2026年7月5日日曜日

生きることはキリスト、死ぬことも益です

生きることはキリスト、死ぬことも益です
2026年7月5日、町田集会
重田定義

ピリピ
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

今日は今、読んでいただいた御言葉の中から、『生きることはキリスト、死ぬこともまた益』ということについて、ご一緒に考えてみたいと思います。

パウロの言葉から私たちは、彼にとって全ての生きがいはキリストにあるということが分かります。しかし、この世の見えるものに生きがいを求めて生きている人々には、このことは全く理解できないことなのではないでしょうか。パウルはまた、ガラテア人への手紙の2章の20節で、

ガラテア
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

とも言っております。

これはイエス様を信じる前の古い自分、自己中心の自分は、もはやイエス様とともに十字架につけられて死んだのだから、信じた今は、古い自分が生きているのではなくて、新しく生まれた自分の中に住んでくださっているイエス様の御霊によって生かされている――そういうパウロの信仰告白であります。

真の神様を知らない人間はみな、自分のいのちは自分のものと考えています。ですから、自分のいのちを自分の益のために、自分が生きるために用いること、これは当然のこととして、何の疑問も持ちません。

こうして人間は、自分の様々な願望を満たすために、また、人生を楽しむために、いのちを大切にしますし、また、一方、死を恐れるのであります。なぜならば、この世のいのちが全てだと思っている人にとっては、死ねば全てが終わりだからであります。

人々が、健康を維持するのに狂奔するのも、この世のいのちがあってこそと思っているからではないでしょうか。パウロ流の言い方をするならば、生きることは自分のためである、死ぬことは恐ろしい――ということになるのではないでしょうか。

けれども、自分のいのちによって、この世を楽しもうとしても、その人生は果たして、自分の思い通りになるのでしょうか。世界一の知恵者と言われ、ばく大な富や強大な権力を手にしたソロモン王は次のように告白しました。

伝道者の書
1:2 ・・・・空の空。すべては空。
1:3 日の下で、どんなに労苦しても、それが人に何の益になろう。

2:4 私は事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け、
2:5 庭と園を造り、そこにあらゆる種類の果樹を植えた。
2:6 木の茂った森を潤すために池も造った。
2:7 私は男女の奴隷を得た。私には家で生まれた奴隷があった。私には、私より先にエルサレムにいただれよりも多くの牛や羊もあった。
2:8 私はまた、銀や金、それに王たちや諸州の宝も集めた。私は男女の歌うたいをつくり、人の子らの快楽である多くのそばめを手に入れた。
2:9 私は、私より先にエルサレムにいただれよりも偉大な者となった。しかも、私の知恵は私から離れなかった。
2:10 私は、私の目の欲するものは何でも拒まず、心のおもむくままに、あらゆる楽しみをした。実に私の心はどんな労苦をも喜んだ。これが、私のすべての労苦による私の受ける分であった。
2:11 しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。日の下には何一つ益になるものはない。

このように、ソロモンは言っております。ソロモンでなくても、この世に生き甲斐を求めて夢中で生きている人も、静まってそれまで歩んできた人生を真剣に振り返ってみたときに、いったい何のために自分は苦労して、生きてきたのだろう、自分は何をもって、生き甲斐としてきたのだろうと、これは歳を取れば取るほど、虚しさを感じざるを得ないのではないでしょうか。

詩編
90:10 私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年。しかも、その誇りとするところは労苦とわざわいです。それは早く過ぎ去り、私たちも飛び去るのです。

とある通りです。しかし、多くの人々は、虚しさを感じながらも、どうすることもできずに、束の間の喜びや快楽や安らぎを求めて、生きるほかかないと諦めてしまっているのではないでしょうか。

けれども、諦めることはありません。そのような人でも、もし心から求めるならば、誰でもこの虚しい生き方から、脱却することができ、虚しい生き方ではなくて、尽きることのない希望と喜びと安らぎに満ちた生き方を、そして、死をも恐れぬ生き方をすることができるのであります。

では、そのような生き方をすることができるためには、どうしたらいいのでしょうか。そのために私たちは、何を成すべきなのでしょうか。昔から人間は、このために知恵を絞り、また、努力をしてきました。けれども人間の知恵や努力ではできないことは、先ほどのソロモンの告白からも明らかであります。

けれども、希望と喜びと安らぎに満ちた生き方が、そして、人間がもっとも恐れる死をも恐れぬ生き方ができるという道が、ひとつだけあります。それには、私たちが自分の欲望に支配されて生きるという古い人を脱ぎ捨てて、新しい人、すなわち、新しいいのちに生まれ変わらなければならないのであります。そんなことは、いったいどうして可能なのでしょうか。

もちろん、人間の力では不可能であります。ただ一つ、天地万物の創造主であり、支配者である生ける神のひとり子が、私たちのために人の姿をとってこの世に来られた、そのイエス様を信じる信仰によってのみ、それが可能となるのであります。

神の御子のイエス・キリストがこの世に来られ、十字架にかかってくださったという目的はまさに、私たち人間を、そのままでは滅びるしかない虚しい生き方から救い出して、真の喜びと希望に満ちた新しい永遠のいのちに生きるようにしてくださるためだったのであります。

そして、虚しい生き方から脱却するために、私たちが成すべきことはただ一つ、今まで神様に背を向けて、自分の思いを満たすことだけを考えて、自分中心に生きてきたこと――これが聖書でいうところの罪でありますけれども――、そのような生き方を心から悔い改めて、そのような生き方をしてきたわがままな自分の罪を、身代わりになって十字架にかってくださったイエス様の大きなご愛に心から感謝し、これからの人生のすべてをイエス様にお委ねし、イエス様を主として従おうと固く決意をすることであります。

