2016年5月3日火曜日

四種類の聞き方

四種類の聞き方
2016年5月3日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック

マルコ
4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」

今まで、私たちは、三つの点について考えてまいりました。このマルコ伝四章の中で、第一番目は、その種まきのたとえについてです。そして、二番目、たとえの奥義について。そして、三番目、たとえの意味について考えてまいりました。今朝は、四種類の聞き手、また、四種類の土地について、一緒に考えてみたいと思います。

第一番目の人々は、道ばたにたとえられている人々です。彼らは、頑固でかたくなな人々です。聞いても理解することができない人々です。

マルコ
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。

主のみことばは、ちょうど道ばたのように、固く、かたくなな心には、入り込むことができません。彼らは、イエス様の招きに対して、いつでも、頑固で拒み続けるのです。彼らは、光の中に出て悔い改めたいという気持ちがありません。悔い改めを望まない人は、その罰として、主のみことばを理解する力が奪われます。このような人々は、心の奥底から理解したいという気持ちを持ちませんから、理解することができないのは、当然です。

ですから、このような人々を、悪魔は、種を奪う鳥のように、狙って働きます。これは、具体的には、主のみことばを批判し、疑い、さらに、偏見を持つことによって、みことばを退けてしまうことです。このような人々の特長は、みことばに対する無関心であり、みことばについて深く考えることもなく、聞いたみことばをすぐに忘れてしまいます。ルカ伝の中で同じ表現が出てきます。

ルカ
8:12 道ばたに落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞いたが、あとから悪魔が来て、彼らが信じて救われることのないように、その人たちの心から、みことばを持ち去ってしまうのです。

これらの人々は、救いの福音を聞いても、悔い改めて主の恵みに与かることを望みません。これこそ、悲劇的なことなのではないでしょうか。

第二の人々は、前に読んでもらいましたマルコ伝、4章16節、17節に書いてありますように、みことばを聞いて受け入れる――しかし、実行しない人々です。彼らは、みことばをよろこんで受け入れますが、そのみことばはその人の生活や意思にまで、根を下ろすことができません。

ルカ
8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

イエス様の時代のいわゆる聖書学者たちとは、だいたい、そういう者たちだったのではないか。

マタイ
8:19 そこに、ひとりの律法学者が来てこう言った。「先生。私はあなたのおいでになる所なら、どこにでもついてまいります。」

この聖書学者は、感激のあまり、このように言ったのですが、実際には従いませんでした。しばしば、初めのうちは、非常に模範的な出発をする人々がおりますけど、迫害や困難に出会うとき、すぐ崩れてしまう人のことです。実例が聖書には、たくさん出てきます。

エゼキエル
33:31 彼らは群れをなしてあなたのもとに来、わたしの民はあなたの前にすわり、あなたのことばを聞く。しかし、それを実行しようとはしない。

ルカ伝六章を見ると、結局、同じことが書いてあります。

ルカ
6:49 聞いても実行しない人は、土台なしで地面に家を建てた人に似ています。川の水が押し寄せると、家は一ぺんに倒れてしまい、そのこわれ方はひどいものとなりました。

ヨハネ
6:66 こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。

偽物だったから――本物は離れられない。これらのみことばを、よろこんで受け入れはしなかったのです。みことばをよろこんで受け入れ、そのみことばは、彼らの心の中で芽を出しますけれども、それを見て種をまく人は、大いによろこぶ。けど、しばらくするとそのよろこびは、失望に変わります。みことばの根は、土が浅いがために、深く根を下ろすことができませんでした。それゆえ、困難や迫害に耐えることができません。

ルカ
8:13 岩の上に落ちるとは、こういう人たちのことです。聞いたときには喜んでみことばを受け入れるが、根がないので、しばらくは信じていても、試練のときになると、身を引いてしまうのです。

みことばを受け入れ、心に受け入れることは、信仰生活の第一歩にすぎません。根がないために、それは、長くもたず、遅かれ早かれ、枯れてしまうのです。また、これらの人々は、はっきりとイエス様の側に立って、証し人としての態度を取らない人々です。主のみことばは、ただ単に、受け入れるだけではなく、忍耐をもって、守らなければならないものです。誰でもが、問題を抱えていたり、困難に突き当たったりするのですが、そのことによって、実は、我々の信仰が試されているのです。

私は経験したことがあります。すなわち、熱心に求めて、よろこんでみことばを受け入れ、イエス様に従って行こうと決心した方々が、突然、私たちのよろこびにもかかわらず、集会に出席しなくなり、さらには、イエス様から全く離れてしまうという人々がいます。

ルカ伝8章13節によれば、彼らは、しばらくは信じていたと書いてありますが、このような人々も同様に、芽を出しても、途中で、その信仰生活が挫折してしまう人々です。いろいろな試練が与えられる時、試みに屈して信仰を失うならば、その人たちにとって、主のみことばは、力を現すことができません。ペテロは、当時の信じる者に次のように書いたのです。

