2026年2月1日、秋田福音集会
翻訳虫
マルコ
9:27 しかし、イエスは、彼の手を取って起こされた。するとその子は立ち上がった。
9:28 イエスが家にはいられると、弟子たちがそっとイエスに尋ねた。「どうしてでしょう。私たちには追い出せなかったのですが。」
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
今、お読みしたのは、イエス様がおしの霊にとりつかれていた少年を助けた奇蹟の最後の部分であり、この奇蹟はマルコ伝9章14節から29節に記録されております。イエス様と弟子たちの一行は、汚れた霊にとりつかれて苦しんでいる少年とその父親と出会います。イエス様は、父親の助けに応えて、汚れた霊を追い出すという奇蹟であります。
聖書を読んでいて、ずっとよく理解できなかったことが、何かのきっかけで納得できて、よく分かるようになることがあります。しかし、それとは逆に、それまで、何度も読んでいて、格別、難しいとも思わず、注意を払わなかった箇所が、これはどういう意味だろうと不思議に思えてくることも、時々あります。
この箇所の少し前になりますが、少年にとりついた悪霊をイエス様が追い出すところはこのようになっています。
マルコ
9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
イエス様の前に弟子たちは、自力でこの少年を助けようと試みたのですが、失敗していました。主が悪霊を追い出した後で、弟子たちは、イエス様のもとに来て、なぜ、自分たちには悪霊を追い出せなかったのでしょうかと尋ねます。イエス様の答えは、次のようなものでした。
マルコ
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
しかし、イエス様は、「この子から出て行け!」と、この霊を叱りつけ、非常に強い言葉で命令して追い出しています。これは、私たちが考える祈りとは全く違う行いのように思います。それなのに何故、主ご自身は、弟子たちには、祈りによらなければ追い出せない、『祈りによって』追い出すしかないと説明されたのでしょうか?
このことが不思議に思えたので、この奇蹟について考えてみたのですが、その中で、この最後のイエス様の言葉には、イエス様にとっての祈りとは何か、真の祈りの意味が隠されているように思えてきました。
本日は、この少年の癒しの場面を掘り下げて、イエス様にとっての祈りの力について考えてみたいと思います。
三つの言葉
この場面で、イエス様は他にも多くのことを語られています。言葉が多いだけではなく、イエス様は、福音書の他の奇蹟の場面とは違う雰囲気の言葉を語られていると思います。イエス様の言葉に着目しながら、この場面の全体を振り返ってみます。イエス様が、明らかに普段とは違う感じの言い方をされていると感じる部分は三か所あります。
(1)
冒頭部分で、イエス様が街に入ってくると、弟子たちのまわりにおおぜいの群衆がいて、皆で論じ合っていました。
マルコ
9:17 すると群衆のひとりが、イエスに答えて言った。「先生。おしの霊につかれた私の息子を、先生のところに連れてまいりました。
9:18 その霊が息子に取りつきますと、所かまわず彼を押し倒します。そして彼はあわを吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせてしまいます。それでお弟子たちに、霊を追い出してくださるようにお願いしたのですが、お弟子たちにはできませんでした。」
少年の父親は、息子の助けを求めて、イエス様の一行に会いに来ていました。弟子たちにはこの霊を追い出せなかったことを聞いたイエス様は次のように言われました。
9:19 イエスは答えて言われた。「ああ、不信仰な世だ。いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。その子をわたしのところに連れて来なさい。」
イエス様は、悪霊を追い出せなかった弟子たちに対する失望感を露骨に言い表されています。このように非常に苛立った様子で、強い言葉で弟子たちを非難されました。確かに主は、長いあいだ、この弟子たちを教え、汚れた霊を追い出す権威を弟子たちに与えてきました。
マタイ
10:1 イエスは十二弟子を呼び寄せて、汚れた霊どもを制する権威をお授けになった。霊どもを追い出し、あらゆる病気、あらゆるわずらいを直すためであった。
とは言え、神の御子であられるイエス様と、人間の中から取りあげられた弟子では、奇蹟をなす力にも差があるのは仕方のないことではないでしょうか。ご自身が、柔和であるように信者たちに諭してこられた主の言葉としては、あまりに厳しいもののように聞こえます。
この非常に厳しい表現が、この奇蹟の場面で不思議に感じる主の言葉のひとつ目であります。
(2)
この後、主は父親と対話されます。父親は幼い時から悪霊に支配されて苦しんでいる子供の助けを求めました。
マルコ
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。
父親の必死の頼みに対して、主は答えられました。
マルコ
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
聖書の中に、イエス様が病気を癒したり、死人を生き返らせる奇蹟は、数多く記録されています。しかし、他の場面では、イエス様は多くの言葉を発せず、ただご自身の神の子としての力を発揮されています。例えば、マタイ伝の少し前に出てくる場面をみてみます。
マタイ
8:2 すると、ひとりのらい病人がみもとに来て、ひれ伏して言った。「主よ。お心一つで、私をきよめることがおできになります。」
8:3 イエスは手を伸ばして、彼にさわり、「わたしの心だ。きよくなれ。」と言われた。すると、すぐに彼のらい病はきよめられた。
しかし、この場合は違いました。イエス様はこの父親に、『できるものなら、と言うのか』と問いかけています。
マルコ
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
主は、この父親に自分を本心から信じることを、口頭で認めさせたうえで、この霊を追い出しています。
意地の悪いひねくれた見方かも知れませんが、この場面のイエスは、必死に懇願する父親に、自分への忠誠を誓わせたうえで、この子供を助けたようにも見えます。数多く行われた癒しの奇蹟の中で、何故この場面では、主を『信じます』という相手の言葉を求められたのでしょうか?
