2016年5月17日火曜日

おのずから成長する種

おのずから成長する種
2016年5月17日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、
4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。
4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実がはいります。
4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

今日の今の箇所のために、ひとつの題名をつけようと思えば、「おのずから成長する種」ということができるのではないかと思います。

このあいだ、私たちは、種まきのたとえについて、一緒に考えてまいりました。種まきのたとえの中で、みことばを聞く人には、四種類の土地にたとえられる人々がいることを考えたのです。みことばを喜んで受け入れても、その信仰生活が長続きしない人々は、少なくありません。

四種類の土地の中で、最初の三つにたとえられる人々は、本当の意味で新しく生まれることを、体験していない人々です。私たちは、自分自身の心を吟味して、自分は本当に新しく生まれることを体験しているか、あるいは、信仰は単なる付け焼刃にすぎないのかを、考えるべきなのではないでしょうか。

一頃は熱心に集会に集い、努めて出ても、けども急に見えなくなる人々もいます。そういう方々が、本当に新しく生まれ変わることを体験したかどうかは、ちょっと心配なのです。もちろん、それを判断する最終的な手がかりはありません。
けれども、私たちは、自分自身の心をたずねて、自分はいったい、主のために命を捨てる用意があるかどうかを、吟味していることは、大切なのではないでしょうか。

大切なのは、私たちがいろいろな信仰的な内容を信じているということではなくて、実際に、イエス様との交わりを持っているかどうかだけが大切です。

私たちは、自分の人間的な判断で、イエス様に従っているのでしょうか、あるいは、私たちが、イエス様に捕えられているのでしょうか。心の中に住んでくださる聖霊の働きによって、私たちはみな、新しく造り変えられている者なのでしょうか。

今日のたとえ話から、黙っていてもおのずから成長する種について、一緒に考えてみたいと思います。このたとえ話は、種まきのたとえの続きのようなものでしょうね。けれども、種まきのたとえは、私たちが主に対して取る心の態度を示しており、今日のたとえは、イエス様ご自身が我々の心に対して行ってくださることについて記してあります。

種まきのたとえは、新生の生涯の始まりのことであり、今日、考えてみたいたとえは、新生の生涯の成長について、書かれています。

種まきのたとえは、民衆全体に対して語られましたが、けれども、今日のたとえは、イエス様の弟子になった人々に対してだけ語られました。

種まきのたとえの中には、信仰の妨げとなるもの、つまり鳥や太陽やいばらについて書かれています。けれども、今日のたとえの中には、それらの否定的な要素は一言も出てきません。種から植物が生え育つように、主のみことばからは、信仰が現れてきます。私たちは、大いにみことばを受け入れて、みことばを心の中に自由に働かせようとするのでしょうか。また、みことばを手掛かりとして、完全な信頼を主において、望みを持った信仰生活を送っているのでしょうか。

次に、簡単に三つの点について、一緒に考えてみたいと思います。第一番目、信仰生活の始まり。二番目、信仰生活の成長。そして、三番目、信仰生活の結果についてです。

第一の点を、次の三つの点から考えたいと思います。まず、神の民になるための、必要条件とは、いったい何でしょうか。二番目、主から与えられた賜物は、いったい何でしょうか。三番目、みことばのもたらすものとは、いったい何なのでしょうか。

マルコ
4:26 また言われた。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので(す。」)

種は、良い地にまかれたのです。つまり、主のみことばは、人々を救うことのできる唯一のものです。

使徒行伝
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。

はっきりとした御言葉です。内容的に同じことですけど、ヨハネ伝の14章6節を見ると、イエス様は次のように宣言してくださいました。

ヨハネ
14:6 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。

信じても信じなくても、もちろん、その通りです。神の国に入るための必要条件は、新しいいのちです。新しいいのちは、もちろん、主イエス様によってのみ与えられます。みことばを批判的に読んだり、疑いを持って読むことは、よろこびを持ったり、信仰の確信を持つことの妨げになります。ただ単に、みことばを受け入れるだけではなく、私たちがみことばを、自分のものにしなければいけない。みことばに完全に委ねる必要があります。

良き地とは、主に対して心が開かれている人のことであり、生きておられる主だけを追い求めて行こうとする心の持ち主です。詩篇の作者であるダビデは、次のように告白したのであります。

詩篇
42:1 鹿が谷川の流れを慕いあえぐように、神よ。私のたましいはあなたを慕いあえぎます。
42:2 私のたましいは、神を、生ける神を求めて渇いています。

御心にかなったダビデの告白です。イエス様は、祈りの中で告白しました。すなわち、「あなたのみことばは、真理です。」また、「わたしは、真理そのものです」と。このみことばに対する飢え渇きを持つことこそが大切です。

主のみことばによってのみ、永遠のいのちが与えられます。主のみことばによってのみ、人は新生を体験します。人は自分の努力によって、永遠のいのちを持つことはできず、主の賜物として、すばらしいプレゼントとして、受けるのです。

新しく生まれなければ、神の国に入ることはできません。この新しいいのちは、もちろん、人間の努力の結果ではない。主の与えられる贈り物です。種がなければ、植物は、芽を出すことも、成長することもあり得ないように、新しいいのちがなければ、もちろん、信仰の成長もあり得ません。この新しいいのちは、みことばによって与えられます。

