2016年5月29日、沖縄福よろこびの集い
ゴットホルド・ベック
第1テサロニケ
4:16 主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、
4:17 次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。
4:18 こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。
今回、また来ることができたのは良かった。愛するショウジ兄弟、ノブコ姉妹ともう一回会いたいと切に望んだのです。我々の主はすごいね。すばらしい。もちろん言葉で言い表せないほどすごいお方です。我々がこの主を知るようになったのはこれこそ、恵みです。
私たちが欲しかったからじゃない。主ご自身が恵んでくださったからです。そして、私は沖縄に来るといつも一人の人を思い出します。年配の方々は良く覚えてる。若い方々は覚えていないかもしれない。心から尊敬した大城キミ子姉妹です。
この姉妹は94歳で主に召されました。けれども、中心になりたくない。イエス様に中心になってもらいたい。そう、心から願っていた姉妹でした。彼女の証しをちょっと紹介します。
『主の御名を賛美します。今私は、まだ元気です。けれども、いつ召されるか解からないので、皆さんに最後の言葉を残しておきたいと思います。私の今の気持ちは、詩篇23篇の「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私は災いを恐れません。あなたが私と共におられますから」という通りです。』
『また、「私の杯はあふれています」とのみことばは、何と嬉しいことでしょう。私もそのように言えるように導いてくださったのはイエス様です。ありがたいことです。イエス様がいつも共にいてくださる、その人生は何とすばらしいことでしょうか。私はその喜びで、平安で、希望で満たされています。ですから、今、何の心配もありません。思い煩いがありません。天国に行くことを喜んでいます。』
『私はいつまでも、主の家に住まいましょう。主イエス様に心から感謝いたしております。大城キミ子』
こう彼女は証ししてくださったのです。近いうちにまた会えるのが楽しみです。結局、いつまでもイエス様と一緒になる。想像できません。考えられませんけど、約束されているから、間違いなくそうなんです。
今日、一緒に考えてみたいのは、テサロニケ第一の手紙のこの箇所です。イエス様に出会った人たちの切なる願いは、イエス様をまだご存じない方々が、イエス様を体験的に知ることです。提供されている許しを受け取ることです。永遠のいのちを持っているという確信を持つことなのではないでしょうか。
今日の集いの目的は何でしょうか?いつも同じ、イエス様を紹介するためのものです。イエス様は比類なきお方です、すなわち、人間を何を信じるべきか、何をやるべきかじゃない。イエス様はいかにすごい、すばらしい方であるかということを考えるべきなのではないでしょうか。
イエス様はなんでもできるお方であるから、我々はこの主に頼ろう、と新たに決心すれば本当に幸いと思います。イエス様のない人生は確かに無価値です。無意味です。なぜならば、イエス様のみが永遠なるものを与えることのできるお方であるからです。
真の満足をあたえることができ、すべての問題を解決することができるお方であるからです。その意味で、今日の集いも喜びの集いです。どうして?悔い改められる可能性があるからです。へりくだればOK。
多くの人々は聖書とは難しいものだ。なかなか分からない。うそ。へりくだればOK。終わり。聖書全体の言わんとしていることはそれなんです。聖書を知っていても、知らなくても、へりくだれば、『主よ、ごめんなさい、』そういう心構えがあれば、主にとって十分です。
その意味で今日の集いも、イエス様の忠実さを褒め称えるお祝いのようなものなのではないでしょうか。イエス様は『わたしは、決してあなたがたを離れず、あなたを捨てない。』と約束してくださいましたから、私は本気になって、この主の約束を信じ、すべてを安心してゆだねることができるのです。
主は自分の約束を守ってくださいます。我々の願いとは、自分の人生において最優先されるべきものとは、イエス様です。前に読んでもらった箇所をもう一度読みましょうか。
第1テサロニケ
5:16 いつも喜んでいなさい。
5:17 絶えず祈りなさい。
5:18 すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
ここで、神が何を望んでいるかはっきり書かれています。人間は幸せになりたいのであり、どうしてかと言いますと、もし、幸せになれなければ全ては面白くない、意味のないものになってしまうから。
第1テサロニケ
5:18 ・・・これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです。
こう、書いてありますが、いったい主なる神は何を考え、何を望んでおられるのでしょうか?言うまでもなくキリスト教という宗教に入ることではない。あるいは特別な教えを、信じ込むことでもない。また、自分の知恵や自分の力によって、より良い人間になることでもない。主なる神の要求、主なる神の命令は、今読みました箇所を見ると、3種類のものです。
