2026年7月11日土曜日

ベタニヤのマリヤ

ベタニヤのマリヤ
2016年5月15日、札幌よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

ルカ
19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。
19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。
19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。
19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。
19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」
19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。
19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。
19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」
19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。
19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

私は時々――いつもかな?――変な祈りを捧げます。イエス様、お願い。私のしゃべっていることを、皆、分からないように。あなたの言わんとしていることを聞かせて。主はどういうふうにこの祈りを聞いてくださるのか分からない。けど、主が働いてくださらなければもうお終い。けれども、御言葉が与えられているからいいな。

イエス様は、昨日も今日もいつまでも、変わらないお方であり、御言葉も変わらない。天国へ行っても新しい聖書は必要ないでしょうね。天と地は変わります。わたしの言葉は永遠に残る。この永遠に残る言葉に頼れば、やはり大いに祝福されるに違いない。

新約聖書の中のいちばん中心になるのは、言うまでもなく四つの福音書です。主イエス様に来た人々は、何を経験したかと言いますと、行ったのは良かった。イエス様のところに行ったけど無駄だった人は、おそらく、一人もいなかったのです。

けれども、あの人たちとはどうしてイエス様のところに行ったかが問題ではないかな?結局、何か欲しかったから、自分自分のことを考えて、ああしてください、こうしてください、もちろん無駄に、イエス様のところに行った人は一人もいない。後でみんな、行ったのは良かった・・・・とよろこんで、告白するようになりました。

どうして当時の多くの人々は、イエス様のところに行ったかと言いますと、結局、病気があったし、孤独もあったでしょうし、絶望もあったからでしょう。結局、イエス様のところに行った人々とは、悩んでいた人々ばかり。もちろん、イエス様はそういう人々を呼んだのです。疲れてるでしょう。寂しいでしょう。おいで。私のところに来なさい。結局、イエス様のところに行った人々は、みんな、何かが欲しかった、何か得ようと、期待してたのです。

もちろん、イエス様は、変わらないお方であるから、今日もなお、重荷を負って苦しんでる人は、いろいろのことで悩んでいる人は、キリスト教に入るのではない、教会に行くのでもない、わたしのところに来なさい。

マタイ
11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

このルカ伝19章の10節でしたね。『わたしは失われた人を探して救うために来た』と書かれています。けど、イエス様のみもとに来て、何かを得ようと考えている人は多かったんです。けど、イエス様に何かを捧げようと願った人は、昔、あまりいなかったし、今日も同じではないでしょうか。

その少ない人々の中で、いわゆるベタニアのマリアという女性がいます。我々の模範となるべきではないでしょうか。もう一箇所、読みましょうか。マルコ伝の14章3節からお読みいたします。

マルコ
14:3 イエスがベタニヤで、らい病人シモンの家におられたとき、食卓についておられると、ひとりの女が、純粋で、非常に高価なナルド油のはいった石膏のつぼを持って来て、そのつぼを割り、イエスの頭に注いだ。
14:4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。
14:5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧乏な人たちに施しができたのに。」そうして、その女をきびしく責めた。

ちょっと気の毒だったね。厳しく責められた。すると、弁護士としてかな?

14:6 すると、イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。
14:7 貧しい人たちは、いつもあなたがたといっしょにいます。それで、あなたがたがしたいときは、いつでも彼らに良いことをしてやれます。しかし、わたしは、いつもあなたがたといっしょにいるわけではありません。
14:8 この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。
14:9 まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」

この人の記念会かな。彼女のことを考えると、ちょっと恥ずかしくなる。

14:10 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。
14:11 彼らはこれを聞いて喜んで、金をやろうと約束した。そこでユダは、どうしたら、うまいぐあいにイエスを引き渡せるかと、ねらっていた。

どうして、イエス様を信ずる者の間に、成長の違いが
あるのでしょうか。すべての救われた人々は、もちろん、イエス様の愛を体験しました。けど、真実の深い愛をイエス様に捧げる者は、非常に少ないのではないでしょうか。

私たちは、しばしば、自分がイエス様に対してどのような関係にあるかということよりも、自分が何をなすべきかということを大切にしているのではないでしょうか。私たちが通りよき管になるためには、イエス様との密接な交わりが必要です。主との愛の交わりがなくなれば、使命感が薄れ、祈りが少なくなる。余裕を失い、神経質になります。

今、読みましたマリアという女性は高価なナルドの香油をイエス様に注ぎ出しました。この行いは心からの愛の表れでした。すべてをイエス様に捧げたいというのが彼女の心からの願いでした。彼女ほど、イエス様に褒められた人はいない。イエス様の判断は、この女は、できる限りのことをしたのだ。この言葉は、イエス様が全く満足されたことを表しているのではないでしょうか。