第二ペテロ
2:21 義の道を知っていながら、自分に伝えられたその聖なる命令にそむくよりは、それを知らなかったほうが、彼らにとってよかったのです。

実際このような方々は、みことばを聞いて救われる人々ではなくて、裁かれる人です。

第三の人々について、マルコ伝4章の18節を見ると、次のように書かれています。第三の人々についてですね。

マルコ
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。

ルカ伝の8章14節に、同じ内容のことが書かれています。

ルカ
8:14 いばらの中に落ちるとは、こういう人たちのことです。みことばを聞きはしたが、とかくしているうちに、この世の心づかいや、富や、快楽によってふさがれて、実が熟するまでにならないのです。

第三の人々は、第二の人々よりも信仰が前進しますが、最終的には御霊の実を結ぶことができない人々です。彼らにとって、この世の事柄がたいへん、大きな部分を占めているのです。彼らは、仕事の鬼であり、この世の事柄に支配されているのです。

三つの事柄が、彼らが実を結ぶことを妨げているようですね。第一番目、世の心使いであり、二番目、富であり、三番目、欲望です。彼らは、みことばを受け入れるにもかかわらず、彼らの心の中にあるこの世の思いを捨て去ることをしません。主のみことばは、この世の思いの中では、成長することができません。これらの人々の特長は、この世と妥協することであり、自分自身の思い煩いに満たされており、金を儲けることや、欲望を満足させることに懸命になっている人々です。

ここで、今まで考えたことを簡単にふりかえってみましょう。みことばに敵対するものには、三つありますね。それらは、鳥であり、太陽の熱であり、いばらです。鳥とは、悪魔を指しており、悪魔は理解力を曇らせている人々から、みことばを持ち去ってしまう。太陽の熱とは、人々の敵意です。そして、人を恐れるということは信仰の成長にとって、必ずマイナスになります。いばらとは、この世の富のことであり、それらも、我々の心を誘います。つまり、私たちの心に誘惑を与える者は、悪魔であり、他の人々であり、また、我々自身の心の中にあるものです。

第四の人々とは、どういう人々でしょうか。20節に書いてありますように、みことばを受け入れ、実を結ぶ人々です。良き地とは、種がまかれるために準備が整えられており、よく耕されてある土地のことです。このような心に、みことばがまかれるならば、その人の心は、主に対して開いて、主のみを求める気持ちに満たされるようになります。

ルカ
8:15 しかし、良い地に落ちるとは、こういう人たちのことです。正しい、良い心でみことばを聞くと、それをしっかりと守り、よく耐えて、実を結ばせるのです。

忍耐を持ってみことばに留まり、みことばによって、この世の事柄と戦いをする人たちでなければ、みことばによる実を結ぶことができません。

私たちは、四種類の土地について考えてまいりましたが、我々自身の心は、この地の中で、いったいどの土地であるのか、考えてみなければなりません。私たちは、結局、真剣に自分自身の心の状態を顧みてみるならば、私たちは、みことばを聞いて受け入れない時もあり、受け入れてもつまづくこともあり、また、みことばを聞いて受け入れても、実を結ぶことがないことが、往々にしてあることに気づかされるのです。つまり、私たちの心の中には、これらの土地が少しづつ入っていることを認めざるを得ない。けれども、その中で、いちばん大きな部分を占めている土地は、何であるかということが大切です。

それは、良い土地でしょうか。私たちは、主のために仕えようとする心の用意ができており、主のみを大切にしようとする気持ちに満たされているのでしょうか。みことばを聞いて受け入れることは、初めにすぎません。それは、芽を出し、根を下ろし、実を結ぶに至らなければなりません。この実というのは、すなわち、聖書の語っている救いのことです。

第一ペテロ
1:9 これは、信仰の結果である、たましいの救いを得ているからです。

信仰の結果とは、すなわち、たましいの救いのことです。救いに至る信仰とは、みことばである種が十分に成長して、実を結ぶに至る信仰のことです。けれども、種が成長するためには、まず死ななければならない。有名な箇所です。

ヨハネ
12:24 一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

人が、新しく生まれるために必要な力を与えるものは、主のみことばです。けれども、よろこんでみことばを受け入れても、回心にまで至らないこともあり得ることです。母の胎に宿った幼い命は、必ずしも、成長して出産にまで至るとは限りません。それは、途中で、流産する可能性もありますし、死産に終わることもあります。それゆえ、主を求めておられる方々が、単に人間的な決断をするのではなく、本当に新しく生まれるということを体験しなければなりません。

このマルコ伝4章に戻りまして、21節から25節まで、みことばの働きについて書かれています。結局、聞く耳を持つことこそが、いちばん大切です。なぜならば、みことばの間違った聞き方もあり、それから、みことばの正しい聞き方もあるからです。たとえの働き、すなわち、主のみことばの働きについて考えたいと思います。これまで私たちは、みことばを正しく聞くことが、いかに大切なものであるか、一緒に考えてみたいまいりました。種とは、もちろん、主のみことばです。

