2016年1月3日日曜日

主を喜びましょう

主を喜びましょう
2016年1月3日、年末年始・御代田よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ネヘミヤ
8:10 さらに、ネヘミヤは彼らに言った。「行って、上等な肉を食べ、甘いぶどう酒を飲みなさい。何も用意できなかった者にはごちそうを贈ってやりなさい。きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。」

今、言われたように、今までよりも主にあって喜ぼうとは、もちろん、御心そのものです。今、読んでもらいました箇所は本当にすばらしい箇所です。『悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。』

後ろに二つのドアがあるでしょう。この二つのドアの間にこの言葉がかかっています。今まで、心にとめた人はあまりいないようです。日本語ではなくてドイツ語で書いてあるから。今度、通るときは、いつも、今までよりも主にあって喜ぼうと思えたら、本当にありがたいと思います。

集会のある夫婦は次のように書いたのです。今日は、いないから言ってもいいでしょう。K兄弟とアツコ姉妹。『イエスの御再臨がもうすぐだと思うととても嬉しいです。私たちの家族に次々と起こる問題も、背後にイエス様の御計画があると知り、悲しみながら喜んでいます。愛する集会の兄弟姉妹とともに祈り、イエス様だけを見上げて、将来も戦い続けます。』

こういう告白も本当にありがたいのではないでしょうか。今までよりも、非常に主にあって喜ぼう。詩篇の作者であるダビデは、次のように書いたのです。

詩篇
16:11 あなたは私に、いのちの道を知らせてくださいます。あなたの御前には喜びが満ち、あなたの右には、楽しみがとこしえにあります。

ダビデは結局、自分を見ないで、周りの環境を大切にしようとしないで、主だけを仰ぎ見たから、こういうふうに告白することができたのです。ヨハネ伝から、短く四箇所を読みます。

ヨハネ
3:29 花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。
3:30 あの方は盛んになり私は衰えなければなりません。

15:11 わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです。

イエス様は、このように言われたのです。

ヨハネ
16:24 あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものとなるためです。

17:13 わたしは今みもとにまいります。わたしは彼らの中でわたしの喜びが全うされるために、世にあってこれらのことを話しているのです。

イエス様は、このように告白しました。私たちはますます、次のことに心を配らなければならない。すなわち、自分のことはどうでもかまわない。自分がよく思われたいとか、人の上に立ちたいとかいうことではなく、ただイエス様お一人だけが栄光を受けられますように。一方において、信仰者は、霊的に成長することがどうしても必要であり、他方において、各人は本当に信者の交わりの中に溶け込むことができ、自分を無にすることです。

この二つのことが、信じる者にとっていちばん大切なのではないでしょうか。我々、人間により頼むのではなく、ただ主イエス様にのみより頼まなければなれない。その時にのみ主は、我々を用いることができ、導くことができるようになります。

信じる者の正しい生活というものは、主とともに、十字架につけられた生活に他なりません。ですから、信じる者にとって、聖書の中の最も大切な箇所は、言うまでもなく、ガラテヤ書2章20節なのではないでしょうか。

ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

前に読みました箇所をもう一回、読みます。

ネヘミヤ
8:10 ・・・・きょうは、私たちの主のために聖別された日である。悲しんではならない。あなたがたの力を主が喜ばれるからだ。

いったいどうすれば、この主にある喜びを体験することができるのでしょうか。これに対して、5つの答えを与えることができるのではないかと思います。

第一番目、私たちが、我々を救うことのできる主の大いなる力を体験的に知るとき、この喜びを体験することができます。

私たちはしばしば、自分自身の力で何かをしようとしますが、不幸にも、そのような時には、この喜びが消えてしまいます。この喜びの秘訣は、我々の思いではなく、主よ、あなたの御心がなりますようにということに他なりません。

しばしば、主は我々が考えることとは、違ったかたちで、我々を導いてくださいます。我々の思いや考え、また、感情は、ことごとく、イエス様の御心に反しているのではないでしょうか。自分の思い、自分の考えにこだわるとき、人間は不幸にならざるを得ない。自分の思いや考えを犠牲にする覚悟にあるものだけが、本当に、主の大いなる力とすばらしい喜びを体験することができます。

