2000年11月19日日曜日

島根よろこびの集い

島根よろこびの集い

2000年11月19日、島根よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ヘブル
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。
4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。

おとといの晩、神楽坂で家庭集会がありました。すごい人。もう、人が多くて。ある方は、息子さんと来ました。でも、次から次、人が来てるうち、息子さん帰ちゃった。麻薬をやって、自分はダメ。ダメだから、帰る。また麻布で会いましょうと言いましたが、これは大きな誤解です。この集会はダメな人のためのものですよ。私は、ちゃんとした立派な人のために集会を開きたくありません。まったく無意味です。聞く耳を持たないからです。自分がダメだとわかれば、喜びの救いへ行けます。イエスさまは、ダメな者を決してお捨てにならない。このイエスさまのことを考えると、うれしくなります。


イエス様が、私のためにおられる。

考えられない事実です。私のためにイエス様がいるとおっしゃってくださるのです。私たちの大祭司とヘブルには書かれています。これは、弁護士とも言えます。仲人と言ってもいい。主イエス様が、私たちの側に立ってくださるから安心です。十六節、『大胆に恵みの御座に近づこうでは近づこうでは ありませんか。』

一番、たいせつなことは、主イエス様に祈ることです。助けを求めることです。悩んでいない人は、助けを求めようとはしません。必要と思わないからです。イエス様はよく言われました。「なにが、欲しいの?」願いなさい。祈れば、主を、体験的に知ることができるようになります。ある方が証しされました、「救われたのは、良かった。罪を赦された。もう、ひとりぼっちではない。問題は、ありますが、イエス様にゆだねる事ができます。」非常に単純な証しです。

そして、私たちは、それだけでは十分ではありません。主に用いられなければなりません。黙示録でエペソの兄弟姉妹は、とても模範的な人々でした。でも、「はじめの愛から、離れている」と言われました。意味は、用いられていないと言うことです。信仰生活が的外れになっていると言うことです。冷たくも、熱くもない。自分が富んでいると思って、自分が、みじめで、あわれで、貧しいことを知らない。

二年前に召されたある姉妹は、絵を書かれました。最後に書かれた絵に、「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう(黙示録二章二十節)」の御言葉を書きました。多くの人はイエス様を信じていると言います。それだけでは十分ではありません。「あなたから、離れてはなにもできない」と言うことを知らねばなりません。一生懸命、考えます。計画を立てます。でも、主がいない。たえず、たえず主イエス様に頼らなければ何もなりません。「イエス様がいなと、もうダメ。」このことを知ると、祈るようになります。ヘブル書の著者のように大胆に恵の御座に近づくことができます。

今日、島根の集いから別れる時、「さようなら。」と言わずに、「祈ろうよ!」と言ったほうが、良いかもしれないね。主に、頼らなければ主は、御心を示すことができず、人間はもうダメ。黙示録のエペソの人々は、「もうオーケー。乏しいことはなくなった。」でも、主の判断はぜんぜん違っていた。

祈ることこそが大切です。ですから、イエス様は、「すべて疲れた人、重荷を負う人、悩んでいる人は、早く、わたしのところに来て!」と、首をながくして待ってるよ。わたしのところに来る者をわたしは決して捨てません。結局、イエス様の呼びかけは、祈りへの呼びかけです。私を
呼べ、そうすれば私はあなたに応えよう。

どう言う人間が祈るかと言いますと、まず宗教家は、みんな祈ります。けど、心から叫ぼうとはしません。どう言う人が、本当に祈るかと言いますと、困っている人々です。多いに悩んでいる人々です。そのために主は、いろいろな悩みや問題を与えてくださるのです。『悩むことは、本当に良いもんだ』と言えば、誤解されるけど・・・・。そうなんです。悩みがなければ、誰も導かれません。救われません。悩みがなければ誰も成長しません。ひとりでできちゃうからです。

このあいだ病院にある姉妹をお見舞いに行きました。三十二歳の奥さん。十階から飛び降りて、死のうとしました。夫婦のあいだが、うまくいかないし、四歳と八歳の子供がいました。夫は、酒浸りで暴力。会話もぜんぜんない。真っ暗闇。十階からだったら、だいじょうぶ死ねる。でも、ダメでした。多くの人が、死のうとして、死ねないのは、どう言うこと?もちろん、彼女は、もう足を使えません。今まで、希望がなかった。そして、これからもっと、めちゃくちゃではないの?病院の中でも、二回、自殺しようとした。みんな、何をするかわからないから、とても心配。いちばん、つらいのは、ご主人が一回も見舞いに来ない。もう離婚される。こう言う状況に置かれた人間は、どうしたら良いの?

