31.三つの「ハレルヤ」と小羊の婚姻
黙示録19章1節から10節まで
1.バビロンの崩壊に対する喜びの歌
[1]第一番目の「ハレルヤ」(救い)[2]第二番目の「ハレルヤ」(さばき)
[3]第三番目の「ハレルヤ」(支配)
2.小羊の婚姻
[1]「花婿」とは誰か[2]「花嫁」とは誰か
[3]「招待客」とは誰か
(1)この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。(2)神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(3)彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」(4)すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。(5)また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」
(6)また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(7)私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(8)花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。」(9)御使いは私に「小羊の婚宴に招かれた者は幸いだ、と書きなさい。」と言い、また、「これは神の真実のことばです。」と言った。(10)そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」(黙示19・1~10)
黙示録19章全体を通しての主題は、「イエス様のご再臨」、「勝利者であるイエス様」、「反キリストの時代の終わり」、「地が再び創造者の所有に戻されること」です。
まず19章1節から10節までを、主題別に前半(1~5節)と後半(6~10節)に分けて考えてみましょう。
1.「バビロン」の崩壊に対する喜びの歌
人間の歴史は、二つの方向に向かって進んでいきます。悪魔か神かの、いずれかの方向です。
悪魔は神から力を与えられています。終わりの時代において、その力が明らかにされます。この世界全体が一つの巨大な「バビロン」の王国として統一されるときこそ、悪魔はその力をあらわにします。悪魔は思い上がり、まるで生ける神が死んだかのように振るまうのです。
しかし、主なる神が沈黙しておられるのは、しばらくの間だけです。罪が満ちわたって後に、神のさばきが下されるのです。黙示録16章を通して、私たちは神の恐るべきさばきについて学んできました。「バビロン」は滅ぼされ、地上には「バビロン」の崩壊を悼む大きな悲しみが起こります。しかし、「バビロン」の崩壊が大きければ大きいほど、天における喜びは大きいのです。天におけるこの大きな喜びを、黙示録1章のはじめに見ることができます。
この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(黙示19・1~2)
罪の悔い改めがあるとき、天には大きな喜びが湧き起こります。しかし黙示禄19章に記されている喜びは、それにも増して大きいのです。なぜこの喜びは、そんなにも大きいのでしょうか。主なる神のご目的とご計画が、このとき成就するからです。
イエス様の今現在のご目的は、失われた人々を救い出し、みからだである教会を建てあげることです。悪魔の目的は、人の目をくらまして偽りの教会を建てることです。この偽りの教会が、「バビロン」です。
「バビロン」崩壊から千年の間、イエス様のみからだであるまことの教会は、イエス様と共に地上を支配します。これを千年王国と呼びます。このとき、教会は「聖なる都」と呼ばれます。
私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。・・・・また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」(黙示21・2、9)
悪魔もこれを模倣して教会を建てますが、この教会は「聖なる都」ではなく、「大きな都」と表現されています。
また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。」(黙示18・21)
イエス様のみからだであるまことの教会は、またの名を「キリストの花嫁」と呼ばれ、悪魔の偽りの教会は「大淫婦」(19章2節)と呼ばれるのです。
悪魔に対するさばきは、徹底して行なわれます。悪魔が打ち倒されさばかれる時の天上の喜びはたいへん大きなものです。「小羊の婚姻」は、大淫婦であるにせの教会に神のさばきが下された後で、実現されます。
