2025年11月5日水曜日

キリストにあって弱いもの

キリストにあって弱いもの
2025年10月5日、名古屋よろこびの集い
井上浩一兄

第二コリント
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

今日は、『キリストにあって弱いもの』について、言い換えれば、弱さのうちに働かれる主について、ご一緒に聖書から考えられたらと思います。

先週の日曜日なんですけど、吉祥寺の中高生会で、踏み絵の話が出ました。皆さんご存知の通り、江戸時代、徳川幕府はキリシタン禁令を出し、イエス・キリストを信じる者たちを迫害しました。

主に、長崎や九州の諸藩で、隠れた信者を見つけ出すために、キリシタン狩りと言われるものが行われました。年に数度、疑わしい者たちに、イエス・キリストやイエスを懐に抱く母マリアの像が彫り込まれた板を踏ませるのです。正確には、この用いられた板を踏み絵といって、このキリシタン狩りの手法を絵踏みと言うそうです。もちろん、踏むことを拒んだ者は拷問され、信仰を捨てることを強要されました。そして、多くの信者が命を落としました。

中高生会に話を戻すと、当日の司会の兄弟が、もし自分がそういう場面に置かれたら、踏み絵を踏むのかどうか、皆に尋ねたんです。踏まないと思う人、そして、踏んでしまうと思う人、それぞれ尋ねてみたんですけど、その場にいた中高生は、もちろん、大人たちも誰一人、どちらにも手を挙げることができませんでした。もちろん、私自身もどちらにも手を挙げることはできず、沈黙せざるを得ませんでした。

踏み絵というと、遠藤周作が執筆した『沈黙』という小説が有名です。読まれた方も多いと思いますけど、高名なイエズス会の司祭が島原の乱の後、鎖国を続ける日本に潜入して、宣教を試みたのですが、結局、彼は幕府に捕まって、拷問の末に信仰を捨ててしまいます。

その知らせがローマにも届きます。これに衝撃を受けたのが、その高名な司祭の弟子であったロドリゴという司祭で、彼は自らも危険を犯して、吉次郎という貧しい日本人の手引きで日本に潜入します。師匠に真意を尋ねるためです。結局、彼は吉次郎に何度も裏切られ、最後には、幕府に密告されて捕らえられてしまいます。彼も師匠と同様に、踏み絵を踏んで、信仰を捨てた証しを立てることになってしまうのです。

この小説の中で、穴づりという拷問の手法が、具体的に記されています。穴の中に人が逆さに吊り下げられて、耳の後ろに小さな穴を開けられて、そこから少しずつ、血が滴り落ちるのです。最後には、耳や鼻、眼球や口からも血が滴り出るそうです。

その苦しみは計り知れず、耐え忍ぶ声が、夜通し、隣の部屋から聞こえてくる中で、なおも祈りに応えず、沈黙を守る主なる神に対して、ロドリゴは葛藤して、そして、苦しみます。自分が信仰を捨てれば、彼らは助かるという状況の中で、最終的に彼は、踏み絵を踏む決心をするわけです。

私は、信仰を持つ前にこの作品を読み、そして、救われた後にも読みました。救われた私にしても、その場になったら、自分が踏むことを拒めるだろうかと考えてしまいました。

もちろん、踏み絵を踏まずに、死を招いたならば、それは、殉教の死であり、主を証しするものとなるのでしょう。死は終わりではないからこそ、死を恐れないことの証しであり、最後まで主に従ったという証しでもあるのでしょう。

きっとイエス様は、あなたの信仰は立派ですと、言ってくださるでしょう。でも、本当に私は弱いので、穴づりをされたら、きっと信仰を捨てると、言ってしまうはずです。そんな弱い私を、イエス様は赦してくれるのだろうかと、中高生会のあいだ中、考えさせられました。

ヨハネの福音書
20:19 その日、すなわち週の初めの日の夕方のことであった。弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立って言われた。「平安があなたがたにあるように。」
20:20 こう言ってイエスは、その手とわき腹を彼らに示された。弟子たちは、主を見て喜んだ。

20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」

これは、十字架の御業を成し遂げて、三日目に死者の中からよみがえられたイエス様が、お弟子たちの前に現れた場面です。つい三日前に、ペテロをはじめとする十一人の弟子たちは、捕らえられたイエス様を見捨てて、皆が散り散りに逃げたのでした。