彼女はただ、イエス様だけが真の幸福と、本当の平安を与えられるということを体験しました。ですから、彼女は心からの愛のしるしとして、この高価なナルドの香油を捧げたんです。彼女の心は、結局、感謝と愛でいっぱいでした。

聖書の中心は、十字架に付けられたイエス様であり、私たちの罪滅ぼしのために、犠牲としてほふられた子羊なるイエス様です。この十字架に付けられたイエス様について、聖書は次のように言っています。

イザヤ
53:4 まことに、彼は私たちの病を負い、私たちの痛みをになった。だが、私たちは思った。彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
53:5 しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。
53:6 私たちはみな、羊のようにさまよい、おのおの、自分かってな道に向かって行った。しかし、主は、私たちのすべての咎を彼に負わせた。

まことのよろこびの根拠とは、今、読みましたところです。聖なる神は、我々のすべての咎を十字架につけられた主イエス様に負わせた。罪滅ぼしのために、主イエス様は代わりに罰せられ、呪われ、捨てられました。ひどい!としか言えません。もっとひどいことは、ないのではないでしょうか。ばからしいと考えてもいいかもしれない。なぜならば、イエス様の流された血潮は、イエス様のいのち、そのものだったからです。

私たちのようなつまらない、どうしようもないもののために、このような代価を払うことは考えられません。私たちの大部分は、イエスさまに出会った人々として、こう言えるでしょう。よかった。ありがたい。イエス様が代わりに罰せられたから、私たちは、裁きにあうことがなく、死からももうすでにいのちに移されている。行き先は決まっている。天国!と言うことができます。

聖書のもっとも大切な呼びかけの一つは、十字架につけられたイエス様から目を離さないでください。失望から、孤独からの解放は、結局、イエス様を仰ぎ見ることです。もう一箇所、読みましょうか。皆さん何回も読んで、暗記している箇所かもしれない。

ヘブル
12:1 こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。
12:2 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。
12:3 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。

前に読んでもらいましたが、ちょっと戻りましょうか。

ルカ
18:31 さてイエスは、十二弟子をそばに呼んで、彼らに話された。「さあ、これから、わたしたちはエルサレムに向かって行きます。人の子について(・・・・結局、わたしについて・・・・)預言者たちが書いているすべてのことが実現されるのです。
18:32 人の子(・・・・であるわたし・・・・)は異邦人に引き渡され、そして彼らにあざけられ、はずかしめられ、つばきをかけられます。
18:33 彼らは人の子(・・・・であるわたし・・・・)をむちで打ってから殺します。しかし、人の子は三日目によみがえります。」
18:34 しかし弟子たちには、これらのことが何一つわからなかった。彼らには、このことばは隠されていて、話された事が理解できなかった。

弟子たち――このイエス様の弟子たち――と違いまして、今、話したベタニアのマリアは、イエス様の埋葬の用意にとイエス様の体に前もって油を塗ってくれました。マリアの心は感謝と愛でいっぱいでした。彼女は、ただひとつのことを思ったでしょうね。いかにして、自分のイエス様に対する愛を表したらいいかな。いかにして、自分のイエス様に対する感謝を表すことができるのでしょうかと。

その時、彼女はこのナルドの香油のことを思い出したんでしょうね。ナルドの香油は非常に高価なもので、一人の人が一年間、働いている所得に等しく、七千五百人分のパンを買うことができたほど、高価なものでした。

ですから彼女は、自分自身のためですらそれを使うことはできなかった。それは、もったいないと思ったに違いない。また、他の人々のためにそれを使うことは、もちろん、できなかった。けど、突然、彼女はイエス様のためだったら、その香油はちょうどふさわしいものと考え、それによって自分の愛を表すことができると思ったのです。

そして、イエス様はこのマリアの行いを非常に喜ばれました。まったき愛だけが、主イエス様を十分に喜ばせることができます。けど、他の人々の反応はどうだったでしょうかね?

マルコ
14:1 ・・・・祭司長、律法学者たちは、どうしたらイエスをだまして捕え、殺すことができるだろうか、とけんめいであった。

隠された妬みは、憎しみに変わり、イエス様を殺そうという決心になりました。一方の人々は、いかにしてイエス様を殺そうかと考え、マリアはいかにしてイエス様に対する自分の愛を示すべきか・・・・と思ったのです。

彼女は、自分のすべてを捧げざるを得なかったのです。とくに、イエス様の一人の弟子、ユダという男は、文句を言ったのです。彼女の行いはばからしい、無駄と思ったのです。もっとうまい使い道があるのではないの?七千五百人の貧しい人々に食事をさせる方が良いのではないか。けども、ユダは、貧乏人に対する同情や思いやりの心でそういったのではない。貪欲な守銭奴だったからです。

いかなる理由で、人々はそれぞれ、異なった態度をイエス様に対して取るのでしょうか。今、話したように当時の聖書学者たちは、自分の名誉を求めただけなのです。彼らは、自分たちが尊敬されなくなるなのではないかと心配していました。

