30.最後の審判とバビロンの破滅
黙示録18章1節から24節まで
1.さばきの判決
[1]大きな権威を帯びた御使いによるバビロンの滅びの預言[2]バビロンにいる神の民に対する警告
[3]神のさばきの手段についての要求
2.この世の悲しみと天国の喜び
[1]力ある者と富む者と創造力を持つ者の嘆き[2]聖徒たちと使徒たちと預言者たちの喜び
3.さばきのしるし
[1]文化の領域[2]さばきの理由
[3]良心の問題
(1)この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。(2)彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。(3)それは、すべての国々の民が、彼女の不品行に対する激しい御怒りのぶどう酒を飲み、地上の王たちは、彼女と不品行を行ない、地上の商人たちは、彼女の極度の好色によって富を得たからである。」(4)それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。(5)なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。(6)あなたがたは、彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行ないに応じて二倍にして戻しなさい。彼女が混ぜ合わせた杯の中には、彼女のために二倍の量を混ぜ合わせなさい。(7)彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。
(8)それゆえ一日のうちにさまざまの災害、すなわち死病、悲しみ、飢えが彼女を襲い、彼女は火で焼き尽くされます。彼女をさばく神である主は力の強い方だからです。(9)彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。(10)彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。』(11)また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。(12)商品とは、金、銀、宝石、真珠、麻布、紫布、絹、緋布、香木、さまざまの象牙細工、高価な木や銅や鉄や大理石で造ったあらゆる種類の器具、(13)また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。(14)また、あなたの心の望みである熟したくだものは、あなたから遠ざかってしまい、あらゆるはでな物、はなやかな物は消えうせて、もはや、決してそれらの物を見いだすことができません。(15)これらの物を商って彼女から富を得ていた商人たちは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、泣き悲しんで、言います。『わざわいが来た。わざわいが来た。麻布、紫布、緋布を着て、金、泣き悲しんで、(16)言います。『わざわいが来た。わざわいが宝石、真珠を飾りにしていた大きな都よ。(17)あれほどの富が、一瞬のうちに荒れすたれてしまった。』また、すべての船長、すべての船客、水夫、海で働く者たちも、遠く離れて立っていて、(18)彼女が焼かれる煙を見て、叫んで言いました。「このすばらしい都のような所がほかにあろうか。』(19)それから、彼らは、頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、叫んで言いました。『わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたれるとは。』(20)おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」
(21)また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。(22)立琴をひく者、歌を歌う者、笛を吹く者、ラッパを鳴らす者の声は、もうおまえのうちに聞かれなくなる。あらゆる技術を持った職人たちも、もうおまえのうちに見られなくなる。ひき臼の音も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。(23)ともしびの光は、もうおまえのうちに輝かなくなる。花婿、花嫁の声も、もうおまえのうちに聞かれなくなる。なぜなら、おまえの商人たちは地上の力ある者どもで、すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。(24)また、預言者や聖徒たちの血、および地上で殺されたすべての人々の血が、この都の中に見いだされたからだ。」(黙示18・1~24)
1.さばきの判決
[1]大きな権威を帯びた御使いによるバビロンの滅びの預言
黙示録1章の主題は、「最後の審判とバビロンの破滅」です。この章は、「大きな権威を帯びた御使いによるバビロンの滅びの預言」、「この世の悲しみと天国の喜び」、「さばきのしるし」の3つの部分に分けることができます。