第1番目、『いつも喜んでいなさい。』たまにではない。一日おきでもない。いつも。旧約聖書の中で358回、新約聖書の中で133回、合わせて523回(491回?)、喜ぶことの大切さについて述べられています。一番大切な言葉は、もちろん、『キリスト・イエスにあって』ということばです。
すなわち、この誰からも奪われることのない喜びの秘訣は、イエス様を知ることであるからです。イエス様を知り、生き生きとした交わりを持つことによって、あらゆる人間的な思い、例えば、孤独、傲慢、自分中心の利己主義、無味乾燥な悲哀感、そして、絶望などあらゆる悩みが解消してしまいます。
そして、他方においては本当の喜び、平安、満足が与えられます。イエス様は、我々にまことの救い、すなわち、罪の赦しを与えるためにこの世に来てくださり、救いの代価として、自分のいのちを与えてくださいました。
すなわち、イエス様は我々にまことの救い、すなわち、罪の許しを与えるために来たと言う事実について考えても、ちょっとつかめない。理解できない。どうして?分かりません。イエス様を体験的に知るということは、永遠のいのちを持つことです。
イエス様との交わりの中にこそ、本当の喜び、絶えざる喜び、希望が与えられます。すなわち、一言葉で言いますと、イエス様によって、すべての悲しみは喜びに変わります。仕事の重荷が喜びに変わります。疲れ果てた者が新しい力を得ます。あらゆる人間的な努力の空しさやあせりが、全き平安と安らぎの静けさに変わるようになります。
本当の喜びの泉は、すなわち、イエス様です。イエス様ご自身です。イエス様が、この地上に来られた時、御使いが言ったのです。『恐れることはありません。今わたしは、この民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ、主キリストです。』
変わらない喜びがなければ、確かに人生は全く重苦しいものになってしまいます。変わらない喜びがなければ、人生は退屈なものになります。主のみことばである聖書を通して、提供されているすばらしい喜びは、もちろん、単なる楽しみ、快楽、あるいは、一時的な問題の解決よりずっと大切なものです。
聖書を通して、提供されているすばらしい喜びは、絶えざる喜び、絶えざる幸せを心の中から感じさせるものであり、そして、全き平安に導き、完全に主なる神の御手の中に守られていることの確信を強めてくれるのです。
聖書は言っています、『マリヤは、男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。その罪から救ってくださる方です』と。あらゆる人間がどうしても必要なのは、罪の赦しを得ることです。
なぜならば、罪が赦されると主なる神との交わりが可能であるからです。そして、父なる神との交わりによってのみ、人間は満たされ、幸福され、幸わせになるのです。すなわち、誰からも奪われることのない喜びの根拠は、罪の赦しです。罪は、人間とまことの神との間の隔ての壁です。
けれども、イエス様の犠牲によって、イエス様の身代わりの死によって、この人間と神との隔ての壁が取り去られたのです。身代わりとなる方がなければ、罪のない方が代わりに死ななければ、救いの道がない。罪の赦しはないと聖書は、はっきりと言っています。
イエス様が十字架で死んでくださった時、主は私たちの代わりに死なれました。すなわち、イエス様の死は、人間の罪に対する罰、また、裁きでした。イエス様の死によって、罪は罰せられたから、今になって、聖なる主なる神は、我々の罪を赦すことができるようになったのです。
それだけじゃなくて、許したくて許したくてしょうがない。主なる神の約束を信じる者は救われます。結果として、罪は赦され、神との平和を、また、永遠のいのちを持つようになります。そしてこれこそが、まことの喜び、誰からも奪われることのない喜びの根拠です。
まとめてみると、変わらない喜びは、我々人間の中にあるのでもなく、また、私たちが持っているものや周囲のものの中にあるのでもなく、ただイエス様ご自身の中にあるのです。イエス様に結びついていることが許されているということこそ、本当の喜びを意味しています。すべての他のいわゆる『喜び』は、過ぎ行くものです。永遠に続くものではない。
ここで、『いつも喜んでいなさい。』とあります。どうして?主の心だからです。これこそが、主の思いであり、主の望んでおられることです。意味は、悲しさ、落胆、敗北感は禁じられています。主は、私たちがいつも喜ぶべきであると、強く言っています。この主の命令に対して、不従順な態度をとることはもちろん、罪です。
第2番目、絶えず祈りなさい。祈ることこそが、人間にとって最も大切です。祈らない者は、みじめです。あわれむべき存在です。祈らない者は、喜びがないし、実を結ぶことができないし、主によって用いられ得ない。
なぜ多くの人は、打ちのめされているのでしょうか?ほとんど祈らないか、ほんのわずかしか祈らないから。なぜ多くの敗北を経験するのでしょうか。ほとんど祈らないか、祈ったとしても、ほんのわずかしか祈らないから。なぜわずかな人しか、暗闇から主の光の中に導かれないのでしょうか。ほとんど祈らないか、あるいは、祈りが少なすぎるからです。