どうすれば、主ご自身の喜びを自分のものにすることができるでしょうか。今、話したように、第一番目の答えは、イエス様を自分の救い主として受け入れるとき、赦されたことを信じ、いつまでも、主のものとなったから喜ぶことができる。

第二番目の答えは、イエス様の御臨在を確信することも、大いなる喜びを与えてくれます。

私たちが、主に従っていこうとするときには、自分が本当にダメなものであり、何の力もないことを知るようになります。私たちが本当に打ちひしがれ、砕かれたときに主を見上げれば、我々の弱さにもかかわらず、主の大いなる力を、また、主の喜びを体験することができます。

私たちは、いついかなる場合でも、決して一人ではありません。いつも、イエス様が近くにおられ、共におられます。マタイ28章20節ですね。イエス様の約束です。

マタイ
28:20 また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい。見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

エレミア哀歌の3章57節、一文章だけです。

哀歌
3:57 私があなたに呼ばわるとき、あなたは近づいて、『恐れるな。』と仰せられました。

もう一箇所、イサヤ書41章10節も、すばらしい呼びかけです。内容として全く同じです。

イサヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。

すばらしい約束なのではないでしょうか。主イエス様ご自身が、ともにおられる――この確信こそ、我々に大きな喜びを与えてくれます。

今までのことをまとめてみると、次の二つのことが、我々に喜びを与えてくれることが分かります。すなわち、私たちは、主の救う力を体験するとき、私たちは本当に、喜ぶことができる。二番目、私たちは、イエス様のご臨在を確信するときに、喜びを体験することができるということです。

三番目の答えは、主の導きを確信し、体験することも我々に大きな喜びを与えてくれます。

我々の人生においては、しばしば一体、この場合に私たちは何をしたらよいのか、何をすべきかという問題に直面するときがある。そのときこそ、私たちは、主がともにおられると確信することになります。

これこそ、我々に本当の喜びを与えてくれるものです。この世のことにおいて、様々な出来事が起こってきますが、何一つとして、主の許しなくして、生じ得ることはない。私たちは、まことに生きておられる主イエス様によって導かれているのだという確信こそ、大きな喜びを与えてくれるに違いない。

詩編の作者であるダビデは、もちろん、これを何回も何回も経験しました。有名な二十三篇三節を見ると、彼は次のように言ったのです。

詩篇
23:3 主は私のたましいを生き返らせ、御名のために、私を義の道に導かれます。

107:6 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から救い出された。
107:7 また彼らをまっすぐな道に導き、住むべき町へ行かせられた。

107:14 主は彼らをやみと死の陰から連れ出し、彼らのかせを打ち砕かれた。

107:28 この苦しみのときに、彼らが主に向かって叫ぶと、主は彼らを苦悩から連れ出された。

136:16 荒野で御民を導かれた方に。その恵みはとこしえまで。

これらの詩篇の言葉はすべて、個人的に体験されたことの証しに他なりません。主によって導かれるということ、このことこそ、まさにイスラエルのための体験であり、喜びでもあったのです。私たちが、主の導きを本当に確信できる時に、大いなる喜びを体験することができます。

どうすれば、主ご自身の喜びを自分のものにすることができるでしょうか。今、話したように、イエス様を自分の救い主としてで受け入れるとき、赦されたことを信じ、いつまでも主のものとなったから喜ぶことができます。それから、イエス様のご臨在を確信する時も、大いなる喜びを与えてくれます。また、主の導きを確信し、体験することも、我々に大きな喜びを与えてくれます。

4番目の答えは、イエス様が我々のためにすべてを備えてくださるということも大きな喜びをもたらしてくれます。

私たちは、自分ではとても理解できないようなことを、確かに体験することがあります。なぜ逃れ道が全然ないのか。まったく、わからないというようなことを体験したことがおありでしょう。このように、どうしても私たちが、何故こんなことを体験しなければならないのか、全くわけがわからないような時でさえも、イエス様がすべてを備えていてくださるという確信があれば、いかに大きな喜びが与えられることでしょう。