前回学んだ黙示録17章の「バビロン」は、黙示録19章の「主イエスの花嫁」に対応しています。そして黙示録18章の「バビロン」は、黙示録21章の「新しいエルサレム」に対応しています。このような二つの象徴の対応は、旧約聖書でもたびたび出てきます。たとえば、黙示録18章に対応する箇所は、旧約聖書の中に四十回以上出てきます。特にイザヤ書47章とエレミヤ書50章、51章は関連が深い箇所です。
黙示録13章では、ひとりの御使いが大きな権威を帯びて天から下って来ます。天には主の支配の御座があります。16章で見たように、バビロンに対しても、全能の神が支配をなさいます。地上で起こるすべてのことは、神によって、定められています。
一見、強力に見える悪魔のこの世での支配力も、神によって定められています。悪は最後の日に向かって成熟しなければならないのであり、そしてさばきの時に至るのです。悪魔と反キリストとにせ預言者とは、3年半の間、驚くべき大きな国を建てます。そして反キリストが全世界で神として礼拝されます。しかし神である主は、はっきりとした目的を持っておられます。終わりの時代において、主はその力を、さばきを通して明らかにされます。このさばきについては黙示録17章と18章で記されています。
黙示録17章では、バビロンは淫婦としてローマに中心を持つ世界宗教として描かれています。黙示録18章では、バビロンは世界の政治と商業と富と汚れの中心地として描かれています。
このバビロンは悪霊の住みかであり、バビロンの精神は、悪魔の精神です。今日のローマカトリック教会も悪霊に支配されています。カトリック教会の偶像礼拝は、霊的な姦淫です。国家の力と結びつくことも霊的な姦淫です。ローマ・カトリック教会はただひとつの目的を追求しています。国家の力を利用して世界の支配を実現することです。
教会も人間もともに、聖霊に満たされるか、悪霊に満たされるかのいずれかであり、その中間はありません。私たちは、そのいずれでしょうか。神の霊だけが私たちを導かれるのでしょうか。主イエス様だけがすべての栄光をお受けになることが私たちの望みとなっているでしょうか。終わりの時代においては、反キリストの国と、いわゆる宗教は、ともに悪霊によって導かれることが明らかにされます。「バビロン」は神に対する敵対の中心を指しています。それはまた、闇と真の信者に敵対する力の中心でもあります。
今日、神に敵対する「バビロン」は盛え、その力を誇っています。しかし終わりの時には、「バビロン」は荒れ果てた所となるのです。これがまことの神から離れた文化と宗教とに対する報いです。かつてのバビロンは、宗教と経済の中心でした。エレミヤ51章14節には、「必ず、わたしはばったのような大群の人をあなたに満たす。彼らはあなたに向かって叫び声をあげる。」と記されています。バビロンはかつては喜びの声に満たされていました。しかしそのバビロンは、恐ろしいほど変わってしまったのです。
万国を打った鉄槌は、どうして折られ、砕かれたのか。バビロンよ。どうして国々の恐怖となったのか。(エレミヤ50・23)
剣がその馬と車と、そこに住む混血の民にも下り、彼らは女のようになる。剣がその財宝にも下り、それらはかすめ取られる。(エレミヤ50・37)
見よ。一つの民が北から来る。大きな国と多くの王が地の果て果てから奮い立つ。(エレミヤ50・41)
来るべき「バビロン」であるローマは、偶像礼拝へと導かれ、ますます堕落したものになります。これに対するさばきは、文化と宗教の堕落です。ローマ・カトリック教会は、神のみことばによる権威を放棄し、神の戒めに対しては無関心になっています。その結果、真の力を失い、偽りの力を求めるようになりました。中世の終わりにおいて、カトリック教会は真の信者たちを迫害し、多くの人々を殺しました。霊的な姦淫と富、権力を求めることがカトリック教会を大きくしたのです。
[2]バビロンにいる神の民に対する警告
「バビロン」の罪は4節から5節にあるように、積み重なってさばきに向かって成熟します。しかし「バビロン」はそのことに気がつきません。罪はいつも人をめくらにします。ここに記されている天から響く声とは主イエス様の声です。その呼びかけは、「わが民よ。」から始まっています。信者は神の民であり、イエス様の民です。このことを通して私たちは、「バビロン」にも真の神の民がいることを知ることができます。どのような教会、どのような組織の中にも真のキリスト者が存在しています。そして主イエス様は、ご自分に属する者たち一人一人をよく知っておられるのです。
それにもかかわらず、神の不動の礎は堅く置かれていて、それに次のような銘が刻まれています。「主はご自分に属する者を知っておられる。」また、「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」(第二テモテ2・19)
よく、「人間はどのような教会に属していても、救われてさえいれば構わない」と言う人がいます。しかしこれは間違いです。聖書には「主の御名を呼ぶ者は、だれでも不義を離れよ。」と示されているからです。ですから主は、「バビロン」に向かって、その中から真の信者が離れるように、その「バビロン」の悪に染まらないようにと呼びかけておられます。つまり、あらゆる悪との交わりを捨て去ることが大切です。そしてこの主の呼びかけは、いつの時代にも当てはまります。主は、すべての罪から離れ、妥協することなく、ご自分の側につくことを求めておられるのです。
アブラハムもかつて偶像礼拝の中から呼び出されました。
