29.小羊のバビロンに対する勝利
黙示録17章1節から18節まで
1.淫婦バビロン
[1]世界的な都市
[2]富と宝の蓄積
[3]外見の美しさ
[4]額に記される名前
[5]殉教者への迫害
[6]ローマの別名
2.反キリストの獣
[1]世界帝国
[2]七つの頭
3.獣が淫婦を滅ぼす
[1]世界的な偶像礼拝の広がり
[2]淫婦に対する世界中の憎しみ
[3]神のご計画の成就
(1)また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。(2)地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」
(3)それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。(4)この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(5)その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。(6)そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。
(7)すると、御使いは私にこう言った。「なぜ驚くのですか。私は、あなたに、この女の秘義と、この女を乗せた、七つの頭と十本の角とを持つ獣の秘義とを話してあげましょう。(8)あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。そして彼は、ついには滅びます。地上に住む者たちで、世の初めからいのちの書に名を書きしるされていない者は、その獣が、昔はいたが、今はおらず、やがて現われるのを見て驚きます。(9)ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。(10)五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。(11)また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。
(12)あなたが見た十本の角は、十人の王たちで、彼らは、まだ国を受けてはいませんが、獣とともに、一時だけ王の権威を受けます。(13)この者どもは心を一つにしており、自分たちの力と権威とをその獣に与えます。(14)この者どもは小羊と戦いますが、小羊は彼らに打ち勝ちます。なぜならば、小羊は主の主、王の王だからです。また彼とともにいる者たちは、召された者、選ばれた者、忠実な者だからです。」
(15)御使いはまた私に言った。「あなたが見た水、すなわち淫婦がすわっている所は、もろもろの民族、群集、国民、国語です。(16)あなたが見た十本の角と、あの獣とは、その淫婦を憎み、彼女を荒廃させ、裸にし、その肉を食い、彼女を火で焼き尽くすようになります。(17)それは、神が、みことばの成就するときまで、神のみこころを行なう思いを彼らの心に起こさせ、彼らが心を一つにして、その支配権を獣に与えるようにされたからです。(18)あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。」(黙示17・1~18)
黙示録17章の主題は、「小羊のバビロンに対する勝利」です。また「終わりの時代の世界」、あるいは「堕落した教会に対する神のさばき」ともいうことができます。
バビロンとは何でしょう。この答えが、これから学ぶ黙示録17章1節から19章5節までに詳しく記されています。黙示録を振り返ると、バビロンについては今までに二度述べられています。
また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」(黙示14・8)
また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町々は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。(黙示16・19)
この前の16章で、私たちは千年王国の前の終わりの時代について学びました。時間の流れとしては、16章の直後に19章に書かれていることが起こります。しかしヨハネは、19章に書かれている小羊の婚姻の前に、教会の堕落について詳しく述べなければなりませんでした。なぜなら小羊の婚姻の前に、堕落した教会が取り除かれる必要があるからです。ヨハネはこのことを16章19節に短く書きましたが、17章1節から19章5節でさらに詳しく記したのです。
反キリストが支配する時代について、簡単に振り返ってみましょう。また、反キリストとにせ預言者について詳しく振り返りたい方は、13章の学びをご覧ください。
反キリストの時代は、神なき時代です。反キリストは世界の支配者となるばかりでなく、人間の精神をも支配しようとします。その目的のために、反キリストはにせ預言者を道具として使います。そしてにせ預言者が終わりの時代における世界支配の原点、すなわち世界中の宗教を統一する指導者となります。
13章では反キリストの権力と支配が示されていましたが、これから学ぶ17章から18章では、この権力と支配に対するさばきについて書かれています。真のさばき主である神は、そのさばきを世の終わりまで延ばしておられます。しかしそのさばきが来る時には、主を否む人はもはや救われることがなく、神の手に陥ることを恐怖をもって知るしかありません。
さて、17章を三つに分けて学んでいきましょう。最初の1節から6節には「淫婦バビロン」について、次の7節から14節は「反キリストの獣」について、そして15節から18節には「獣が淫婦を滅ぼす」ことが書かれています。
1.淫婦バビロン
バビロンという言葉は混乱を意味しています。混乱は、すでにカインの時代から始まっていましたが、17章1節から6節に書かれているように、全世界が反キリストの支配の下におかれるという、この世で最大の混乱の時代がやってきます。
昔のバベルの町は、ニムロデによってつくられました。創世記10章に書かれているように、ニムロデは猟師から出て最初の権力者となりました。神は国民が地の全面に広がるようにと言われましたが、ニムロデは神に逆らい、多くの人間を自分の近くに集めようとして、バベルの町とバベルの塔を建てようとしたのです。
ニムロデはその町を建てた時に、神の門という意味の「バブ・エル」と名づけました。しかし神のさばきを受けた時に、混乱を意味する「バベル」という名前に変えられました。
