2026年5月22日金曜日

今まで以上に主にあって喜べ

今まで以上に主にあって喜べ
2016年5月22日、富山福音集会
ゴットホルド・ベック

ネヘミヤ
8:10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

詩篇
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

今、読んでくださった2か所を通して、なんと勧められているかと言いますと、今まで以上に主にあって喜べ。これこそが主の望んでおられることです。主を喜ぶことこそが力の源です。詩篇の作者であるダビデはもちろん、それを経験しました。

詩篇
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

ダビデの祈りは本当に宝物です。確かに3000年前に、主の霊によって導かれた祈りです。ですから時代遅れにならない。

ご存知のようにこのダビデではたいへん、苦しみました。どうしたらいいか、結局、分からなかったから、祈るようになったんです。この彼の祈りが今日まで残っているのは、ありがたいのではないでしょうか。確かに私たちの会う人間とはみな、嬉しくて嬉しくてしょうがない、そういう人間じゃない。みんな悩んでいます。人によって悩みが違うだけなんです。

だからかわいそうなのじゃない。何の悩みも、何の苦しみもなければ、誰も祈らない。助けを求めない。がんばれば何とかなるから。これは悪魔の言っている嘘です。いくらがんばっても何もなりません。

聖書の道とは、あきらめて、降参して、何でもできる方に任せること。楽になる。全部、イエス様のせいにしましょう。どうしてうまくいかなかったの?離婚してしまったの?誰も分からない。あなたや私がわがままだったと言っても、奥様は同じことしかいえない。誰のせいか?『別に。イエス様よろしく、』と言う態度を取ることができるなら、本当に助かる。ありがたい。

ダビデはいつもこの態度を取りました。主にあって喜ぼう。ヨハネ伝から3箇所読みましょうか。

ヨハネ
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

主の喜びを経験する道とはそれなんです。バプテスマのヨハネの証しですね。

ヨハネ
15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

すごい約束です

ヨハネ
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

これこそが主の招きの言葉です。

ヨハネ
17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。

イエス様のお別れの言葉のひとつです。私たちはますます、次のようなことに心を配らなければなりません。すなわち、自分のことはどうでもかまわない。自分が良く思われたいとか、人の上に立ちたいとかいうことではなくて、ただイエス様が、栄光を受けるように。

一方において、信じるものは霊的に成長することがどうしても必要であり、他方において、各人は信じるものの交わりの中に溶け込むことができ、自分を無にすることです。この二つのことが信じるものにとって一番、大切なのではないでしょうか?

私たちは人間により頼むのではなくて、主イエス様にのみより頼まなければならない。そのときにのみ、主はわれわれを導くことができ、用いることがおできになります。信じるものの正しい生活というものは、主とともに十字架につけられた生活に他ならない。

信じるものにとってもっとも大切な箇所のひとつは、皆さん、暗記しているでしょうけど、ガラテヤ書2章20節です。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

この世で一番、幸せな人々とはどういう人々でしょうか。パウロのように言える人々じゃないかな?『私のためにご自身をお捨てになった神の御子。』想像できない。考えられない、イエス様はそのためにいかに悩んだのか、苦しんだのか。まったく、分かりません。

われわれが立派なものだったら分かる。けど捨てられてもいいような者ではないでしょうか。その意味で、私たちはイエス様のことを理解できない。だめなものを捨てないから。捨てられても当然じゃないの?けど、イエス様は、私は決して捨てない。『決して』は『決して』です。イエス様はうそつきじゃない。自分の約束を守るお方です。

今読んでもらいました箇所、ネヘミヤ記の中で、『悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。』主を見ると、誰でもが元気になる。必要な力が与えられるようになります。いったいどうすれば、この主にある喜びを体験することができるでしょうか?これに対して5つの答えを与えることができるんじゃないかな?