はじめて行ったとき、泣いてばっかり。当然でしょう。それから、彼女の父親に会いました。幸いにも、母親は、悔い改めてイエス様を受け入れました。お父さんは、病室に入ることができない。娘になんて言ったら良いか、わからない。けど、その時、お父さんも一緒に入った。そして、娘と一緒に、祈りました。結局、こう言う不幸がなければ、あの母親も父親も祈らなかった。祈ることなんて、笑い話しではないの?結局、悩みの種である彼女は、家族の幸せのために用いられました。

ひとりの若い娘も、集会に来ました。びっくりしました。実は、彼女のお母さんは、彼女のお兄さんを殺してしまった。今、刑務所にいます。二十五歳のお兄さん。お酒の虜になり、暴力をふるい手におえない。母親は、この子を産んだのは私。私の責任。息子を殺して、自分も死にます。でも、人を殺すことはできても、自殺することができなかった。いま、和歌山の刑務所にいます。ですから、近いうちに和歌山まで、行きたい。もし、お母さんと会うことができるなら。

結局、こう言う問題に、何も言えないよ。けど、イエス様を紹介できることは、本当に素晴らしい特権なのではないでしょうか。結局、イエス様に出会った者の使命とは、イエス様を紹介することです。

イエス様を紹介することは、キリスト教の宣伝ではありません。『ああだよ、こうだよ』と、言っても、全く、的外れです。みんな、つまずくのです。結局、普通の人にとって、聖書は良い書物です。戒めの本ではないか、戒律の本ではないか。聖書の知識を持たないとダメじゃないか。みんなそう思うのです。

聖書、そのものは、これらと全く違います。主の呼びかけは、『私の目には、あなたは高価で尊い(イザヤ四十三・四)』のです。もし、なんでも、おできになる方に愛されていることが本当だとしたら、心配する必要はない。どう言うことがあっても、もう、よろしく・・・・と言う態度をとることができるのではないか。もしろん、本当です。証拠となるのは、イエス様のかわりの死です。

ですから不幸を経験した人々に、あなたも、愛されていると言うことができるのは、本当に、ありがたい。『あなたは、ああしなければならない、こうしなければならない』では、ないのです。私たちは、大いなる大祭司を持っている。イエス様は私たちのために生きておられる。だから、イエス様のところへ行こう。恵みの御座に近づこう。これこそが、もっとも大切です。

祈る人とはどう言う人でしょうか。結局、いろいろなことで悩むようになった人々です。唯一、まことの神は、何を考えているかと言いますと、人間の永遠の幸せです。この永遠の幸せを得るために、人間はいろいろなことで悩まないと、心を開こうとしない。ですから、主は、いろいろな問題や、悩み、病気を与えてくださいます。

けれども世界的に、多くの教会でいま宣べ伝えられている福音は、違う福音です。「イエス様を信じれば、問題は全部、解決されてなくなるよ。」「イエス様を信じれば、金持ちになります。」「人気者になります。」これは、異なった福音です。異なった福音で、異なったイエス様が紹介されています。その背景に働いているのは、イエス様の霊ではない、異なった霊です、結局、悪霊です。ほんとうに、恐ろしい。

結局、愛の証拠として、イエス様はいろいろな苦しみや悩みをくださいます。我々にとって、いやです。おもしろくない。長い目でわれわれは、見ることができないから。いつか、全部、わかるようになれば、うれしくなります。ここにいるヒロズミも、ヒロシも、どうしてアル中になったの?多くの人々は、いくら飲んでも、アル中にならないよ。いや、本当なんです。どうして、特定の人だけが、なってしまううの?誰も応えられない。医学的にも発見されていないでしょう。けども、主のせいです。そうでなければ、あの二人は、ぜったいに小さくならなかったよ。イエス様に頼らなかったよ。

確かに、多くのことは、理解しようとしてもできません。でも、やはり主は、支配者です、悩む結果として、祈るようになれば、主の救いに預かることができます。救いとは、もちろん、救い主を持つことです。救い主を持つ者は、主をほめたたえるようになります。

