2016年5月31日火曜日

からし種のたとえ(一)

からし種のたとえ(一)
2016年5月31日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マタイ
13:31 イエスは、また別のたとえを彼らに示して言われた。「天の御国は、からし種のようなものです。それを取って、畑に蒔くと、
13:32 どんな種よりも小さいのですが、生長すると、どの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て、その枝に巣を作るほどの木になります。」
13:33 イエスは、また別のたとえを話された。「天の御国は、パン種のようなものです。女が、パン種を取って、三サトンの粉の中に入れると、全体がふくらんで来ます。」
13:34 イエスは、これらのことをみな、たとえで群衆に話され、たとえを使わずには何もお話しにならなかった。
13:35 それは、預言者を通して言われた事が成就するためであった。「わたしはたとえ話をもって口を開き、世の初めから隠されていることどもを物語ろう。」

ルカ
13:18 そこで、イエスはこう言われた。「神の国は、何に似ているでしょう。何に比べたらよいでしょう。
13:19 それは、からし種のようなものです。それを取って庭に蒔いたところ、生長して木になり、空の鳥が枝に巣を作りました。」
13:20 またこう言われた。「神の国を何に比べましょう。
13:21 パン種のようなものです。女がパン種をとって、三サトンの粉に混ぜたところ、全体がふくれました。」

今日は、いわゆるからし種のたとえについて考えたいと思います。三つの点に分けて考えます。第一番目、神の国とは、いったい何でしょうか。二番目、今日における、神の国の現れとは、見せかけの神の国です。そして、三番目、将来における神の国の現れとは、もちろん、真の神の国です。

マルコ
4:30 また言われた。「神の国は、どのようなものと言えばよいでしょう。何にたとえたらよいでしょう。
4:31 それはからし種のようなものです。地に蒔かれるときには、地に蒔かれる種の中で、一番小さいのですが、
4:32 それが蒔かれると、生長してどんな野菜よりも大きくなり、大きな枝を張り、その陰に空の鳥が巣を作れるほどになります。」
4:33 イエスは、このように多くのたとえで、彼らの聞く力に応じて、みことばを話された。
4:34 たとえによらないで話されることはなかった。ただ、ご自分の弟子たちにだけは、すべてのことを解き明かされた。

このあいだ、私たちは、ひとりでに実を成らせる植物の種から、神の国について考えてまいりました。

植物は、自ずから芽を出し、上手に生長して、その必然的な結果として、実を結びます。これは、主が昇天されてから、信じる者が天に引き上げられるまでのあいだの、この地上における真(まこと)の教会の成長の有様について、示しているのであります。

植物が生長すると、収穫の時が来ます。主は、私たちを黙って見つめておられ、私たちが成長して実を結び、天に上げられるのにふさわしくなるのを、じっと待っておられるのです。主のご目的は、エペソ書5章に書かれています。

エペソ
5:27 ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。

これは、主の持っておられる目的です。そして、黙示録の19章に、主の持っておられる目的――必ず達せられる目的――について、書いてあります。

黙示録
19:7 私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。

今日、私たちは、その次に書かれてあるからし種のたとえから、主の国について、もう少し考えてみたいと思います。

前回、学びました植物のたとえは、神の国が、その内面では、どのように、隠されているところで生長するかについて書かれており、今日、一緒に考えたいと思うことは、からし種のたとえが、神の国が外面的に、目に見える形でどのように生長するかについてです。

三つの点から、ちょっと考えてみたいと思います。第一番目、神の国とは、いったい何でしょうか。二番目、神の国は、現在、どのような現れを示しているのでしょうか。三番目、神の国は、将来、どのように実現するのかについてです。

第一の問いに対しては、有名なところですけど、マタイ伝6章の9節、10節に記されています。

マタイ
6:9 天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。
6:10 御国が来ますように。みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

「御国が来ますように」と、イエス様は祈られましたが、この御国こそ、もちろん、神の国に他なりません。神の国とは、主の御名が崇められ、主の御心が行われるところです。今日、すでに天において、そのことが実現しています。けれども、地上ではそうではありません。それゆえ、イエス様は、次のように言われました。