誰でも、私たちも、天国に行って後悔すると思う。生きている間にもっと祈ったらいいのに。主は働こうと思った。恵もうと思ったけど、祈らなかったから、主はできなかった。
何でもできるお方は、以前と同じように、今もなお、もちろん、全能なるお方です。以前と同じように今も人を救おうと願っておられます。すなわち、主の御手が短すぎて、助けることがおできにならないのではありません。主はできる。
すべての失敗の原因は、我々の不十分な祈りの生活に他なりません。祈りによって私たちは、全能なる主の力を用いることができます。すなわち、私たちが祈ると、全能なる主は働く。奇跡を行なってくださいます。残る実は、いつも真剣な祈りの結果です。
私たちの人生の目標は、いったい何でしょうか。それは、知恵でも、名誉でも、力でもなく、永遠の実であるべきです。そしてこの実は、ただぶどうの木であるイエス様と結びついている時にのみ、実を結ぶのです。主と結びついていなければ、そして、祈りの生活がなければ、後に残る実を結ぶことはできません。
『絶えず祈りなさい。』これは、主の望んでおられることです。主の恵みによって、祈りの人になりましょう。そうしたら、私たち自身、変わります。家族も友達も変わります。
絶えず祈ることは、自分勝手な行ないをせずに、主に拠り頼むことです。主に拠り頼むこととは、すばらしい特権なのではないでしょうか。私たちが、祈るか祈らないかということは、我々にとってどうでもいい事ではない。絶えず祈ること、助けを求めることは主の命令です。そして、主の命令に従わないことは罪です。
最後に3番目、すべての事について、感謝しなさい。もし、『たまに喜びなさい。喜びの集いの時、喜びなさい』と言われれば、なんとかなる。けど主は、『いつも喜びなさい。』と命令しておられます。
もし、『時々祈りなさい、少なくても朝と晩』と言われれば、誰でもがそうでしょうと賛成します。けれども、主は、『絶えず祈りなさい。』と命令しておられます。
そして、今度は、『あることについて感謝しなさい。』と言われれば、『わかった、わかった。』と誰でも賛成するでしょう。けど、主は、『すべて、すべての事について、感謝しなさい。』と命令しておられます。
『すべてのことについて感謝しなさい。』すべてと書かれています。すべての事を通して、私たちは主をより良く知るべきです。イエス様をより良く知ることとは、最も価値のある事なので、私たちは意識して、すべての事について感謝しようではないでしょうか。
私たちはいつも喜ぶことができる。絶えず祈ることができる。すべての事について、感謝することができると思っているからではない。無理よ。絶対にできない。
けども、多くの人々は、聖書の戒めとは守るために与えられていると思っています。うそ。守るためじゃないよ、破るため。自分の惨めさを分かるため。本当に、徹頭徹尾、主にだけ頼るためなのではないでしょうか。
イエス様は、『わたしを離れては、あなたがたは何もすることができない。』イエス様から離れて、誰からも奪われることのない喜びを知ることができないし、絶えず祈ることもできないし、そしてすべての事について、感謝することができません。
多くの人々は、聖書の戒めは守るために与えられていると思うでしょう。うそ。破るため。守ることができれば、イエス様だって必要ない。自分ががんばれば。でも、がんばれば、がんばるほど、疲れます。無理よ、早くやめた方がいいでしょう。結局、降参して、『もう無理、哀れんでください、お任せいたします。』この態度を取り続けると、主は働くことができます。
ヨハネ伝15章の姿を見ると、『イエス様ご自身がまことのぶどうの木であって、あなたがたはその枝である。』と言われました。木の幹がその枝に力を送って、枝が多くの実を結ぶことができます。ぶどうの幹は、力といのちが満ちています。
イエス様は約束してくださいました。『人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は、多くの実を結びます。』イエス様から離れては、私たちは本当の意味で、信じることも、祈ることも、悔い改めることも、愛することも、感謝することもできません。少しもできません。それはイエス様のことばです。そしてイエス様は、何事でも大仰に言われません。
私たちは、告白すべきです。すなわち、私たちは、主の願っていることをちゃんと解かっているけど、守ろうと思っても無理。まったく、不可能です。だから私たちは、何でもできるお方に頼ろう。自分たちはみじめ、貧しい者であるから、全能なる主に頼る。
主に頼ること、主に寄りかかることは、泉につながることを意味しているのです。私たちの学ぶべき事はペテロの経験なのではないでしょうか。これを読んで終わります。
ヨハネ
21:18 まことに、まことに、あなたに告げます。あなたは若かった時には、自分で帯を締めて、自分の歩きたい所を歩きました。しかし年をとると、あなたは自分の手を伸ばし、ほかの人があなたに帯をさせて、あなたの行きたくない所に連れて行きます。
全く主に寄りかかるという事が、実を結ぶこと、また、祝福された生活の秘訣です。主イエス様によりかかることこそが、まことの自由、そのものであります。

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