黙示録19章20節において、天に住む者たちに、「喜びなさい」という命令が与えられています。
「おお、天よ、聖徒たちよ、使徒たちよ、預言者たちよ。この都のことで喜びなさい。神は、あなたがたのために、この都にさばきを宣告されたからです。」(黙示18・20)
この「喜びなさい」という命令が、19章で実現されます。天上の者たちが「ハレルヤ」と叫んでいます。新約聖書の中では、黙示録19章で初めて「ハレルヤ」ということばが出てきます。「ハレルヤ」とは喜びの表現です。「ハレルヤ」とは、「主をほめよ」という意味です。
黙示録18章には、三種類の人々の嘆き悲しむさまが記されています。地上の王(9節)と、商人(11節)と、荒れすたる都の富を惜しむ人々(19節)の嘆き声です。
彼女と不品行を行ない、好色にふけった地上の王たちは、彼女が火で焼かれる煙を見ると、彼女のことで泣き、悲しみます。(黙示18・9)
また、地上の商人たちは彼女のことで泣き悲しみます。もはや彼らの商品を買う者がだれもいないからです。(黙示18・11)
それから、彼らは、頭にちりをかぶって、泣き悲しみ、叫んで言いました。「わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。海に舟を持つ者はみな、この都のおごりによって富を得ていたのに、それが一瞬のうちに荒れすたるとは。」(黙示18・19)
これに対し、黙示録19章では、三種類の「ハレルヤ」が歌われています。旧約聖書でも、詩篇の中に「ハレルヤ」ということばが、二十一回出てきます。例えば次のようです。
罪人らが地から絶え果て、悪者どもが、もはやいなくなりますように。わがたましいよ。主をほめたたえよ。ハレルヤ。(詩篇104・35)
黙示録19章における「ハレルヤ」は、自分個人への恵みに対して主をたたえる歌声ではなく、「最終的な神の勝利」をたたえる歌声です。悪魔とその仲間が滅びるとき、「ハレルヤ」が高らかに歌われるのです。
[1]第一番目の「ハレルヤ」(救い)
この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。救い、栄光、力は、われらの神のもの。神のさばきは真実で、正しいからである。神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。」(黙示19・1~2)
黙示録19章1節から2節に見られる第一番目のハレルヤは、神の救いの力に対して歌われています。
彼らは、大声で叫んで言った。「救いは、御座にある私たちの神にあり、小羊にある。」(黙示7・10)
そのとき私は、天で大きな声が、こう言うのを聞いた。「今や、私たちの神の救いと力と国と、また、神のキリストの権威が現れた。私たちの兄弟たちの告発者、日夜彼らを私たちの神の御前で訴えている者が投げ落とされたからである。」(黙示12・10)
神は、私たちにとって救い主であり、救いを欲しておられ、救いを与えるお方です。救いの力を現わすために、神は反キリスト、にせ預言者の力を打ち壊されました。主なる神のさばきは、神をあかしするために血を流した者たちの復讐のためにもなされるのです。
神はもちろん、生きておられます。神の本質は、恵みと寛容です。神は人間を救い、そして、癒そうとしておられます。神は常に、聖なる神であられます。人は、神を拒むときにさばきを受けるのです。この地上を神なしで天国にしようとする人間の試みのすべては、失敗に終わります。
[2]第二番目の「ハレルヤ」(さばき)
彼らは再び言った。「ハレルヤ。彼女の煙は永遠に立ち上る。」(黙示19・3)
黙示録19章3節に見られる第二番目の「ハレルヤ」は、神のさばきに対して歌われています。さばきは神の勝利です。さばきの目的は、神だけに栄光を帰することです。「神をほめよ」ということばが、ここに響き渡っているのです。神のさばきは正しく、しかも真実です。煙は永遠に立ち上ります。「永遠に立ち上る煙」とは、「人間の力によることがむなしい」ことを表しています。人間の世界の移ろいやすさに対して、神の偉大さは変わることがなく、永遠です。神の義を求める者は、永遠に神をほめたたえます。すべての人々は、神のさばきが真実で正しいと告白せざるをえません。
それではなぜ、神のさばきは正しいのでしょうか。まず、神だけが、人間の心の奥にある思いと動機とを見抜くことがおできになるからです。そして、神だけが、差別や偏見にとらわれることなく、完全に公正にさばくことがおできになるからです。神だけが、正しいさばきに必要な知恵と力とを持っておられます。
[3]第三番目の「ハレルヤ」(支配)
すると、二十四人の長老と四つの生き物はひれ伏し、御座についておられる神を拝んで、「アーメン。ハレルヤ。」と言った。(黙示19・4)
