2026年5月31日日曜日

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い
2026年5月31日、吉祥寺福音集会
重田 定義兄

イザヤ
55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。――主の御告げ。――
55:9 天が地よりも高いように、わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。

おはようございます。また参りました。半年前には、これが最後だ、最後の機会だと思いましたけれども、主の御心は、私の思いとは全く違っていました。今、私は、先生に叱られた生徒のような気持ちでここにおります。イエス様に叱られた生徒のような気持ちです。今日は、そのような私の自戒の思いも含めまして、今、お読みいただいた、『わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い』というメッセージを、これからさせていただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

イエス様を信じる私たちは、日々の歩みの中で、しばしば、主の御心がわからない、いったい、主のお考えは何だろうと、思い悩んでしまうことがあるのではないでしょうか。しかし、それは、今、お読みした御言葉にあるように、主のお考えは、目先のことしか見えない、わからない、私たち人間の考えが及ばないほど高いものであり、人の頭ではとうてい、主の御計画、お考えを知ることなどできないからなのであります。

このことについては、聖書に数多くの例が、記されておりますけれども、今日は、その中から、三人の有名な人物の例を見てみたいと思います。

最初は、バプテスマのヨハネの例であります。イスラエルは、昔から繰り返し繰り返し、周囲の強国に侵略されるという苦難の歴史を味わってきました。これは、イスラエルの民が、神様に選ばれた神の民であるにもかかわらず、たびたび神様に背いて、偶像の神を拝するという罪を犯したために、神様から与えられた罰なのであります。

けれども、神様は、そのイスラエルの民をお見捨てにならないで、なおも愛してくださり、預言者の口を通して、イスラエルを救うメシアを起こし、恒久的な王国をこの地に建てるというお約束をなさったのであります。

バプテスマのヨハネの時代には、イスラエルはローマ帝国に支配され、圧政に苦しんでおりましたので、人々は、神様が約束されたメシアの現れを今か今かと、待ち望んでおりました。そのような時に、神様からメシアの道を整える使命を与えられたこのバプテスマのヨハネは、人々に、神様に背いた罪を悔い改めるように勧め、ヨルダン川のほとりで、悔い改めのための洗礼を授けておりました。『バプテスマのヨハネ』の名の由来はここにあります。

そこに、イエス様がおいでになったのであります。バプテスマのヨハネは、イエス様を見た途端に、御霊の啓示を受けて、この方こそ、自分たちが長いあいだ待ち望んだ救い主、メシアであると、人々に証言をいたしました。

その彼は捕らえられて、牢に入れられました。理由は、ユダヤの領主が、兄弟の妻を妻としているという不道徳を責めたからであります。彼はその後、首をはねられて死にましたけれども、獄中でも、イエス様の噂は彼の耳に入ってきました。しかし、その噂を聞いた彼の心には、疑惑の思いが湧き上がってきたのであります。それは、彼が期待していたような、メシアの業を、イエス様は一向に実行される気配がないからでありました。そこで彼は、自分の弟子たちに、次のような質問を託して、イエス様のもとに遣わしました。

マタイ
11:3 ・・・・「おいでになるはずの方は、あなたですか。それとも、私たちは別の方を待つべきでしょうか。」

こういう質問を、ヨハネが弟子たちに託したんですね。イエス様は、ヨハネの弟子たちに、次のようにお答えになりました。

マタイ
11:4 ・・・・「あなたがたは行って、自分たちの聞いたり見たりしていることをヨハネに報告しなさい。
11:5 盲人が見、足なえが歩き、らい病人がきよめられ、つんぼの人が聞こえ、死人が生き返り、貧しい者には福音が宣べ伝えられているのです。
11:6 だれでも、わたしにつまずかない者は幸いです。」

イエス様はヨハネに、あなたはイスラエルを救う強いメシアとしてのわたしを期待しているようだけれども、その思いは、わたしの思いとは違う。わたしは、あなたの弟子たちが見たり聞いたりしている通り、苦しみ、悲しみ、弱っている人、貧しい人を救うメシアとして、業(わざ)を行うために来た。誰でもわたしにつまずかないものは幸いだと、このようにおっしゃっているのであります。

そして、冒頭の神様の御言葉、『わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。わたしの口から出るわたしの言葉は、必ずわたしが望むことを成し遂げ、わたしが言い送ったことを成就させる』という神様のお約束通り、神の御子、イエス様は、神様の御言葉を成就なさるために、この世に人の姿を取って来てくださったのであります。

