2023年4月30日日曜日

行列のしんがり、この世の見せ物――敬虔の奥義――

行列のしんがり、この世の見せ物――敬虔の奥義――
2023年4月30日、秋田福音集会
岡本雅文兄

第一コリント
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

いつものことですけども、メッセージという言葉は、非常に、何か違うような感じがするんですね。専門的に聖書を学んだわけでもないし、本当にいつも恐れがあります――誤って解釈してしまうのではないかと。ですから、本当にこのメッセージというよりも、証しと言った方がいいと思うんです。聖書を読んで、そして、心に与えられたこと、それを、もし違う思いが与えられた兄弟、また、姉妹は、聖書に書いてあるとおりにそれを吟味していただいて、そして、交わりの時にそのことを、さらにともに学んでいくというためのものではないかと、いつも思っています。

最近――最近というのは、二週間のことなんですけれども――ある集会の礼拝が始まる前に、この御言葉に触れました。その集会は、二年半ぐらい、三か月に一回、集っていますけれども、ずっとズームで、初めて現地に赴きました。

自然にこのみことばに触れて、イエス様に対する感謝と賛美があふれでてきたんです。それは、ヨハネの7章の37節からのみことばのとおりでした。よく知っておられるだろうと思うみ言葉です。本当にその通りに、心の中に流れてくるものがありました。『さて、祭りの終わりの大いなる日に・・・・』、この祭りというのは仮庵(かりいお)の祭りですね。

ヨハネ
7:37 さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立って、大声で言われた。「だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。
7:38 わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。」
7:39 これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである。・・・・

ここで、『聖書が言っているとおりに』という言葉は、聖書の脚注のイザヤ書44章の3節と、同じくイザヤの58章の11節に書かれているとおりに・・・・ということでしょう。

イザヤ
44:3 わたしは潤いのない地に水を注ぎ、かわいた地に豊かな流れを注ぎ、わたしの霊をあなたのすえに、わたしの祝福をあなたの子孫に注ごう。

58:11 主は絶えず、あなたを導いて、焼けつく土地でも、あなたの思いを満たし、あなたの骨を強くする。あなたは、潤された園のようになり、水のかれない源のようになる。

この二つ目の58章11節の『あなたの思いを満たし』と書かれていることは、私たちが願う、その願いどおりに満たすということではないと考えます。それは、よく知られている第一コリントの2章の9節に書かれているように、人の心に思い浮かんだことのないものであります。

ですから、私たちの思いどおり、思いを満たすと聖書が書いてあるそのことは、私たち自身の心に思い浮かんだことのないような思いを満たしてくださる。それは、さらに第一コリントの今の2章の9節の次に書かれている10節の『御霊によって啓示されたものであり』と書かれており、そして、さらに少し前の7節には、『隠された奥義としての神の知恵』ですと書いてあります。

【参考】第一コリント
2:7 私たちの語るのは、隠された奥義としての神の知恵であって、それは、神が、私たちの栄光のために、世界の始まる前から、あらかじめ定められたものです。

2:9 まさしく、聖書に書いてあるとおりです。「目が見たことのないもの、耳が聞いたことのないもの、そして、人の心に思い浮かんだことのないもの。神を愛する者のために、神の備えてくださったものは、みなそうである。」
2:10 神はこれを、御霊によって私たちに啓示されたのです。御霊はすべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。

そして、この箇所は、もう少し前に行くと、2節に次のように書かれています。『イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない』という思いで満たしてくださる。パウロは、このようにこの個所を、自分自身の証しとして、自分自身がどのように導かれたか、自分の思い、自分の願いというのは、どういうことであったのかということを、克明にここに書かれています。

【参考】第一コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

さっと読んでも、なかなか理解することができない、パウロ自身が、自分の思い、自分の願いがどのようなものであるか、どのように導かれたかということを書いています。パウロの『イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らない(第一コリント2章2節)』、そういう思いで、彼は一生を歩み続けたとわかります。

二週間前の日曜日、この心に思い浮かんだことのない、そういう恵みで満たされました。イエス様の言葉どおりだったんですね。イエスを信じる者が、後になって受ける御霊によって、絶えることなく流れ続ける生ける水の川に浸った。そういう喜びでありました。