これが、不思議に感じる二つ目のお言葉であります。
(3)
そして三番目が、イエス様の弟子たちの問いかけに対して返された答えであります。
マルコ
9:25 イエスは、群衆が駆けつけるのをご覧になると、汚れた霊をしかって言われた。「おしとつんぼの霊。わたしが、おまえに命じる。この子から出て行きなさい。二度と、はいってはいけない。」
イエス様の命令を聞いた悪霊は叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて、出て行きます。少年は父親の元に戻りました。この悪霊を『どうして自分たちには追い出せなかったのでしょうか』と尋ねる弟子たちに主は答えられます。
マルコ
9:29 すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出せるものではありません。」
弟子たちは、この答えを聞いて困惑したのではないでしょうか。実際にはイエス様は、悪霊を叱りつけて、『出ていけ!』と命じています。弟子たちは、悪霊を追い出せる秘訣を主が授けてくれることを期待したかもしれません。しかし、主の答えは、『祈りによって追い出す』というものでした。
これが三番目の不可解な主のお言葉であります。
祈るとは
このイエス様と弟子たちのあいだのかみ合わないやり取りには、イエス様にとっての祈りと、弟子たちが考える祈りのあいだに大きな違いがあることが浮き彫りにされているのではないかと思います。
その違いとは何かといろいろと考えてきたのですが、あるベックさんのメッセージの中でその答えを見つけたような気がしました。2009年8月16日、御代田よろこびの集いで語られた『愛されている幸せ』というメッセージの中で、このようにベックさんは言われていました。
『祈るというのは、意識的に主により頼んで生きることです。御座についておられる方と、絶えず結びついていることが要求されます。確かに、祈りには二種類の祈りがあるでしょう。まず、自分の願望や関心事を言い表す祈り。もう一つは、聖霊の願望と関心事を内容として持つ本当の祈りです。』
主が弟子たちに『祈りによらなければ追い出せない』と言われたその祈りとは、自分の願望を言葉に言い表す行為のことではなく、自分の力に頼らず、この世の助けにも頼らず、『意識的に主により頼んで生きる』という生き方を選ぶことだったのではないでしょうか。
主が弟子たちに返された言葉は、霊的な力は、神だけを全面的に信頼するという生き方から出てくること、そして、そのような心でいることこそが祈りであると教えているのではないかと思います。
このような考え方を念頭に置いておいたうえで、イエス様が口にされた他の言葉を振り返ってみると、そこにあった主の想いも理解できるようになるような気がします。イエス様との対話を、もう一度、振り返ってみます。
弟子たちの失敗
この汚れた霊にとりつかれて苦しんでいる息子を、最初は弟子たちが助けようと試みたのですが、彼らは失敗しました。このことにイエス様は、苛立ちをあらわにされ、非常に厳しい言葉で弟子たちを叱責されます。
マルコ
9:19 ・・・・いつまであなたがたといっしょにいなければならないのでしょう。いつまであなたがたにがまんしていなければならないのでしょう。」
上で考えたように、この奇蹟が、神だけに全面的に信頼することの大切さを知らしめるために起こされたと考えますと、このイエス様の失望感の理由も明らかになるのではないかと思います。
イエス様が言われた祈りとは、自分の力に頼らず、神の力だけにより頼むという心がまえのことでした。しかし、弟子たちは自分の経験、能力、自分に与えられた権威に頼り、神の力だけにより頼む真の祈りを失っていたのであります。主が怒りをあらわにされたのは、弟子たちに悪霊を追い出す力がなかったためではなく、この信仰の欠如に対してではないでしょうか。
父親の信仰
次に注目したイエス様のお言葉は、この少年の父親にかけられたものであります。
マルコ
9:23 するとイエスは言われた。「できるものなら、と言うのか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
ここにも、先ほど述べた真の祈りとは何かという主の問いかけが現れていると考えると、同じように理解できるのではないかと思います。
