2016年5月10日、吉祥寺学び会
ゴットホルド・ベック
マルコ
4:1 イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこう言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです――みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。――みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
あらゆる人間は、耳を持っている。けれども、二種類の人間がいる。一種類は、耳があるけど、聞く耳がない。そうすれば、大変です。「主よ、語ってください。しもべは聞いております。」この態度を絶えず、取り続けることこそがもっとも大切なのではないでしょうか。「聞く耳のある者は、聞きなさい」と、マルコ伝4章23節に書いてありますね。みことばを正しく聞くことも、また、間違って聞くこともあります。だから、聖書から、みことばを正しく聞いた例と、間違って聞いた例を、簡単ですけど、十人ずつ見てみたいと思います。
まず、間違った聞き方をした例を見てみましょう。第一番目は、アグリッパ王という王様なのです。
使徒行伝
26:28 するとアグリッパはパウロに、「あなたは、わずかなことばで、私をキリスト者にしようとしている。」と言った。
パウロは、アグリッパ王に対して、「あなたは、預言者を信じている」と語ったのです。アグリッパは、福音を聞きました。けれども、信仰に至る決断をすることができませんでした。結局、王の聞いた言葉は役に立たなかった。無駄でした。
二番目、今度はペリクスという男についてであります。
使徒行伝
24:25 しかし、パウロが正義と節制とやがて来る審判とを論じたので、ペリクスは恐れを感じ、「今は帰ってよい。おりを見て、また呼び出そう。」と言った。
ペリクスもまた、福音を聞きましたけど、恐れを感じて、決断を下すことを将来に伸ばしました。けどもこれは、口実に過ぎず、彼は、それ以来、福音を受け入れるチャンスを失ったことであろうと思われます。主なる神は、みことばに対して、即座に決断することを常に求めておられます。
三番目、ルカ伝の18章に出てくるいわゆる金持ちの青年です。
ルカ
18:23 すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。たいへんな金持ちだったからである。
この金持ちの青年は、この時、決断することを望んでいましたけれども、その決断によって自分から失われるものを惜しんだのです。彼の場合にも、福音を聞くことは、徒労に終わってしまったのです。悲劇的、そのものです。
四番目、ピラトという男です。
マタイ
27:24 そこでピラトは、自分では手の下しようがなく、かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。「この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。」
ピラトは、イエス様と出会い、個人的にみことばを聞き、結局、福音に接しましたけれども、イエス様の側に立つことを望まなかったのです。彼の聞き方も、無駄であったと言えます。
五番目、ガリラヤ地方のユダヤ人たちについての箇所です。
ヨハネ
6:41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から下って来たパンである。」と言われたので、イエスについてつぶやいた。
このガリラヤのユダヤ人たちは、福音を聞きました。けれども、それに、つまづいてしまいました。
六番目、うわべだけのいわゆる弟子たちではないかな?