その後、主はアブラムに仰せられた。「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、わたしが示す地へ行きなさい。」(創世記12・1)
ロトもまた、ソドムとゴモラから呼び出されました。
ふたりはロトに言った。「ほかにあなたの身内の者がここにいますか。あなたの婿やあなたの息子、娘、あるいはこの町にいるあなたの身内の者をみな、この場所から連れ出しなさい。わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」そこでロトは出て行き、娘たちをめとった婿たちに告げて言った。「立ってこの場所から出て行きなさい。主がこの町を滅ぼそうとしておられるから。」しかし、彼の婿たちには、それは冗談のように思われた。(創世記19・12~14)
主はイスラエルの民に、モーセを通して、コラとその子供らから離れることを要求されました。
主はモーセに告げて仰せられた。「この会衆に告げて、コラとダタンとアビラムの住まいの付近から離れ去るように言え。」モーセは立ち上がり、イスラエルの長老たちを従えて、ダタンとアビラムのところへ行き、そして会衆に告げて言った。「さあ、この悪者どもの天幕から離れ、彼らのものには何にもさわるな。彼らのすべての罪のために、あなたがたが滅ぼし尽くされるといけないから。」(民数記16・23~26)
彼らとすべて彼らに属する者は、生きながら、よみに下り、地は彼らを包んでしまい、彼らは集会の中から滅び去った。このとき、彼らの回りにいたイスラエル人はみな、彼らの叫び声を聞いて逃げた。「地が私たちをも、のみこんでしまうかもしれない。」と思ったからである。また、主のところから火が出て、香をささげていた二百五十人を焼き尽くした。(民数記16・33~33)
主は、バビロンがメディアとペルシャとによって滅ぼされる前に、ご自分の民を呼び出されました。
「バビロンの中から逃げ、それぞれ自分のいのちを救え。バビロンの咎のために断ち滅ぼされるな。」(エレミヤ51・6)
「わたしの民よ。その中から出よ。主の燃える怒りを免れて、おのおの自分のいのちを救え。」(エレミヤ51・45)
新約聖書においても私たちはこれと同じような神の呼びかけを見ることができます。ペテロはこの悪の時代から救われなさいと言っています。
ペテロは、このほかにも多くのことばをもって、あかしをし、「この曲がった時代から救われなさい。」と言って彼らに勧めた。(使徒2・40)
パウロはコリントの教会に向かって、偶像礼拝を離れなさい、不信仰と汚れとから離れなさいと言っています。
ですから、私の愛する者たちよ。偶像礼拝を避けなさい。(第一コリント10・14)
不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(第一コリント6・18)
パウロはまた、テモテに対して、若いときの情欲を離れなさいと言っています。
それで、あなたは、若い時の情欲を避け、きよい心で主を呼び求める人たちとともに、義と信仰と愛と平和を追い求めなさい。(第二テモテ2・22)
しかし、神の人よ。あなたは、これらのことを避け、正しさ、敬虔、信仰、愛、忍耐、柔和を熱心に求めなさい。(第一テモテ6・11)
さらにペテロは、信者たちが恥ずべき欲望とこの世の汚れとから身を避けなさいと言っています。
その栄光と徳によって、尊い、すばらしい約束が私たちに与えられました。それは、あなたがたが、その約束のゆえに、世にある欲のもたらす滅びを免れ、神のご性質にあずかる者となるためです。(第二ペテロ1・4)
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(第二ペテロ2・20)
これらはすべて同じことを意味しています。つまり「悪を避けて彼らの中から逃れよ」ということです。
「それゆえ、彼らの中から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。汚れたものに触れないようにせよ。そうすれば、わたしはあなたがたを受け入れ、わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。」(第二コリント6・17~18)
「バビロン」は、主に対立するものです。したがって主は、ご自分に属する者たちがその堕落した宗教との関係を断ち切ることを求めておられます。なぜローマ・カトリック教会は、神に対して対立するのでしょうか。
ローマ・カトリック教会は、神の模倣を試みながら、神のもっとも愛しておられる主のみからだである教会を迫害し、自分たちこそが真の教会であると主張してきました。ヨシュア記7章を見ると、カルミの子アカンは、聖絶された外套や金銀を盗みました。その結果アカンは石で打ち殺され、神はイスラエルから離れ去ったのです。主は私たちにはっきりとした態度を取ることを要求しておられます。
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。(ローマ12・2)
真の信者はこの世の人のようであってはなりません。真の信者はこの世では異質な者でなければならないのです。真の信者は主なる神にのみ仕えることを選びます。