『あなたのためにはいのちも捨てます』とまで言っていたペテロでさえ、『イエスを知らぬ』と、三度も否めました。そして、イエス様がよみがえられた週の初めの日、その日の夕方、弟子たちは、ユダヤ人を恐れて、戸が閉めてあったと書かれている通り、イエスの仲間として見つかることを恐れて、皆が隠れ、身を潜めていたわけです。

彼らはその時も、イエスの死を悼むというよりも、イエスの弟子として迫害を受けることを、恐れていたわけです。裏切った弟子たち、彼らは、言ってみれば、踏み絵を踏んだ弱い人々だったと言えるでしょう。

それでもイエス様は、彼らを無視することなく、彼らの目の前に、よみがえった姿を現してくださいました。十字架の上での苦しみの跡を、すなわち、その手と脇腹を、彼らに示してくださいました。そして、何よりも、『平安があなた方にあるように』と、自分を裏切った弟子たちに言葉をかけ、祝福までしてくれたのです。

弟子たちは、主を見て喜んだと書かれています。この時、初めて弟子たちは、それまでイエス様がおっしゃっていた言葉の意味を知ったことだと思います。そして、何よりも、主を裏切った自分たちの追い目を赦された喜びを覚えたのだと思います。

まさしく体験的に、主イエスを知った場面だったのです。そして、イエス様は、主のよみがえりを疑ったトマスの前にも、その姿を表してくださいました。『信じない者にならないで、信じる者になりなさい』という主の哀れみあふれる言葉に、トマスは、『私の主、私の神』と答えます。

トマスにとっても、イエス様が真に主となった時でした。この場面で、お弟子たちは誰一人、イエス様に謝ってはいません。各自が裏切ったという追い目を心の内に持っていたはずです。それでも、誰一人、言い訳もせず、謝りもしてはいません。でも全員が、赦されたことを実感して、喜んだことは確かです。人はうわべを見るが、主は心を見ると言われる通り、イエス様は一人一人の心の内を、ご覧になっていたのでしょう。

主を裏切った彼らが、見殺しにした彼らが、どれほど苦しみ、葛藤し、逃げた自分を悔やんだのか。その心の内をご覧になったのです。平安があなた方にあるように。そして、信じない者にならないで、信じる者になりなさいと言われた主の言葉は、お弟子たちだけではなく、今を生きる私たちにも、同じように、主を裏切った弱い私たち一人一人にもかけられた赦しの言葉なのだと思います。

だからおそらく、踏み絵を踏んでしまうような私の弱さをも、イエス様はきっと、赦してくださるのだとわかります。そして、私たちの弱さを赦してくださるばかりではなく、私たちの弱さを通して、主は働かれるのだと、聖書は示しています。

ヘブル人への手紙
4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

みことばは、イエス様は、『私たちの弱さに同情できない方ではありません』と言っています。イエス様はすべての点で、私たちと同じように、試みに会われたと書かれています。イエス様は、神の御子である方なのに、私たちと同じように、肉体を持ち、そして、同じように、弱さをも身にまとって、十字架についてくださいました。

マタイの福音書
26:39 それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」

26:42 イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」

十字架を前にして、イエス様は、ゲッセマネで三度、祈られました。『できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください』という祈りは、まさにイエス様が、十字架の死を恐れる弱さの現れでもあります。

それでも、その弱さの中で、恐れと苦しみの中で、『どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください』と、父なる神の御心を、選ばれたのです。

ルカの福音書
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

私たちと同じく、弱さを担ったイエス様は、十字架の上で、その恐れと苦しみを前にしても、なお、『父よ彼らをお赦しください』と、取りなしの祈りをされました。文字通り、イエスを十字架につけた彼ら、『イエスを十字架につけろ!』と叫んだ彼ら、そして、裏切ったお弟子たち、その彼らの中には、紛れもなく罪の中に生き、イエス様を裏切り続け、悲しませ続けていた私たち自身も含まれているのです。

そして、イエス様が担った弱さは、紛れもなく、私たち一人一人の弱さでもあります。すなわち、私たちが持つ弱さは、身代わりとなったイエス様とともに、十字架につけられたということです。

第二コリント
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

イエス様が、私たちの弱さを担って十字架についてくださったからこそ、御言葉は、『私たちもキリストにあって、弱い者だ』と言っているのだと思います。そして、キリストにあって、弱い者をだからこそ、神の力によって、キリストとともに生きる者に、変えてくださったのだと、記されています。