ヨハネ
6:60 そこで、弟子たちのうちの多くの者が、これを聞いて言った。「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」
彼らは、福音を正直な心で聞こうとはしなかったのです。また、イエス様が弟子たちに対して求めておられる厳しさを、受け入れることができませんでした。
七番目、アテネの町に住んでいる人たちなんです。
使徒行伝
17:32 死者の復活のことを聞くと、ある者たちはあざ笑(った。)
アテネの人たちは、新しい物好きで、いつでも何か目新しいことを求めていましたが、福音について聞いた時、彼らは、それをあざ笑ったのです。彼らが聞いたことも無駄でした。
八番目、魔術師エルマについて書いてあります。
使徒行伝
13:8 ところが、魔術師エルマは、ふたりに反対して、総督を信仰の道から遠ざけようとした。
エルマは、聞いた福音に対して、意識して反対しました。
九番目、アンテオケのユダヤ人たちについて書いてあります。
使徒行伝
13:46 神のことばは、まずあなたがたに語られなければならなかったのです。しかし、あなたがたはそれを拒んで、自分自身を永遠のいのちにふさわしくない者と決めたのです。
アンテオケにいたこれらのユダヤ人たちは、福音を拒みました。それゆえ彼らは、永遠のいのちに与かることができなかったのです。
十番目の例は、ナザレの人々です。
ルカ
4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、
4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、・・・・投げ落とそうとした。
イエス様の故郷であるナザレの人々は、福音に対して、受け入れる心を持っていなかったのです。イエス様を追い出して殺そうとするほど、荒々しい怒りに満たされたとあります。
十一番目、エペソにいるユダヤ人たちも、結局、同じ態度を取りました。
使徒行伝
19:9 ある者たちが心をかたくなにして聞き入れず、会衆の前で、この道をののしった。
エペソのユダヤ人たちは、主なる神の国について聞きましたけど、しかし、彼らは、意識して心をかたくなにしてしまったのです。
そして、十二番目の例は、イエス様の時代の当時の聖書学者、パリサイ人たちでした。
マタイ
12:24 これを聞いたパリサイ人は言った。「この人は、ただ悪霊どものかしらベルゼブルの力で、悪霊どもを追い出しているだけだ。」
当時の聖書学者たちの多くは、イエス様が神の御子であるということを、認めざるを得なかった。それにもかかわらず、「彼は悪魔と共に働いている」と言うようになりました。悲劇的、そのものではないでしょうか。
主のみことばとは、いつも、内容のない空疎な言葉ではない。いつも、主なる神の啓示、そのものです。私たちが、主のみことばに対して、どのような態度を取るかは、私たちが主ご自身に対して、どのような態度を取るかということです。今、話した十二の例に出てくる人々は、皆、福音を聞きました。しかし、その聞いたことは、無駄に終わってしまったのです。
主のみことばは、聞く者に三つのことを薦めます。それは、第一番目、悔い改め、第二番目、信仰、それから、第三番目、従順です。主のことばを聞いても、悔い改めようとしない人、信じようとしない人、従順に従おうとしない人は、みことばを正しい態度で聞いている人であると、決して、言えません。聞く耳を持つことこそが、いちばん大切です。なぜならば、今、話したように、みことばの間違った聞き方もあり、それから、みことばの正しい聞き方もあるからです。
正しくみことばを聞いた十人の例を、簡単に見てみましょうか。
第一番目、べレヤに住んでいる人々です。
使徒行伝
17:11 ここのユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。
このベレヤにいるユダヤ人たちは、ただ単に、みことばを聞いただけではなく、そのことを、自分で聖書から確かめようとしました。彼らは、そのために時間を費やし、苦労をいといませんでした。私たちは、日常生活でよく、良い人だと表現するかもしれない。けれども、良い人とは、ベレヤのユダヤ人のように、毎日、熱心にみことばを調べるような人々のことを、本当は言うのです。
二番目、ルデヤという女性です。
使徒行伝
16:14 テアテラ市の紫布の商人で、神を敬う、ルデヤという女が聞いていたが、主は彼女の心を開いて、パウロの語る事に心を留めるようにされた。
このルデヤという女性は、みことばを聞くだけではなく、心を開いて、それを受け入れたのです。これも正しい聞き方です。
三番目、マリヤであります。イエス様を産んだマリヤであります。
ルカ
2:19 しかしマリヤは、これらのことをすべて心に納めて、思いを巡らしていた。
このイエス様のお母さんであるマリヤは、みことばを心に受け入れただけではなく、そのみことばについて、いろいろと考え、主を賛美したとあります。
四番目、テサロニケという町にいるユダヤ人たちです。
使徒行伝
17:4 彼らのうちの幾人かはよくわかって、パウロとシラスに従った。
テサロニケのユダヤ人たちは、みことばをただ聞くだけではなく、みことばに従順に従いました。従順のない信仰は、本当の信仰であると言えません。
五番目、ある異邦人の女たちです。
マタイ
15:27 しかし、女は言った。「主よ。そのとおりです。ただ、小犬でも主人の食卓から落ちるパンくずはいただきます。」
イエス様はこの女に向かって、あからさまに、あなたは異邦人であり、汚れた者であると仰いました。けれども、この女は、みことばを聞いて、腹を立てずに、かえって謙遜になったとあります。みことばを正しく聞く者は、へりくだります。
六番目、いわゆるサマリヤの女です。
ヨハネ
4:17 女は答えて言った。「私には夫はありません。」イエスは言われた。「私には夫がないというのは、もっともです。