しかもそれは、イスラエルの民のみならず、全ての民の神様に対する背きの罪を、神の御子自らのいのちをもって贖うという考えられないような御業によって成就されたのであります。まさに、神様のお考えは、私たち人間の考えを遥かに超えた、高く深いものでありました。

イエス様のお答えを、バプテスマのヨハネがどう理解したか、聖書には書かれておりません。しかし、後にイエス様から、『女から生まれた者』、すなわち、全ての人間の中で、『バプテスマのヨハネよりも優れた人間は出ませんでした』と称賛されたほどのヨハネですから、彼がイエス様のお答えを聞いて、主のお考えは小さな自分の頭では、とうてい計り知ることができないほど、高く深いものであることを悟って、イエス様につまずいたことを悔い改め、イエス様は必ず、神様の御心を成し遂げてくださると確信し、よろこんで、自分のいのちを主にお委ねして、死んでいったのではないでしょうか。

次に、ペテロの例から見てみたいと思います。イエス様が、弟子たちを従えて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれた時のことでありました。イエス様は弟子たちに、人々はわたしを誰と言っているのかと、お尋ねになりました。彼らは口々に、バプテスマのヨハネだとか、預言者エリアやエレミア、あるいは、その他の預言者だとか言っていると答えました。

そこでイエス様は彼らに、『あなたがたはわたしを誰だと思っているのか』と質問されました。この問いにペテロは、あなたは生ける神の御子キリストですと答えました。それをお聞きになったイエス様は、『あなたは幸いです。このことをあなたに明らかに示したのは人間ではなく、天にいますわたしの父です』と、祝福されたのであります。

以上のことは、マタイの福音書の16章の13節から17節に、記されております。

続いてイエス様は、弟子たちに驚くべきことを告げられました。それは、ご自身は、これからエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、そして、三日目によみがえらなければならないということでありました。それを聞いた弟子たちが、どんなに驚いたことか、理解できます。その一人、ペテロが言ったことと、それに対するイエス様のお答えが、マタイの福音書の16章22節、23節にあります。

マタイ
16:22 するとペテロは、イエスを引き寄せて、いさめ始めた。「主よ。神の御恵みがありますように。そんなことが、あなたに起こるはずはありません。」
16:23 しかし、イエスは振り向いて、ペテロに言われた。「下がれ。サタン。あなたはわたしの邪魔をするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」

イエス様が、十字架にかけられることは、神様に対する背きの罪に汚れた人間を救う、神様のご計画が成就するためには、必要不可欠でありました。しかし、『あなたは、生ける神の御子、キリストです』と、証ししたペテロも、彼の頭では、人類を救う神様の大いなる御計画を計り知ることは、とうてい、できませんでした。

イエス様のおっしゃったことを、受け入れられなかったペテロの口から、思わず出た言葉が、『そんなことが、あなたに起こるはずありません』でした。ペテロは、自分は誰よりも、イエス様を思っている、愛していると自負していたようでありますけれども、その思いはまったく、人間的な思いだったのであります。

同時に、イエス様が殺されてから、自分たちは、どうなるだろうという、自分のことを心配する思いもあったことでありましょう。そして、あなたは、神のことを思わないで、人のことを思っているというペテロに対するイエス様の叱責は、また、ともすれば、イエス様を霊的にではなく、人間的に敬愛するという信仰、イエス様のお考えではなく、自分の考えを中心とするというような誤った信仰に陥りがちな私たち信者に対する、神様、主の戒めと受けとめることも必要でありましょう。

このことを通じて、私たち、信者は、いつもへり下って、主のお考えは、私たちの思いをはるかに超えた、高く深いものであることを深く覚えて、自分の思いではなくて、主の御心だけがなるように、常に祈ることが大切だと思います。

三番目に、今度は、パウロの例を見てみたいと、思います。熱心なユダヤ教徒で、また、高名な律法学者であったパウロは、イエス様を救い主として信じる人々を、律法を軽んじているとして迫害することに、熱心でありました。

しかし、キリスト教徒を、迫害するために、タマスコに向かう途上で、復活されたイエス様に、『なぜ、わたしを迫害するのか』というイエス様の声を聞いて、悔い改めました。一変して、彼は異邦人にイエス様を述べ伝える伝道者と変えられたのであります。

そのパウロは殉教の死を遂げるまで、都合三回、大きな伝道旅行をしておりますけれども、二回目の伝道旅行の時に、主は彼が行こうとしていた地方に行くことを、二度も止められたのであります。