マルコ
4:23 聞く耳のある者は聞きなさい。

みことばを正しく聞くことも、また、間違って聞くこともあります。それゆえ、聖書から、みことばを正しく聞いた例と、間違って聞いた例を見てみたいと思います。まず、間違った聞き方の例を見てみましょうか。すなわち、当時のアグリッパ王という男とは、そういう者でした。

使徒行伝
26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。

パウロは、アグリッパ王に対して、「あなたは、預言者を信じている」と語ったのです。

【参考】使徒行伝
26:27 アグリッパ王。あなたは預言者を信じておられますか。もちろん信じておられると思います。」

アグリッパ王は、福音を聞きましたけれども、信仰に至る決断をすることができなかった。結局、王の聞いた言葉は無駄であったのです。

二番目、使徒行伝24章の25節、当時のペリクスですね。

使徒行伝
24:25 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。

彼もまた、福音を聞きましたが、恐れを感じて、決断を下すことを将来に伸ばしたのです。けれども、それは、口実にすぎない。彼は、それ以来、福音を受け入れるチャンスを失ったことであろうと思われます。主なる神は、みことばに対して即座に決断することを、常に求めておられます。

三番目、ルカ伝の18章に出てくる青年、いわゆる金持ちの青年であります。

ルカ
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。

この金持ちの青年は、この時、決断することを望んでいましたけど、その決断によって、自分から失われるものを惜しんだのです。彼の場合にも、福音を聞くことは徒労に終わってしまうのです。

四番目、当時のピラトであります。

マタイ
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」

このピラトは、イエス様と出会いました。個人的に、主のみことばを聞き、結局、福音に接しましたけど、イエス様の側に立つことを望まなかったのです。彼の聞き方も結局、無駄だったのです。

五番目、ガリラヤのユダヤ人たちについて、次のように書かれています。

ヨハネ
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。

ガリラヤのユダヤ人たちは、福音を聞きましたけど、それにつまづいてしまったのです。

六番目、うわべだけの弟子たちについて、聖書は言っています。

ヨハネ
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」

彼らは、福音を、正直な心で聞こうとはしなかったのです。また、イエス様が弟子たちに対して、求めておられる厳しさを受け入れることをしなかったのです。

七番目、アテネの人々について書かれています。

使徒行伝
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑(った。)

アテネの人々は、新しい物づくりで、いつでも何か目新しいことを求めていましたが、福音について聞いた時、彼らは、それをあざ笑ったとありますね。結局、彼らが聞いても無駄でした。

八番目、魔術師エルマという男です。

使徒行伝
13:8 ところが、魔術師エルマ・・・・は、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。

このエルマは、聞いた福音に対して、意識して反対したのです。

九番目、アンテオケの信者たちでした。

使徒行伝
13:46 神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。

アンテオケという町にいたこれらのユダヤ人たちは、福音を拒みました。だから、彼らは、永遠のいのちに与かることができなかったのです。

十番目、ナザレの人々です。

ルカ
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り
4:29 ・・・・イエスを町の外に追い出し、・・・・投げ落とそうとした。

イエス様の故郷であるナザレの人々は、福音に対して、受け入れる心を持たなかっただけではなく、イエス様を追い出して、イエス様を殺そうとするほど、激しい怒りに満たされていた人々でした。

それから、十一番目ですけど、エペソという町に住んでいるユダヤ人たちです。

使徒行伝
19:9 しかし、ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしった。

エペソのユダヤ人たちは、主なる神の国について聞きましたけれども、彼らは意識して、心をかたくなにしてしまったのです。

そして、十二番目の実例は、当時の宗教家――旧約聖書を徹底的に勉強した、いわゆるパリサイ人でした。

マタイ
12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」

当時の聖書学者たちの多くは、イエス様が神の御子であるということを知っていたにもかかわらず、彼は悪魔と共に働いているのだと、主張したのであります。

主のみことばとは、いつも、内容のない空疎なみことばではありません。いつも、主なる神の啓示そのものです。私たちが主のみことばに対して、どのような態度を取るかは、私たちがイエス様ご自身に対して、どのような態度を取るかということなのではないでしょうか。

今、話したこれらの十二の例に出てくる人々は、みな福音を聞きました。けれども、その聞いたことは、無駄に終わってしまったのです。主のみことばは、聞く者に、三つのことを薦めます。それは、第一番目、悔い改め、二番目、信仰、それから、三番目、従順です。主のみことばを聞いても、悔い改めようとしない人、信じようとしない人、従順に従おうとしない人は、みことばを正しい態度で聞いている人であると言えません。聞く耳を持つことこそが、考えられないほど大切です。なぜならば、みことばの間違った聞き方もあり、それから、みことばの正しい聞き方もあるからです。

旧約聖書のもっとも大切な人物の一人は、間違いなくサムエルという男だったでしょう。彼を通して、民全体が祝福されました。どうしてでしょうか。十五、六歳の青年であったか、十二、三歳の子供であったかは解らない。けども、彼は言ったのです。「主よ、語ってください。僕(しもべ)は聞いております。」私たちも、このような心構えを持つと、間違いなく、主が働くことができ、ご栄光を現すことができます。

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