第1番目。私たちが、私たちを救うことのできる主の大いなる力を体験的に知るときに、この喜びを体験することができます。私たちはしばしば、自分自身の力で何かをしようとしますが、不幸にもそのようなときには、この喜びがいっぺんに消えてしまいます。この喜びの秘訣は、『われわれの思いではなく、主よ、あなたの御心がなりますように、』と言うことにほかなりません。

けれども、イエス様はわれわれが考えることとは違ったかたちで、われわれを導くのではないでしょうか?私たちの思い、私たちの考え、また、感情はことごとく、主の御心に反しているものです。自分の思い、自分の考えにこだわるとき、人間はみな、不幸にならざるを得ません。自分の思いや考えを犠牲にする覚悟のあるものだけが、本当に主の大いなる力を、すばらしい喜びを体験することができます。

われわれの質問とは、(どうすれば)主ご自身の喜びを自分のものにすることができるか。今、答えました。第一番目の答えは、イエス様を自分の救い主として受け入れるとき、許されたことを信じ、いつまでも主のものとなったから、喜ぶことができます。

2番目の答えは、イエス様のご臨在を確信することも、大いなる喜びを与えてくれます。私たちがイエス様に従って行こうとするときには、自分は本当にだめなものであり、何の力もないものであることを知るようになります。

私たちが本当に打ちひしがれ、砕かれたときに、主を見上げれば、われわれの弱さにもかかわらず、主の大いなる力を、主のすばらしい喜びを体験することができます。私たちはいつ、いかなる場合でも決して一人ではありません。いつもイエス様が共におられます。

イエス様のひとつのお別れの言葉として、次のように書かれています。マタイ伝28章の20節です。

マタイ
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

もう想像できない、すばらしい約束です。『わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいる。』この約束は、われわれ一人ひとりに書かれているのです。もう一箇所読みます。

哀歌
3:57 私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。

内容的に同じです。

イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

イザヤはこの御言葉を聞いたとき、必ず、心配から解放された。『主はそういってるからありがたい、もう安心だ』、と思ったに違いない。イエス様ご自身が共におられる、この確信こそわれわれに大きな喜びを与えてくれます。

今までのことをまとめると、次の二つのことがわれわれに喜びを与えてくれることが分かります。すなわち、第一番目、私たちがイエス様の救う力を体験するときに、われわれは本当の喜びを知ることができます。二番目、私たちがイエス様のご臨在を確信するときに喜びを体験することができます。

3番目の答えはイエス様の導きを確信し、体験することも我々に大きな喜びを与えてくれます。我々の人生においては、しばしば痛い。この場合に我々は何をしたらよいか。何をすべきかという問題に直面するときがあります。そう言った時こそ、私たちはイエス様がともにおられ、私たちを導いておられるという確信を持つことができれば、本当に幸いと思います。これこそ我々の本当の喜びを与えてくれます。

この世のことにおいて、さまざまな出来事が起こってきますけど、何ひとつとして、イエス様の許しなくして、生じてくるようなことはない。私たちはまことに生きているイエス様によって、導かれているのだ、という確信こそ、大いなる喜びを与えてくれるに違いない。

詩篇の作者であるダビデ、彼の書いた詩篇はいっぱいありますが、一番よく知られている詩篇は多分、23篇なのではないでしょうか。

詩篇
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

ダビデの告白であり、素晴らしい証しなのではないでしょうか。ダビデの他にいっぱいあります。詩篇の107篇を見ても、彼は次のように告白したのであります。

詩篇
107:6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。

107:14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

107:28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

136:16 荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。

これらの詩篇の御言葉はすべて個人的な体験されたことです。証しに他なりません。主によって導かれると言うことこそ、まさに当時のイスラエルの民の体験であり、喜びでもあったのです。私たちが主の導きを本当に確信するとき、大いなる喜びを体験することができます。

偶然はない。全部イエス様のせいと考えるとまた分からなくなってしまう。どうして、主はこれとこれとこれを許すのか。今は、分かりません。いいじゃないの。もう少し、待ちましょう。分かるときが必ず来ます。

どうすれば主ご自身の喜びを自分のものとできるでしょうか?今、三つのことを言いました。第一番目、主イエス様を自分の救い主として受け入れるとき、許されたことを信じ、いつまでも主のものとなったから喜ぶことができる。イエス様はだめなものを捨てない。二番目、イエス様のご臨在を確信することも、大いなる喜びを与えてくれます。3番目、イエス様の導きを確信し、体験することも、われわれに大きな喜びを与えてくださいます。

4番目の答えは、イエス様が私たちのためにすべてを備えていてくださる、と言うことも大きな喜びをもたらしてくれます。私たちは、私たち自身ではとても理解できないようなことを、体験することがあります。なぜ、逃れ道が全然、ないのか。まったく分からないと言うようなことを体験したことが大いにあるのではないでしょうか。