バベルの町の建設には、石の代わりにれんがを、粘土の代わりに瀝青を用いました。れんがや瀝青には本物の模倣という意味があります。つまり「バビロン」という言葉は、今日に至るまで、「神が作られた本物の模倣」を意味しています。
ニムロデは、ノアの子ハムの孫にあたります。ノアは生ける神の証し人でした。しかしハムは、神の啓示に対して反抗しました。ハムとは「暗くされた」とか「盲目にされた」ということを意味します。ハムは神の光によって精神的に盲目な者とされたのです。神の光に反抗し、心を閉ざす者は、盲目で暗い者にさせられます。
ハムは神なき生活を始め、偶像を礼拝した最初の人でした。それ以降、人々は創造主よりも人間が作った物を重んじるようになったのです。ハムの息子のひとりがクシュです。クシュは黒人を意味する言葉ですが、このクシュがバベルを建てたニムロデの父です。
ニムロデの妻セミラミス一世が、偶像礼拝の祭司としてバビロンの魔術を始めた女です。そのためバビロンは偶像礼拝の中心地になりました。この魔術を行なう宗教が、バビロンから全世界へと広められました。
セミラミスは自分の息子タムズが生まれた時、息子の誕生は普通の子供とは違い超自然的な誕生をした、と主張しました。これをもとにタムズは約束された救い主と呼ばれて祝われ、タムズに対する礼拝が始まりました。エゼキエルは、バビロン捕囚の時代に、この偶像礼拝が行なわれることを預言しています。
セミラミスとタムズの母子を偶像として礼拝する行為が、人類の知りうる最初の偶像礼拝です。悪魔は人々をこの偶像礼拝へと誘惑し、偶像礼拝は世界中へと広まりました。この二人の偶像は、フェキニアではアストレスとタムズ、エジプトではイシスとホルス、ギリシャではアフロディーテとエロス、イタリアではヴィーナスとキューピッドと呼ばれるものです。ローマ・カトリック教会の中では、千年の間、このような偶像礼拝が行なわれてきました。
このようなバビロン的な偶像礼拝には次のようなものがあります。死後の救いの可能性、祭司による罪の赦し、聖なる水によって清められること、天の女王にささげものを行なうこと、若い女性を神々にささげること(つまり不品行を行うこと)などです。
「子どもたちはたきぎを集め、父たちは火をたき、女たちは麦粉をこねて「天の女王」のための供えのパン菓子を作り、わたしの怒りを引き起こすために、ほかの神々に注ぎのぶどう酒を注いでいる。」(エレミヤ7・18)
タムズは熊によって引き裂かれ、そのあとで復活したと言われました。タムズの象徴は十字でした。したがってごく稀に、私たちは古い偶像の寺院の中に十字架らしきものを見出すことがあります。この十字は、主イエス様よりはるか以前に偶像の礼拝に用いられていたものであることがわかっています。
アブラハムは神から選ばれた時に、偶像礼拝を離れました。しかしフェキニアの王女であったイゼベルによって、再びイスラエルの民に持ちこまれてしまいました。イスラエルは、偶像礼拝のためにアッシリアに捕らわれ、そのあとでバビロンへと捕らえ移されることになりました。イスラエルは捕らえ移されることにより、偶像礼拝とは呪いとわざわいであることを身をもって知ったのです。
主イエス様の時代には、バビロンの魔術と宗教は、世界の至るところに広まっていました。バビロンの町はすでに消え去っていましたが、偶像礼拝は残り、世界中で続けられていました。そして、偶像礼拝の中心地はペルガモからローマに移っていきます。
ローマの皇帝ポンティフェクス・マキシマスは偶像礼拝の大祭司と呼ばれました。また次の皇帝ジュリアス・シーザーも同じように呼ばれました。それ以降のすべてのローマ皇帝は、自らを大祭司と呼んでいます。そして、コンスタンチヌス大帝は、異邦人の偶像礼拝の大祭司であると同時に、キリスト教会の大祭司ともなりました。その後、ローマ法王も大祭司と呼ばれました。今の法王もまた、そう呼ばれています。ですからローマ教会の法王は、歴史的にバビロン的な魔術宗教の承継者でもあるのです。魔術宗教によるローマ教会の支配は、宗教改革の時代まで続きました。
ヨハネは幻の中でこのさまを見て、キリストの教会がこのようにまで堕落していく姿に驚きました。ローマのカトリック教会は偶像礼拝を行ない、淫婦の母となり、神に敵対する者となりました。主イエス様を証しする人々を迫害し、血を流したのは、ローマ・カトリック教会です。
バビロンは、常に神に敵対しています。私たちはバビロンの影響のひとつとして、人間が自らを強くしようと努力する態度を見ることができます。
バビロンの始まり、発展、終わりの三段階について、次のように言うことができます。始まりは、バベルの塔にみられる神からの独立です。発展段階では、バビロンは常に神のまことの民を迫害し続けました。まことのキリスト者に対して、最も激しく迫害したのはローマ・カトリック教会です。そして終わりの時代には、バビロンは生ける神に対して呪いをかけます。これは今学んでいる黙示録17章から18章に示されています。
現在、バビロンはすでに荒れ果てて獣の住み家となっています。
そこには荒野の獣が伏し、そこの家々にはみみずくが満ち、そこにはだちょうが住み、野やぎがそこにとびはねる。(イザヤ13・21)
しかしバビロンの邪悪な精神は今なお生き続けています。それは生ける神に対する憎しみ、そしてまことの信者に対する憎しみです。バビロン的な邪悪な精神は常に存在し、政治的あるいは宗教的に権力を握ろうとする行為となって現われます。
バビロンによる政治的支配は、ネブカデネザル王の世界支配から始まりました。この時代から諸国民、異邦人の時代が始まり、イスラエル以外の国が世界史の中心に登場しました。そして近い将来には、ローマ帝国が「海から上る獣」として復活するでしょう。この帝国は猛獣の性格を持っており、さばきへ向かって成熟していきます。
一方、宗教的な視点から見ると、終わりの時代に復活するローマ帝国は、さばきに向かうバビロンであると記されています。黙示録17、18章には、バビロンは獣の上に乗る淫婦として描かれています。終わりの時代の宗教は、獣であるローマ帝国に乗る淫婦としてふるまい、全世界を導き、悩まします。ヨーロッパの大部分はすでにローマ法王の支配を受けています。
バビロンには、次のような六つの特徴があります。
[1]世界的な都市