黙示録19章4節に見られる第三番目の「ハレルヤ」は、神のご支配をたたえています。
さばきを通して、神のご支配が明らかになります。イエス様は主権者として、汚れのないものとして、ご自身の姿を現わされます。そして、イエス様のみからだである教会もまた、汚れのないものとして、イエス様の前に立たされるのです。
ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。(エペソ5・27)
この「栄光の教会」が、イエス様と共に下ることによって、神の支配が実現されます。この事実を前にして、二十四人の長老たちはただ、礼拝せざるをえません。これまでも長老たちは、神のさばきのゆえに、幾度も神をほめたたえてきました。
二十四人の長老は御座に着いている方の御前にひれ伏して、永遠に生きておられる方を拝み、自分の冠を御座の前に投げ出して言った。「主よ。われらの神よ。あなたは、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方です。あなたは万物を創造し、あなたのみこころゆえに、万物は存在し、また創造されたのですから。」(黙示4・10~11)
また、四つの生き物はアーメンと言い、長老たちはひれ伏して拝んだ。(黙示5・14)
それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。」(黙示11・16~17)
しかし黙示録19章においては、長老たちはもはや、ほめたたえることをせず、神を拝んで「アーメン。ハレルヤ。」と言い、神の御座の前にただひれ伏すのみです。
信仰のない人々の目から見ると、神の行ないは時として正しいとは思えないこともあります。信仰のない人々は神の恵みを拒み、神の愛を無視し、神の戒めを否定します。神がさばきを行なうとき、彼らは「神のさばきが正しくない」と主張します。このような人々の、盲目で悔い改めのない状態は、次のように記されています。
これらの災害によって殺されずに残った人々は、その手のわざを悔い改めないで、悪霊どもや、金、銀、銅、石、木で造られた、見ることも聞くことも歩くこともできない偶像を拝み続け、その殺人や、魔術や、不品行や、盗みを悔い改めなかった。(黙示9・20~21)
こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。(黙示16・9)
そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。(黙示16・11)
また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。(黙示16・21)
神が何度も警告してくださったにもかかわらず、彼らは神の恵みを拒み続けました。これは、今日の状況でもあります。
しかし、黙示録19章では、三つの「ハレルヤ」が叫ばれるとき、主イエス様はこの地上を支配するために再び地上に来られます。主イエス様は、十字架のみわざを通して、この地上に対する支配権を明らかにされました。しかし、この権利は、今まで行使されませんでした。今やイエス様は、正しいさばきを下すために、神の国を実現するために来られるのです。
イエス様は、すべての人の身代わりとなって死なれました。それゆえイエス様は、救いを拒んだすべての人々をさばくことがおできになるのです。
もう一度、黙示録19章1節を見てみましょう。
この後、私は、天に大群衆の大きい声のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ救い、栄光、力は、われらの神のもの。」(黙示19・1)
救い、栄光、力のすべては、主イエス様に属します。イエス様こそが唯一の救い主であられます。ですから私たちは、心からの感謝をささげるべきです。イエス様こそが栄光を持つお方であり、その栄光を私たちにも与えてくださるのです。ですから私たちは、礼拝をささげるべきです。神は私たちに最後の愛を示してくださいました。ですから私たちは、神を信頼すべきです。
イエス様の救いと栄光と力とに対する私たちの態度は、感謝と礼拝と信頼でなければなりません。
2.小羊の婚姻
黙示録19章1節から5節の中で、私たちは三種類の「ハレルヤ」を聞きました。それは、主の勝利に対する賛美、バビロンをさばかれた主をほめたたえる叫びでした。
私たちは、次の6節でさらに大きな「ハレルヤ」を聞きます。これは、小羊の婚姻に対してささげられるものです。
また、私は大群衆の声、大水の音、激しい雷鳴のようなものが、こう言うのを聞いた。「ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。」(黙示19・6~7)
