28.七つの鉢のさばき
黙示録16章1節から21節まで
1.第一の鉢のさばき
2.第二の鉢のさばき
3.第三の鉢のさばき
4.第四の鉢のさばき
5.第五の鉢のさばき
6.第六の鉢のさばき
(1)また、私は、大きな声が聖所から出て、七人の御使いに言うのを聞いた。「行って、神の激しい怒りの七つの鉢を、地に向けてぶちまけよ。」(2)そこで、第一の御使いが出て行き、鉢を地に向けてぶちまけた。すると、獣の刻印を受けている人々と、獣の像を拝む人々に、ひどい悪性のはれものができた。(3)第二の御使いが鉢を海にぶちまけた。すると、海は死者の血のような血になった。海の中のいのちのあるものは、みな死んだ。(4)第三の御使いが鉢を川と水の源とにぶちまけた。すると、それらは血になった。(5)また私は、水をつかさどる御使いがこう言うのを聞いた。「常にいまし、昔います聖なる方。あなたは正しい方です。なぜならあなたは、このようなさばきをなさったからです。(6)彼らは聖徒たちや預言者たちの血を流しましたが、あなたは、その血を彼らに飲ませました。彼らは、そうされるにふさわしい者たちです。」(7)また私は、祭壇がこう言うのを聞いた。「しかり。主よ。万物の支配者である神よ。あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」(8)第四の御使いが鉢を太陽に向けてぶちまけた。すると、太陽は火で人々を焼くことを許された。(9)こうして、人々は激しい炎熱によって焼かれた。しかも、彼らは、これらの災害を支配する権威を持つ神の御名に対してけがしごとを言い、悔い改めて神をあがめることをしなかった。(10)第五の御使いが、鉢を獣の座にぶちまけた。すると、獣の国は暗くなり、人々は苦しみのあまり舌をかんだ。(11)そして、その苦しみと、はれものとのゆえに、天の神に対してけがしごとを言い、自分の行ないを悔い改めようとしなかった。(12)第六の御使いが鉢を大ユーフラテス川にぶちまけた。すると、水は、日の出るほうから来る王たちに道を備えるために、かれてしまった。(13)また、私は竜の口と、獣の口と、にせ預言者の口とから、かえるのような汚れた霊どもが三つ出て来るのを見た。(14)彼らはしるしを行なう悪霊どもの霊である。彼らは全世界の王たちのところに出て行く。万物の支配者である神の大いなる日の戦いに備えて、彼らを集めるためである。(15)――見よ。わたしは盗人のように来る。目をさまして、身に着物を着け、裸で歩く恥を人に見られないようにする者は幸いである。――(16)こうして彼らは、ヘブル語でハルマゲドンと呼ばれる所に王たちを集めた。(17)第七の御使いが鉢を空中にぶちまけた。すると、大きな声が御座を出て、聖所の中から出て来て、「事は成就した。」と言った。(18)すると、いなずまと声と雷鳴があり、大きな地震があった。この地震は人間が地上に住んで以来、かつてなかったほどのもので、それほどに大きな、強い地震であった。(19)また、あの大きな都は三つに裂かれ、諸国の民の町は倒れた。そして、大バビロンは、神の前に覚えられて、神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。(20)島はすべて逃げ去り、山々は見えなくなった。(21)また、一タラントほどの大きな雹が、人々の上に天から降って来た。人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。その災害が非常に激しかったからである。(黙示16・1~21)
黙示録16章の主題は、「世界史における最後の舞台」、「最後の苦難における神の完成」、「七つの鉢のさばき」です。全編を通して、この章ほど神の怒りが明らかに示されている箇所はほかにありません。
「神の怒り」という言葉は、聖書においては、神が怒りによって人を悔い改めへと導くということではなく、「最後のさばきを行なう」ことを意味しています。
神の怒りは、神が不正に対して下される、もっとも激しいさばきとなって現われます。不正は、「正しい状態」が回復されるために、きびしくさばかれなければなりません。聖書は、神の怒りによって神の計画が実現すると、はっきりと述べています。神の目的は、義と平和が支配する、ご自身の完全な支配にあります。もし神が、悪魔や人間の反抗に対して怒りをもって答えられなければ、義や平和の支配はありえません。神は抵抗する者に対して、さばきを行なわれる前に、あらかじめさばきに対する警告を与えておられます。
「わたしは、わたしの名のために、怒りを遅らせ、わたしの栄誉のために、これを押さえて、あなたを絶ち滅ぼさなかった。」(イザヤ48・9)
「主は怒るのにおそく、恵み豊かである。咎とそむきを赦すが、罰すべき者は必ず罰して、父の咎を子に報い、三代、四代に及ぼす。」(民数記14・18)