もしも主に仕えることがあなたがたの気に入らないなら、川の向こうにいたあなたがたの先祖たちが仕えた神々でも、今あなたがたが住んでいる地のエモリ人の神々でも、あなたがたが仕えようと思うものを、どれでも、きょう選ぶがよい。私と私の家とは、主に仕える。(ヨシュア24・15)
それは、この世から離れ去るのではなく、この世にあって寄留者のように生きることを意味します。ちょうどイエス様がそうであったように。
終わりの時代にあって、「外に出よう」ということは、主の語りかけです。私たちは教会が「バビロン」であると自らを称するときには、そして教会と行動を共にすることができないときには、そこから出ていかなければならないのです。
[3]神のさばきの手段についての要求
次に、6節から8節を見てみましょう。すべての罪がさばかれます。特に傲慢がさばかれるのです。この箇所には、「彼女が支払ったものをそのまま彼女に返し、彼女の行いに応じて二倍にして戻しなさい。」とあります。「バビロン」は自ら生ける神を離れて、罪を犯しただけでなく、他の人々を罪に誘うという二重の罪を犯したのです。人々は救いに導かれるどころか、罪に導かれたのです。
思い違いをしてはいけません。神は侮られるような方ではありません。人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。(ガラテヤ6・7)
人は蒔いたものを刈り取らなければなりません。ローマ・カトリック教会も、恐ろしいさばきを刈り取らなければならないのです。収穫の刈り入れでは、かつて蒔いた種が何倍にも増えています。「風を蒔く者は嵐を刈り取る」とホセア書の8章7節に記されている通りです。
彼らは風を蒔いて、つむじ風を刈り取る。麦には穂が出ない。麦粉も作れない。たといできても、他国人がこれを食い尽くす。(ホセア8·7)
これは、善についても悪についても同じように当てはまります。ですから、罪が大きければ大きいほど、さばきもまた大きくなるのです。イエス様だけが、罪を赦し恥を覆ってくださいます。罪の中心は、自分を正しいとする心です。神だけに帰せられる栄光を、自分にものにしようとすることが罪なのです。
射手を呼び集めてバビロンを攻め、弓を張る者はみな、これを囲んで陣を敷き、ひとりものがすな。そのしわざに応じてこれに報い、これがしたとおりに、これにせよ。主に向かい、イスラエルの聖なる方に向かって高ぶったからだ。(エレミヤ50・29)
まことに、万軍の主の日は、すべておごり高ぶる者、すべて誇る者に襲いかかり、これを低くする。高くそびえるレバノンのすべての杉の木と、バシャンのすべての樫の木、すべての高い山々と、すべてのそびえる峰々、すべてのそそり立つやぐらと、堅固な城壁、タルシシュのすべての船、すべての慕わしい船に襲いかかる。その日には、高ぶる者はかがめられ、高慢な者は低くされ、主おひとりだけが高められる。(イザヤ2・12~17)
しかし、万軍の主は、さばきによって高くなり、聖なる神は正義によって、みずから聖なることを示される。(イザヤ5・16)
自分を中心とした生活と、そこから生じる傲慢から、自分が中心にならなければ我慢ができないという態度が生まれてきます。「バビロン」もまた、自らを誇りとしたことが7節に書かれています。
彼女が自分を誇り、好色にふけったと同じだけの苦しみと悲しみとを、彼女に与えなさい。彼女は心の中で『私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。』と言うからです。(黙示18・7)
古代のバビロンもまた、自分の名をあげようとしたのです。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11・4)
この態度に対して、主はさばかれました。
ところがアブラハムは、まったく逆の態度をとりました。アブラハムは自分の名誉ではなく、神の名誉だけを心にかけていたのです。ですから主なる神は、アブラハムの名を高めると約束されたのです。
「そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。あなたの名は祝福となる。」(創世記12・2)
イエス様はご自分に属する者たちに祝福を与えようとしておられます。「バビロン」はイエス様の栄光ではなく、自分の栄光を現わそうとしたのです。「バビロン」は、18章の7節で「私は女王の座に着いている者であり、やもめではないから、悲しみを知らない。」と語っています。この言葉には傲慢と高ぶりが現われています。人は神に頼ることを求めないで自分が中心に立とうとします。しかし神から離れて独立することは、ちょうどやもめになるのと同じことです。神から離れることは孤独になることです。「バビロン」は自らの富を誇り、神から離れているむなしさに気がつきません。
18章の7節の表現に注意しましょう。「彼女は心の中で・・・・と言うからです。」とあります。つまり、それはひとり言です。私たちは同じようなひとり言を、聖書の中で見い出すことができます。
「まことに、あなたがたに告げます。その主人は彼に自分の全財産を任せるようになります。ところが、それが悪いしもべで、『主人はまだまだ帰るまい。』と心の中で思い、・・・・。」(マタイ24・47、48)
マタイ24章48節の悪いしもべは、「主人はまだまだ帰るまい。」と、心の中で思っています。また、ルカの福音書12章16節から19節には、ある金持ちの心と言葉が記されています。