このすぐ前に「神のしもべたち」という表現があります。
また、御座から声が出て言った。「すべての、神のしもべたち。小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ。われらの神を賛美せよ。」(黙示19・5)
預言者たちは「神のしもべ」と表現されています。
第七の御使いが吹き鳴らそうとしているラッパの音が響くその日には、神の奥義は、神がご自身のしもべである預言者たちに告げられたとおりに成就する。(黙示10・7)
諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。(黙示11・18)
殉教者たちもまた「神のしもべ」です。
私たちが神のしもべたちの額に印を押してしまうまで、地にも海にも木にも害を与えてはいけない。(黙示7・3)
神は不品行によって地を汚した大淫婦をさばき、ご自分のしもべたちの血の報復を彼女にされたからである。(黙示19・2)
要約すると、「神のしもべたち」とは、神のみことばを自分の声を通して伝え、神のために命を差し出している人々のことです。「小さい者も大きい者も」という表現は、「神に属するすべての者たちを含む」という意味です。彼らは皆、今こそそのご支配を明らかに示された神をほめたたえているのです。この喜びは、旧約聖書でも見ることができます。
主は、王であられ、みいつをまとっておられます。主はまとっておられます。力を身に帯びておられます。まことに、世界は堅く建てられ、揺らぐことはありません。(詩篇93・1)
主は、王だ。地は、こおどりし、多くの島々は喜べ。(詩篇97・1)
主は王である。国々の民は恐れおののけ。主は、ケルビムの上の御座に着いておられる。地よ、震えよ。(詩篇99・1)
黙示録19章7節にも、「私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。」という表現が見られます。同じ表現を次の箇所にも見ることができます。
喜びなさい。喜びおどりなさい。天においてあなたがたの報いは大きいのだから。あなたがたより前に来た預言者たちも、そのように迫害されました。(マタイ5・12)
彼らは、まごころから神をほめたたえています。なぜなら神は、ご自身に属する者たちに対するお約束を成就してくださったからです。
[1]「花婿」とは誰か
次に、7節にある小羊の婚姻の時について、学んでいきましょう。この婚姻の花婿とは、言うまでもなく、イエス様です。イエス様は、創造者やさばき主としてではなく「小羊」として、花嫁に会われます。イエス様はかつて、「小羊」として、私たちの罪をお受けになり、私たちが受けるべきさばきを受けてくださいました。イエス様はこれらのことを、私たちに対する愛のゆえになしてくださったのです。
いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。(ガラテヤ2・20)
ここに見る婚姻は、イエス様の勝利の姿です。イエス様は自らを「花婿である」と言っておられます。
イエスは彼らに言われた。「花婿につき添う友だちは、花婿がいっしょにいる間は、どうして悲しんだりできましょう。しかし、花婿が取り去られる時が来ます。そのときには断食します。」(マタイ9・13)
イエスはもう一度たとえをもって彼らに話された。「天の御国は、王子のために披露宴を設けた王にたとえることができます。王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。・・・・招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」(マタイ21・1、2、3、114)
洗礼者ヨハネも「イエス様は花婿である」と言っています。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。それで、私もその喜びで満たされているのです。(ヨハネ3・29)
パウロも「イエス様は花婿である」と言っています。
というのも、私は神の熱心をもって、熱心にあなたがたのことを思っているからです。私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。(第二コリント11・2)
[2]「花嫁」とは誰か
同じ7節にある「花嫁」は、まことの教会を意味しています。
多くの聖書学者や註解者たちは、「花嫁」が「イスラエル」を意味すると考えています。彼らは旧約聖書の多くの箇所の中に、その根拠を見出しています。それは以下のような箇所です。