バビロンは世界的な都市です。バビロンは、人間を「神なしで何でもできる」という幻想に取りつかせる場所です。人間的にみれば、このバビロンは大きくて立派な都市です。文化的にもこのバビロンは大きな業績をあげています。しかしこの都市は「神の名をけがす」という名を持つ獣に乗っています(3節)。獣は悪魔が作ったもので、バビロンと密接な関係があります。
また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」(黙示14・8)
こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。(黙示16・9)
その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。(黙示17・5)
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」・・・・彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。「わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。」
・・・・また、ひとりの強い御使いが、大きい、ひき臼のような石を取り上げ、海に投げ入れて言った。「大きな都バビロンは、このように激しく打ち倒されて、もはやなくなって消えうせてしまう。」(黙示18・2、10、21)
バビロンは、黙示録17章では「淫婦」、18章では「大きな都」と呼ばれています。バビロンについて、17章では宗教的な視点から、「淫婦」と呼び、間違った宗教を伝える教会を指しています。18章では都市を指して「大きな都」(18章10節)とか「大バビロン」(18章2節)と呼んでいます。「バビロン」は一方において現実の町であり、他方においては間違った宗教を象徴しています。同じように「新しいエルサレム」は現実の町であると同時に小羊の花嫁としてのまことの教会を象徴するものです。
ここに私たちは、主イエス様の真の体である教会と、堕落した教会との大きな違いを見ることができます。新しいエルサレムは天から下ってきますが、これに対してバビロンは地上にある現実の都です。それは、大きく、外見的には豊かで、力があり、悪魔の座のある都です。
彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」・・・・彼らは、彼女の苦しみを恐れたために、遠く離れて立っていて、こう言います。「わざわいが来た。わざわいが来た。大きな都よ。力強い都、バビロンよ。あなたのさばきは、一瞬のうちに来た。」(黙示18・2、10)
[2]富と宝の蓄積
バビロンは諸国民から略奪を行ない、富と宝を蓄えていきます。蓄財のために、淫婦バビロンは清さを犠牲にしました。カトリック教会は真理を犠牲にして富を蓄えました。具体的に言えば、カトリック教会は「良い行ないをすることにより救われる」と宣べ伝えて、多くの富を蓄えました。黙示録17章4節と18章13節には、紫と緋の衣、金と宝石と真珠、肉桂、香料、香、香油、乳香などさまざまな財宝があげられていますが、これらはすべてカトリック教会が持っている宝に当てはまります。
この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。(黙示17・4)
また、肉桂、香料、香、香油、乳香、ぶどう酒、オリーブ油、麦粉、麦、牛、羊、それに馬、車、奴隷、また人のいのちです。(黙示18・13)
しかし聖書には、この富と宝を持つバビロンが崩れ去ることが、はっきりと示されています。
[3]外見の美しさ
バビロンは「不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持って」(4節)います。
バビロンは主の御手にある金の杯。すべての国々はこれに酔い、国々はそのぶどう酒を飲んで、酔いしれた。(エレミヤ51・7)
金の杯は外見は大変美しく見えます。教育、文化、富などは外から見ると魅力的で、美しく見えます。淫婦はそれと同じように外側を飾っています。なぜなら、淫婦は外見によってしか良い印象を与えることができないからです。カトリック教会も同様に、内側の虚しさを外側の美しさで飾っています。また、ほかの教会も教義や儀式で外側を飾り、多くの人々を惑わしています。
淫婦の着物も金の杯も、淫婦の豊かさを表わしています。金は神聖な物を象徴しています。終わりの時代の堕落した教会は、自らをキリストに仕える神聖な真の教会であると主張します。カトリック教会は何世紀もの間このように主張し続けています。
淫婦が荒野にいる姿は、外見は豊かに見えて、その実は内面の貧しい者の姿を象徴しています。荒野とは渇きの場所であり、だれもその渇きを癒すことはできません。
[4]額に記される名前
ヨハネの時代の淫婦は、額に名前を記していました。5節には、淫婦の額には名前が記されているが、その意味が隠されていると書かれています。
まことの教会と偽りの教会との間には、どのような違いがあるのでしょう。まことの教会は復活されたイエス様とひとつになりますが、偽りの教会は意識してイエス様を遠ざけます。淫婦は、大バビロンに属すものであることを意識して隠しているのです。
バビロンは非常に大きな存在です。バビロンは神に反抗することによって大きくなりました。神に対する反抗こそが、淫婦の母と呼ばれるバビロンの力と影響の源でした。バビロンは、神に反する態勢を表わしています。昔のバビロンの町も神に反する態度をとっていました。
大水のほとりに住む財宝豊かな物よ。あなたの最期、あなたの断ち滅ぼされる時が来た。(エレミヤ51・13)
また、ヨハネの時代のローマも、ルイ14世の時代のパリも、昔のバビロンと同じように神に反し、偶像礼拝と不品行と自己実現に満ちた都市でした。終わりの時代のローマも、きっと同じようになるでしょう。
私たちはこのバビロンの影響を、イスラエルの不信仰な者の中に、イスラム教の中に、カトリック教会の中に、堕落したプロテスタント教会の中に見いだします。すべてのいわゆる「宗教」と哲学は、近い将来カトリック教会の指導の下にひとつにまとめられかねないのです。
私たちは自己を偶像とすること、淫行、拝金主義などの中に、バビロンによって世界観の混乱した宗教を見ることができます。宗教を排斥した共産主義の中においてさえ、バビロンの影響を強く見ることができます。
[5]殉教者への迫害
淫婦バビロンは、「聖徒たちの血とイエスの証人たちの血」(6節)、すなわち殉教者の血を飲みます。