4:18 あなたには夫が五人あったが、今あなたといっしょにいるのは、あなたの夫ではないからです。あなたが言ったことはほんとうです。」
4:19 女は言った。「先生。あなたは預言者だと思います。」
この女は、イエス様のみことばによって裁かれることに甘んじたのです。今日の人々は、みことばを、上から見下ろして、みことばを自分の考えで裁こうとします。けれども、このことによって得るものは何一つありません。損をするばかりです。みことばに対して、正しい聞き方をすることは、自分をみことばの下に立って、みことばが自分自身に対して何と語っているかを聞き分けて、それを受け入れることです。
七番目、生まれつきの盲人について、書かれていますね。
ヨハネ
9:35 イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」
9:36 その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」
9:37 イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」
9:38 彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。
心からみことばを聞く者は、その必然的な結果として、主を礼拝するようになります。聞いて礼拝せざるを得なくなることは、正しい聞き方の結果です。
八番目、コルネリオと全体の家族について、使徒行伝に戻りまして、次のように書いてあります。
使徒行伝
10:33 いま私たちは、主があなたにお命じになったすべてのことを伺おうとして、みな神の御前に出ております。
みことばを正しく聞くことは、コルネリオのように、喜んでそれを受け入れることです。
九番目、バプテスマのヨハネですね。
ヨハネ
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
ここで書かれているバプテスマのヨハネのように、みことばに耳を傾け、その聞いている事柄に対して、心から喜ぶ人は、正しい聞き方をしていると思います。しかし、正しく聞くということは、自分が衰え、イエス様が栄えるという願いを起こさせます。
十番目、パウロです。
使徒行伝
26:19 こういうわけで、アグリッパ王よ、私は、この天からの啓示にそむか(なかった。)
パウロはみことばを聞いて、彼の人生を、完全に方向転換しました。彼の望んでいた唯一の事柄は、イエス様に栄光を帰し、イエス様を喜ばせることでした。
十一番目、いわゆるベタニアのマリヤです。
ルカ
10:39 彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
時間を作って、このベタニヤのマリヤのように、主の足元に座ることは、みことばを聞く正しい態度です。多くの信者に欠けているのは、このような世の事柄から離れて、みことばに聞き入る態度なのではないでしょうか。私たちには、このようにイエス様のみことばを聞き、イエス様に語っていただきたいという切なる願いがあるのでしょうか。また、イエス様に対して、自分の願いを余すとことなく、お話したいという願いがあるのでしょうか。
十二番目、エマオに向かう弟子たちです。
ルカ
24:32 そこでふたりは話し合った。「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」
心が燃えるとは、そこに愛があるということの印です。正しく聞くこととは、ここで書かれているエマオの途上における弟子たちのように、主に対して、愛の心を燃やすことです。
みことばが、それを聞いた人々に、どのような働きを及ぼすかは、その人の心の状態が、結局、道ばたのようであるか、岩地のようであるか、いばらのようであるか、あるいは、良い地のようであるかによって、決まるのではないでしょうか。つまり、聞く者の態度によって、その人が救われるか、それとも滅びるかのどちらかです。
マルコ
4:23 「聞く耳のある者は聞きなさい。」
4:24 また彼らに言われた。「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます。
4:25 持っている人は、さらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられてしまいます。」
この節によれば、正しい態度でみことばを聞きたいと望んでいる者は、その態度を賜物として与えられることが解ります。真理を知ることは、恵みによります。けれども、それを望む者には、主はいつも、そのための力を与えられます。しかし、それを望まない者は、真理を知る力を与えられません。
マルコ
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。
彼らはどうして、悔い改めて、赦されることがないのでしょうか。主に対して、信仰の決断をした人が、実際に、信仰生活を歩み出すことがなければ、その人は、悔い改めることを望んでも、それができなくなります。悔い改めることを望まない者は、悔い改める力を主から与えられることがありません。
ここでは、どっちつかずの立場は許されません。主のみことばは、受け入れるか、拒むかのどちらかです。主のみことばを受け入れるとは、とりもなおさず、主イエス様を受け入れることです。そして、イエス様を受け入れるものは、もちろん、永遠のいのちを持っているのです。
マルコ
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。
4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。
この節には、実の結び方には、いろいろあることが書いてあります。三十倍、六十倍、百倍と書いてあります。良い地は、様々な実の結び方をします。実を結ぶことについて考えると、おそらく皆さん、ヨハネ伝15章を覚えるのではないですか?