「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。「どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。』」(ルカ12・16~19)
ラオデキヤの教会は、黙示録3章17節で、「自分は豊かになった。乏しいものは何もない」と言っています。
「あなたは、自分は富んでいる、豊かになった、乏しいものは何もないと言って、実は自分がみじめで、哀れで、貧しくて、盲目で、裸の者であることを知らない。」(黙示3・17)
これらの言葉の中に、自分を誇りとし、自分でめくらになっている者の姿が描かれています。「バビロン」は、「自分の罪を憐れんでください」と祈る人々と大きな違いがあります。このように祈る人には救いと解放が与えられますが、「バビロン」は、ただ自分のことだけを考えています。「バビロン」は自分だけを愛し、自分だけを大切にします。同情心や思いやり、心遣いなどのやさしい心を「バビロン」は全然知ろうともしないのです。
「バビロン」は7節にある通り、「悲しみを知らない。」と言い、いつまでも栄えることができると思っているのです。
2.この世の悲しみと天国の喜び
[1]力ある者と富む者と創造力を持つ者の嘆き
続いて、9節から20節までを見ていきましょう。
二千年ほど前から、ローマは永遠の都であると言われてきました。しかし、この都はまもなく滅び去ります。この世の王や支配者、富や交易や産業、それは一瞬のうちに荒れすたれてしまうのです。つまり、政治、経済、交通の3つの領域が破滅するのです。
9節の地上の王たちとは、黙示録17章1節の十人の王たちのことでしょう。これらの王たちは、神が「バビロン」へのさばきを行なうための道具とされたのです。そして彼らは、「バビロン」の破滅によって大きな損失を被ることになりました。終わりの時代の教会の破滅と共に、地上の王たちは、その欲望を追求することができなくなります。
続く11節には、「商人たち」の嘆きが詳しく述べられています。「バビロン」の滅びとともに「バビロン」の経済も破滅するのです。ここには三十の商品の名前が記されていますが、いずれも、もっとも価値のある、高価なものばかりです。そして莫大な富の集まるところには、道徳的な堕落が生じてきます。富が集まれば、当然社会的な不公平も生じてきます。三十の高価な商品は、裕福な階層の人々が求める品々であり、彼らの欲望が何を求めているかを示しています。その欲望はこの世の外面的なものに対して向けられています。ここに書かれた商品は、物質として貴重で重要なものではありますが、人の心がそれらに奪われるときには、否定的な意味が強くなります。なぜなら、これらによって社会的な不公平が生じ、人間が物質の奴隷となりはてるからです。ローマの富は、ヨハネの時代にはたいへん強大なものでした。ユダヤの経典タルムードには、「この世の富の90パーセントはローマに集められた」と書かれています。世界中の商人と商品とがローマに流れ込んでいたのです。
また、「ローマにないものは世界のどこにもない」という格言もあります。多くの商品がアラビアやインドや中国やアフリカからローマにもたらされました。ローマの皇帝は、水ではなく香水の中で体を洗いました。しかもそれを一度使っただけで捨ててしまったのです。着物も一度着ただけで捨てていました。皇帝は、旅行に出るときには千台以上の車を従えて行きました。また、銀の風呂で入浴をしました。ローマ帝国には、六千万の奴隷がいました。奴隷を持っていないということは、着物や家を持っていないのと同じことでした。貧しい市民でも数人の奴隷を持っていたのです。
最盛期のローマには、一つの家庭が四百人以上の奴隷を持つこともまれではなかったのです。大きな地主は、一万人以上の奴隷を持っていました。ローマにおいてはあらゆるものを見ることができ、あらゆるものを所有することができました。のちにローマ・カトリック教会は「罪の赦し」を金で売りました。ルターは、「ローマは何でも金で売ろうと思っている」と叫んで怒りました。「神であろうと、イエス様であろうと、聖霊であろうと、売れるものなら金を儲けるために何でも売ろうとしている」と叫びました。まさに世界の富はローマに集められ、人間の欲望はとどまるところを知らなかったのです。
このようにして、ローマは逃れることのできないさばきに向かっていました。ローマの持つ富と権力をめぐって、「淫婦」と「獣」、つまり教会と国家の関係がこじれていきます。教会と国家がともに主なるまことの神に反抗する結果、この両者の関係は決して良いものにはならないのです。罪を犯せば真の交わりがなくなるのは当然で、そこには偽りの交わりしか残りません。罪によって、交わりは壊されます。人がこの世のことだけを考え、自分の利益だけを追及しているときには、人と人との交わりは失われてしまいます。そして、物質的な富だけを大切にして他の人を利用しようとする人に対しては、神のさばきは容赦なく下されるのです。
「バビロン」は、羊の皮をかぶった狼のようなものです。「バビロン」に属する人々は神に仕えていると言いながら、人を主イエス様のもとに導こうとしません。その逆に、真の信者を憎み、迫害し、殺害します。その結果は、悲劇的なさばきに終わります。