カトリック教会は、自分たちだけが勝利者で、正しい者であると思いあがります。カトリック教会の間違いを指摘する人々は、カトリック教会から迫害を受けて殺されます。またまことの神を第一とする人々も、カトリック教会によって迫害を受けます。カトリック教会ほどに殉教者の血を流したものはありません。
7節に、淫婦は獣に乗って歩くと書かれています。つまり淫婦は、獣すなわち反キリストの世界を支配しているのです。カトリック教会は、終わりの時代にしばらくの間、反キリストをも支配します。終わりの時代には、さらに多くの殉教者の血が流されるでしょう。
[6]ローマの別名
淫婦は「七つの頭」(9節)に乗っています。
バビロンという名前は、ローマの七つの丘の上にある、隠された町の名前を意味しています。ヨハネの時代には、「ローマ」と呼ぶことができなかったために、バビロンという呼び名を用いました。
初代教会の信者たちは、聖書に預言されているバビロンはすべてローマのことを指していると考えていました。ローマはダニエル書における第四の獣にあたります。またペテロがバビロンという言葉を用いる時には、いつもローマを意味しています。なぜならペテロはバビロンへ行ったことがなかったからです。
バビロンにいる、あなたがたとともに選ばれた婦人がよろしくと言っています。(第一ペテロ5・13)
当時ローマでは、すべての宮で偶像礼拝が行なわれていました。また不品行とあらゆる罪が横行していました。そしてローマほどに、たくさんの殉教者の血が流されたところはほかにはありませんでした。
ここまでの、バビロンについての学びを振り返り、もう一度簡単に整理しておきましょう。
バビロンは、小羊の花嫁である教会に反対するものを指す言葉として用いられています。
また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。」(黙示17・1)
また、最後の七つの災害の満ちているあの七つの鉢を持っていた七人の御使いのひとりが来た。彼は私に話して、こう言った。「ここに来なさい。私はあなたに、小羊の妻である花嫁を見せましょう。」(黙示21・9)
バビロンは悪魔の道具であり、まことの教会は主なる神の道具です。
バビロンは獣によって運ばれ、まことの教会は主によって高く運ばれます。
バビロンは額に不品行の名前を記し、まことの教会は額に主とキリストの名を記しています。
バビロンは自らの力によって自分のためにだけ生き、まことの教会は主イエス様の恵みに頼って主イエス様のためにだけ生きたいと望みます。言いかえれば、バビロンは終わりの時代における宗教や哲学を表わしています。彼らは十字架の福音を伝えようとするのではなく、自分の力と考えを伝えることに力を注ぎます。
バビロンは主イエス様に頼らず、反キリストに頼ります。そして反キリストの国家とひとつになります。
バビロンの中にいる人は、キリストの名を高めようとせず、自分の名を高めようとします。
終わりの時代のバビロンは、キリストの霊に導かれるのではなく、悪霊によって導かれます。この終わりの時代の宗教は、小羊イエス様が示してくださる道を行くのではなく、自分の力を武器として進みます。ですから、このような教会は人の魂を救わず、魂を束縛し、主イエス様ではなく「自分の教会」を救い主だと宣べ伝えるのです。
淫婦は終わりの時代の宗教であり、その頂点に立つのがにせ預言者です。
まことの教会は引き上げられ、残されたすべての教会はカトリック教会の下に統一されます。神の霊に導かれていない教会も、宗教も、淫婦バビロンに吸収されるのです。
今、私たちにとって最も重要な問題は、自分がまことの教会、主イエス様のみからだである教会に属する者であるかどうかをよく考えることです。
私たちは、自分のすべての罪が赦されているという確信を持っているでしょうか。
私たちは、本当に主イエス様のために、また主イエス様の愛のために生きているでしょうか。
私たちは、心から主イエス様の再臨を待ち望んでいるでしょうか。
2.反キリストの獣
黙示録17章7節から14節の主題は「反キリストの獣」です。
私たちは6節までで、淫婦バビロンについて考えてきました。淫婦は不忠実の象徴です。黙示録においてはとくに不品行や偽りの象徴として用いられています。
主イエス様を中心としない信仰は、間違った信仰です。淫婦とは、イエス・キリストの花嫁に反抗する者です。忠実な妻ほど良いものはなく、不忠実な妻ほど悪いものはないように、キリストの花嫁に属することほど良いことはなく、間違った宗教に惑わされることほど悪いことはありません。
この淫婦は1節にあるように、大水の上に座っています。黙示録17章15節によると、その水はいろいろな民族、国民、国語を表わしています。ですから水の上に座るこの淫婦は、全世界に影響を及ぼし、全世界を惑わすのです。淫婦はすべての宗教を一つにまとめることに成功します。
淫婦バビロンの富や魔術によって、多くの無知な人々が惑わされます。私たちは黙示録17章1節から6節と、ゼカリヤ書5章5節から11節において、同じようなことが示されているのを見ることができます。
また、七つの鉢を持つ七人の御使いのひとりが来て、私に話して、こう言った。「ここに来なさい。大水の上にすわっている大淫婦へのさばきを見せましょう。地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。」それから、御使いは、御霊に感じた私を荒野に連れて行った。すると私は、ひとりの女が緋色の獣に乗っているのを見た。その獣は神をけがす名で満ちており、七つの頭と十本の角を持っていた。この女は紫と緋の衣を着ていて、金と宝石と真珠とで身を飾り、憎むべきものや自分の不品行の汚れでいっぱいになった金の杯を手に持っていた。その額には、意味の秘められた名が書かれていた。すなわち、「すべての淫婦と地の憎むべきものとの母、大バビロン。」という名であった。そして、私はこの女が、聖徒たちの血とイエスの証人たちの血に酔っているのを見た。私はこの女を見たとき、非常に驚いた。(黙示17・1~6)
私と話していた御使いが出て来て、私に言った。「目を上げて、この出て行く物が何かを見よ。」私が、「それは何ですか。」と尋ねると、彼は言った。「これは、出て行くエパ枡だ。」そして言った。「これは、全地にある彼らの罪だ。」見よ。鉛のふたが持ち上げられ、エパ枡の中にひとりの女がすわっていた。彼は、「これは罪悪だ。」と言って、その女をエパ枡の中に閉じ込め、その口の上に鉛の重しをかぶせた。それから、私が目を上げて見ると、なんと、ふたりの女が出て来た。その翼は風をはらんでいた。彼女たちには、こうのとりの翼のような翼があり、彼女たちは、あのエパ枡を地と天との間に持ち上げた。そこで私は、私と話していた御使いに尋ねた。「あの者たちは、エパ枡をどこへ持って行くのですか。」彼は私に言った。「シヌアルの地で、あの女のために神殿を建てる。それが整うと、そこの台の上に安置するためだ。」(ゼカリヤ5・5~11)