このみ言葉は、よく知っていたみ言葉でしたけれども――ヨハネの七章の御言葉はよく知っていた御言葉でしたけれども――、今までになく、心に残りました。今日もその恵みを思い起こしながら、参加させていただきました。礼拝も、ただイエス様だけが、イエス様の十字架だけが、イエス様がどんな思いで、どのように死んでくださったかということだけが、賛美の、また、礼拝の対象でした。

本日は、初めに読んでいただいたみ言葉から実際に導かれたことをご紹介したい――そのように思っています。

先ほども少し触れましたけれども、このような恵みが与えられたのは、第一コリント4章9節の御言葉に触れた時、読んだときであります。新幹線で参りましたけど、その途中で与えられた御言葉でした。その時、私の心の中に広がった思いは、イエス様は私の罪の身代わりとして死んでくださったという、よく自分自身の言い慣れた感謝の言葉ではありませんでした。

第一コリント
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

この御言葉から、イエス様ご自身の地上の最後の時を、パウロはこのように見ていたのだと伝わってまいりました。パウロのこの証しをとおして、十字架につけられた、あの日のイエス様に、私も一気に導かれたように思いました。

このみ言葉は、『私たち使徒』と書かれているように、使徒として召されたパウロ自身のことを述べています。しかし、パウロが心の目で見ていたのは、自分のことではなく、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったイエス様ご自身だったと、このみことばは、私に迫ってまいりました。だからこそパウロは、このコリント人への手紙を書き始めるにあたって、先ほどもご紹介した第一コリントの2章の2節のように記したことが、その日、心にすぐに思い浮かんでまいりました。

第一コリント
2:2 なぜなら私は、あなたがたの間で、イエス・キリスト、すなわち十字架につけられた方のほかは、何も知らないことに決心したからです。

もう一度、申し上げますと、死罪に決まったあの日のイエス様は、御使いにも人々にもこの世の見せ物になったと、パウロは受け取りました。すべての被造物の前に、人類のこれまで積み重ねられたすべての罪の責任、重荷を負って、見世物にされた、すなわち、さらし者にされたそのイエス様が負ってくださった罪の重荷の大きさを、パウロはよく知っていたということが、この言葉、『見せ物になった』という言葉で分かります。

さらにパウロは、そのイエス様の十字架の行列のしんがりとして、彼自身も、見せ物として引き出されたものであることを、コリントの兄弟姉妹たちに、その集会に、はっきりと示しました。

そして、またさらに彼は、この行列におけるもう一つの出来事も忘れることは無かったのではないかと思います。その出来事とは、ルカの福音書の23章の26節に書かれた短い記述です。

ルカ
23:26 彼らは、イエスを引いて行く途中、いなかから出て来たシモンというクレネ人をつかまえ、この人に十字架を負わせてイエスのうしろから運ばせた。

この時、イエス様はおそらく、ご自身がかかるはずの十字架を運ぶ力もなかったのではないかと思います。ただ、パウロの心にとどまったことは、イエス様の代わりに十字架を運んだのは、イエス様の弟子たちではなかったということだったのではないかと思います。

このイエス様の行列のしんがりとなったのは、イエス様の後ろについて十字架を肩代わりして運んだのは、たまたま通りかかったシモンという男でした。今日は、ここは深くは学ぶことはしませんけれども、初めて登場するシモンという男でした。マタイの27章の32節によれば、兵士たちは、このシモンに十字架を無理やりに背負わせたと書かれています。

【参考】マタイ
27:32 そして、彼らが出て行くと、シモンというクレネ人を見つけたので、彼らは、この人にイエスの十字架を、むりやりに背負わせた。

パウロは、この事実を胸にしまいこんで、使徒として召された自分が、この行列のしんがりとして、シモンではなくて自分がこの行列のしんがりとして、また、この世の見せ物として引き出されたという啓示を与えられたのではないかと思わされます。パウロの手紙は、このような背景から書かれた十字架の言葉であります。

このコリントの集会へ送ったこの手紙、第一コリントの1章の18節、23節、24節をお読みいたします。コリントの兄弟姉妹にあてた手紙の最初に書かれた言葉です。

第一コリント
1:18 十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。

1:23 しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、
1:24 しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。

このような思いをもって、さまざまな問題のあったコリントの兄弟姉妹に手紙を書き始めました。二週間前の週の初めの日曜日に心に感じたのは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったという箇所の『御使いにも』という文字でした。『御使い』という言葉の意味は、いくつかの見解があるようですけれども、ここでは文字どおり、父なる神から遣わされた御使いと考えていいと思います。