これが信仰告白であります。そして、これこそ神様が私たちに求めておられることなのであります。神様は、この信仰告白を喜ばれて、私たちの罪に穢れた古い人を、イエス様とともに十字架にかけてくださり、同時に、イエス様のよみがえりのいのちを与えて、新しく生まれ変わらせて、神の子供としてくださるのであります。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

とあるとおり、そして、

ガラテヤ
3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

と記してあるとおりであります。

ではイエス様を信じて生まれ変わった結果、私たちの意識は、私たちの死生観はいったいどのように変わるのでありましょうか。イエス様を信じる以前の古い人の時には、生きるのは自分のためと考えたものから一変して、生きる目的が自分のためではなくて、イエス様のためという風に変わります。パウロはこの心境の変化を次のように言い表しております。

ローマ
6:4 私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって(・・・・これはイエス様ですね、イエス様のいのちにあって・・・・)新しい歩みをするためです。
6:5 もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。
6:6 私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。
6:7 死んでしまった者は、罪から解放されているのです。
6:8 もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます。

パウロは、かつてはイエス様を、神を冒涜する者と考えて、イエス様を信じる人たちを迫害することに生き甲斐を感じていたような人間でありました。

けれども、復活のイエス様に出会って、霊の目が開かれ、自分が大変な罪を犯していたことを知って心から悔い改め、それからは、イエス様を主として従い、イエス様のために自分の人生を捧げて生きようというように変わりました。これについて、パウロは次のように告白しております。

第一テモテ
1:13 私は以前は、神をけがす者、迫害する者、暴力をふるう者でした。それでも、信じていないときに知らないでしたことなので、あわれみを受けたのです。
1:14 私たちの主の、この恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに、ますます満ちあふれるようになりました。
1:15 「キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。」ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

パウロは、優れた律法学者であり、また家柄についても、律法を遵守することにおいても、イエス様を救い主として認めないユダヤ教の熱心な信者としても、自他ともに認めるほどの人物でありました。そのような知識と誇りの上に立って、イエス様を神を汚す者とみなして、イエス様を信じる者を迫害することに、彼は生き甲斐を感じていたのであります。

しかし、復活されたイエス様に出会って、霊の目が開かれた時に、イエス様の大きなご愛に直接、触れてこれまでの自分の愚かさ、自分の罪の大きさに初めて気がつき、心から悔い改め、それからは殉教の死を遂げるまで、イエス様のために生涯を捧げるという生き方へと大転換をしました。この彼の心の変化について、彼は次のように語っております。

ピリピ
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
3:7 しかし、私にとって得であったこのようなものをみな、私はキリストのゆえに、損と思うようになりました。
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

パウロは、イエス様に出会ったことのすばらしさのゆえに、今まで得と考えていたこの世的に価値のあるすべてのものが、全く無価値なものに変わってしまった、無価値なものになってしまったというふうに証しをしております。

イエス様と霊的な出会いをするということは、このように人間の価値観を一変させるほどすばらしいことなのであります。ここであらためて、最初のピリピの手紙の1章21節から24節のパウロの言葉を見てみたいと思います。

ピリピ
1:21 私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。
1:22 しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。
1:23 私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。
1:24 しかし、この肉体にとどまることが、あなたがたのためには、もっと必要です。

この手紙は、パウロが投獄された獄中で書いたことが分かっております。イエス様に出会って霊的に生まれ変わった彼は、異端の教えとして禁じられていたイエス様の福音を述べ伝え続けたために、捕らえられて牢獄に入れられました。パウロが毎日、死を覚悟していたことは、コリント人の第2の手紙の4章10節から11節を見れば分かります。お読みします。

第二コリント
4:10 いつでもイエスの死をこの身に帯びていますが、それは、イエスのいのちが私たちの身において明らかに示されるためです。
4:11 私たち生きている者は、イエスのために絶えず死に渡されていますが、それは、イエスのいのちが私たちの死ぬべき肉体において明らかに示されるためなのです。

そして、ピリピの手紙1章23節で、『私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています』とも言っておりますように、パウロ自身としては、イエス様を述べ伝えるがゆえに受ける迫害の中で、早く天に召されて、イエス様のみもとに行きたいという切なる思いがありました。

しかし、一方では、自分はイエス様から、異邦人の世界に福音伝道するという大きな務めを果たすために選ばれ、救われたのだという強い使命感を持っておりました。そのためには、たとえ体は死ぬほどの苦しみにあっても、生きていることが必要だと考えたのであります。

彼の切なる願いは、生きるにしても死ぬにしても自分の身によってキリストのご栄光が表されることであったのであります。まさに、パウロにとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益なのであります。

しかし、この『生きることはキリスト、死ぬこともまた益です』というパウロの証しは、パウロだけの証しとして済ますわけにはいきません。主は、私たち信者にも、このように生きることを切望しておられるのであります。世の終わりの時が、そして、ご再臨の時が迫っていることを強く覚える今日、イエス様を信じる私たちが、私たち全ての信者もまた、イエス様と霊的な出会いによって開かれた霊によって、ガラテアの二章二十節にありますように、

ガラテア
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

という信仰に固く立って、私たちの内に住んでくださる御霊に強められ、励まされて、生きることはキリスト、死ぬこともまた益ですと高らかに証しすることができますように、そして、私たち信者を通して、主がご栄光を表されますように、切に祈る次第であります。最後に、第二コリントの5章15節の御言葉をお読みして終わります。

第二コリント
5:15 キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

ありがとうございました。

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