ヨハネ
15:1 わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。
15:2 わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます。
15:3 あなたがたは、わたしがあなたがたに話したことばによって、もうきよいのです。
15:4 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。
15:5 わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。
ここで実を結ぶことについて、また、もっと多く実を結ぶことについて、さらに多くの実を結ぶことについて、書かれていますね。主は、私たちが多くの実を結ぶことを、もちろん、望んでおられます。
それでは、どのようにしたら多くの実を結ぶことができるでしょうか。それは、樹液が幹を通って、枝にまでよく行き渡ることができるならば、多くの実を結ぶことができます。御霊が我々を導き、満たし、支配することができるならば、私たちは多くの実を結ぶことができます。イエス様は、信者一人ひとりが誰であれ、多くの実を結ぶことができるためには、どんなことでもしてくださるお方です。
信じる者が、少ししか実を結ばない者であるか、あるいは、多くの実を結ぶ者であるかは、その人自身の選択にかかります。私たちの信仰生活は、さらに多くの実を結ぶ者となるために、主によって刈り込みをされなければならない。私たちが主によって、刈り込みをされる、つまり聖められるならば、私たちは多くの実を結ぶことができます。その時、実を結べば、それは、自分自身、自分の意思によってではなくて、主が我々のために備えてくださる御霊の実です。
ホセア
14:8 エフライムよ。もう、わたしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。
もし、イエス様が我々の内にあって、我々を支配することがおできになるならば、その必然的な結果として、私たちが実を結ぶことになります。信じる者は誰でも、多くの実を結ぶ者とならなければならない。そして、そのような信者は、世の光と呼ばれています。実を結ばない種は、隠れた光のようなものであり、何の役にも立たない。多くの実を結ぶ、良い地に蒔かれた種は、多くの人々の祝福をもたらすことができる、輝いた光のようなものとなります。それは、価値のある、役に立つものであり、これによって、人々を主イエス様の御許(みもと)に導くことができるのです。
最後に、ダビデの告白を読んで終わります。
詩篇
19:7 主のみおしえは完全で、たましいを生き返らせ、主のあかしは確かで、わきまえのない者を賢くする。
19:8 主の戒めは正しくて、人の心を喜ばせ、主の仰せはきよくて、人の目を明るくする。
19:9 主への恐れはきよく、とこしえまでも変わらない。主のさばきはまことであり、ことごとく正しい。
19:10 それらは、金よりも、多くの純金よりも好ましい。蜜よりも、蜜蜂の巣のしたたりよりも甘い。
19:11 また、それによって、あなたのしもべは戒めを受ける。それを守れば、報いは大きい。
同じく119篇、やはりダビデの告白のことばであります。
119:49 どうか、あなたのしもべへのみことばを思い出してください。あなたは私がそれを待ち望むようになさいました。
119:50 これこそ悩みのときの私の慰め。まことに、みことばは私を生かします。
119:76 どうか、あなたのしもべへのみことばのとおりに、あなたの恵みが私の慰めとなりますように。
119:77 私にあなたのあわれみを臨ませ、私を生かしてください。あなたのみおしえが私の喜びだからです。
ダビデは御心にかなう人だった。どうして?主を愛する者は、聞く耳を持っているからなのではないでしょうか。
0 件のコメント:
コメントを投稿