どちらの箇所にも御使いと女のことが記されています。黙示録の淫婦も、ゼカリヤ書のエパ枡の女も、ともに不道徳な女性を意味しています。
黙示録17章の3節と7節で、淫婦と獣は同じものとなっています。これは教会と国家が結びつくという関係を示しています。これはどちらにとっても有益なことです。なぜなら教会は国家と結びつくことによって確かな保護を得ることができ、国家は教会と結びつくことによって人の心を支配することができるからです。
よく知られていることですが、世界中の政治は、宗教や思想を利用して行なわれています。国が利用する宗教は、国家に損害を与えず、国家の犯した罪を指摘することもなく、ただ安穏な秩序の中に国家組織を守ろうとするだけです。しかしイエス様のみからだである真の教会は、罪を示し、悔い改めを求め、神の権威に従おうとするものです。このような真の教会は、世界の中にあって異質な人々の集団と見なされます。
イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留している、選ばれた人々、すなわち、父なる神の予知に従い、御霊の聖めによって、イエス・キリストに従うように、またその血の注ぎかけを受けるように選ばれた人々へ。どうか、恵みと平安が、あなたがたの上にますます豊かにされますように。(第一ペテロ1・1、2)
淫婦バビロンの思想は、ニムロデの時代に始まり、それからますます大きくなってきています。神のみこころと神のいましめに反抗することが、この淫婦の目的です。生ける神に対する反抗と自分の名前を高めようとする努力が、今日のすべての指導者の特徴です。
そのうちに彼らは言うようになった。「さあ、われわれは町を建て、頂が天に届く塔を建て、名をあげよう。われわれが全地に散らされるといけないから。」(創世記11・4)
黙示録17章の1節から6節までは淫婦について記されていましたが、これから学ぶ7節から15節までには反キリストの獣について記されています。反キリストの獣とは、終わりの時代の先頭に立つ反キリスト的国家のことです。
この部分を、獣が持つ三つの特徴に分けて考えてみたいと思います。
[1]世界帝国
獣が「世界中を支配する帝国」を意味することは、ダニエル書7章1節から7節にすでに預言されています。それはつまり、ローマ帝国の復興です。聖書は、「それはかつてあり、今はなく、将来起こる」国であると言っています。
バビロンの王ベルシャツァルの元年に、ダニエルは寝床で、一つの夢、頭に浮かんだ幻を見て、その夢を書きしるし、そのあらましを語った。ダニエルは言った。「私が夜、幻を見ていると、突然、天の四方の風が大海をかき立て、四頭の大きな獣が海から上がって来た。その四頭はそれぞれ異なっていた。第一のものは獅子のようで、鷲の翼をつけていた。見ていると、その翼は抜き取られ、地から起こされ、人間のように二本の足で立たされて、人間の心が与えられた。また突然、熊に似たほかの第二の獣が現われた。その獣は横ざまに寝ていて、その口のきばの間には三本の肋骨があった。するとそれに、『起き上がって、多くの肉を食らえ。」との声がかかった。この後、見ていると、また突然、ひょうのようなほかの獣が現われた。その背には四つの鳥の翼があり、その獣には四つの頭があった。そしてそれに主権が与えられた。その後また、私が夜の幻を見ていると、突然、第四の獣が現われた。それは恐ろしく、ものすごく、非常に強くて、大きな鉄のきばを持っており、食らって、かみ砕いて、その残りを足で踏みつけた。これは前に現われたすべての獣と異なり、十本の角を持っていた。」(ダニエル7・1~7)
ローマ帝国は、ヨハネの時代には存在していましたが、今日はありません。しかし、将来再び起こります。この国について「底知れぬ所から上って来ます。」(8節)とあるのは、悪魔によって起こされる国であることを意味しています。しかしこの国は再び滅亡させられます。
主イエス様の道はそれとは逆です。主イエス様は上って来るのではなく、栄光の天から下って来られます。主イエス様は失われたこの世を救うために下って来られ、再び天へ帰られました。主イエス様とイエス様に従う者にとっては、「自分が低められて、人々が高められる」ことが重要であり、反キリストとそれに従う者たちは「自分が高められて、人々が低められる」ことが重要です。
多くの研究者は、8節の獣が反キリストを意味すると解釈しています。反キリストは、黙示録6章で第一の封印が解かれた時に、白い馬に乗って現われ、そのあとで殺されていったんは消滅しました。ここで再び反キリストが現われるということは、反キリストが復活して世界の支配権を手に入れることを示しています。
主イエス様はかつて存在し、今も存在しておられ、永遠の主であります。しかし反キリストは、堕落して滅び去ります。そして反キリストに従う者にも同じ運命が定められています。主イエス様の特徴は忠実であり、反キリストの特徴は偽りです。
[2]七つの頭
獣には七つの頭があります。
ここに知恵の心があります。七つの頭とは、この女がすわっている七つの山で、七人の王たちのことです。・・・・あなたが見たあの女は、地上の王たちを支配する大きな都のことです。(黙示17・9、18)
この七つの頭とは、何を意味するのでしょう。「女のすわっている七つの山」とは、終わりの時代に宗教的にも政治的にも力を持つ、七つの丘のある都市、つまりローマを指しています。そしてそこに都が建てられます。つまりローマが反キリストとにせ預言者の中心地となることを示しています。
七つの頭は、七人の王を意味しています。七人の王とは、ローマの七つのそれぞれ異なった政治形態を指すと解釈されています。第一は王制、第二は共和制、第三はいわゆる恐怖政治、第四は三頭政治、第五は独裁制、第六はヨハネの時代の皇帝制です。そして第七の政治形態は、十の国々がひとりの支配者によって支配される国です。
五人はすでに倒れたが、ひとりは今おり、ほかのひとりは、まだ来ていません。しかし彼が来れば、しばらくの間とどまるはずです。また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。(黙示17・10、11)
