2023年4月5日水曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】 26.さばきへの知らせと警告

26.さばきへの知らせと警告

黙示録14章1節から20節まで

1.さばき主であるイエス様
2.刈り入れ
3.ぶどうの刈り入れ

(14)また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。(15)すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」(16)そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
(17)また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。(18)すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」(19)そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。(20)その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。(黙示14・14~20)

この箇所のテーマは、「さばきへの知らせと警告」です。それはまた、次のように言いかえることができます。「御使いたちの中心におられるさばき主の現われ」、「イエス様の再臨における、神なき者たちへのさばき」、「イエス様のさばきと神の判決の実現」、また「神の激しい怒り」です。

黙示録14章で私たちは、七人の人物を見ることができます。彼らは互いに関連しあっています。最も重要な人物が真ん中におられます。さばき主としてのイエス様です。そのほかの六人は、イエス様の御使いたちです。彼らは、イエス様のさばきのためにそれぞれが異なる使命を与えられています。最初の三人は、招きのことばをもたらす御使いたちでした。つまり「福音の知らせ」、「さばきの知らせ」、そして「選択の知らせ」をもたらした御使いたちでした。

1.さばき主であるイエス様


ヨハネの黙示録の14章14節で、ヨハネはイエス様が王として、支配者として、さばき主として、白い雲に乗って来られるのを見ました。白い雲に乗っておられるということは、支配者であることを意味しています。頭にある金の冠はイエス様が王であることを現わしています。手に持たれた鋭いかまは、イエス様がさばき主であることを示しています。さらに三人の御使いたちが、かまを持ってイエス様に従います。これは、9節までに出てきた招きの言葉を伝える御使いではなく、かまを持ったさばきの御使いです。

私たちは、14節から20節までを、次のような二つの部分に分けて見ていきましょう。一つめは、14節から16節までにある「刈り入れ」です。ここで記されている「刈り入れ」は、地上の諸国民に対する刈り入れです。イエス様は正しいさばき主としてこの地上に臨まれます。

次に、17節から20節までは、「ぶどうの刈り入れ」について記されています。ここで語られている「ぶどうの刈り入れ」は、イスラエルの民であって、その他の諸国民ではありません。その中心にはイスラエルの王としてのイエス様が立っておられます。

黙示録14章の13節までで、私たちは最後の日のできごとが、簡潔に要約されていることを見てきました。まず初めは、小羊とともにシオンの山にいる十四万四千人のユダヤ人についてであり、次いでイエス様の再臨の前に起こる殉教者たちの群れについてであり、そしてバビロンの滅亡と獣を拝む者たちに対するさばきについてでした。

それに続く14節から20節で、私たちは、神のさばきの要点を見ることができます。

14節の頭で、ヨハネは「私は見た。見よ。」と言っています。この言葉とともに、御使いたちは背後に退いて、「人の子」であるイエス様ご自身が姿を現わされます。

「人の子」という言葉は、聖書の中に八十回出てきます。ダニエル書7章13節でイエス様は「人の子」と表現されています。ダニエルは、最初に神の子を人の子として、見たのです。

見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、・・・・(ダニエル7・13)

また、黙示録1章13節にも、「人の子」という表現が出てきます。

それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。(黙示1・13)

イエス様は、神でありながらまことの人間としてこの地上に来てくださいました。これに対して反キリストは、まことの神の目から見れば、人間と呼べるような存在ではなく、獣のようなものですから、それにふさわしく獣と呼ばれているのです。

「人の子」であられるイエス様こそが、来たるべき日のさばき主です。14節でイエス様は、白い雲に乗って来られます。白い雲は神の臨在を現わしています。

三日目の朝になると、山の上に雷といなずまと密雲があり、角笛の音が非常に高く鳴り響いたので、宿営の中の民はみな震え上がった。(出エジプト19・16)

彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲がその人々を包み、そして、雲の中から、「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞きなさい。」という声がした。(マタイ17・5)

アロンがイスラエル人の全会衆に告げたとき、彼らは荒野のほうに振り向いた。見よ。主の栄光が雲の中に現われた。(出エジプト16・10)

すると、主はモーセに仰せられた。「見よ。わたしは濃い雲の中で、あなたに臨む。わたしがあなたと語るのを民が聞き、いつまでもあなたを信じるためである。」それからモーセは民のことばを主に告げた。(出エジプト19・9)