「バビロン」に対するさばきの後で、政治や経済や交通はまひ状態になります。どのように懇願しても、この状態を回復することができません。あらゆる懇願の結果は絶望と失望と落胆があるのみです。政治家や権力者の源が、生けるまことの神の中に置かれていないときは、すべては無力です。商人たちの富が神ご自身を知ることに用いられないなら、彼らは、非常な貧しさを体験させられます。
物を造り出す者、海で働く者たちがその報酬であるパンを神の御手から受け取るのでなければ彼らは「バビロン」のさばきの時に、もはやパンを得ることすらできなくなるのです。
また、「わざわいが来た。わざわいが来た。」と繰り返す言葉が、10節、16節、19節と三回も繰り返されていることは、そのさばきが大変厳しいことを示しています。この繰り返される三つの「わざわいが来た。」という言葉に対して、20節には「喜びなさい。」という言葉が出てきます。この言葉は、ここに表現される喜びが大変大きなものであることを示しています。
主なる神の民にとって必要なことは、復讐を行なうことではなく、すべてを神に栄光を帰することです。神は人間には文化が必要なことを知っておられます。それは人間が動物化することなく、地上を豊かに、平和にすることを望んでおられるからです。しかし人間は、知識によっておごり高ぶり、その力を互いに支配しあうために用いています。そして神に対して心を閉ざしています。こういった態度に対してさばきが下されるのです。
もし、不正と罪をさばかないとすると、神は偶像にすぎません。しかし聖書の神は聖なるお方であり、さばく神でもあります。そして神のさばきは正しいのです。18章には、悲しみの叫びに対して、喜びの声があがっています。バビロンに従い、自分のことだけを考えた人々は、嘆き悲しむことになります。
すると彼らはすっかり分別を失ってしまって、イエスをどうしてやろうかと話し合った。(ルカ6・11)
「いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。」(ルカ6・25)
[2]聖徒たちと使徒たちと預言者たちの喜び
これに対して、神に栄光を帰した人々は、どのような苦しみをも喜びをもって乗り越えることができます。次の19章を見ると、聖徒たちと使徒たちと預言者たちの喜びが述べられています。くわしくは次章で学びますが、ここでその要旨を少しだけまとめておきましょう。
まず、「聖徒たち」とは、神の側に立ち、汚されることのない人々です。この世においては、彼らは異邦人であり、寄留者です。彼らは毎日主イエス様の再臨を待ち望んでいます。次に、「使徒たち」とは、遣わされた人々のことです。彼らは自分の思いで行動するのではなく、主なる神の支配の下に立つ人々です。彼らの思いは「主よ。お語りください。しもべは聞いております」という態度を守ることです。「ここに私がおります。私を遣わしてください」という思いです。彼らの意思は神に聞き従うことです。そして、「預言者」とは、主なる神によって力を与えられた人々のことです。彼らは神の口となり、神のみことばを伝えます。彼らは自己の思想を伝える者ではなく、神のみことば、神の判断を伝える者です。このように聖徒、使徒、預言者が、神の前に喜んでいるのです。彼らの喜びの根底は、勝ち取られた神の勝利です。彼らは主なる神の計画が成就したことを喜びます。神のご計画によれば、「バビロン」は滅ぼされなければなりません。なぜならば、「バビロン」は「惑わし者」であったからです。
3.さばきのしるし
さて、21節から24節に進みましょう。ここには御使いの象徴的な行ないが記されています。御使いが石を海の中に投げ入れて、「バビロン」がこのように打ち倒されると言っています。「バビロン」は石が投げ落とされるように、大きな高ぶりから打ち倒されるのです。私たちはこのような歴史的な前例を、古代バビロンの滅亡に見ることができます。バビロンの滅亡はエレミヤによって預言されました。ここにも、石が出てきます。
この書物を読み終わったなら、それに石を結びつけて、ユーフラテス川の中に投げ入れ、『このように、バビロンは沈み、浮かび上がれない。わたしがもたらすわざわいのためだ。彼らは疲れ果てる。』と言いなさい。(エレミヤ51・63、64)
しかし、終わりの時代の「バビロン」は、もっと恐ろしいことになります。その罪が、はるかに大きいからです。
この「バビロン」に対するさばきは、最後のさばきです。石が水の中に沈むように、「バビロン」は完全に破滅するのです。
主はパロの戦車も軍勢も海の中に投げ込まれた。えり抜きの補佐官たちも葦の海におぼれて死んだ。大いなる水は彼らを包んでしまい、彼らは石のように深みに下った。(出エジプト15・4、5)
あなたが彼らの前で海を分けたので、彼らは海の中のかわいた地を通って行きました。しかし、あなたは、奔流に石を投げ込むように、彼らの追っ手を海の深みに投げ込まれました。(ネヘミヤ9・11)
[1]文化の領域
「`バビロン」の滅亡については、黙示録で14回記されています。まず、文化的な領域についての滅亡です。
・音楽
22節にある立琴や歌の声は、この世的な音楽を意味します。笛とラッパは宗教的な音楽を意味します。かつては音楽は喜びを表わすものでしたが、さばきの後では、そのような音楽や歌声は聞かれなくなります。
・工芸
次の箇所には、職人のことが記されています。都市、文化の根底は、物を作る職人たちの技術によっています。この職人が見られなくなるということは、都市、文化の崩壊を示しています。
