2026年4月5日日曜日

聖書は神のみことば、神のメッセージが入った宝石箱

聖書は神のみことば、神のメッセージが入った宝石箱
2026年4月5日、町田福音集会
重田 定義

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

おはようございます。私は、ただいま紹介していただいたように、いつもはズームで町田集会に参加しておりましたけれども、九十九歳になって、生きているうちに一度はパルテナン多摩の集会場に行きたいと思っておりました。今日は、その願いが叶えられて、本当に感謝であります。しかし、そのために、礼拝の途中から参加するなど、ご迷惑をおかけしました。また、K兄には、車で運んでいただくことをまずしてくださって、その上、司会までお願いしてしまいました。

今日は、イースターの日でありますけれども、テーマはイースターとは直接は関係ないテーマ、先ほど読んでいただいたテーマでお話したいと思います。

聖書は神の御言葉、神のメッセージという宝石を入れた宝石箱。これがテーマなんです。これは、話せば大変長くなってしまいますので焦点をぐっと絞りまして、大切なポイントだけを短い時間でお話したいと思います。

聖書を持っている人は、どのぐらいいるのでありましょうか。毎年、二十万から三十万冊は、世に出ているということが分かっておりますので、かなり多くの人が持っているのではないでしょうか。ところが、ただ持っているだけの人、本棚に立てておくだけの人が、圧倒的に多いのではないかと思います。いったい、どうしてでしょうか。

それは、聖書の神が、自分たちの神とは全く違うので、分からないからであります。日本人の神というのは、全てこれは偶像の神、木や石や金属で作られた神であります。にもかかわらず、日本人はその神に願い事をし、祈りを捧げているということですね。そして、その神に捧げる祈りが、おみこし――華麗な飾りをつけたおみこし――、あるいは、京都の祇園祭りや東北のねぶた、そういう風な山車ですね。あるいは、阿波踊りみたいに行列を作って、大勢で練り歩く踊り、そういう風なお祭り、あるいは、初詣で始まる様々な願い事、例えば、出産とか、受験とか、就職とか、交通安全とか、商売繁盛、いろいろそういう風なものになってですね、国中の町々村々にもう定着している。これが日本の神なんですね。

もうこれは伝統文化の中に、入れられているような状態なんです。そういう風な日本人にとって、聖書の神というのは、どういう風に映っているか。まず目に見えない。けれども生きている。そして、天地万物を造って、人間も造った。しかも、それらを支配している。さらに、意志を持っていて、怒ったり喜んだりする。そういうふうな神は、とうてい日本人には理解できない。これは元来は、イスラエル民族、あるいは、ユダヤ民族の宗教の神だから。そして、後になって、世界に広まったのだから、自分たちには関係ない。そういうふうに思っても、仕方がないとも言えます。

しかしながら、聖書は、神がそのような哀れな人間をも、お見捨てにならずに、愛して滅びの道を歩んでいるその人間を救う計画をお立てになる。その計画を、御子なる神に命じられて、御子なる神は、救い主イエス・キリストとして、その使命を完全にまっとうされた。そういう風に、聖書は記しております。

けれども、聖書の神がこのような偉大な神であると分かるだけではなく、さらに信じることができるためには、その前提条件として、大切な条件があるんです。それは、聖書は頭で読むのではなくて、心で読まなければならないということであります。これが、普通の本の読み方とまったく違うところなのであります。

心で読むためには、当然、心を開かなければならない。そして、心を開くために、あるいは、心を閉じる、心の開閉というものは、どうしたらできるか。自我が大きく関係します。自我が強いと、心は閉ざされます。自我が砕かれると、人間の心は開かれます。けれども、この自我というのは、自分で砕くことはできない。当然でしょうね。では、どうしたら自我が砕かれるか。神が愛のむちをもって、様々な方法で、人間の自我を砕いてくださるのであります。それは人間の肉にとっては、辛く痛いものでありますけれども、神は、耐えられないような痛み、苦しみを与えないと、約束してくださっておられます。

こうして、神によって自我が砕かれ、心が開かれたときに、次に今度は、助け主なる御霊が働いて、ここで初めて、人間は聖書の神のメッセージが、これは人ごとではなくて、自分の救いのためであるということを知って、まことの神である父なる神、そして、御子なる神、イエス様を信じる恵みにあずかることができるのであります。私たちもこのようにして、自我が砕かれ、救われたのではないでしょうか。

ここで、聖書とイエス様についてのすばらしい言葉を御紹介します。それは、十七世紀のフランスの哲学者、パスカルの言葉です。パスカルは皆さんご存知ですよね。有名なパスカルの定理というものを作った人ですし、『パンセ』という本も書いておりますけれども、このパスカルの言葉は、スイス人のパウル・トルニエという医者で、しかも、伝道者の書いた本、著書、『聖書と医学』から、私はそのまま引用しました。このパスカルの言葉を、これからお読みいたします。

『私たちは、イエス・キリストによってのみ生と死を知る。イエス・キリストから離れては、私たちは、私たちの命が何であり、私たちの死が何であるかを知らないし、神を知らず自分自身を知らない。このようにイエス・キリストがその唯一の対象である聖書なくしては、私たちは何も知らないし、神についても、私たち自身の本性についても、曖昧と混乱のほかは何も見ることができない。』

すばらしい言葉ではないかと思うんですね。まさに、イエス・キリストをなくしては、そして、聖書なくしては、私たち人間は何も知らないで滅んでしまうしかないのではないでしょうか。このように短い言葉で、的確に聖書とイエス様を証ししたパスカルはさすがだと、私は感心しました。これで終わっちゃうんです、今日は。

今日は、聖書は神のメッセージ、神の言葉という宝石を入れた宝石箱というテーマでお話ししたつもりであります。しかし今、お話ししたように、そのようにわかるためには、自我が砕かれて、心を開いて聖書を読むということが是非とも必要なのであります。心を開いて読めば、神のメッセージ、神の御言葉はダイヤモンドのように光り輝く宝石となりますけれども、心を閉じて読めば、ただの石としか見えなくなってしまうのであります。

今の世界は、聖書の予言通り、神が裁き主として、罪と汚れに満ちたこの古い世界を滅ぼし、新しい清い世界を作るためにおいでになるのが近いことをはっきりと示しております。この時代に生きる私たちは、神のメッセージ、神の御言葉という宝石を入れる宝石箱を、御心にかなうようにしっかり用いること、神はそのことを私たちに求めておられるのではないでしょうか。

最後に、この宝石箱の中から、四つの御言葉を取り出してお読みします。

詩篇
119:103 あなたのみことばは、私の上あごに、なんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

119:105 あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です。

119:130 みことばの戸が開くと、光が差し込み、わきまえのない者に悟りを与えます。

エレミヤ書
15:16 私はあなたのみことばを見つけ出し、それを食べました。あなたのみことばは、私にとって楽しみとなり、心の喜びとなりました。

このように御言葉を味わうことのできる人こそ、聖書を神のメッセージ、神の御言葉の宝石箱として用いることができる人と言えると思います。ありがとうございました。

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