ヨハネ
18:36 イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」

神の国は、この世とは、全く相容れないものです。

今日の国は、ある政治形態を持っており、支配者を持っています。けれども、神の国の支配者は、いったい誰でしょうか。もちろん、言うまでもなく、我々の主イエス様です。イエス様の支配されているところ――そこが、神の国です。人がイエス様を自分自身の主として受け入れ、イエス様の御心に従うなら、その人は、神の国の国民となります。

神の国の国民の特長は、常に、主の御心を、尋ね求めること、また、その御心に沿って歩むことを願い、また、実際に御心を歩むことです。彼らの唯一の願いは、イエス様の御名が崇められることです。また、彼らの心から、イエス様に対する愛に満たされており、常に、主の必要に自分自身を備えています。このような人たちは、今日、すでに――少しだけですけれども――天国のすばらしさを味わい知っている者です。

第二番目の質問は、今日、神の国はどのような形で現れているでしょうか。神の国の現れは、今の世では、氷山の一角のように、ほんのわずかしか、私たちの目に触れる形では現れていません。

神の国は、イエス様のご栄光を大切にする人々を通してのみ、現されます。今日の私たちの目を奪うものは、大部分が悪魔の業です。この世の支配者は、イエス様によると、悪魔です。また、人々は、人間が成し遂げた事柄を、驚嘆の目をもって見つめています。

その人間の業の一つは、いわゆる宗教です。キリスト教も、また、その意味では、宗教の一つに成り下がってしまったと言わざるを得ないのではないでしょうか。けれども、イエス様は、このようないわゆるキリスト教の将来をも、完全に見通しておりました。それゆえ、今日考える、からし種のたとえを語られたのです。

イエス様は、宗教としてのキリスト教は、からしの木のように、めきめきと生長して、大きくなると言われました。今日の宗教としてのキリスト教は、経済的にも、社会的にも、政治的にも、大きな権力を持っている世界宗教のひとつである。それは、人々の目を驚嘆させるに充分なほどの巨大なものに生長しましたけれども、それは、うどの大木のように、その中には、力も強さもありません。

からしの木は、それほど大きな植物ではありません。ところが、ここに書かれているからしの木は、非常に大きく生長してゆくと書かれています。その姿は、キリスト教が宗教に堕落し、その精神を失って、異常な発展を遂げる有様を示しています。

カタコンベに集っていた初代教会は、霊的に堕落することによって、この世と妥協した結果、世的な権力を持つようになりました。その結果は、ヨーロッパにおける大寺院という形で現れています。その堕落したことは、木の様子によって、また、鳥によって、現れています。

木とは、聖書においては、常に人間の成した大きな業を象徴的に表わしています。これは、神の意志とは相容れないものです。本来、小さな植物が、単に身丈だけ大きな宗教としてのキリスト教になりました。このキリスト教は、黙示録17章、18章に書かれてありますように、世的な権力として、大バビロンと呼ばれるようになります。

鳥とは、聖書は、常に悪魔、サタンの業を示しています。マルコ伝4章4節によると、鳥はまかれた種、すなわち、みことばを取り去るものとして語られています。

マルコ
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。

4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。

内容的に非常に似ている箇所が、旧約聖書に書かれています。

エレミヤ
5:26 それは、わたしの民のうちに、悪者たちがいるからだ。彼らは、待ち伏せして鳥を取る者のように、わなをしかけて人々を捕える。
5:27 鳥でいっぱいの鳥かごのように、彼らの家は欺きでいっぱいだ。だから、彼らは偉い者となって富む。
5:28 彼らは、肥えて、つややかになり、悪事に進み、さばきについては、みなしごのためにさばいて幸いを見させず、貧しい者たちの権利を弁護しない。
5:29 これらに対して、わたしが罰しないだろうか。――主の御告げ。――このような国に、わたしが復讐しないだろうか。
5:30 恐怖と、戦慄が、この国のうちにある。
5:31 預言者は偽りの預言をし、祭司は自分かってに治め、わたしの民はそれを愛している。その末には、あなたがたは、どうするつもりだ。