ドイツにこのような歌があります。

「主イエスよ、あなたの十字架は計り知れず大きなものであり、また、あなたの愛は、私を愛し続けてくださり、あなたの憐れみは毎日、私を満たしてくださる。
あなたの私に対する忍耐のゆえに、私は、あなたにより頼みます。
私は、あなたに信頼します。あなたは、私を決して捨てない。
あなたの光によって、心配もまた恐れもなくなる。
従う勇気も、与えてくださる。
いかなる困難が、あっても、あなたは私を導いてくださいます。
絶対に忘れたくないのは、人々に、あなたを紹介するために救われたと言うこと。
あなたは、祈りを聞いてくださるからこそ、あなたを褒め称え、確信を持って、私は告白します。
すなわち、あなたにとって、遅すぎることはあり得ない。あなたが、近くにいることがうれしくて、うれしくて仕方ない。あなたに栄光あれ。」

強調したいのは、まん中の文章です。「絶対に忘れたくないのはあなたを、人々に紹介するために救われたと言うことです。いつか、天国へ行くために救われるなのではない。イエス様を、いま現在、紹介するために救われた。結局、イエスさまは、人間、ひとりひとりを用いようと望んでおられます。人間が、どう言うふうに用いられるかと言いますと、結局、祈ることによって・・・・。人を納得させようとしても、全く、無意味。人間によって、納得させられた人の信仰は、たいしたものじゃない。祈ると、主は、光を与えてくださり、恵みをくださるのです。ヨハネ十一章のなかで、祈ってるふたりについて書き記されています。ひとりの祈りではなく、ふたりの祈り。一緒に祈ることは、考えられないほど大切です。

全国でいろいろな集会があります。二種類に分けたら、次ぎのように言えるのです。あるところで、祈り会のとき、心をあわせて喜んで一緒に、祈ります。ほかのところは、やはり祈り会のことで、ばらばらになってしまうんです。悲劇的です。どうしてかと言うと、結局、悪魔です。たとえば、こう言う聖書について学んだり、話しあったりしても、悪魔は別に反対しません。ああ、やりなさいよ。けど、心をひとつにして一緒に祈れば、もう悪魔のために居場所ない。逃げざるを得なくなる。一緒に、祈ったのは、マルタとマリヤです。

ヨハネ
11:1 さて、ある人が病気にかかっていた。ラザロといって、マリヤとその姉妹マルタとの村の出で、ベタニヤの人であった。
11:2 このマリヤは、主に香油を塗り、髪の毛でその足をぬぐったマリヤであって、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。
11:3 そこで姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」
11:4 イエスはこれを聞いて、言われた。「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです。神の子がそれによって栄光を受けるためです。」

ここで書かれているのは、三人の兄弟は、イエス様のことを心から愛した。このマリヤは、全財産で香油を塗った。ある人々は批判した。もったいない。売って、貧乏人にあげたら!でも、マリヤは、ぜんぜんもったいないとは思わなかった。イエス様のためなら、もったいなくない。みんな、どう言うふうに、イエス様を喜ばせられるか。タイプは違っても、みんなイエス様を喜ばせたいと思った。そういう人々は、病気になるはずはないと、新興宗教の人は、みな言います。

結局、ラザロは、病気になっただけではない。もう危篤。おしまいではないか。危篤状態になった人から離れられない。だから、人をやって、早く早くイエス様、来てください。ふたりは、賢い女性でした。どうしよう?医者を捜そう、薬を探そうとせず、イエス様に知らせようとした。イエス様に知らせば、もうオーケー。イエス様に知らせば、もう心配しなくていいよ。イエス様は、なんでもできて、最善をなさるお方です。イエス様に相談しましょう。人間に相談しても、なんにもならない。

ふたりは、遣いを送って、イエス様に、私たちの愛する兄弟とも言わなかった。私たちは、困っているとも言わなかった。「イエス様、あなたの愛している兄弟が、いま病気。」それだけを伝えて。イエス様に伝えることとは祈ることです。家族のために祈ることは、非常に大切です。集会に来て、一生懸命になった者はみな、神か、家族かと言う問題にぶつかります。そして、やはり家族よりも、神のほうが大切ではないかと思います。

これは、とんでもない誤りです。神か、家族かではないよ。両方だ。主を大切にする者は、今までよりも、家族のことを大切にします。自分の家族を顧みない人は、未信者よりも悪い。主は、祝福しない。