ここに言う『キリストにあって弱い者』とは、何を意味するのでしょうか。この御言葉から、二つのことがわかると思います。

一つは、イエスを主と信じたから、信仰を持ったからといって、自分自身が、強いものとなるわけではないこと。もう一つは、信じるものは、相変わらず、弱いものではあるが、その弱さは、単なる肉の弱さではないということです。

もともと私たちが、有していた古き人の弱さは、イエスとともに、十字架に釘付けにされたのです。

肉の弱さのゆえに、主に逆らい、裏切った私たちを、十字架の御業を通して、主イエスは赦してくださいました。その赦された確信を持ち、赦された喜びを覚えたものは、もはや、それまでの肉の弱さに縛られるものではないと、言っているのではないでしょうか。

だから、信じるものの弱さは、キリストを通しての弱さ、すなわち、すでに赦されたもの、贖われたものの弱さなのだと思います。そして、それは、罪や誘惑に抗えない弱さ、試みに耐えられない肉の弱さではなく、もはや、自分の力を頼みとせず、イエス様にしか頼れないという弱さなのではないでしょうか。

だからこそ、キリストにあって弱いものは、神の力によって、そして、キリストとともに生きる者となると、御言葉は言っているのだと思います。

ここで、弱さを誇ったパウロについて、少し考えてみます。

第二コリントの11章と12章で、パウロは、誰かが弱くて、私が弱くないということがあるでしょうか、また、もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。そして、私自身については、自分の弱さ以外には誇りませんと断言しています。

彼自身、自分はキリストにあって弱いものだと、告白しているのです。彼が誇りとした弱さとは、まさしく、自分を頼りとしてせず、主にのみ頼り頼むという弱さであり、突き詰めれば、頼りとする神の力によって、キリストと共に生きることを誇りとしているのだと、言っているのだと思います。

第二コリント
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。

兄弟姉妹は、よくご存じの御言葉です。パウロは、直接、主から、『わたしの恵みは、あなたに十分であるというのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである』と告げられたと言っています。

これに先立ち、七節と八節でパウロは、肉体のとげについて、これを去らせてくださいと、三度も主に願ったと、言っています。にもかかわらず、その願いは叶えられず、代わりに与えられた主の言葉がこれでした。

パウロ自身、この肉体のとげを、それは、私が高ぶることのないように私を打つためのサタンの使いですと受け取り、理解していました。だから、彼自身、このとげが、主から来ていることを承知していたわけです。

それでも、なおその苦しさに耐えられず、去らせてほしいと、主に願ったのでしょう。しかし、主は、わたしの恵みはあなたに十分であると言われたのです。今のままで、肉体に、とげがあるままで十分なのだ。いやむしろ、お前には、とげがなければならないのだ。もっと言えば、弱くなければならないのだと言われたのです。この肉体のとげを、恵みとして受け取るようにと言っているかのようです。

そして、その理由は、『わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからだ』と言われたのです。

主にあって弱いものであるからこそ、その弱さのうちに、完全に、神の力を現すことができる。その弱さを通してこそ、主は完全に働くことができると、言われたわけです。

そして、パウロも、主の言葉、その御心を、受け取ります。キリストの力が、私を覆うためにこそ、肉体のとげが与えられ、とげがあるからこそ、自分が主にあって弱いものであり、神の力によって、キリストと共に生きるものとなれると悟ったわけです。

これは、弱さについてのパウロの心のうちの葛藤を、示しているのだと思います。

第一テモテ
1:16 しかし、そのような私があわれみを受けたのは、イエス・キリストが、今後彼を信じて永遠のいのちを得ようとしている人々の見本にしようと、まず私に対してこの上ない寛容を示してくださったからです。

この葛藤を経験したパウロは、自分のことを、主が見本とされたのだと言っています。新約聖書を初めから与えられていた現代の私たちからすれば、聖霊によって、多くの手紙を書き、御言葉を伝え、最後には殉教の死を遂げたパウロは、優秀な信者の見本と言うべきか、むしろ、弟子の最高の見本と捉えてしまいがちです。でも、パウロ自身が、第一コリントの中でこう言っています。