ここでは、鳥とは、悪魔が与える欺きの象徴として書かれています。また、ここでは、偽りの預言をする預言者と、自分勝手に治める祭司とがおり、人々も、それに対して、抵抗しないで、かえって、その悪を愛していると書かれています。

鳥は、生長したからしの木の枝に巣を作ると書いてあります。つまり、彼らは、木であるキリスト教に住まいを持つのです。悪魔は、宗教としてのキリスト教を、別に嫌いではありません。今日のドイツの神学校の教授たちの大部分は、無神論者です。彼らの役目は、学生の心から、みことばの種を取り去ってしまうことです。

このたとえ話によって、イエス様は、この地上にいらっしゃらないあいだ、キリスト教がどのような姿になるかということを語られました。けれども、イエス様がこの地上に来られることによって、神の国の種がまかれました。主イエス様が昇天された有様を見た者は、十一人の弟子たちだけでした。これは、人間的に見れば、わずかな成果しか、おさめなかったと言わざるを得ないけれども、イエス様の死と復活によって、まかれた種は、必ず、時至れば、実を結びます。

この世という畑にまかれたのは、ただ一粒の種でした。十一人の弟子たちは、全世界に出ていって、福音を宣べ伝えるという使命を与えられました。イエス様は、神の国の有様を、このたとえによって語られ、それは、始めは、あるかなきかのようであるにもかかわらず、終わりの時には、すばらしい結実をもたらすというふうに言われました。イエス様がまかれた種は、小さくはありましたけど、混じりけのない種でした。今日、人々が、キリスト教であると思いこんだものは、人間の目には、偉大なものに見えるかもしれない。けれども、純粋ではありません。

ここで、私たちは、初代教会において、人々が、どのように集会に導かれたかということを、今日、人々がどのようにして、キリスト教に入り、いわゆる会員になって、制度としてのキリスト教の一翼を担うようになるか、比較して、考えたいと思います。前者において、信者となった者は、必ずまず、悔い改め、二番目、信仰、三番目、従順を信者になった証しとして持っていました。これら、三つの事柄が意味するものは何だったでしょう。

悔い改めは、三つの内容を持っています。一番目、自分自身を主の光に照らして見ること。二番目、自分自身の罪を認めること。また、三番目、その罪を告白することです。

自分自身を主の光に照らして見るということは、みことばは光であるという確信を持つことです。聖書は、人間には何ひとつ良いところがないと語っています。この事柄に対して、私たちは心から同感しなければなりません。

ダビデは、自分自身が罪人であるということを、はっきりと認めたのです。

第二サムエル
12:13 ダビデはナタンに言った。「私は主に対して罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「主もまた、あなたの罪を見過ごしてくださった。あなたは死なない。」

24:10 ダビデは、民を数えて後、良心のとがめを感じた。そこで、ダビデは主に言った。「私は、このようなことをして、大きな罪を犯しました。主よ。今、あなたのしもべの咎を見のがしてください。私はほんとうに愚かなことをしました。」

悔い改めとは、自分自身が罪人であるということを認めることです。

ヨブ
42:5 私はあなたのうわさを耳で聞いていました。しかし、今、この目であなたを見ました。
42:6 それで私は自分をさげすみ、ちりと灰の中で悔い改めます。

まことの悔い改めは、罪の告白に導きます。ダビデの告白を見ると、書かれています。

詩篇
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

救いに至る信仰とは、いったい何でしょうか。まことの信仰もまた、三つの内容を持っています。第一番目、主に目を上げることです。二番目、主を受け入れることです。三番目、主を信頼することです。

まず、イエス様に目を上げることですね。

ヨハネ
1:29 その翌日、ヨハネは自分のほうにイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊。」

十字架につけられた、身代わりの小羊であるイエス様を、自分自身の死、また、罪を取り除いてくださった救い主として見上げ、また、その御業に感謝を捧げる者は、救いに至る信仰を持っている者です。信仰とは、イエス様を意識的に受け入れることです。