今日のたとえは、神の国のたとえです。そして、新しく生まれることは、この神の国に入るための必要条件です。よく引用される箇所です。

ヨハネ
3:3 人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。

イエス様は、こう言われたのです。主なる神に対して、霊的に死んでいる者は、みことばによって新しいいのちが与えられて、神の子とされます。人間が生まれるときは、自分の意思によらないで、この世に生まれてきました。それと同じように、新しく生まれることも、自分の努力によるのではありません。人の成すべきことは、ただ主に対して、自分を開くことです。そのような心に、主は奇蹟を行ってくださいます。新しく生まれることは、造り主であられる、創造主なる神の業です。創造の業です。

テトス
3:5 神は、私たちが行なった義のわざによってではなく、ご自分のあわれみのゆえに、聖霊による、新生と更新との洗いをもって私たちを救ってくださいました。

はっきり書かれています。「神は、私たちを救ってくださいました。」

創造主は、新生の奇蹟をみことばをもって、みことばによって、成してくださいます。みことばの学者たちは、みな同じことを言ったのです。例えば、ヤコブという弟子は、次のように書いたのであります。

ヤコブ
1:18 父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりました。

だから、人間は、勉強したから、がんばったから救われたと言える人は、一人もいない。「父はみこころのままに、真理のことばをもって私たちをお生みになりった」と。ペテロも、全く同じことを書いたのであります。

第一ペテロ
1:23 あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

すごい証しです。ペテロは、もちろん、聖書学者ではなかったのです。平民でした。けれども、主との出会いによって、主に用いられる器として、こういうふうに書くことができたのです。もう一箇所、イエス様の告白であります。

ヨハネ
5:39 あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。
5:40 それなのに、あなたがたは、いのちを得るためにわたしのもとに来ようとはしません。

イエス様は、悲しみながら言わざるを得なかったのではないでしょうか。

パウロは、コリントにいる兄弟姉妹たちに書いたのであります。

第一コリント
4:15 この私が福音によって、キリスト・イエスにあって、あなたがたを生んだのです。

みことばは、我々を新しく生まれさせます。ですから、新しく生まれることを望まない人は、みことばをかたくなに拒むのです。イエス様は次のように言われました。

ヨハネ
8:43 あなたがたは、なぜわたしの話していることがわからないのでしょう。それは、あなたがたがわたしのことばに耳を傾けることができないからです。

主なる神は、人間を根本的に造り変えることを望んでおられることが、旧約聖書の中にも、記されています。旧約聖書の二人の預言者のことを見てみましょうか。

エゼキエル
11:19 わたしは彼らに一つの心を与える。(・・・・一つの教えではない・・・・)すなわち、わたしはあなたがたのうちに新しい霊を与える。わたしは彼らのからだから石の心を取り除き、彼らに肉の心を与える。

36:26 あなたがたに新しい心を与え、あなたがたのうちに新しい霊を授ける。わたしはあなたがたのからだから石の心を取り除き、あなたがたに肉の心を与える。

エゼキエルだけではなく、エレミヤという預言者も、同じような主の御心を、明らかにしたのであります。

エレミヤ
24:7 また、わたしは彼らに、わたしが主であることを知る心を与える。彼らはわたしの民となり、わたしは彼らの神となる。彼らが心を尽くしてわたしに立ち返るからである。

新しく生まれることは、人間にとって、もっとも大切なことです。このことを体験していない人々が、もし、まだ今日、いらっしゃるならば、イエス様の御許(みもと)に来て、恵みによってこの体験をご自身のものとなさっていただきたいです。また、パウロは、ガラテヤ地方に住んでいる人々に書いたのです。

ガラテヤ
6:15 大事なのは新しい創造です。

イエス様を知るということと、新しく生まれるということは、同じことです。イエス様がなければ、人生は価値のないものであり、意味のないものです。イエス様のみが、罪の赦し、確信、平安、喜び、希望、苦難を乗り越える力をお与えになることができます。新しいいのちを、イエス様は、もちろん、今日もなお、お与えになることができ、与えたいと望んでおられます。

イエス様は、もろ手を広げて、私たちをあわれみ、祝福のうちに導き入れたいと思っておられます。

新しく生まれることを体験したいと思うならば、まず、自分自身に対して、心の目が開かれなければならない。そのために、みことばを鏡のように用いて、自分の心を映して見なければなりません。

また、主のみことばは、火が金属を精錬するように、我々の心を聖めるとあります。また、神のみことばは、ハンマーのように用いられて、我々を拘束している自我の壁を打ち砕く働きをします。また、主のみことばを食べ物のように味わう者は、そこから力を得ます。また、主のみことばは、光のように、我々の心を隅々まで照らし出し、私たちを聖め、新しい者に造り変えます。また、主のみことばは、関節と骨髄を引き離す剣のように、我々の霊と魂とを切り分けるとあります。また、真理である主のみことばは、人を新しく造り変えられた者にします。

みことばが与えられているのは、本当にありがたい。みことばがなければ、どうですかね?おしまいとしか言えないのではないでしょうか。

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