モーセが山に登ると、雲が山をおおった。主の栄光はシナイ山の上にとどまり、雲は六日間、山をおおっていた。七日目に主は雲の中からモーセを呼ばれた。主の栄光は、イスラエル人の目には、山の頂で燃え上がる火のように見えた。モーセは雲の中にはいって行き、山に登った。そして、モーセは四十日四十夜、山にいた。(出エジプト24・15~18)

主は雲の中にあって降りて来られ、彼とともにそこに立って、主の名によって宣言された。(出エジプト34・5)

そのとき、雲は会見の天幕をおおい、主の栄光が幕屋に満ちた。・・・・イスラエル全家の者は旅路にある間、昼は主の雲が幕屋の上に、夜は雲の中に火があるのを、いつも見ていたからである。(出エジプト4・34、38)

雲はいつも神のご栄光を現わすものでした。「白い」という言葉は、「明かり」と関連して、来たるべきさばきの正しさを表しています。

またこの白い雲は、イエス様の目に見える再臨を意味しています。

私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。(ダニエル7・13)

イエスは彼に言われた。「あなたの言うとおりです。なお、あなたがたに言っておきますが、今からのち、人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見ることになります。」(マタイ26・64)

そのとき、人々は、人の子が偉大な力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを見るのです。(マルコ13・26)

こう言ってから、イエスは彼らが見ている間に上げられ、雲に包まれて、見えなくなられた。イエスが上って行かれるとき、弟子たちは天を見つめていた。すると、見よ、白い衣を着た人がふたり、彼らのそばに立っていた。そして、こう言った。「ガリラヤの人たち。なぜ天を見上げて立っているのですか。あなたがたを離れて天に上げられたこのイエスは、天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります。」(使徒1・8~11)

見よ、彼が、雲に乗って来られる。すべての目、ことに彼を突き刺した者たちが、彼を見る。地上の諸族はみな、彼のゆえに嘆く。しかり。アーメン。(黙示1・7)

全世界の審判者であるイエス様は、地上に限られた支配者などではなく、天の御座につき、すべてを支配なさるお方です。

14節の中ほどには「金の冠」のことが書かれています。「金の冠」は、イエス様が、王であることを示します。それは勝利と支配の象徴でもあります。ヨハネはここで、御座についておられる方、イエス様のことを証ししています。このような御座に座しているお方を仰ぎ見ることが、私たちの日々の信仰にとって大切なことです。

私たちがこの御座を見るなら、すべてを支配なさるお方を見るなら、この地上におけるすべてのことは、小さな取るに足りないものに思えてきます。御座についておられるお方、イエス様を仰ぎ見る者は、心に安らぎを得るのです。すべての上におられるイエス様を仰ぎ見ることほど重要なことはありません。

2.刈り入れ


次に、この部分に述べられている「刈り入れ」について見ていきましょう。この「刈り入れ」は、普通の刈り入れではなく、「大きな刈り入れ」です。その言葉の中に、恐るべきさばきの意味がこめられています。世界の審判者は、鋭いかまを手にしています。それは、マタイ13章に記されているような「大きな刈り入れ」です。

イエスは答えてこう言われた。「良い種を蒔く者は人の子です。畑はこの世界のことで、良い種とは御国の子どもたち、毒麦とは悪い者の子どもたちのことです。毒麦を蒔いた敵は悪魔であり、収穫とはこの世の終わりのことです。そして、刈り手とは御使いたちのことです。ですから、毒麦が集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそのようになります。人の子はその御使いたちを遣わします。彼らは、つまずきを与える者や不法を行なう者たちをみな、御国から取り集めて、火の燃える炉に投げ込みます。彼らはそこで泣いて歯ぎしりするのです。そのとき、正しい者たちは、天の父の御国で太陽のように輝きます。耳のある者は聞きなさい。」(マタイ13・37~43)

イエス様が最初にこの地上に来られたのは、十字架の上でいのちを捨て、救いをなしとげるためでした。そしてイエス様が再び来られるのは、さばきを行なわれるためです。イエス様の救いを受け入れなかったすべての者がさばかれます。イエス様は来るべきさばき主として定められているお方です。

「また、父はだれもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。」(ヨハネ5・22、27)

イエス様は、かつては神のみことばを蒔く者として来てくださいました。

イエスは多くのことを、彼らにたとえで話して聞かされた。「種を蒔く人が種蒔きに出かけた。・・・・」(マタイ13・3)