神の怒りは、最後のさばきの時に一瞬のうちに来るのではなく、徐々に力を増しながらやってきます。その間に、悔い改めの機会を残しながらやってきます。しかし神の寛容が軽んじられるときに、神の最後の怒りが起こるのです。
神の愛の招きを、幾度も体験しながらなお心をかたくなにした者は、神の最後の怒りに出会います。旧約聖書においても、新約聖書においても、神はなにものにも増して恐るべきお方であることが記されています。
神のみが、すべてを滅ぼす力を持っておられます。主なる神は、唯一の恐ろしいお方です。しかし、イエス様の血に対して感謝がささげられる場合には、神の怒りは遠ざけられ、罪が聖められるのです。
私たちは、黙示録16章の「七つの鉢のさばき」を、出エジプト記のわざわいの個所や、黙示録8章から10章の「ラッパのさばき」と比較することができます。黙示録16章を学ぶにあたって、まず出エジプト記の7章、9章、12章の後半、黙示録の8章7節から12節、9章1節から11節、13節から21節、11章15節から18節に目を通し、これから学ぶ黙示録16章と読み比べてごらんになることをおすすめします。
さて、まず、黙示録の「ラッパのさばき」と、「七つの鉢のさばき」を比較してみましょう。
1.第一のラッパのさばきと第一の鉢のさばきは、ともに地に対するさばきです。
2.第二のラッパのさばきと第二の鉢のさばきは、ともに海に対するさばきです。
3.第三のラッパのさばきと第三の鉢のさばきは、ともに川と川の源に対するさばきです。
4.第四のラッパのさばきと第四の鉢のさばきは、ともに太陽にたいするさばきです。
5.第五のラッパのさばきと第五の鉢のさばきは、ともに暗闇と死を見つけることができない苦しみのさばきです。
6.第六のラッパのさばきと第六の鉢のさばきは、ともにユーフラテス河からの軍勢のさばきです。
7.第七のラッパのさばきと第七の鉢のさばきは、ともにキリストの国によるさばきです。
「七つのラッパのさばき」は、「七つの封印のさばき」に続いて行なわれています。しかし、「七つの鉢のさばき」は、「七つのラッパのさばき」の続きとして行なわれているのではありません。そのさばきは、イエス様がふたたびこの世に来られるまでに行なわれます。
第七の御使いがラッパを吹き鳴らした。すると、天に大きな声々が起こって言った。「この世の国は私たちの主およびそのキリストのものとなった。主は永遠に支配される。」それから、神の御前で自分たちの座に着いている二十四人の長老たちも、地にひれ伏し、神を礼拝して、言った。「万物の支配者、常にいまし、昔います神である主。あなたが、その偉大な力を働かせて、王となられたことを感謝します。諸国の民は怒りました。しかし、あなたの御怒りの日が来ました。死者のさばかれる時、あなたのしもべである預言者たち、聖徒たち、また小さい者も大きい者もすべてあなたの御名を恐れかしこむ者たちに報いの与えられる時、地を滅ぼす者どもの滅ぼされる時です。」(黙示11・15~18)
黙示録11章では、来るべき主の御国についてはくわしく述べられていません。なぜなら、それまでに起こるべき多くのことが、まだ残されているからです。
「七つの鉢のさばき」は、千年王国が来る時まで続けられる、最後のさばきであり、わざわいです。時期的には「七つの鉢のさばき」は「ラッパのさばき」とほとんど同時に行なわれるのですが、「七つの鉢のさばき」は「ラッパのさばき」よりも遅れて行なわれます。
「七つの鉢のさばき」は、最終のさばきです。「七つの鉢のさばき」は、前のさばきよりもより重く、全面的なさばきです。「ラッパのさばき」においては、三分の一のものがさばきに会うのですが(8章7~12節参照)、「七つの鉢のさばき」においては、すべての敵が滅ぼし尽くされます。黙示録16章の中では、「大きい」という言葉が十一回出てきます。これは最後のさばきが驚くほど「大きい」ことを示しています。このさばきは、短い期間に次々に行なわれます。この時、人々は「神は死んだ」と言うようになります。「人間が全能である」ように思われます。しかし私たちは、悪魔が七人の御使いによって滅ぼされるのを見ます。さばきは「神の」さばきであり、神の命令の下で行なわれるのです。
では、「七つの鉢のさばき」について、学んでいきましょう。
1.第一の鉢のさばき
第一の鉢のさばきは、第1、2節にあるように、地に対するさばきです。1節にある聖所からの大きな声は神の声です。神が命令を与えられた後で、はじめて御使いがさばきを行なうことができます。御使いは、今現在は人々の救いを助けるために遣わされていますが、終わりの時には、御使いはさばきのために遣わされます。第一の「鉢のさばき」は、その昔のエジプトの第六のわざわいに似ています。
「それがエジプト全土にわたって、細かいほこりとなると、エジプト全土の人と獣につき、うみの出る腫物となる。」(出エジプト9・9)
