています。しかし、1章7節の場合は、裁きの出会いであり、恐ろしい主なる神のみ顔を見なければならない、と言っているのです。これについて、黙示録6章とルカの福音書から少し見てみましょう。

地上の王、高官、千人隊長、金持ち、勇者、あらゆる奴隷と自由人が、ほら穴と山の岩間に隠れ、山や岩に向かってこう言った。「私たちの上に倒れかかって、御座にある方の御顔と小羊の怒りとから、私たちをかくまってくれ。御怒りの大いなる日が来たのだ。だれがそれに耐えられよう。」(黙示6・15~17)

そのとき、人々は山に向かって、「われわれの上に倒れかかってくれ。」・・・・と言い、丘に向かって「われわれをおおってくれ。」と言い始めます。(ルカ23・30)

ここで語られている恐怖は、恐ろしくて見ることのできない主のみ顔を見なければならない、その恐ろしさです。福音を聞こうとしない人々は、その日にはこの恐ろしい神のみ顔を見なければならないのです。恵みの時の特徴は、福音を「聞く」ことです。なぜなら、私たちはこの目でイエス様を「見る」ことはできないからです。「見る」時には、すでに恵みの時が過ぎ去っているのです。ですから主のみ顔を見なければならない時は、裁きの時なのです。イエス様が地上にそのみ姿を現わされる時には、すべての人々が、一瞬の内にひざまづくことになります。「地上の諸族は、みな彼のゆえに嘆く」と書いてあります。そのときには、すべての人々が自分の罪を認めることになります。時はすでに遅いのです。聖書の中には、その時には悔い改めも、回心も、また、これから恵みを受けることも記されてはいません。いつか必ず、人はイエス様の前にひざまづかなければなりません。ある人は喜びながら、またある人は歯がみしながら、ひざまづかなければならないのです。

イエス様がすべてのものの上に立っておられるということは、永遠の昔から、永遠にわたって変わらない事実です。イエス様を信じる人々は、すべてこの事実に対して、1章7節の最後にあるように「アーメン」と言っているのです。キリスト者は「アーメン」をもって、自分たちが信じていることを告白します。

主のみことばはいつも、私たちに応答を求めています。主のみことばによって、主への祈りと、主との交わりが生まれてこなければなりません。主なる神はいつも私たちからの答えを待っておられます。主なる神のみことばは私たちの生活の中で心から愛され、ほめ賛えられ、真に生きて働くものとならなければなりません。8節では、4節にあるのと同じように、「常にいまし、昔いまし、後に来られる方」ということが強調されています。この節でも、父なる神とイエス様との一致を見ることができます。この節で、父なる神は「来られる」といっておられますが、父なる神はイエス様を通しておいでになるのです。イエス様は父なる神のすべてを代表しておられます。父なる神は、イエス様をあらゆる点においてご自身の権威ある代表者として定めておられるのです。

父は御子を愛しておられ、万物を御子の手にお渡しになった。(ヨハネ3・35)

父なる神とイエス様とは、分けられない関係をもっておられます。コリント第2の手紙5章19節に「神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ」とありますが、ここに出てくる「キリストにあって」という言葉は、主なる神が過去において「キリストにあった」ということであり、現在も「キリストにある」という意味であり、これからも「キリストにある」という意味です。7節にあるイエス様の再臨は、教会を花嫁として迎えられるのではなく、メシアとしてこの世を裁かれるためにこられる再臨なのです。このとき、次のみことばが成就します。

そのとき主は、神を知らない人々や、私たちの主イエスの福音に従わない人々に報復されます。そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。(第二テサロニケ1・8、9)

「見よ、わたしはすぐに来る。わたしはそれぞれのしわざに応じて報いるために、わたしの報いを携えて来る。」(黙示22・12)

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。(黙示22・20)

イエス様の現われを喜びをもって慕い求めている人々は幸いです。

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