しかし黙示録14章では、イエス様は間もなくかまを持って、刈り入れる者として来られるのです。かまは悔い改めようとしない者たちのために備えられています。

さばきはまた、分離を意味します。不信仰な者たちは雑草のように刈り取られるのです。このようなさばきは、マタイの福音書23章に記されています。

「人の子が、その栄光を帯びて、すべての御使いたちを伴って来るとき、人の子はその栄光の位に着きます。そして、すべての国々の民が、その御前に集められます。彼は、羊飼いが羊と山羊とを分けるように、彼らをより分け、羊を自分の右に、山羊を左に置きます。そうして、王は、その右にいる者たちに言います。「さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。・・・・」
それから、王はまた、その左にいる者たちに言います。『のろわれた者ども。わたしから離れて、悪魔とその使いたちのために用意された永遠の火にはいれ。・・・・」
こうして、この人たちは永遠の刑罰にはいり、正しい人たちは永遠のいのちにはいるのです。」(マタイ2・31~34、44、46)

イエス様は、黙示録の14章後半で、真理そのものとして、すべての支配権を持つお方として、さばきを行なうお方として、そのみ姿を現わされます。そこではイエス様はもはや、招くことをなさらず、戸を叩くことをなさいません。それまで隠されていたすべてのことがその時明るみに引き出されるのです。

そして、イエス様だけがただお一人、真実なお方ということが明らかにされます。そのイエス様を受け入れることは、罪の赦しを受け、永遠のいのちをいただくことであり、イエス様を拒むことは、滅びにいたることを意味します。

ところで、私たちは気がついているでしょうか。イエス様が人々を救いに招かれる時が過ぎ去り、恐ろしいさばきが行なわれる時が近づいていることを。イエス様がさばきを始められてからでは、すべては手おくれなのです。ですから、今、イエス様に聞き従うことがもっとも大切なことです。

「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」(マタイ11・28)

イエス様は、今は愛と忍耐をもって、人々を救いに招こうとしていてくださいます。ですから今、イエス様を拒む者は、やがてくるさばきの日に、かまを手にしてもはや憐れむことをなさらないイエス様を恐れなければならなくなるのです。

さて、15節と16節に記されている刈り入れは、何を意味しているのかを考えてみましょう。

気をつけなければならないのは、その「刈り入れ」は、「イエス様が花嫁を迎えること、雲の上で信者を迎えることを意味していない」ということです。携挙はすでに行なわれた後なのです。黙示録の7章から14章に記されている「救われた人々の群れ」も、すでにイエス様のご臨在のもとにおかれているのです。十四万四千人の救われたユダヤ人たちも、刈り取られるのではなくて、イエス様とともに千年の間支配を行なうのです。

この箇所では、悔い改めをしたくない者たちは罪の実が熟しているために、刈り取られること、さばかれることが記されているのです。

15節にある「地の穀物が実った」という言葉は、穀物が成熟し、やがて腐る、というような意味を含んでいます。イエス様がいちじくの木を呪われた時に起こったようなことが、ここで起こっているのです。

弟子たちは、これを見て、驚いて言った。「どうして、こうすぐにいちじくの木が枯れたのでしょうか。」(マタイ21・20)

このさばきは、旧約の時代の預言の成就を意味しています。

「諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。」(ヨエル3・12)

「それゆえ、わたしを待て。――主の御告げ。――わたしが証人として立つ日を待て。わたしは諸国の民を集め、もろもろの王国をかき集めてさばき、わたしの憤りと燃える怒りをことごとく彼らに注ぐ。まことに、全地はわたしのねたみの火によって、焼き尽くされる。」(ゼパニヤ3・8)

ユダヤ人を迫害した国民は、さばかれます。イスラエルがイエス様の支配の中心になるのです。

15節では、さばきが聖所から出てくることが記されています。これは、さばきが神が臨在しておられる御座から始まることを意味しています。さばきの御使いが、「かまを入れて刈り取ってください。」と叫びます。これは御使いが主なる神のさばきを始めてくださいと、御子イエス様に大声で伝えているのです。この御使いは単なる仲介者に過ぎません。そして今や刈り入れの時が来たのです。