「あなたの夫はあなたを造った者、その名は万軍の主。あなたの贖い主は、イスラエルの聖なる方で、全地の神と呼ばれている。主は、あなたを、夫に捨てられた、心に悲しみのある女と呼んだが、若い時の妻をどうして見捨てられようか。」とあなたの神は仰せられる。「わたしはほんのしばらくの間、あなたを見捨てたが、大きなあわれみをもって、あなたを集める。怒りがあふれて、ほんのしばらく、わたしの顔をあなたから隠したが、永遠に変わらぬ愛をもって、あなたをあわれむ。」とあなたを贖う神は仰せられる。(イザヤ5・5~8)
あなたは主の手にある輝かしい冠となり、あなたの神の手のひらにある王のかぶり物となる。あなたはもう、「見捨てられている。」と言われず、あなたの国はもう、「荒れ果てている」とは言われない。かえって、あなたは「わたしの喜びは、彼女にある。」と呼ばれ、あなたの国は夫のある国と呼ばれよう。主の喜びがあなたにあり、あなたの国が夫を得るからである。若い男が若い女をめとるように、あなたの子らはあなたをめとり、花婿が花嫁を喜ぶように、あなたの神はあなたを喜ぶ。(イザヤ62・3~5)
わたしはあなたと永遠に契りを結ぶ。正義と公義と、恵みとあわれみをもって、契りを結ぶ。わたしは真実をもってあなたと契りを結ぶ。このとき、あなたは主を知ろう。(ホセア2・19~20)
背信の子らよ。帰れ。―――主の御告げ。わたしが、あなたがたの夫になるからだ。わたしはあなたがたを、町からひとり、氏族からふたり選び取り、シオンに連れて行こう。(エレミヤ3・14)
確かに、イスラエルは「主の妻」と呼ばれています。偶像を拝み、偶像に仕えて姦淫を犯した妻であるイスラエルは、後に「淫婦」と呼ばれるようになりました。そしてさらに後、イエス様に悔い改めて立ち帰り、受け入れられるのです。しかしそれは「小羊の婚姻」の後のことです。
さて、先にも述べましたが、黙示録19章における「花嫁」とは、主イエス様のまことの教会をさしています。
「わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」(ヨハネ14・3)
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・13~17)
この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5・32)
私たちは、まことの教会を「天の花嫁」、イスラエルを「地の花嫁」と呼ぶことができます。花嫁はいずれも、小羊の血によって贖われます。しかし、「天の花嫁」と「地の花嫁」には異なった使命があります。天上のエルサレムと地上のエルサレムがあるように、天の花嫁と地の花嫁とがあるのです。コリントの教会も、天に属する教会(花嫁)でした。
私はあなたがたを、清純な処女として、ひとりの人の花嫁に定め、キリストにささげることにしたからです。(第二コリント11・2)
この教会は、異邦人とユダヤ人、両方の信者たちによって建て上げられたものでした。次の箇所を見ると、教会がイエス様のからだとして、また妻として描かれています。
私たちはキリストのからだの部分だからです。「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。(エペソ5・30~32)
私たちは、どのようにしてイエス様の花嫁になることができるのでしょうか。罪人としてイエス様のみもとに来て、イエス様の十字架による赦しと救いを受け入れることによってです。イエス様によって永遠のいのちを与えられることによってです。このことを通して、人はイエス様との結びつきを得ます。信仰の成長は、イエス様をより良く知ることによって得られます。イエス様は、まもなく再びこの地上に下って来られて、ご自分に属する者たちをみもとに迎えてくださるのです。
さて、「天にいる二十四人の長老たち」は、黙示録4章においても見ることができます。
御座の回りに二十四の座があった。これらの座には、白い衣を着て、金の冠を頭にかぶった二十四人の長老たちがすわっていた。(黙示4・4)
この「二十四人の長老たち」とは、旧約聖書と新約聖書の時代からそれぞれ選び出された信者たちです。これらの信者たちは、黙示録19章に記されているとおり、終わりの時に、長老という名をもって現われます。
これに対し、「キリストの花嫁」とは、新約聖書の時代から選び出された信者たちです。このことは、今日、主イエス様を受け入れている人々はみな、イエス様の花嫁となることを意味しています。
[3]「招待客」とは誰か
9節にある「婚宴に招かれた者」、つまり「招待客」は、旧約聖書の時代の信者たちによって構成されています。大いなる苦難の時代の殉教者たちもこの中に入ります。招待客は、花嫁とはまた違う別のグループを形成しています。これらの人々は花婿の友達であり、共に喜ぶ人々です。