このふたりは、家族のために祈ったのです。どう言うふうに祈ったでしょうか。五つのことを述べます。(一)深い苦しみの中から。(二)心をひとつにあわせて。(三)イエス様だけを仰ぎ見て。(四)非常に緊急を要しつつ。(五)全く、服従しつつ。

私たちも、同じように、祈るべきではないでしょうか。ふたりは、深い苦しみの中から。

今週、火曜の朝の集会のあと、ある姉妹は、玄関で泣いてしまった。どうして、そんなに泣くの?父が、ガンの手術を受けて、長くない。けど、救われていない。母も、救われていない。泣いてる姿を見たとき、うれしかった。お見舞いに行きました。お父さんに、娘さんは、涙を流したよと話しました。彼は、ショックを受けた。家族のために、ただ祈るのではないのです。深い苦しみの中から祈るべきです。

もちろん、ヨハネ十一章のマリヤとマルタも、深い苦しみ中から祈ったのです。もう、危篤状態、何をなすべきなのでしょうか。彼女たちは、ただひとつ正しいことを行った、イエス様に人を遣わした。イエス様が、わかれば、それで十分です。祈ることが、ゆるされていること、あらゆる困難をもって、イエス様のところに行くことが許されていることは、本当に、すばらしい特権です。

ある、おかしい人は、言います。「いやあ、たいへんだ!祈らなくては。」全く、おかしいよ。祈ることとは、義務ではなく、すばらしい特権です。主は聞く耳を持っている。祈りに必ず応えるお方です。なんでも、イエス様に、話すことができるのは、すばらしい特権です。

第一テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。

この聖書の御言葉の中に、「絶えず祈りなさい」とあるんです。どうしてかと言いますと。イエス様から離れては、なにもできないからです。祈ると、イエス様は必ず導いてくださるのです。祈るために、主は、いろいろな問題を与えてくださる。そうしないと、真剣になって祈ろうとしないからです。

マリヤは、深い苦しみの中から祈りました。まだ、救われていない家族のために、涙を流したことがあるでしょうか。ふたりは、いかに、祈ったのでしょうか。

第二番目。「心をあわせて」祈ったのです。ふたりの祈りは、ただ単に深い苦しみからだけ来る祈りではなく、心をあわせた祈りでした。ですから、三節、姉妹たちは人を遣わした。マリヤだけではなく、マルタだけではなく、ふたりが、イエス様のみもとに人を遣わした。それは、心をあわせた祈りであり、心をあわせた願いです。心をあわせることとは、考えられないほど大切です。結局、一致がなければ、主は祝福されません。

半年前、あるところで集会をやめました。メッセンジャーが行けないようになりました。無駄だから。一致がない。みんな、お互いに悪口を言ったりして・・・・。そうなると、主でさえも、なんにもしようとしない。近いうち、別のところでも、そうなりそうなんです。非常に、悲劇的です。けど、主は、勝利者です。前に、読みました黙示録に書かれているでしょう。もし、悔い改めることしないなら、私は、蜀台をとりはずしてしまおう。もう、用いられません。ラオデキヤの教会もそう言うものでした。あなたは、オーケーと思っているけど、全く、すべては、間違っている。それを知らなければ、もう、どうしようもない。一致があれば、主は、豊かに祝福してくださる。一致がなければ、もうおしまい。

マタイ
18:19 まことに、あなたがたにもう一度、告げます。もし、あなたがたのうちふたりが、どんな事でも、地上で心を一つにして祈るなら、天におられるわたしの父は、それをかなえてくださいます。
18:20 ふたりでも三人でも、わたしの名において集まる所には、わたしもその中にいるからです。

ここに約束が書き記されています。ひとつになることこそが、もっとも大切です。多くの人々は、仲良くしましょう考えます。でも、仲良しクラブになれば、主は、祝福できない。いろんな考えがあるし。『みんなが同じように、ならなくてはいけない』ということではないよ。もし、そうだったら、人間を全部、同じように創ったらよかった。でも、ぜんぜん、おもしろくないね。みんな機械のようにボタンを押して、同じ方向に行くようになる。みんな、違うんです。けども、絶対に忘れたくないのは、人々に、イエス様を紹介するために救われた。自分の家族、親戚、友人たちの救いのために救われた。ひとりで祈っても、やはりダメ。ほかの兄弟姉妹の祈りの助けがどうしても必要なのです。また、ひとりだけではなく、ふたりは、心をひとつにしてイエス様に頼んだのです。

そうしようと、思っただけではなくて、ほんとうにそうしたんです。ああすべきだ、こうすべきだと決心しても、現実に行わない。悪魔は、現実にならないように必死になって働きます。初代教会の場合は、毎日、信じる者の群れに、人々を加えました、毎日、多くの人々が、心配から、解放され。希望に満たされるようになったのです。いったいどうして?