イエス様は世界の審判者であられ、御使いの仲介を通してのみ、さばきを行なわれます。イエス様の特徴は、このような時であっても決してご自身の意思を実行なさるのではなく、いつも父なる神のみこころを行なわれることです。今や、獣と、獣の像を拝む者に対する神のさばきが行なわれるのです。このさばきは、すべての国民に対して行なわれます。このさばきがどのように行なわれるかは、この14章では、かんたんに「地は刈り取られた」とだけ記されていて、くわしく記されていません。それが具体的にくわしく述べられているのは15章です。

今の世は、決してよくなることはありません。逆に、神がさばかれざるをえないほど、悪くなるいっぽうなのです。

3.ぶどうの刈り入れ


17節から20節までには、「ぶどうの刈り入れ」について記されています。四番めの御使いが仲介者となってその使命をはたすのです。かまは世界のさばき主であるイエス様ご自身の手によって、「ぶどう」に対してふるわれるのです。

第五番めの御使いは、死をもたらすものです。酒ぶねに投げ入れられて踏まれるというのは、すべてのものが滅ぼされることを意味しています。

第六番めの御使いは、さばきを実行します。ここに出てくる天の聖所、祭壇、ぶどうのふさ、酒ぶね、都という言葉は、すべてユダヤ人に関係する言葉です。

「もう一つのたとえを聞きなさい。ひとりの、家の主人がいた。彼はぶどう園を造って、垣を巡らし、その中に酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。さて、収穫の時が近づいたので、主人は自分の分を受け取ろうとして、農夫たちのところへしもべたちを遣わした。すると、農夫たちは、そのしもべたちをつかまえて、ひとりは袋だたきにし、もうひとりは殺し、もうひとりは石で打った。そこでもう一度、前よりももっと多くの別のしもべたちを遣わしたが、やはり同じような扱いをした。しかし、そのあと、その主人は、「私の息子なら、敬ってくれるだろう。」と言って、息子を遣わした。すると、農夫たちは、その子を見て、こう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺して、あれのものになるはずの財産を手に入れようではないか。」そして、彼をつかまえて、ぶどう園の外に追い出して殺してしまった。このばあい、ぶどう園の主人が帰って来たら、その農夫たちをどうするでしょう。」彼らはイエスに言った。「その悪党どもを情け容赦なく殺して、そのぶどう園を、季節にはきちんと収穫を納める別の農夫たちに貸すに違いありません。」イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。「家を建てる者たちの見捨てた石。それが礎の石になった。これは主のなさったことだ。私たちの目には、不思議なことである。」だから、わたしはあなたがたに言います。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実をむすぶ国民に与えられます。また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。」祭司長たちとパリサイ人たちは、イエスのこれらのたとえを聞いたとき、自分たちをさして話しておられることに気づいた。(マタイ21・33~45)

ぶどう畑はイスラエルを意味しています。イエス様はここで、「石の上に落ちる者は、粉々に砕かれる。」と言っておられます。この言葉はごう慢で悔い改めることをしたくないパリサイ人を指しています。イエス様は、神の国の実を結ばないユダヤ人たちに対して警告を与えられたのです。

ぶどうの木は、聖書ではいつもイスラエルの民を意味しています。

わたしは、あなたをことごとく純良種の良いぶどうとして植えたのに、どうしてあなたは、わたしにとって、質の悪い雑種のぶどうに変わったのか。(エレミヤ2・21)

イスラエルに対するさばきは、旧約聖書の中で、はっきりと預言されています。

回りのすべての国々よ。急いで来て、そこに集まれ。――主よ。あなたの勇士たちを下してください。――諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。
かまを入れよ。刈り入れの時は熟した。来て、踏め。酒ぶねは満ち、石がめはあふれている。彼らの悪がひどいからだ。さばきの谷には、群集また群集。主の日がさばきの谷に近づくからだ。太陽も月も暗くなり、星もその光を失う。
主はシオンから叫び、エルサレムから声を出される。天も地も震える。だが、主は、その民の避け所、イスラエルの子らのとりでである。(ヨエル3・11~16)