この御使いということの深い意味は、私たちが今、火曜日に学んでいるヨハネの黙示録の『すぐに起るはずのこと』、第一巻の90ページから95ページに詳しく書かれています。

ですけれども、この箇所は、文字どおり読んでいいのではないか。この時、御使いも、すなわち、父なる神もですね、天においても、この見せ物となった行列を見ておられたと、この短い箇所から分かります。『御使いにも見せ物になった』と言う言葉の意味は説明されていません。人々がイエス様をあざ笑ったように、御使い、そして、父である神も罪のかたまりとしてイエス様をあざ笑った、イエス様を見放し、暗黒の中に放り込んだと、単語だけからは読むこともできるかもしれません。

しかし、父なる神と犠牲の小羊、御子イエス様との関係、あるいは、モリヤの山のアブラハムとイサクの関係は、そのようなただ単に神の義を示すものだけとは思えません。

イエス様はその前夜、ゲッセマネの園で、イエス様ご自身が今まで全く知らなかった苦しみに導き入れられたことが書かれています。そして、その時、御使いがイエス様を励まされたと告げられています。これはルカの22章に書かれている言葉です。

ルカ
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。

十字架につけられる前夜、御使いは、イエス様が孤独の中で苦しみもがいておられる時に力づけたと、書かれています。

そして、その翌日、十二時頃、十字架にかけられていた一人の犯罪人が、ルカの23章の42節のように言いました。よく知っている言葉です。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」イエス様は、43節で、『あなたは今日、私と共にパラダイスにいます』と、彼の願いに答えて言われました。

【参考】ルカ
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」

その時。すなわち、十二時頃まで父なる神は御使いを遣わして、イエス様を励まし続けられていたのではないかと思わされます。なぜなら、犯罪人へ答えた答えは、子なる神としての権威ある答えであったからです。

ゲッセマネでのように、御使いの励まし、御父の支えがあったと思わざるを得ません。先ほどの十字架を担ぐ力もない、あの見せ物の行進の最中も、そして、十字架につけられる途中も、また、十二時まで十字架の上で苦しまれるそのあいだ中、天におられる神の支えが、イエス様をずっと、御使いを通して、励まし続けていたと思わされるのであります。

この後、十二時以降は、四つの福音書があい補いながら、イエス様の最後のご様子を伝えています。マルコの15章の33節から37節では、次のように伝えています。全体を説明している、伝えている箇所であって、マタイもほぼ、同じことを伝えています。

マルコ
15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

十二時から三時まで三時間、続いた。

マルコ
15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ。」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

もう一度、大声をあげられました。

マルコ
15:38 神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

十二時以降、全地が暗くなって、暗闇が支配いたしました。状況が一変いたしました。それまでとは全く違った状態が訪れました。その三時間後、十二時からの三時間後、イエス様は、先ほどのように叫ばれたんですね。『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』と、大声でで叫ばれました。このしばらくのあいだ、天は閉じ、御使いの励ましも消えたに違いありません。無言の父なる神へのイエス様の叫びが、この三時間のあいだ、私たちには聞こえない闇の時間がしばらくのあいだ、続きました。

私は、このように導かれています。ヘブル書の2章の9節は、この暗闇が支配した時の証言ではないかと思います。

ヘブル
2:9 ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。

御使いよりもしばらくの間、低くされた方。神である御子イエス様は、被造物である御使いよりもしばらくの間、低くされたと書かれています。考えることができないほどの刑罰をこの時、受けられました、そして、三時間後、もう一度、大声をあげられました。

マルコ
15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

二度、イエス様は叫ばれました。マタイとマルコの福音書は、『大声をあげて』とだけ、告げていますけれども、ルカの福音書は23章の46節で告げています。

ルカ
23:46 イエスは大声で叫んで、言われた。「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」こう言って、息を引き取られた。

三時ですね。これは三時の言葉です。

また、ヨハネの福音書は、19章の30節で、よく知っておられるように、イエスは酸いぶどう酒を受けられると、『完了した』と言われた。そして、頭を垂れて霊をお渡しになったと告げられています。

【参考】ヨハネ
19:30 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。

どの福音書からも表現は違い、あるいは、無言で書かれた福音書もありますけれども、どの福音書からも、イエス様がしばらくのあいだ、低くされたのち、三時間のあいだ、低くされたのち、再び確信に満たされて、ただ父なる神への全き信頼の中で、息を引き取られたということが啓示されています。

そして、マルコの福音書では15章の39節で、先ほども、お読みしたイエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言いました。