・食べ物
次に続く、ひき臼の音も聞かれなくなるとあるのは、ひき臼でひくべき粉がなくなることを示しています。食べ物の基本であるパンがなくなるために、誰も生きていけなくなります。
・文明
文明もまた崩壊します。25節の、ともしびの光りが輝かなくなるということは、家のともしびが消されることです。それは、人間の文明の基本が消え去ることです。
・家族
花婿や花嫁の声が聞かれなくなるということは、もはや家族や家庭が絶え、共同生活が、失われることを意味しています。
これら、五つの文化の領域は、神からの五つの賜物です。しかし、偽りや略奪や富や不道徳が世界を支配するときには、神のさばきがくだされるのです。さばきの後では、「バビロン」は墓場のごとく暗く、静かになるのです。
[2]さばきの理由
23節の後半からは、その理由が三つ、示されています。
・商人
商人はこの地上の力ある者のひとつです。商人は影響力を持つだけでなく、大きな力を持ち、売上と利潤を追い求めるために、神も、他の人々のことも忘れてしまいます。これは、エゴイズムであり、ときには道徳的な拘束力を破り捨ててはばからなくなります。
残念なことに、終わりの時代の教会には、同じことが起こります。教会の使命は、神のために生き、天の宝とされることです。しかし教会は自らの利益のために生き、世界の宝を自分のところに集めるようになります。いかに多くの資金が、寺院を建て、壮麗な装飾を装い、祭礼を行なうことのために費やされることでしょうか。
この自己中心の思いが、終わりの時代のさばきの原因となるのです。
・魔術
23節の最後には、「すべての国々の民がおまえの魔術にだまされていたからだ。」とあります。これもさばきの原因となります。淫婦たちの呪術については、次のように記されています。
子を失うことと、やもめになること、この二つが一日のうちに、またたくまにあなたに来る。あなたがどんなに多く呪術を行なっても、どんなに強く呪文を唱えても、これらは突然、あなたを見舞う。(イザヤ47・9)
これは、すぐれて麗しい遊女、呪術を行なう女の多くの淫行によるものだ。彼女はその淫行によって国々を、その魅力によって諸部族を売った。(ナホム3・4)
主イエス様は、「つまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みで溺れ死んだほうがましです。」と言われました。
「しかし、わたしを信じるこの小さい者たちのひとりにでもつまずきを与えるような者は、大きい石臼を首にかけられて、湖の深みでおぼれ死んだほうがましです。」(マタイ18・6)
このようなつまずきは、「まちがった宗教の責任」です。まちがった教会は、主イエス様のもとに人を導くことをしないで、人々をまちがった方へと導いていくのです。
ローマ・カトリック教会は、「人は洗礼を受けることにより救われる」とか、あるいは「人は良い行ないによって救われる」と教えています。
また、まちがった宗教は、自己の利益を実現する手段ともなります。自己の利益に仕えることが、道徳的にも正しいと教えられます。その結果、自己の利益の追求を助けてくれるものが神となり、善悪を判断する尺度はただ利益のみ、ということになっていきます。宗教的な儀式にすぎない幼児洗礼とかミサとかは、聖書によれば魔術であり偶像礼拝です。
真の教会は、真理の土台であり柱でなければなりません。
それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。(第一テモテ3・15)
[3]良心の問題
第三のさばきの原因は、24節にある預言者と聖徒の血が「バビロン」で流されたことにあります。真の信者は、常にまちがった教会からは妨げとされ、「良心を刺すとげ」としてのけ者になります。ですから彼らは憎まれ、迫害され、殺されたのです。人々は、主イエス様の証人の証しができないようにし、そして殺したのです。このゆえに、さばきがくだされます。
まことの教会は、主イエス様のために証しをし、そのために苦しみを受けます。
あなたがたは、キリストのために、キリストを信じる信仰だけでなく、キリストのための苦しみをも賜わったのです。(ピリピ1・·29)
確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。(第二テモテ3・12)
しかし、偽りの教会は、主イエス様の証人に反抗し、彼らを死に追いやります。
主イエス様の支配が拒まれるところにおいては、神のさばきがくだされるのです。
バビロンの王であるニムロデは、バビロンの町とバベルの塔とを建設しました。しかし、バビロンの町が滅びたときに塔もまた崩れ去りました。しかし、人智によりたのみ、壮麗さを誇ろうとするバベルの精神は、全世界を捕らえたのです。終わりの時代にはこのことがますますはっきりしてきます。
バビロンは一方においては、自己の力による文化と教育と政治との中心地であり、他方において、堕落した教会、すなわちおもにローマ・カトリック教会の象徴です。
新約聖書には、悪魔的な体制としてのバビロンについて、三十回述べられています。この世界体制の支配者はサタンです。
「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。」(ヨハネ12・31)