初代教会は、聖書を勉強する教会ではなかったのです。自分の聖書を持ってる人はひとりもいなかった。われわれは、幸せだよ。みんな自分の聖書を持っている。初代教会の人々は、祈ったのです。初代教会の教会は祈る教会でした。心をひとつにして、一緒に祈ったのです。

使徒の働き
12:5 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

結局、公に、復活なさったイエス様を紹介することは許されていなかった。ローマ帝国では、宗教は自由だった。ユダヤ教も許されていた。けども、初代教会が迫害されたかと言うと、彼らは、『われわれの主はイエス様です。われわれの主は、ローマの皇帝ではない。イエス様はすべてにまさって偉大だ』と言った。初代教会の人は、迫害されても関係なかった。いくら憎まれても、殺されても、関係ない。ローマは、初代教会の中心人物のヤコブを捕まえた。ヤコブ書を書いた人です。彼は、捕まえられ、殺された。よし、今度は、ペテロだ。ペテロは捕まえられ、次ぎの朝、殺されるところだったんです。けども、ここで書かれているように、初代教会が、彼のために熱心に祈り続けていた。その応えとして、彼らは、次ぎのことを、経験したのです。

使徒の働き
12:7 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:8 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
12:9 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。

鎖が手から落ちた。彼が、祈っている人のところにいった時、出てきた女性は戸を開けるのも忘れて、びっくりした。「ペテロだよ。」「ペテロだよ。」彼の解放のために必死に祈ったのに・・・・あり得ないこと!そう思うのが、人間です。それでもなお、彼らの祈りは答えられた。どうしてかと言うと、彼らは、適当に祈ったのではなく、熱心に祈った。ちょっとだけ、祈ったのではなく、祈り続けた。そうなんです。

もう、どうせ、ダメだと祈りをやめるのは、悪魔の勝利です。われわれの愛する家族や知り合いの中には、悪魔に束縛され、罪の深みに沈み、自分のことだけを考え、そのために不幸せになっている人が大勢いるのではないでしょうか。われわれが、いくらしゃべっても、なんにもならないよ。納得させようと思っても、無理だよ。われわれのすべきことは、熱心に祈り続けることです。主は、答えてくださる。心をあわせて祈ることは、大きな助けであり、特権です。

そして、第三番目、主を仰ぎ見つつ、祈った・・・・・。意味は、現実がどうであれ、関係ない。主は、できる。そう言う心を持って彼らは祈ったのです。普通の当時の人々は、『主』と言う言葉を皇帝だけに使いました。主とは、ローマにいる皇帝。イエス様を裏切ったユダも主と言う言葉をよく使った。でも一秒も、そう思ったことがない。偽善者。『主よ。主よ』と言いながら、一秒もそう思ったことがない。暗闇の中にいたからです。

マルタとマリヤが、主よと呼びかけたとき、本当に、そう思ったのです。あなたは、王の王、主の主です、あなたにとって不可能なことはない。この心構えで祈ると、主は、必ず働いてくださいます。祈りは、つぎのようなものです。自分の悩みを持って、主のみもとに行くことです。すべてを意識して主にゆだねることです。もう、ゆだねてしまった。自分の問題ではないよ。主の問題だよ。この態度をとることが、考えられないほど大切です。主は、全能なるお方です。主は、ラザロの復活を通して、ご自身の全能を証明してくださったのです。あなたたが愛してる人の中で、苦しんでいる人、悩んでいる人、将来を見て、失望している人、いないでしょうか。彼らのために、熱心に祈り続けることを主は望んでおられます。そのために、結局、主を仰ぎ見ることこそが大切です。自分自身にあまりにも忙しすぎて、まわりの悩んでいる人々のために祈らないのは、とんでもない、ことです。マルタとマリヤは祈りました。

第四番目。極度に緊急を要するものでした。姉妹たちは、イエス様のみもとに人を遣わしました。イエス様、あなたの愛する者が病気です。急いで!主は、疑いもなく、助けを求められたことを喜んだでしょう。なぜならば、それは、結びついていることの記しであり、信頼されていることの現われだったからです。もちろん、祈ることとは、それだけではなく、自分の無力さの告白です。本気になって祈る人は、「わたしは、もうダメ!」お手上げなんです。マルタとマリヤは、自分でなんにもできないことがわかりました。