しかしこれから来る七番めの王による支配は、三年半しか続きません。
この獣は、傲慢なことを言い、けがしごとを言う口を与えられ、四十二か月間活動する権威を与えられた。(黙示13・5)
またもう一つの解釈として、「王」は反キリスト的な支配者を意味しており、七という数字が完全な数であることから、反キリスト的な支配者の全体を指す、とも考えられています。反キリスト的な支配者として、ニムロデ、パロ、ネブカデネザル、アンティオチョス・エピファニアス、エルサレムを滅ぼしたティトスらがあげられます。これら五人の者たちはヨハネの時代にはいませんでした。ヨハネの時代にいた第六番めの支配者は、ドミティアヌスです。
そして、第七番めの支配者は反キリストである獣だと思われます。第七番めの支配者は、同時に八番めの者でもあります。
私は見た。見よ。白い馬であった。それに乗っている者は弓を持っていた。彼は冠を与えられ、勝利の上にさらに勝利を得ようとして出て行った。(黙示6・2)
また私は見た。海から一匹の獣が上って来た。これには十本の角と七つの頭とがあった。その角には十の冠があり、その頭には神をけがす名があった。(黙示13・1)
また、昔いたが今はいない獣について言えば、彼は八番目でもありますが、先の七人のうちのひとりです。そして彼はついには滅びます。(黙示17・11)
七人の王とは、すべての反キリスト的な支配者をまとめた表現です。第八番めの支配者とは、彼がこれまでのすべての者に対し、力においても知恵においても勝っていることを示しています。八という数字は、新しいものという意味があるからです。
生けるまことの神がイエス様をとおして新しい創造を始めたのと同じように、竜であるサタンも新しい創造を始めようとしました。竜は殺された反キリストを再び復活させます。それはサタンが、イエス様の復活を真似て行なうことです。
反キリストの復活により新しい創造が起きます。しかしそれは神なき創造です。11節には、その反キリストは滅びに定められていると記されています。
すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。(黙示19・20)
テサロニケ人への手紙第二の2章3節によると、反キリストは滅びの子と証言されています。滅びの子は、多くの人々を滅びへと誘惑し、最後には自分自身も滅びへと入っていきます。
・・・・なぜなら、まず背教が起こり、不法の人、すなわち滅びの子が現われなければ、主の日は来ないからです。(第二テサロニケ2・3)
[3]十の角
7節には、獣が十本の角を持っていると記されています。十本の角は、世界の支配力が一つにされたことを示しています。つまり十人の支配者は、自分の権力と考えによって支配するのでなく、ひとりの独裁者の言いなりの支配を行います。彼らは反キリストの道具にすぎません。
終わりの時代のローマ帝国は、反キリストによって支配される十の国家の統一体です。彼らの考えはただ一つです。すなわち、反キリストの考えがすべての国々の考えを支配するのです。十の国は反キリストに従順に従っていきます。
ダニエルはこの十の国々について、像の十本の指に例えました。
あなたがご覧になった足と足の指は、その一部が陶器師の粘土、一部が鉄でしたがそれは分裂した国のことです。その国には鉄の強さがあるでしょうが、あなたがご覧になったように、その鉄はどろどろの粘土と混じり合っているのです。その足の指が一部は鉄、一部は粘土であったように、その国は一部は強く、一部はもろいでしょう。(ダニエル2・41、42)
反キリストは十の国を従え、小羊である主イエス様に戦いを挑みます。
第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(黙示16・12~16)
また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。(黙示19・17~21)
反キリストは、イエス・キリストを滅ぼして、やりたい放題に世界を支配しようとします。しかしイエス様は、これらの反キリストに対して、勝利をおさめられます。
主イエス様は小羊として勝利なさいます。つまり、武器や力を行使することなくすべてにうち勝たれるのです。なぜなら、主イエス様は、主の主であると同時に小羊でもあられるからです。小羊はいかなる力にも勝る強いお方です。
主イエス様は、十字架のみわざにより、悪魔に対して完全な勝利を得られました。現在すでに、主イエス様は勝利を勝ちとられています。この勝利は将来明らかにされ、そして祝われることでしょう。
主イエス様はつねにすべてのものの主であられます。
すると悪魔はイエスを離れて行き、見よ、御使いたちが近づいて来て仕えた。(マタイ4・11)
イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭をたれて、霊をお渡しになった。(ヨハネ19・30)
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしには天においても、地においても、いっさいの権威が与えられています。」(マタイ28・18)
黙示録17章でこの勝利が完全な形で現わされます。そして救われ、選ばれている忠実な者たちがこの勝利にあずかります。ここに私たちは、主イエス様の「死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、わたしはあなたにいのちの冠を与えよう。」(黙示2・10)というみことばを思い出すことができます。
救われ、選ばれている忠実な者たちは、自ら剣をとって戦う必要がありません。ただ主イエス様のみもとにいれば、イエス様の勝利にあずかることができるのです。
また、私は見た。見よ。白い雲が起こり、その雲に人の子のような方が乗っておられた。頭には金の冠をかぶり、手には鋭いかまを持っておられた。すると、もうひとりの御使いが聖所から出て来て、雲に乗っておられる方に向かって大声で叫んだ。「かまを入れて刈り取ってください。地の穀物は実ったので、取り入れる時が来ましたから。」そこで、雲に乗っておられる方が、地にかまを入れると地は刈り取られた。