妬みは憎しみに変わり、イエス様を殺すということに至ったのです。イエス様の弟子の一人であるユダは、金だけを考えた男でした。もっともっと欲しいと思いました。彼は盗みをし、それから偽善的になり、そして、裏切りをして、最後に、自殺してしまったのです。

けど、このベタニアのマリアは、いかにして自分の愛をイエス様に示すことができるかと考えたんです。主イエス様を愛することができるのは、イエス様に罪を赦された人々だけなのではないでしょうか。罪を赦された者は、自分の罪を認め、告白して、それを捨てる者です。このような態度を取らない者は、自分中心的な生き方をし、自分のことばかりを考えるのです。

自分が十分に考慮されない、あるいは、チヤホヤされなければ、すぐに自分の殻に引き込もる人々、あるいは、離れる人々もいます。私たちは、次の問いについて考えるべきではないでしょうか。すなわち、私はイエス様に対して、本当の愛を持っているのでしょうか。私は、イエス様との交わりを持とうとして、イエス様のみもとに近づきたいと、本当に心から願っているのでしょうか。

私の考えや感情の中心は、本当にイエス様でしょうか。私は、義務感でイエス様に仕えるのか。あるいは、愛によってイエス様に従うのでしょうか。私にとって、祈りはなくてはならないもの、あるいは、心から願っているものなのでしょうか。

ここではっきり言えるのは、マリアという女性は、心からの愛をイエス様に捧げたから、イエス様は彼女を非常に喜ばれたのです。けど私たちは、どうすればイエス様を喜ばせることができるのでしょうか。

聖書を見るとわかります。彼女は、イエス様の足元に座って、イエス様の御言葉を聞きました。ただ、聞くだけではない。御言葉に服従する心構えをもって聞いたんです。忙しかったし、時間がなかったでしょうけど、御言葉を聞く時間を作り出したのです。

私たちは、聖書を読むだけでなく、聖書に聞かなければなりません。聖書に聞く時間を作らない人は、ちょっと、問題です。イエス様は、御言葉に対して開かれている耳を期待しています。イエス様を愛することの第一歩は、イエス様の御言葉を聞くことであり、祈りながら主に近づくことです。

すべて、その他のことは枝葉の問題です。彼女はただイエス様の御言葉を、聞いただけではない。イエス様に話しかけました。イエス様のところに行って、御言葉を聞き、イエス様に話しかけることだけが彼女の願いでした。

我々の場合には、我々の祈りの中心は、自分の考え、自分の計画、自分の問題なのでしょうか。私たちは、イエス様よりも、イエス様が我々に与える祝福の方を好むのではないでしょうか。そういうのは、決してマリアが持っていた思いではない。マリアは今、話したように、まず初めに主の言葉を、主の御言葉だけを聞きたいと願い、次に、イエス様に語りたいと願い、そして、最後に、イエス様にすべてを与えたいと願いました。

彼女は、イエス様の足元に座って、御言葉に耳を貸しました。彼女がしたように、主の足元に座り続けることなしに、祈りの生活は成り立ちません。彼女は、イエス様が、自分の全く欠けたところなく愛しておられることをよく知っていたので、彼女も、イエス様を少しも裏切るところなく愛していたのです。

彼女は、今、話したように、非常に値の高いナルドの匂い油を、イエス様の頭に惜しみなく、降り注いだのです。すなわち、ためらうことなく、余すところなく、匂い油をイエス様に降り注ぐことにより、イエス様に対する愛を明らかにしたのであります。ナルドの匂い油の匂いが、家全体に満ちたと聖書は言っています。それと同じように、愛の雰囲気が我々の心、我々の家、また、各集会を包んでいるのでしょうか。聖書の中に、悲劇的な悲しい言葉があります。

黙示録
2:4 しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは初めの愛から離れてしまった。

ここで言われている初めの愛とは、一体どういうもの?もちろん、イエス様との交わりのことです。イエス様なしに、何ごとも欲せず、何ごともなし得ないということです。もし日々、主の御言葉である聖書が、我々の泉となり、我々の慰めとなり、我々の力となり、我々の知恵となっているならば、そして、私たちの考えと行いの中心にイエス様がおいでになるならば、それこそ、私たちの初めの愛が保たれていることを意味しています。

当時のエペソの兄弟姉妹の心はもはや、イエス様との親しい交わりの中にはなかったんです。主の足元に沈まることを忘れてしまった。その結果は、主はもはや、『わたしはあなたと共にいる』ということができなかったし、『わたしは、あなたと対立する』と言わざるを得なかったのです。

初めの愛とは何でしょうか。二心(ふたごころ)のないイエス様への愛です。本当の謙遜です。直ちに、従うことです。そして、主の再臨を心から待ち望むことであり、また、兄弟姉妹に対して真心からの愛を持つことなのではないでしょうか。

0 件のコメント:

コメントを投稿