花嫁を迎える者は花婿です。そこにいて、花婿のことばに耳を傾けているその友人は、花婿の声を聞いて大いに喜びます。(ヨハネ3・29)
彼らは花嫁ではなく、花嫁の栄光にあずかる者たちです。永遠の喜びがすべての者たちの上にあふれるのです。
私たちは喜び楽しみ、神をほめたたえよう。小羊の婚姻の時が来て、花嫁はその用意ができたのだから。(黙示19・7)
さて、7節の後半に「花嫁はその用意ができた」とあるのは、何をさしているのでしょうか。
その絶対的な条件とは、イエス様の血による救いです。さらに、聖霊を通して内側から輝き出る永遠のいのちをいただくことも、花嫁となるための条件です。主を信じる者たちは、イエス様を通して天の栄光に入る用意をされるのです。
ところで、「イエス様の婚姻」と「天の栄光に入る備え」とは、何をさすのでしょうか。
携挙の後で、すべての信者は、さばきの座に立たされます。
なぜなら、私たちはみな、キリストのさばきの座に現われて、善であれ悪であれ、各自その肉体にあってした行為に応じて報いを受けることになるからです。(第二コリント5・10)
私たちはみな、神のさばきの座に立つようになるのです。(ローマ14・10)
その時すべての信者は、各自、忠実さにしたがって報いを受けるのです。
ですから、あなたがたは、主が来られるまでは、何についても、先走ったさばきをしてはいけません。主は、やみの中に隠れた事も明るみに出し、心の中のはかりごとも明らかにされます。そのとき、神から各人に対する称賛が届くのです。(第一コリント4・5)
よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。(第二ヨハネ8)
花嫁を飾るものは、「聖い衣」です。「聖い衣」は、雪のように白いのです。これに対して淫婦の衣とは、緋色の衣です。
この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで実を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(黙示17・4)
花嫁の「聖い衣」は純白で、しみひとつありません。そして純白は、栄光と光の性格をも表しています。また、「聖衣」は、聖徒の正しい行ないを表わしています。これに対して淫婦の衣は、不品行で汚されているのです。
ヨハネが黙示録を書いた頃、人々は、亜麻布でできたツニカという下着と、トガという上着を着ていました。その下着は、純白とは言えない亜麻色をしていました。ですから、8節にある花嫁が着る光輝くきよい麻布の衣が、イエス様の聖い義の衣をさしていることは、明らかです。イエス様を信じる者はすべて、その罪を白く聖められ、義とされ、救われているのです。イエス様の聖さと義は、何によっても決して奪い去られるようなことはありません。
しかし、黙示録19章において指し示されているのは、下着のツニカ、つまり「義とされること」ではなく、上着のトガ、つまり「正しい行ないに対する報い」についてです。この「正しい行ない」は、信者の力によってもたらされるものではなく、聖霊の実としてもたらされるものです。
神は正しい方であって、あなたがたの行いを忘れず、あなた方がこれまで聖徒たちに仕え、また今も仕えて神の御名のために示したあの愛をお忘れにならないのです。(ヘブル6・10)
親切な言葉、愛の行ない、信仰による祈りなどはすべて、報いを受けます。「婚姻の時の着物」と私たちの地上における生活とは、密接な関係を持つのです。
自分を中心とし、自分の力で行なわれたことはすべて、炎によって焼き捨てられます。これに対し、イエス様への愛からなされたことはすべて、報いられます。私たちの心の動機は、純粋でなければならないのです。
私は、あなたがたのことを思うごとに私の神に感謝しています。(ピリピ1・3)
私が、キリスト・イエスの愛の心をもって、どんなにあなたがたすべてを慕っているか、そのあかしをしてくださるのは神です。(ピリピ1・8)
すべての人との平和を追い求め、また、聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル12・14)
召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。(エペソ4・1)
主にかなった歩みをして、あらゆる点で主に喜ばれ、あらゆる善行のうちに実を結び、神を知る知識を増し加えられますように。(コロサイ1・10)
肉体の中にあろうと、肉体を離れていようと、私たちの念願とするところは、主に喜ばれることです。(第二コリント5・9)
さて、ここまでは、上着のトガについて語ってきました。その上着は花嫁に与えられ、着ることを許されました。
花嫁は、光り輝く、きよい麻布の衣を着ることを許された。その麻布とは、聖徒たちの正しい行ないである。(黙示19・8)