また、もうひとりの御使いが、天の聖所から出て来たが、この御使いも、鋭いかまを持っていた。すると、火を支配する権威を持ったもうひとりの御使いが、祭壇から出て来て、鋭いかまを持つ御使いに大声で叫んで言った。「その鋭いかまを入れ、地のぶどうのふさを刈り集めよ。ぶどうはすでに熟しているのだから。」そこで御使いは地にかまを入れ、地のぶどうを刈り集めて、神の激しい怒りの大きな酒ぶねに投げ入れた。その酒ぶねは都の外で踏まれたが、血は、その酒ぶねから流れ出て、馬のくつわに届くほどになり、千六百スタディオンに広がった。
こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(黙示16・16)
また私は、太陽の中にひとりの御使いが立っているのを見た。彼は大声で叫び、中天を飛ぶすべての鳥に言った。「さあ、神の大宴会に集まり、王の肉、千人隊長の肉、勇者の肉、馬とそれに乗る者の肉、すべての自由人と奴隷、小さい者と大きい者の肉を食べよ。」
また私は、獣と地上の王たちとその軍勢が集まり、馬に乗った方とその軍勢と戦いを交えるのを見た。すると、獣は捕えられた。また、獣の前でしるしを行ない、それによって獣の刻印を受けた人々と獣の像を拝む人々とを惑わしたあのにせ預言者も、彼といっしょに捕えられた。そして、このふたりは、硫黄の燃えている火の池に、生きたままで投げ込まれた。残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、すべての鳥が、彼らの肉を飽きるほどに食べた。(黙示19・17~22)
3.獣が淫婦を滅ぼす
次に、黙示録17章15節から18節の部分から「獣が淫婦を滅ぼす」ことを学びましょう。
まず、この前の部分から通して見ると、8節から11節では獣が滅ぼされ、12節から14節では十人の王が滅ぼされ、15節から18節では淫婦が滅ぼされることが書かれています。しかし、時間の流れとしてはこの順序は反対で、淫婦が滅ぼされたあとに十人の王が滅び、最後に獣が滅ぼされるのです。この部分も三つに分けて考えてみましょう。
[1]世界的な偶像礼拝の広がり
終わりの時代の間違った宗教については、黙示録13章ですでに示されています。にせ預言者は、人々に獣の像の礼拝を勧めました。すなわち人間を拝ませたのです。この偶像礼拝は人々に強制され、従わない者たちは殺されました。
私たちはいま、黙示録17章で、この偶像礼拝が世界に広がるさまを見ます。すべての人々はこの偶像を礼拝させられ、バビロンへと向かって行きます。反キリストの時代が始まるとき、この宗教はすべての人々を支配します。それは淫婦が獣の上に乗って獣を支配するということです。17章12節に書かれているのは、淫婦が十人の王たちを用いて世界を支配することです。
私たちはすでに、終わりの時代のローマが、さばかれるべき存在にまでに成熟したバビロンであることを学びました。ローマ・カトリック教会では、今もバビロンの淫行を引き継いでいます。そこでは神から出る物はすべて否定され、真理が偽りに変えられ、造られた物が造り主よりも重んじられるようになります。
昔のバビロンは、偶像礼拝の母です。
その水の上には、ひでりが下り、それはかれる。ここは刻んだ像の国で、彼らは偶像の神に狂っているからだ。(エレミヤ50・38)
いわゆる聖母マリヤとイエスとを中心に置く礼拝は、霊とまことによる礼拝とはまったく違うものです。この母子像への礼拝は、異邦人の寺院における母と子、すなわちセミラミス・アストレスとその子タムズへの礼拝と同じことにほかなりません。
主イエス様の母マリヤは、ほかの信者と同じく心のへりくだった信者にすぎませんでした。使徒の働き1章14節には、マリヤはほかの信者と共に祈る婦人であったと書かれています。聖書には、マリヤが復活し、昇天し、天の女王になったとは、どこにも記されていません。しかしローマ・カトリック教会では、マリヤがこのようになったと教えています。これはバビロンの偶像礼拝によって起こった過ちです。
目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか、(イザヤ51・6~9)
神は今もなお、偶像を礼拝する者をいましめられます。
偶像礼拝はローマ・カトリック教会だけではなく、プロテスタント教会でも行なわれています。たとえば、教会の階級制や儀式がそうです。また幼児洗礼はカトリック教会から来たものです。幼児洗礼はバビロンの偶像礼拝、すなわちセミラミス・アストレスとタムズへの礼拝と関係が深い行為です。
私たちは、カトリック教会について、三つの特徴をあげることができます。
まず、カトリック教会の根本は、神のみことばだけに基づいてはいません。カトリック教会は異邦人の教義と儀式を受け入れて、今まで守ってきています。
次に、カトリック教会の統一性は、偶像礼拝と結びついた間違った統一性に基づいています。真の統一は、聖霊が人の心を支配するときに実現するものです。
また、カトリック教会の中心はローマにあり、ローマ法王がその中心となっています。真の教会の中心におられるのは人間的なものではなく、生けるまことの神ただおひとりです。
[2]淫婦に対する世界中の憎しみ
堕落した教会によって、反キリストが世界支配に成功しますが、まもなくこの堕落した教会にさばきがくだされます。このとき主イエス様の警告が現実のものとなります。
あなたがたは、地の塩です。もし塩が塩けをなくしたら、何によって塩けをつけるのでしょう。もう何の役にも立たず、外に捨てられて、人々に踏みつけられるだけです。(マタイ5・13)
十人の王を支配する堕落した教会は、塩の力を失った塩のようであり、十人の王は16節にあるとおり、この堕落した教会の支配に幻滅し、戦いを挑み、ついには焼きつくしてしまいます。
この後、私は、もうひとりの御使いが、大きな権威を帯びて、天から下って来るのを見た。地はその栄光のために明るくなった。彼は力強い声で叫んで言った。「倒れた。大バビロンが倒れた。そして、悪霊の住まい、あらゆる汚れた霊どもの巣くつ、あらゆる汚れた、憎むべき鳥どもの巣くつとなった。」(黙示18・1、2)
バビロンはここでは「悪霊の住まい」と表わされています。これがこの教会に対しての神のご判断です。誰が悪霊の住まいを居心地よい場所だと感じるでしょう。しかし多くの人々は、何世紀もの間この汚れた空気の中で生活を続けてきました。神はその民に対して、「そこから離れ去りなさい。」と求めています。
それから、私は、天からのもう一つの声がこう言うのを聞いた。「わが民よ。この女から離れなさい。その罪にあずからないため、また、その災害を受けないためです。なぜなら、彼女の罪は積み重なって天にまで届き、神は彼女の不正を覚えておられるからです。」(黙示18・4、5)