「わたしは、もう、あなたがたに多くは話すまい。この世を支配する者が来るからです。彼はわたしに対して何もすることはできません。」(ヨハネ14・30)
「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。」(ヨハネ16・11)
私たちは神からの者であり、全世界は悪い者の支配下にあることを知っています。(第一ヨハネ5・19)
「わたしは、あなたの住んでいる所を知っている。そこにはサタンの王座がある。しかしあなたは、わたしの名を堅く保って、わたしの忠実な証人アンテパスがサタンの住むあなたがたのところで殺されたときでも、わたしに対する信仰を捨てなかった。」(黙示2・13)
この世の世界体制の精神は、まったく罪に根ざしています。
キリストは、今の悪の世界から私たちを救い出そうとして、私たちの罪のためにご自身をお捨てになりました。私たちの神であり父である方のみこころによったのです。(ガラテヤ1・4)
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。(コロサイ1・13、14)
主であり救い主であるイエス・キリストを知ることによって世の汚れからのがれ、その後再びそれに巻き込まれて征服されるなら、そのような人たちの終わりの状態は、初めの状態よりももっと悪いものとなります。(第二ペテロ2・20)
貞操のない人たち。世を愛することは神に敵することであることがわからないのですか。世の友となりたいと思ったら、その人は自分を神の敵としているのです。(ヤコブ4・4)
イエスを告白しない霊はどれ一つとして神から出たものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていたのですが、今それが世に来ているのです。(第一ヨハネ4・3)
しかし、この世の世界体制は、まもなく過ぎ去り、滅び去ります。
世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。(第一ヨハネ2・17)
また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万軍の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。(黙示19・11~16)
また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕らえ、これを千年の間縛って、底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。(黙示20・1~3)
この世の世界体制の精神の特徴は、所有欲と高ぶりと迫害です。その結果は戦争です。この精神は、信者に対していつも誘惑しようとします。
すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。(第一ヨハネ2・16)
それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示18・4、5)
主イエス様は、十字架の死を通して、すでに完全な勝利を得られました。そのとき、主なる神によって、堕落した宗教と神なきローマ帝国とがこの目的のために用いられました。
十字架につかれたイエス様の罪状書きは三つの国の言葉で記されました。しかしこの罪状書きは実は本当の罪状書きではありませんでした。その言葉は、「ユダヤ人の王イエス」と読まれたのです。ヘブライ語は宗教の言葉であり、ギリシャ語は文化の言葉であり、ラテン語は政治の言葉です。
その当時、ユダヤ人は、神の子イエス・キリストを受け入れようとしませんでした。彼らはまことの神とイエス・キリストなしに天国を作ろうとしたのです。この努力の結果は破局であったと、黙示録の中に記されています。この世のものに拠り所を持とうとする者は、破局に終わります。しかし主イエス様に望みを置く者は、神の永遠の栄光を受けるのです。
黙示録の18章は、三つの良心の問題を私たちに問いかけています。
まず、私たちは、まだ崩壊した「バビロン」の中にいるのでしょうか。あるいはそこから出ているのでしょうか。私たちの周囲の人々は、「バビロン」の精神に支配されています。私たちはこのような環境の中で妥協し、平然としているのでしょうか。あるいは、悩んでいるのでしょうか。
私たちは主イエス様の側に立ち、主イエス様の証しをしているのでしょうか。私たちは人々がこのような環境の中から救い出されることを本当に心にかけ、願っているでしょうか。
私たちは本当に、主イエス様のもとに他の人々を導こうとしているのでしょうか。
次に、私たちは、この世の終わりが来るとき、外側のすべてのものを奪い取られて乞食のようになるか、あるいは主イエス様の豊かな恵みと富にあずかる者となるかのいずれかです。私たちの生活の目的は何でしょうか。私たちは何に支配されているのでしょうか。
また、困難、苦しみ、迫害が襲ってくるときに、私たちの態度はどうでしょうか。私たちは、あらゆる攻撃の中で、主イエス様が勝利を得られたということを喜んで、それに耐えているでしょうか。
主イエス様の勝利がまもなく明らかにされる、という確信を持つ私たちは幸いです。
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