使徒行伝
16:6 それから彼ら(・・・・彼らというのはパウロとシラスですが・・・・)は、アジヤでみことばを語ることを聖霊によって禁じられたので、フルギヤ・ガラテヤの地方を通った。
16:7 こうしてムシヤに面した所に来たとき、ビテニヤのほうに行こうとしたが、イエスの御霊がそれをお許しにならなかった。
16:8 それでムシヤを通って、トロアスに下った。

いろんな私たちに目新しいような地方のこと、街のことが出てきますけれども、彼らはまず現在、小アジアと呼ばれているトルコ地方に福音を述べ伝えようとしていました。ところが聖霊によって、それは止められたのであります。

そこで次に北の方、黒海の沿岸のビテニア地方に行こうとしましたけれども、またも、主の御霊がその計画を禁じられたのであります。主のために福音を述べ伝えにその地に行こうとしていた自分たちをなぜ、二度も主が止められるのか、その時には、彼には主の御心が全く理解できませんでした。

その夜、パウロは幻を見ました。その結果、彼はなぜ主が自分たちを止められたのか、主は自分たちをどこに遣わそうとされるお考えなのかを、確信することができたのであります。

使徒の働き
16:9 ある夜、パウロは幻を見た。ひとりのマケドニヤ人が彼の前に立って(・・・・このマケドニアというのは、ギリシャの北方の地方でありますが・・・・)、「マケドニヤに渡って来て、私たちを助けてください。」と懇願するのであった。
16:10 パウロがこの幻を見たとき、私たちはただちにマケドニヤに出かけることにした。神が私たちを招いて、彼らに福音を宣べさせるのだ、と確信したからである。

このようにあります。そして、この伝道旅行の結果、多くのギリシャ人たちが福音を受け入れて、マケドニア地方の都市のピリピやテサロニケに、聖書に知られた諸教会が建てられることになったのであります。

最初に申しましたように、私たち信者は、信仰の歩みの中で理解できないような出来事、思いがけないような出来事にあったり、あるいは、祈っても思うような結果が得られないと、主の御心がわからなくなり、途方に暮れ、思い悩み、はてはなぜか、どうしてかと主を疑ってしまうような信仰の弱い者ではないでしょうか。

そのような疑いや迷いが起こる大きな原因は、私たちが主に全き信頼を置いていないから、主に完全に自分を明け渡していないから、また、主を第一としていると思っていながら、自分の思いを中心に置いているからではないでしょうか。モーセの後継者で、イスラエルの指導者、ヨシュアは、イスラエルの民に次のように言いました。

ヨシュア
23:14 ・・・・あなたがたは、心を尽くし、精神を尽くして知らなければならない。あなたがたの神、主が、あなたがたについて約束したすべての良いことが一つもたがわなかったことを。それは、一つもたがわず、みな、あなたがたのために実現した。

これは、私たちキリスト者全てに言われていることであります。神様のお約束は、人間の小さな頭では、とうてい理解することはできません。しかし、自分には理解できなくても、私たちのために御子の尊いいのちを犠牲にしてくださるほど私たちを愛してくださる。全能にして生けるまことの神様のお約束である以上、信じる者の上にそのお約束はすでにひとつもたがわず、すべて実現したということを、私たちキリスト者は与えられた御霊によって、心に固く確信しなければならないと思います。

第二コリント
1:20 神の約束はことごとく、この方(・・・・すなわち、御子イエス・キリスト・・・・)において「しかり。」となりました。それで私たちは、この方によって「アーメン。」と言い、神に栄光を帰するのです。

1:22 神はまた、確認の印を私たちに押し、保証として、御霊を私たちの心に与えてくださいました。

その通りであります。私たち信者は、信仰の歩みの中で、たとえ主の考えがわからなくなるようなことが起こっても、疑うようなことなく、思い悩むことなく、ご計画のすべてをお考え通りに成し遂げられる大いなる全知全能の神様、そして、ご自分のいのちをお捨てになり、よみがえって永遠のいのちを与えてくださったばかりか、御霊として私たち信じる者の中に住んで、日々、『これが道だ、これに歩め』と導いてくださるイエス様をただ、無条件に信頼いたしましょう。そして、間もなく私たち信者の体を、朽ちない聖い体に変えて、天の御国に携え挙げてくださるために迎えに来てくださるというご再臨の約束を、確信と希望をもって待ち望みつつ、その日に備えて、御霊に導かれつつ、そしてまた、主から与えられたこの小さき群れ、お一人お一人、兄弟姉妹が助け合い、支え合い励まし合って、一つになって主にお従いして、信仰の歩みを歩み続けようではありませんか。

どうもありがとうございました

0 件のコメント:

コメントを投稿