淫婦の罪は、淫婦自身が持つ罪ばかりでなく、人々を罪の中へと誘い込むという罪も併せ持っています。
私たちは黙示録13章で、獣が何でもできることを学びましたが、ただひとつ不可能なことがあります。それは人を愛することと、人の心に愛を呼び起こすことです。淫婦も、情欲を呼び起こすだけで愛を呼び起こすことはできません。淫婦は富や力によって人を集めることができますが、愛することはできません。このことが終わりの時代に明らかにされます。
人々は、自由、正義、幸福などという言葉の裏で、大きな犠牲が強要されたことに気づきます。主イエス様をとおしてでなければ、すべての被造物の救いは成し遂げられないからです。
反キリストは堕落した教会と結びついたまま投げ捨てられます。それはちょうど淫婦が使い捨てられるように扱われるのです。名前だけのキリスト教は、反キリスト教徒と共に投げ捨てられるのです。
淫婦はすべての富を奪われ、裸にされて、荒れ果ててしまいます。淫婦はその傲慢を取り去られ、恥を見ます。15・節に、十本の角と獣は彼女の肉を食べる、と書かれているのは、淫婦が徹底的に破壊されることを意味しています。このみことばは、イゼベルの最後を連想させます。
彼が、「その女を突き落とせ。」と言うと、彼らは彼女を突き落とした。それで彼女の血は壁や馬にはねかえった。エフーは彼女を踏みつけた。彼は内にはいって飲み食いし、それから言った。「あののろわれた女を見に行って、彼女を葬ってやれ。あれは王の娘だから。」彼らが彼女を葬りに行ってみると、彼女の頭蓋骨と両足と両方の手首しか残っていなかったので、帰って来て、エフーにこのことを知らせた。すると、エフーは言った。「これは、主がそのしもベティシュベ人エリヤによって語られたことばのとおりだ。『イズレエルの地所で犬どもがイゼベルの肉を食らい、イゼベルの死体は、イズレエルの地所で畑の上にまかれた肥やしのようになり、だれも、これがイゼベルだと言えなくなる。』」(第二列王9・33~37)
イゼベルは淫婦バビロンの雛形です。イゼベルも偶像礼拝を行ない、預言者たちの血を流しました。そしてイゼベルの肉も食べられました。
しかし、あなたには非難すべきことがある。あなたは、イゼベルという女をなすがままにさせている。この女は、預言者だと自称しているが、わたしのしもべたちを教えて誤りに導き、不品行を行なわせ、偶像の神にささげた物を食べさせている。わたしは悔い改める機会を与えたが、この女は不品行を悔い改めようとしない。見よ。わたしは、この女を病の床に投げ込もう。また、この女と姦淫を行なう者たちも、この女の行ないを離れて悔い改めなければ、大きな患難の中に投げ込もう。また、わたしは、この女の子どもたちをも死病によって殺す。こうして全教会は、わたしが人の思いと心を探る者であることを知るようになる。また、わたしは、あなたがたの行ないに応じてひとりひとりに報いよう。(黙示2・20~23)
さらに「彼女を火で焼き尽くす」(16節)と書かれています。レビ記21章9節には、すべて姦淫の者は火によって焼かれる、と示されています。
祭司の娘が淫行で身を汚すなら、その父を汚すことになる。彼女は火で焼かれなければならない。(レビ21・9)
人がもし、女をその母といっしょにめとるなら、それは破廉恥なことである。彼も彼女らも共に火で焼かれなければならない。あなたがたの間で破廉恥な行為があってはならないためである。(レビ20・14)
やもめ、離婚された女、あるいは淫行で汚れている女、これらをめとってはならない。彼はただ、自分の民から処女をめとらなければならない。(レビ21・14)
[3]神のご計画の成就
このように、淫婦は獣に憎まれ、ついに滅ぼされます。その時代の人々は、堕落した教会を破壊したのは自分たちであると考えますが、本当は主なる神のご計画の成就なのです。彼らの知らない間に、神のご計画が実現します。神は悪魔の力でさえもご自分の計画のために用いられます。
主なる神は、十人の王たちに淫婦をさばく力を与えられます。獣が、高ぶった豊かな淫婦を滅ぼし、倒します。黙示録14章8節で、神の御使いは、このことがすでに起こったことのように予言しています。
また、第二の、別の御使いが続いてやって来て、言った。「大バビロンは倒れた。倒れた。激しい御怒りを引き起こすその不品行のぶどう酒を、すべての国々の民に飲ませた者。」(黙示14・8)
もちろん神は、ご自分の力でこの計画を実現されることもできるでしょう。しかし神は、この計画のために悪魔を使われるのです。主イエス様による救いのみわざが成就するために、そうとは知らずにゴルゴタでピラトが用いられたのと同じです。またヨセフの兄弟たちも、それとは知らずに神のご計画の成就のために用いられました。全能の神は、世界の支配権を手中に持っておられます。悪魔ですらも、神のご計画の実現のために使われるのです。
終わりの時代に、人は神から自由になろうとし、自分の道を進もうとします。神は人にその道を行かせます。しかし、そのことをとおして、神はご自分の計画を実現されるのです。
わたしはあなたを引き回し、あなたのあごに鉤をかけ、あなたと、あなたの全軍勢を出陣させる。それはみな武装した馬や騎兵、大盾と盾を持ち、みな剣を取る大集団だ。(エゼキエル38・4)
淫婦、すなわち堕落した教会は、世界の支配者の誇りです。しかし世界の国々の政府は、その淫婦を滅ぼします。世界の支配者たちは、神の怒りとさばきの道具として用いられます。私たちはここに、神の全能の力を見ることができます。主なる神は、敵に対してさばきを行なうだけでなく、その敵が自滅するように仕向けられるのです。神は、神の敵を、それに対立する者によって滅ぼし、ご自分の計画を実現なさいます。神の敵がまったく気づかないままに、神の計画と約束とさばきとが成就されます。神は、何と偉大なお方でしょう。
この章で、私たちは真の信仰と間違った宗教との対立を学びました。小羊に対する礼拝か、あるいは反キリストに対する礼拝か、言いかえればまことの神への礼拝か、偶像への礼拝かという対立です。いずれかしか道はありません。もっとも悪いのは妥協という道です。
いま私たちにとって大切なことは、キリストの霊と反キリストの悪意とをはっきり区別することです。それは上から来るエルサレムと、下から来るバビロンとの区別でもあります。
主イエス様の側に妥協せずに立ち、主イエス様の勝利にあずかる者は幸いです。
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