このように、どうして私たちがこんなことを、体験しなくてはいけないのかまったく、分けが分からないようなときでさえ、主がすべてを備えてくださると言う確信があれば、如何に大きな喜びが与えられることでしょう。

イエス様は人間一人ひとりを愛していてくださるお方です。イエス様がわれわれのためにすべてを備えていてくださいます。この確信を持っている人はなんと、幸いなことでしょう。詩篇の作者であるダビデはまた言いました。前に開きました詩篇の23篇の一節、

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

これはダビデの経験であり、体験でした。ルカ伝の22章、イエス様はあるとき、弟子たちに尋ねたことがあったんですね。

ルカ
22:35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」

第一コリント
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。

どうすれば、主ご自身の喜びを、自分のものにすることができるでしょうか?今、話した答えは、イエス様を自分の救い主として受け入れた人は許されている。永久的に受け入れらている。いつまでも主のものとなったから、喜ぶことができる。二番目の答えは、主イエス様のご臨在を確信することも、大いなる喜びを与えてくれます。

考えられない(ほど)多くの人々が寂しいと言います。昔は癌という病気は恐ろしいものだった。今はぜんぜん違う。癌があってもなくても、孤独になるとお終い。もうどうすることもできない。けれど、イエス様のすばらしさを経験すると孤独から解放されます。安心して将来に向かうことができるのです。イエス様がわれわれのためにすべてを備えてくださる、と言うことも大きな喜びを与えてくれるのではないでしょうか。

5番目の答えは、喜びの源として考えられることは、イエス様がわれわれを待ち望んでおられると言うことです。このことはまだ、私たちが体験していないことですが、聖書を読めばこのことが事実であるとはっきり分かります。死ぬと言うことは、消滅してしまうと言うことではなく、主の御許に帰ると言うことに他ならない。

これら5つの確信は、いついかなるところにおいても我々に、本当の喜びと勇気を与えてくれます。

もう一回まとめましょうか。第一番目、イエス様は我々の罪を全部、許してくださる。御力によって我々を解放してくださるお方です。もちろん、聖書の言っていることだけど、人間の考えられないこと。イエス様は、許すと忘れるんですって。天国に行っても、誰もイエス様、見たでしょう。これもやったし、あれもやるべきだったし、うんぬん、イエス様は驚いた顔で、何で言ってるの?イエス様は全部、見たでしょう、分かるでしょう。イエス様は思い出さない。イエス様が思い出さなければ問題ない。安心して死に向かうことができるのではないでしょうか。

私はあなたの罪を永久的に思い出さない。聖書の中でもっともすばらしい約束のひとつなのではないでしょうか。イエス様は、いついかなるときも、呼びかけておられます。今、話したように、イエス様は我々のわがまま、過ち、罪を全部、許してくださり、御力によって解放してくださるのです。そして、決してだめであるわれわれを見捨てない。一人ぼっちにはなさらない。イエス様、自らが我々を導いてくださる。

言うまでもなく、イエス様の導きは適当ではない。完全です。そして、イエス様は人間一人ひとりを愛しておられ、我々のためにすべてを備えていてくださるお方であり、また、イエス様自ら、私たちのようなものを待ち望んでおられます。

イエス様にある喜びは、我々に大いなる力を与えて、すべてのことをすりぬく力を与えてくださるのです。この主イエス様にある喜びは、単にひとつの力となるのみならず、我々の信仰の土台を測るものともなります。

私たちがイエス様に不従順であれば、当然ですが、喜びがなくなります。けれども、私たちが正しくないことをした場合に、包み隠さず、イエス様に打ち明けるならば、イエス様は全部、許してくださり、新しい喜びを与えてくださいます。私たちがこの喜びを持っているか、いないかということはどうでもいいことではない。この喜びがなければ、いかなる証しもできなくなる。そして、イエス様はもはや、我々を用いることができなくなってしまいます。

詩篇の作者であるダビデを、もう2~3か所読んで終わります。

詩篇
5:11 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

33:21 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

68:3 しかし、正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。

104:34 私自身は、主を喜びましょう。

私たちも詩篇の作者と同じように、心からイエス様をほめたたえ、喜ぶことを望んでおられるに違いない。

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