これによって、花嫁、つまり聖徒たちの行ないもまた、神からの賜物であることがわかります。聖霊は、従順な信者を通して働かれます。したがって、信者は聖められた行ないを、自分のものとして誇ることはできません。聖い行ないを与えられたお方こそが、たたえられるべきなのです。花嫁は飾られて、花婿の前に立ちます。このようにして花嫁は、神の栄光を、また恵みをほめたたえます。
それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。(エペソ1・6)
それは、前からキリストに望みを置いていた私たちが、神の栄光をほめたたえる者となるためです。(エペソ1・12)
聖霊は私たちが御国を受け継ぐことの保証であられます。これは神の民の贖いのためであり、神の栄光がほめたたえられるためです。(エペソ1・14)
主は、6節では「万物の支配者である神(エホバ・エロヒム・シャダイ)」と呼ばれています。偉大な万物の主である神として、主はアブラハムにご自身をあらわされ、全地の支配権を彼にお与えになると約束されました。黙示録19章においては、主なる神がこの時と同じ名前をもってご自身を現わしておられます。
神は、敵に対して全能であられます。また、さばき主として全能であると同時に、救い主としても全能であられます。選ばれたイスラエルの民を、救われるお方です。
「全能」ということばは、神が全地のすべての支配権を握っておられることを意味します。なにごとも神の意志なしに起こることはありません。この、全能者(パントクラトラ)という表現は、新約聖書の中で、次の十箇所にわたって記されています。
わたしはあなたがたの父となり、あなたがたはわたしの息子、娘となる、と全能の主が言われる。(第二コリント618)
神である主、常にいまし、昔いまし、後に来られる方、万物の支配者がこう言われる。「わたしはアルファであり、オメガである。」(黙示1・8)
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな。神であられる主、万物の支配者、昔いまし、常にいまし、後に来られる方。(黙示4・8)
万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。(黙示11・17)
あなたのみわざは偉大であり、驚くべきものです。主よ。万物の支配者である神よ。あなたの道は正しく、真実です。もろもろの民の王よ。(黙示15・3)
しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。(黙示16・7)
彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。(黙示16・14)
ハレルヤ。万物の支配者である、われらの神である主は王となられた。(黙示19・6)
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(黙示19・15)
私は、この都の中に神殿を見なかった。それは、万物の支配者である、神であられる主と、小羊とが都の神殿だからである。(黙示21・22)
黙示録に多く出てくる神の名前は、「万物の支配者である神」です。
黙示録の筆者であるヨハネは、信仰のゆえにパトモス島に追放されていました。また、多くの信者が信仰のゆえに迫害され、殺されていました。このような状況の中で、ヨハネは神を「万物の支配者である神」と呼んだのです。すなわち、神がすべてを支配し、すべての事柄の上に立っておられる、ということを明言したのです。真の支配者は決して悪魔などではなく、ローマの皇帝でもなく、ただおひとり主なる神だけがすべてを支配し、世界の歴史を作っておられることを、明言したのです。
さて、「小羊の婚姻の時」は、人間の理解や想像をはるかに超えた、すばらしい時です。それについての詳しいことは、聖書の中には何も記載されていません。つまりそれは、人間のことばでは表現することができないほど、すばらしいときなのです。このとき、信者は永遠に主イエス様と一つにされるのです。この幸福に比べれば、他のどんな喜びもまったく取るに足りません。
黙示録19章9節には、「これは神の真実のことばです。」とあります。主は私たちに、来るべきことについて確信を持つだけでなく、常にそのことを考え、喜ぶをことを求めておられるのです。「これは神の真実のことばです。」という表現は、「多分そうなるでしょう。」という言い方とは基本的に異なります。また、「これは神の真実ことばです。」という記述は、これらのことが事実であることを示しています。