【参考】マルコ
15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった。」と言った。

異邦人の百人隊長を、十字架の上で起こされた一切のことの証人として選ばれました。この一連のイエス様の最後に、弟子たちは、一人も出てまいりませんでした。

本日、見てきた第一コリントの手紙、そこに書かれた使徒パウロたちの見せ物としての行列は、第二の手紙で――本来は、幻の手紙がもうひとつあったと言われていますけれども――、第一の手紙の後に書かれた第二の手紙では、キリストによる勝利の行列になったと、パウロは証しいたしました。

第一コリント
4:9 私は、こう思います。神は私たち使徒を、死罪に決まった者のように、行列のしんがりとして引き出されました。こうして私たちは、御使いにも人々にも、この世の見せ物になったのです。

そして、これは御使いが見た見せ物と、人々が見た見せ物では、大きく違っていたと言うことがわかります。

第二コリント
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。

パウロが伝えた福音は、見せ物となった――この世の見せ物となった――そのような行列を愚かな言葉、十字架の言葉をとおして告げました。そして、パウロは、その愚かな言葉は、キリストによる勝利の行列であると確信をして、歩んだことがわかります。

そして、パウロは三回にわたる伝道旅行を終えて、その後、ローマの獄中から、コロサイの教会に手紙を書き送りました。

パウロはおそらく、一度もコロサイの集会に赴いたことがなかったと思われますけれども、パウロたちが伝えた――同労者たちと共に伝えた――キリストの福音が、コロサイでは、悪霊によって犯されつつあったと伝え聞いたに違いありません。そして、彼らの歩み、そしてまた、私たちの歩みがキリストにある凱旋の行列であるということを、再び思い起こすようにと、パウロの最晩年のそのローマの獄中から、励ましの手紙を出しました。

コロサイ
2:10 そしてあなたがたは、キリストにあって、満ち満ちているのです。キリストはすべての支配と権威のかしらです。

2:15 神は、キリストにおいて、すべての支配と権威の武装を解除して(・・・・悪霊たちを・・・・)さらしものとし、彼らを捕虜として凱旋の行列に加えられました。

さらしものにされたイエス様は、また、パウロは、そのことをとおして、反対に、悪霊たちをさらしものとして、そして、自分たちの凱旋の行列に捕虜として加えたと書かれています。

このようにパウロは、そしてまた、私たちは、この世の見せ物の行列のしんがりを務めるということは、最上の喜びであると、パウロ自身が、当時の兄弟姉妹たちだけでなく、今日の私たちにも、このようなみことばをもって、伝えてくださいました。そして、イエス様は今、私たちのうちに御霊として、ともに生きて働いておられることを、決して忘れることがないようにと、励ましの真理のみ言葉を伝えています。

今日、み言葉をたくさん引用いたしましたけれども、最後に、少し長いですけども、三つの励ましの言葉をパウロの手紙からお読みして、終わりたいと思います。

まず、第一テモテの3章の16節、パウロが心から愛したテモテに最後に書いた手紙です。

第一テモテ
3:16 確かに偉大なのはこの敬虔の奥義です。「キリストは肉において現われ、霊において義と宣言され、御使いたちに見られ、諸国民の間に宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた。」

御使いたちに、最後の最後まで励まし続けられ、そして、最後に、しばらくのあいだ、苦しみにあわれました。

次に、ガラテアの2章の20節です。聖書全編を代表するみ言葉として、私たちは知っています。

ガラテア
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。・・・・

御霊が私たちのうちに生きておられるという表現は、たくさんありますけれども、そのことは、キリストが私のうちに生きておられるということと、同義ではないかと思います。

2:20 ・・・・いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。

そして、最後に、先ほどのコロサイの集会に送った手紙、3章の1節から4節、この御言葉をお読みして終わりにしたいと思います。

コロサイ
3:1 こういうわけで、もしあなたがたが、キリストとともによみがえらされたのなら、上にあるものを求めなさい。そこにはキリストが、神の右に座を占めておられます。
3:2 あなたがたは、地上のものを思わず、天にあるものを思いなさい。
3:3 あなたがたはすでに死んでおり、あなたがたのいのちは、キリストとともに、神のうちに隠されてあるからです。
3:4 私たちのいのちであるキリストが現われると、そのとき(・・・・再臨のとき・・・・)あなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。

どうもありがとうございます。ここまでにいたします。

0 件のコメント:

コメントを投稿