この父親も、苦しんでいる子供を助けるために毎日のように祈ってきたはずです。しかし、それは、願いを口に出すだけであって、そこには、神に全面的により頼むという姿勢が欠けていました。
マルコ
9:22 この霊は、彼を滅ぼそうとして、何度も火の中や水の中に投げ込みました。ただ、もし、おできになるものなら、私たちをあわれんで、お助けください。」
父親が発した『おできになるものなら』という言葉に、その事実が現れています。この父親の言葉を聞いた主は、父親は必死に子供の癒しを求めてはいるものの、神だけに100%より頼んではいないことを見抜かれていたのであります。
主が求めるのは確かに、他の何ものにも頼らず主だけに全てをゆだねる一点の曇りもない信仰であります。イエス様のことばを聞いた父親は、自分の信仰が純粋ではなく、誠実なものでもなかったことに気づき、偽らずに神の前に認めました。
マルコ
9:24 するとすぐに、その子の父は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
『信じる者には、どんなことでもできる』という主の言葉を聞いた瞬間、この父親は、初めて神だけにより頼む純粋な信仰をもつことができました。
とは言え、誰にとっても、他の全てを捨てて、完全に神だけにたより切るということは非常に難しいことだと思います。
例えば、私たちの中で、この父親のように家族が不治の病に侵されている人がいたとして、神にすべてをおゆだねしますと口にはしても、心のどこかでは、神への祈りと、薬や医学など、この世の中の救いとを天秤にかけて、どちらの助けをも求めているのではないでしょうか。
息子が苦しむところを見ながら、何もすることができなかったこの父親は、ことばで神への祈りを口にしながら、この世の助けにもすがってきたのだと思います。
イエス様の前に立って言葉を交わした瞬間、この父親は、はじめて、この世の全ての力を忘れ、心の底から神の力だけに100%信じ切るという心を持つことができたのであります。これこそ、イエス様が後に『祈りによらなければ』と言われた、その祈りの意味だったのではないでしょうか。
私たちには追い出せなかった
そして、最後にイエス様の弟子たちへのお答えであります。
どうして、私たちにはこの悪霊を追い出せなかったのでしょうという弟子たちの質問に対し、イエス様は、祈りによらなければ追い出せるものではないとこたえられました。
全てを横で見ていた弟子たちは、主ご自身は祈って悪霊を追い出したわけではないのに、なぜこんなことを言われるんだろうと不思議に思ったのではないでしょうか。しかし、弟子たちの問いかけに、イエス様が『祈りによらなければ』と答えたこのやり取りがなければどうだったでしょう?
この出来事は、未熟な弟子たちは力が足りなくて追い出せなかった悪霊をイエス様が追い出した。やはり、イエス様の力はレベルが違う!という当たり前の結論で終わっていた話だったのではないでしょうか。イエス様の一見、謎めいた回答が、この奇蹟の意味を全く違うものにしているのではないかと思います。
聖書には、イエス様が病気を癒す奇蹟が多く記されています。その多くは、イエス様が神と同じ力を持つお方であることを知らしめるために行われました。それに対して、この奇蹟は、イエス様が、人間に真の祈りの意味を教えるために起こされたと考えることができます。
このように解釈すれば、イエス様が弟子たちに、非常に厳しい言葉を投げかけたこと、また、少年の父親に、主への信頼を明確な言葉にするよう求めたことも、すべて一つにつながるのではないかと思います。
これからしばらくの後、主は、十字架にかけられ、ご自身を犠牲とすることになります。その全てをご存じの上で、主は、最後の時まで、人間に真の祈りの意味を教えようとしてくださいました。
この出来事は、いくら神への願いを言葉にして唱えても、その背後に神への絶対的な信頼がなければ意味がないこと、そして、イエス様の力とあわれみに全面的な信頼を置くことの大切さを、すべての信仰者に教えているのではないでしょうか。

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