ヨハネ
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。

信仰とは、事柄を教理として信じるのではなく、イエス様ご自身を受け入れることです。

もうひとつ、信仰とは何でしょうか?三番目、信仰とは、イエス様を無条件に信頼することです。イエス様は、ご自分では何ひとつすることはできない、父なる神の御心を行うだけであると告白しました。まことの信頼とは、自分の思いに歩むのではなく、主の御心を求めて、主の御心だけを行うことを切に望み、主の御手に委ねて歩むことです。

信者となった者は、必ず、前に言いましたように、まず悔い改め、二番目、信仰と、三番目、従順を、信者になった証しとして持っています。従順もまた、三つの内容を持っています。第一番目、イエス様の歩まれたように歩むことであり、二番目、自分自身を無にすることであり、三番目、イエス様の来たる時を待ち望む、そのための備えをすることです。

このまことの悔い改め、混じりけのない信仰、また、幼子のような従順は、初代教会の信者たちの特長でした。当時の人々は、このような悔い改めと信仰と従順によって、集会、すなわち、信者の群れに加えられました。それゆえ、彼らは、よろこびがあり、確信があり、主のために苦難を忍ぶ用意がありました。後になって、キリスト教がローマ帝国の国教に定められるようになると、人々は、強制的に剣で脅されながら、バプテスマを受けさせられ、こうして宗教としてのキリスト教に、信者として加えられたのです。

今日もまた、多くの人が洗礼を受け、また、自分はクリスチャンであると思い込んでいます。洗礼を受けた者は、救われた者であると、多くの教会は語っています。聖書の語る洗礼とは、まず、信仰があり、それに罪の赦しの確信が続き、その結果として、人々への信仰の証しとして、洗礼があると語っています。

この順序を正しくわきまえないために、多くの教会では、信者と未信者の区別がつかなくなっている。こうすれば、信者は無制限に増加するでしょうが、霊的には、全く堕落してしまうのです。

今日の教会を特徴づけるものは、偉大なる権力と富でしょう。そこには、初代教会の慎みや貧しさの小さい群れの面影はありません。その偉大な富と権力に、人々は目を奪われ、心を動かされますが、そのことによって、主を知るようになることはありません。みことばこそ、唯一の確信の土台であり、信者を導くものであるという確信を、初代教会の信者たちは持っていました。けれども、今日のいわゆるキリスト教会は、みことばを、人々の心から、鳥が種を奪い去るように取り去ってしまう働きをしています。今や、教会は、悪魔に奉仕しているということができます。

人間の働きや、能力が重要にされれば、その教会はからしの木のように、異常な生長をもたらします。自分自身がある役割を演じたいと思う気持ちや、人々に認められたいという気持ち、また、偉くなりたいという気持ちは、主の御心をそっちのけにしてしまう。もはや、聖霊が働くことができません。ラオデキヤの教会は、この典型的な例でしょう。

黙示録
3:17 あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。

今日のキリスト教も、また、同じようなことをつぶやいているのではないでしょうか。つまり、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もない、大きなからしの木のようになったと、心の中で思っていないでしょうか。

今日のキリスト教と言われているものは、聖書の語っている神の国ではありません。神の国は、人の力で作られるものではなく、神の国とは、実際には、イエス様を心から愛し、仕え、また、神の国とその義を第一にする人々の中で実現されています。それゆえ、私たちは、自分自身の心に質問してみる必要があります。私たちの心の王座を占めているものは、いったい何でしょうか。私たちは、本当に、イエス様を愛しているのでしょうか。私たちの成すべきことは、すべてイエス様に対する奉仕の気持ちから行っているのでしょうか。または、自分自身の思いでがんばっているのでしょうか。

私たちは、本当に神の国を求めているのでしょうか。つまり、イエス様の御心がこの地上で成されることを、第一のよろこびとし、イエス様の御名が崇められ、イエス様だけに栄光を帰されることを望んでいるのでしょうか。

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