「主よ。私たちは、もう終わり。人間的に見るならば、もう絶望的です。あなたは、なんでもできるでしょう。私たちは、あなたの助けを求めます。待ち望みます。あなたに信頼し、あなたは決して、失望させません。」この態度で、私たちも、主の御もとに行くことが許されています。

「あなたは、私の悩みを、隠されている苦しみを、ご存知です。不信仰の夫もご存知です。聞く耳を持たなくなった子供のことも、ご存知です。私は、信頼します。あなたの全能をお示しになってください。こう言うふうに、祈ることはみこころです。

第五番目。服従した祈りです。マルタとマリヤの祈りは、私たちの兄弟、ラザロを癒して、癒して、癒して・・・という祈りではなかったのです。多くの人々は、断食して長く祈れば、叫び続ければ・・・・と思います。そう言う人が、いっぱい。でも、覚えるべきことは、主は、人間の召使いではない。人間のために最善であれば、主はただちに答えてくださいます。最善でなければ、われわれが、いくらやっても、叫んでも、主はお聞きになりません。

けども、そう言う人間的な祈りによって癒される人もいます。癒された後に精神的におかしくなり、自殺をした方もいます。彼らは、主の力によって癒されたのではなくて、悪魔の力によって癒されたのです。

マルタとマリヤの祈りは、服従した祈りです。『癒して、癒して』ではなかった。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」「主」と言う言葉を使いました。それによって、自分の「服従」が示されました。マルタとマリヤは、自分たちの兄弟が癒されることを、主に「命令」しなかったのです。

ふたりは、いかなる代価を払っても、癒されることを見たいとは望まなかったのです。主よ、あなたが愛しておられた者がいま、病気です。私たちは、彼をあなたの御手にゆだねます。あなたのお好きなように、御心にかなうこと
を行ってください。

全く、同じことを私たちもしなければならない。私たちが重荷を負い、配慮している愛する人をイエス様にゆだねると、主は、必ず働いてくださいます。イエス様の御手にゆだねられた人の悩みは必ず解決します。すべてを主に、ゆだねると本当の安心を得ることができます。

と言うのは、私たちも、愛する知り合いの人々のことをいろいろ心配するでしょう。けど、それらにまさって、主ご自身が、われわれよりも、彼らの事を配慮して心配してくださるのです。『私が、しなければ・・・・』では、たいへんです。そして、なんと言う傲慢の現われなのでしょう。主は、本当に、人間ひとりひとりのために救いの代価を払ったから、ひとりひとりのことを思い、心配してくださいます。

私たちは、主に、私たちの悩みを言います。でもそれから、私たちは、それから、主に、私たちの悩みをすべてゆだねます。これこそ、マルタとマリヤの祈りです。彼女たちは、主が、兄弟を癒すことができることを疑い得なかった。イエス様は、毎日、いろいろな人々をただちに癒したからです。なんでも、できる。ふたりの証しを見るとわかります。

ヨハネ
11:21 マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。
11:22 今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」

11:32 マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」

二人は、全く、同じことを言いました。主よ、あなたは、すべてをおできになる。二人は、ラザロに対するイエス様の愛を確信していました。ですから、次ぎのことをも知っていた。主は、少しの間違いをすることも、されない。

われわれも、またこの態度をとるべきです。ちっぽけな私たちが、主が、どのように、私たちの祈りに答えるべきかを命令することはできない。私たちの主が、生きておられるゆえに、主は、私たちの祈りに答えてくださるのです。それは、全く疑いもないことです。けど、私たちは、あまりにも近視眼的で、視野が狭くて、頑固です。ですから、私たちは、主が何を思われ、いかに働こうとされているのか、ぜんぜんわかりません。

主が、なさることは、われわれの最善であり、主があがめられるために役立つものである。ですから、私たちの態度は服従の態度であるべきです。

マルタとマリヤの祈りは、次ぎのような祈りでした。(一)深い苦しみの中から、祈った。(二)心をひとつにあわせて、祈った。(三)イエス様だけを仰ぎ見て、祈った。(四)非常に緊急を要しつつ、祈った。(五)全く、服従しつつ、祈った。

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