「エドムから来る者、ボツラから深紅の衣を着て来るこの者は、だれか。その着物には威光があり、大いなる力をもって進んで来るこの者は。」「正義を語り、救うに力強い者、それがわたしだ。」「なぜ、あなたの着物は赤く、あなたの衣は酒ぶねを踏む者のようなのか。」「わたしはひとりで酒ぶねを踏んだ。国々の民のうちに、わたしと事を共にする者はいなかった。わたしは怒って彼らを踏み、憤って彼らを踏みにじった。それで、彼らの血のしたたりが、わたしの衣にふりかかり、わたしの着物を、すっかり汚してしまった。わたしの心のうちに復讐の日があり、私の贖いの年が来たからだ。わたしは見回したが、だれも助ける者はなく、いぶかったが、だれもささえる者はいなかった。そこで、わたしの腕で救いをもたらし、わたしの憤りを、わたしのささえとした。わたしは、怒って国々の民を踏みつけ、憤って彼らを踏みつぶし、彼らの血のしたたりを地に流した。」(イザヤ63・1~6)

あなたは、エジプトから、ぶどうの木を携え出し、国々を追い出して、それを植えられました。・・・・万軍の神よ。どうか、帰って来てください。天から目を注ぎ、よく見てください。そして、このぶどうの木を育ててください。(詩篇80・8、14)

イスラエルは多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった。多くの実を結ぶにしたがって、それだけ祭壇をふやし、その地が豊かになるにしたがって、それだけ多くの美しい石の柱を立てた。(ホセア10・1)

「さあ、わが愛する者のためにわたしは歌おう。そのぶどう畑についてのわが愛の歌を。わが愛する者は、よく肥えた山腹に、ぶどう畑を持っていた。彼はそこを掘り起こし、石を取り除き、そこに良いぶどうを植え、その中にやぐらを立て、酒ぶねまでも掘って、甘いぶどうのなるのを待ち望んでいた。ところが、酸いぶどうができてしまった。
そこで今、エルサレムの住民とユダの人よ、さあ、わたしとわがぶどう畑との間をさばけ。わがぶどう畑になすべきことで、なお、何かわたしがしなかったことがあるのか。なぜ、甘いぶどうのなるのを待ち望んだのに、酸いぶどうができたのか。さあ、今度はわたしが、あなたがたに知らせよう。わたしがわがぶどう畑に対してすることを。その垣を除いて、荒れすたれるに任せ、その石垣をくずして、踏みつけるままにする。わたしは、これを滅びるままにしておく。枝はおろされず、草は刈られず、いばらとおどろが生い茂る。わたしは雲に命じて、この上に雨を降らせない。」
まことに、万軍の主のぶどう畑はイスラエルの家。ユダの人は、主が喜んで植えつけたもの。主は公正を待ち望まれたのに、見よ、流血。正義を待ち望まれたのに、見よ、泣き叫び。(イザヤ5・1~7)

ああ、彼らのぶどうの木は、ソドムのぶどうの木から、ゴモラのぶどう畑からのもの。彼らのぶどうは毒ぶどう、そのふさは苦みがある。そのぶどう酒は蛇の毒、コブラの恐ろしい毒である。(申命記32・32、33)

主は、私のうちにいたつわものをみな追い払い、一つの群れを呼び集めて、私を攻め、私の若い男たちを滅ぼされた。主は、酒ぶねを踏むように、おとめユダの娘を踏みつぶされた。(哀歌1・15)

このように多くの箇所に記されている「ぶどうの木」は、悔い改めようとしないイスラエルの民を意味しています。イエス様を信じる十四万四千人のイスラエル人たちは、さばきに出会うことはありません。彼らは反キリストによって苦しめられますが、イエス様によって守られるのです。

さばきは祭壇から行なわれます。祭壇とは十字架の犠牲を表わしている場所です。イエス様の救いを信じる者は贖われて救われます。多くのイスラエル人たちはこの十字架を拒み祭壇を投げ捨てたために、終わりの時にこの祭壇からさばきを受けることになるのです。

14節から16節にあるさばきでは、イスラエルに対する諸国民の迫害のあるなしによって、さばきは区別されていました。しかし17節から20節に述べられたさばきには、どのような区別もありません。ですからそのさばきはいっそう恐ろしいものになるのです。

救いの祭壇が、さばきの祭壇となるのです。容赦のない神の怒りが、悔い改めをしない人々に下されるのです。

それは、真理を信じないで、悪を喜んでいたすべての者が、さばかれるためです。(第二テサロニケ2・12)

ぶどうを踏んでしぼるということは、罪に対する神の怒りを示しています。

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもつて彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。(黙示19・15)