第一コリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

主が、福音を伝えるものとして、御心を表す器として召し、用いられるのは、この世の知者でも、権力者でも、身分の高いものでもない。知恵あるものを恥ずかしめるために、この世の愚かなものを選び、強いものを恥ずかしめるために、この世の弱いものを選ばれた。この世の取るに足りないものや、見下されているものを、神は選ばれましたと言っています。

しかし、一方でパウロは、八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの別れのものであり、生粋のヘブル人で、律法についてはパリサイ人、律法による義についてならば、非難されるところのないものなのです。

彼は、当時の律法の最高権威であったガマリエルを師とする最高の知恵を持つものであり、高い地位と名誉と財産も持っていたでしょう。彼は、あるものをないもののようにするため選ばれた、無に等しいものでは決してありません。

それでも、主は、パウロを見本とされたと、御言葉は言うのです。それは、なぜなんでしょうか。もちろん、彼が、自分が有していた知識や富や名誉や地位、そのすべてを損だと思い、捨て去ったからでもあるでしょう。でも、それよりもむしろ、彼の弱さこそ、主が見本とされたのではないかと思うのです。

彼は、自ら、その熱心は教会を迫害したほどだと述べるように、イエス様に敵対し、そればかりではなく、イエスを主と信じた者たちを、死に追いやるほど迫害しました。

肝心な時に主を裏切り、逃げ出したお弟子たちの裏切りなど、比ぶべくもなく、彼はイエス様を苦しめたのです。しかし、そんな彼も、ダマスコへの途上で、よみがえられ、天に昇られたイエス様の声を聞き、体験的に、生きて働かれる主を知ったわけです。

それは、今まで彼が、正義と信じてきたこと、彼が、律法に従ってそれを実行したと信じてきたことが すべて、主に敵対することであったと知ったわけです。

それまでの彼は、知恵も知識も地位も権力も財産も有していた、いわば、この世にあって強きものであったはずです。しかし、主イエス様との出会いと召しによって、そのすべてが逆転し、目が見えなくなった暗闇の三日間を通して、彼は本当に弱いものへと変えられたのです。

彼の肉体のとげが、いつから彼の身に与えられていたのかは分かりませんが、主によって召され、変えられたパウロだからこそ、高ぶることのないように、私を打つためのサタンの使いだと、受け取れるようになったのだと思います。

彼は間違いなく、主にあって弱いものとなり、その弱さを誇るものとなったのでした。彼は、肉の弱さのゆえに、主を迫害したわけではありません。むしろ、強きものでした。そのパウロでさえ、主に召され、暗闇の三日間を通して、目が開かれた時には、彼は赦された確信を持ち、赦された喜びを覚えたはずです。

そうであれば、もともと肉にあって弱いものであった私たちが、その弱さをイエスとともに十字架に釘付けにされた私たちが、主にあって弱いものとされるのは、なおさらです。だからこそ、主は、パウロを弱さを誇る、主にあって弱いものの見本とされたのだと思います。

先に触れた沈黙の結末なんですけど、踏み絵を前にしたロドリゴには、踏み絵の中のイエス様が、こう語られたように聞こえます。『踏むがいい。お前の足の痛さをこのわたしがいちばんよく知っている。踏むがいい。わたしは、お前たちに踏まれるため、この世に生まれ、お前たちの痛みを分かつため、十字架を背負ったのだ』と。

そして、踏み絵を踏んだ後、ロドリゴの前に、彼を何度も裏切り、密告した吉次郎が、また、現れます。悔い改めを聞いてくれと迫るんです。吉次郎は、世の中には強い者と弱いものがいる。強い者は、どれほどの責め苦にも耐えて、天国に行けるでしょうが、自分のように生まれつき弱い者は、踏み絵を踏めと責められれば、踏むしかないと彼に告げます。

その時、彼は、踏み絵の中のイエス様が語られた言葉を思い起こすんです。わたしは、沈黙していたのではない。一緒に、苦しんでいたのだ。弱い者が、強い者よりも苦しまなかったと誰が言えるのか。

ロドリゴも踏み絵を踏んだ自分の弱さを、主は赦されたことを知ったのだと思います。小説にははっきりと書かれてはいませんけど、彼もこの時、キリストにあって弱いものとされたのだと思います。

最後に、もう一度、みことばをお読みして、終わりとします。

第二コリント
13:4 確かに、弱さのゆえに十字架につけられましたが、神の力のゆえに生きておられます。私たちもキリストにあって弱い者ですが、あなたがたに対する神の力のゆえに、キリストとともに生きているのです。

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