私たちは、イエス様ご自身がこの約束を与えてくださったことを知っています。ですからそこには疑問の余地がまったくありません。イエス様ご自身が真理そのものですから、主のお約束も真実です。目に見える現実は私たちを失望させるかもしれませんが、主のみことばは必ず成就します。この確信が新しい献身へと人を導くのです。
愛する者たち。私たちはこのような約束を与えられているのですから、いっさいの霊肉の汚れから自分をきよめ、神を恐れかしこんで聖きを全うしようではありませんか。(第二コリント7・1)
そういうわけで、愛する人たち。このようなことを待ち望んでいるあなたがたですから、しみも傷もない者として、平安をもって御前に出られるように、励みなさい。(第二ペテロ3・14)
ヨハネは、この素晴らしい将来を神からの啓示として見ることを許されました。ヨハネは自分の見たことに圧倒されて、これらを示してくれた御使いの足もとにひれ伏そうとしたのです。
そこで、私は彼を拝もうとして、その足もとにひれ伏した。すると、彼は私に言った。「いけません。私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同じしもべです。神を拝みなさい。イエスのあかしは預言の霊です。」(黙示19・10)
そのときヨハネは、御使いがまことの神のしもべであることを知りました。なぜなら、御使いはヨハネの礼拝を受けようとしなかったからです。御使いは、「私は、あなたや、イエスのあかしを堅く保っているあなたの兄弟たちと同しもべです。」と言いました。神だけがあがめられるべきだと言ったのです。実際は、御使いと人間とには大きな違いがあります。しかしこの違いも、神の偉大さの前では取るに足りない小さなことにすぎません。神は、創造者としてすべてのものの上におられます。神の偉大さ、そして、神と人間との違いが、礼拝のもとをなしています。礼拝は神のみにささげられるべきものです。これが御使いの知らせでした。
イエス様は地上におられた時、トマスの礼拝を受けられたことがあります。トマスは、「わが主。わが神。」と言ってイエス様の足もとにひれ伏しました。イエス様はトマスを祝福されました。イエス様は神だったので、礼拝を受けられたのです。いかなる人間も、御使いも、創られたものも、決して礼拝を受けるべきでないのはもちろんのことです。
主なる神は、ひとり子をお与えになって私たちを救ってくださり、みそば近く引き寄せてくださいました。イエス様を通して救いを完成されました。イエス様だけが、ただ一人の仲介者です。ですから、イエスだけが礼拝されるべきです。
ヨハネも御使いと共に礼拝へと導かれました。そればかりでなく、御使いと共に奉仕へと導かれたのです。奉仕とは、イエス様のあかしをすることです。イエス様は、あらゆる預言の中心におられるお方です。イエス様を真にあかしする人々はすべて預言者であり、真の預言者はすべてイエス様あかしする人々です。預言者もイエス様のあかし人も、共にそのことばと生活とを通して、イエス様の救いの偉大さをあかしするのです。
もし私たちが、人々の救いや信じる人々の成長を見たいと思うなら、みことばを中心に据えて福音を伝えなければなりません。イエス様が中心におられなければ、すべてのことが空しいのです。聖書の中心はイエス様であり、聖霊はイエス様に栄光を帰すと言っておられます。ですから、預言者もあかし人も、伝道とあかしをするにあたっては必ずイエス様のみ声に聞き従っていなければなりません。そうすれば聖霊は、みことばを宣べ伝えることができるよう、助けてくださいます。
ヨハネは御使いから「神をあがめよ」という命令を受けました。そして、疑うことなく直ちにその通り実行しました。ヨハネはイエス様の足もとにひれ伏して心から礼拝しました。ヨハネに与えられたのと同じ命令が、私たちにも与えられています。「神をあがめなさい」。
主だけが礼拝を受けるにふさわしいお方です。イエス様は、ご自身のいのちを犠牲にして私たちを救ってくださいました。イエス様は、毎日私たちのために祈っていてくださいます。イエス様はまもなく来られて、ご自分に属する者たちを迎えてくださいます。
私たちもその場にいることができるでしょうか。
もしその確信がないなら、どうか今日、罪人としてイエス様のもとにいらしてください。罪を告白し、赦しを受けてください。
また、イエス様の血による救いを確信している人々に申しあげます。イエス様は、あなたをあかし人として、預言者として、用いようとしておられます。イエス様は、あなたに語られたそのみことばを、さらに多くの人々に述べ伝えるよう望んでおられます。聖霊はあなたを満たし、イエス様は、あなたをさらに大きく祝福しようとしておられるのです。
私たちの希望は、小羊の婚姻の時に主イエス様と一つにされることです。
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