神の怒りはパレスチナに現われます。ですからパレスチナは将来さらに荒れた場所になっていきます。19節から20節には最終的な戦い、15章に出てくるハルマゲドンの戦いと同じことが簡単に記されています。この時、救われていないユダヤ人たちと諸国民とは、共同戦線をはって、神に対する戦いを始めるのです。この戦いの一方の支配者は反キリストです。主ご自身が、この戦いに際して人々を招かれます。主はご自身の永遠の勝利をよく知っておられるからです。

悔い改めないユダヤ人たちは、さばかれ、残りのユダヤ人たちは、救われます。このさばきは決定的なものであり、このさばきからの救いはもはやありません。

20節にある、酒ぶねで踏まれる者は、救われることがなく滅ぼされます。イエス様の招きを拒んだ者たちは、すべてさばかれ、滅び去るのです。

このさばきの激しさについて、20節では、その血が千六百スタディオン、つまり三百キロメートルまで広がるとあります。このことから、パレスチナの全土が血にまみれることがわかります。この千六百という数字には何か意味があるのでしょうか。四十という数字は常に「長い期間」を表わす数字です。四十の四十倍が千六百ですから、これは無限大を意味しています。つまり千六百という数字は、決定的な、想像を絶するさばきを意味しているのです。

ハルマゲドンの戦いはこのように真に恐るべきものです。この「ハルマゲドンの戦い」について、ここで少し学んでおきましょう。くわしくは15章で出てきます。

ハルマゲドンは、エルサレムの外にあるヨシャパテの谷にあります。

わたしはすべての国民を集め、彼らをヨシャパテの谷に連れ下り、その所で、彼らがわたしの民、わたしのゆずりの地イスラエルにしたことで、彼らをさばく。彼らはわたしの民を諸国の民の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分け取ったからだ。・・・・諸国の民は起き上がり、ヨシャパテの谷に上って来い。わたしが、そこで、回りのすべての国々をさばくために、さばきの座に着くからだ。(ヨエル3・2、12)

見よ。主の日が来る。その日、あなたから分捕った物が、あなたの中で分けられる。わたしは、すべての国々を集めて、エルサレムを攻めさせる。町は取られ、家々は略奪され、婦女は犯される。町の半分は捕囚となって出て行く。しかし、残りの民は町から断ち滅ぼされない。主が出て来られる。決戦の日に戦うように、それらの国々と戦われる。その日、主の足は、エルサレムの東に面するオリーブ山の上に立つ。オリーブ山は、その真中で二つに裂け、東西に延びる非常に大きな谷ができる。山の半分は北へ移り、他の半分は南へ移る。(ゼカリヤ14・1~4)

このハルマゲドンの戦いは、イエス様がエルサレムの町の外で犠牲になられたのと同じように、エルサレムの外で行なわれます。

ですから、私たちは、キリストのはずかしめを身に負って、宿営の外に出て、みもとに行こうではありませんか。(ヘブル13・13)

エルサレム自身は、この戦いによって、損なわれることはありません。エルサレムの中においては守りと救いがあり、エルサレムの外ではさばきと滅びがあるのです。

内側にいる者は救われ、外側にいる者は滅ぼされるのです。

そこで、買いに行くと、その間に花婿が来た。用意できていた娘たちは、彼といっしょに婚礼の祝宴に行き、戸がしめられた。(マタイ23・10)

犬ども、魔術を行なう者、不品行の者、人殺し、偶像を拝む者、好んで偽りを行なう者はみな、外に出される。(黙示22・15)

イエス様の犠牲を受け入れようとしない者は、エルサレムの外側においてさばきを受けることになります。しかし、二千年前に私たちの身代わりとしてイエス様の上にさばきが行なわれたことを信ずる者は、もはやさばきを受けることがないのです。

また、この石の上に落ちる者は、粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を粉みじんに飛ばしてしまいます。(マタイ21・44)

なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」したがって、より頼んでいるあなたがたには尊いものですが、より頼んでいない人々にとっては、「家を建てる者たちが捨てた石、それが礎の石となった。」のであって、「つまずきの石、妨げの岩。」なのです。彼らがつまずくのは、みことばに従わないからですが、またそうなるように定められていたのです。(第一ペテロ2・6~8)

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

イエス様は、今日もあなたに声をかけて招いておられます。イエス様は、罪の赦しと、いつまでも絶えることのない平安と、永遠のいのちを、提供しておられます。しかしイエス様は、まもなく世界の審判者として容赦のないさばきを行なわれます。イエス様は、すでにあなたの救い主、またあなたの主になっておられるでしょうか。

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