イエス様は、心配してくださり、イエス様ご自身こそが、愛してくださる。イエス様が、自分のためにすべてを備えていてくださる。この確信を持っている人は、なんと、幸いな人でありましょうか。

今、話したように詩編の作者であるダビデは、もう嬉しく嬉しくてしかたがなかった。悩みながら喜んだ。

詩篇
23:1 主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。

これは単なる言葉ではなく、彼の体験でした。三十四篇、彼は、また言ったのです。

詩篇
34:10 若い獅子も乏しくなって飢える。しかし、主を尋ね求める者は、良いものに何一つ欠けることはない。

これが、当時のダビデの経験でした。もちろん、イエス様の弟子たちも、同じようなことを経験したのではないでしょうか。ルカ伝の二十二章を見ると、イエス様は、弟子たちに訊いたのです。

ルカ
22:35 それから、弟子たちに言われた。「わたしがあなたがたを、財布も旅行袋もくつも持たせずに旅に出したとき、何か足りない物がありましたか。」彼らは言った。「いいえ。何もありませんでした。」

またコリント第一の手紙、一章に書かれています。

第一コリント
1:7 その結果、あなたがたはどんな賜物にも欠けるところがなく、また、熱心に私たちの主イエス・キリストの現われを待っています。

どうすれば、主ご自身の喜びを、自分のものにすることができるのでしょうか。

5番目の答えは、喜びの源として考えられることは、イエス様が我々を待ち望んでおられるということです。

このことは、まだ、私たちが体験していないことですが、聖書を読めば、このことが事実であると、はっきり分かります。死ぬということは、消滅してしまうということではなくて、イエス様のみもとに帰るということに他なりません。

これら、5つの確信は、いついかなるところにおいても、我々に本当の喜びを、また、勇気を与えてくれます。

もう一回、言いましょうか。イエス様は我々の罪を、全部、赦してくださり、御力によって、我々を解放してくださった。二番目、イエス様は、決して私たちを見捨てない。一人ぼっちにはなされない。三番目、イエス様自ら、私たちを導いてくださいます。そして、主の導きは我々は理解できないかもしれないけど、間違いなく完全です。四番目、 イエス様は我々を心配し、私たちの良いものを愛しておられ、私たちのためにすべてを備えてくださるということ。そして、五番目、イエス様自ら、私たちを待ち望んでいてくださいます。イエス様にある喜びは、我々に大いなる力を与え、全てのことを貫く力を与えてくれます。

このイエス様にある喜びは、単に一つの力となるのみならず、我々の信仰の土台を計るものともなるのです。

私たちが、イエス様に不従順であれば、喜びがなくなります。けど、私たちが正しくないことをした場合に、包み隠さず、イエス様に打ち明けるならば、イエス様は、ことごとく、赦してくださり、新しい喜びを与えてくださるのです。

私たちがこの喜びを持っているか、いないかということはどうでもいいことではありません。この喜びがなければ、いかなる証しもできなくなります。そして、イエス様はもはや、我々を用いることができなくなってしまいます。

もう一回、詩編の作者の告白を読んで終わります。

詩篇
5:11 こうして、あなたに身を避ける者がみな喜び、とこしえまでも喜び歌いますように。あなたが彼らをかばってくださり、御名を愛する者たちがあなたを誇りますように。

32:11 正しい者たち。主にあって、喜び、楽しめ。すべて心の直ぐな人たちよ。喜びの声をあげよ。

33:21 まことに私たちの心は主を喜ぶ。私たちは、聖なる御名に信頼している。

68:3 正しい者たちは喜び、神の御前で、こおどりせよ。喜びをもって楽しめ。

104:34 ・・・・私自身は、主を喜びましょう。

イエス様は、我々も詩編の作者と同じように、心から主イエス様を褒めたたえ、喜ぶことを望んでおられます。

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