このように、エジプト人にはうみの出る腫物ができたのですが、第一の「鉢のさばき」では、獣を拝む人々に「ひどい悪性のはれもの」ができます。このはれものは、はげしい苦痛をもたらし、生きる喜びを奪います。
かつてパロは、神の声を聞こうとはしませんでした。この罪に対して神が下された罰は、パロの心をかたくなにすることでした。終わりの時代には、神の声を聞こうとしない者には、神の声が永遠に失われてしまいます。9節にあるように、人は神の声を聞こうとせず、悔い改めて神をあがめることをせず、けがしごとを言い、罪をおかし続けます。この罪に対するさばきは、容赦のないものです。
かつてヤコブは、若いときにその父を裏切り(創世記27・24)、歳を取ってから子供たちにあざむかれました。神への不従順は、必ずその結果をともないます。
神はあなどられたり、けがされたりされるお方ではありません。獣の刻印を受けている人々、反キリストと偶像崇拝者たちは、恐ろしいはれものを与えられるのです。エジプトのわざわいが歴史的な現実だったのと同じように、終わりの時における苦しみもまた、歴史的な現実となるのです。
これらのはれものは治療することが不可能であり、わざわいは世界中に広まっていきます。そしてもちろん精神的な苦痛も激しくなります。人々は平静さを失い、外面的にも内面的にも激しい苦痛にさいなまれます。これらの人々は、獣に喜んで従った人々であり、獣によって守られるはずの人々ですが、実際には安心も守りも与えられません。これもまた恐るべきさばきです。神に対する礼拝を拒む人々は、きびしいさばきを受けるのです。
2.第二の鉢のさばき
第二の「鉢のさばき」は、海に対するさばきです。16章3節には海に対するさばきが告げられています。神の寛容は終わるのです。さばきはもはや、先に延ばされることはありません。神の御名によってさばきが行なわれるのです。それまで汚されてきた神の御名が、このときに聖められるのです。
黙示録8章の8、9節に出てくる第二のラッパのさばきも、恐るべきものでした。なぜなら海の三分の一が血に変えられたからです。しかし黙示録16章3節においては、すべての海とその生き物とは、血に変えられます。この海はおそらく地中海のことでしょう。核爆発や生物化学兵器によって、海とその中の生物がすべて血に変えられる可能性は否定できません。
また、海という言葉は、すべての国民を指すために用いられる言葉です。反キリストは地上の国民に楽園への錯覚を約束します。しかしそれは、神なき平和の約束です。その結果は混乱と腐敗です。人間の利己主義が、すべてのものを破壊するのです。終わりの時には、真の意味での生活はもはや存在しなくなります。ここで言う「真の意味での生活」とは、生ける神との交わりをもった生活のことです。神と分離している状態は破局的です。
「わたしを見失う者は自分自身をそこない、わたしを憎む者はみな、死を愛する。」(箴言8・36)
主イエス様を拒む者は、意識すると意識しないにかかわらず、死を選ぶ者です。
3.第三の鉢のさばき
第三の鉢のさばきは、川と水の源に対するさばきです。このさばきは、4節から7節に記されています。この部分は私たちに、出エジプト記7章20節のエジプトに対するわざわいと、黙示録8章10節にある第三のラッパのさばきを思い起こさせます。水は苦くなり、血に変えられるのです。水はいのちと生命力の象徴です。
黙示録14章7節によると、人々は水を欲していながら、水を創造した主を認めようとしないことが記されています。こういう人々に対する忍耐が終わるとともに、罪とかたくなさに対する神のさばきが行なわれるのです。罪のさばきに対する真の恐ろしさを、私たちは想像することができません。水が血に変わる時には、人間は水を飲むことができなくなります。それは生命の維持ができなくなることであり、水に依存した日常生活のすべてが不可能になることです。自然界もまたその生命を維持できなくなり、枯れ果ててしまうのです。海や川、水の源が汚染されれば、地球の自然環境は破壊され、すべての動物、植物はその生命を失うことでしょう。
神は、さばきにおいても、恵みにおいても、ともに絶対的に正しいお方です。この神の正しさがここに現わされているのです。私たちは二つの賛美を天から聞くのです。二人の証し人が神の正しさを証ししています。
まず、5節以降で「水をつかさどる御使い」が語っています。それは、7章1節にある風をつかさどる御使い、14章18節にある火をつかさどる御使いと対応しています。水、風、火などは、ここでは御使いに委ねられています。そして、16章5節では、水をつかさどる御使いは、神に対して、「あなたは正しい方です」と叫んでいます。
私たちはさばきの時に、そのさばきだけを見るなら、あまりのきびしさにたじろぐでしょう。きびしすぎる、と思われるかもしれません。しかし、さばきに至る長い歴史の中で見るなら、その正しさが理解できます。さばきに至る前には、長い神の忍耐の歴史があり、人間のかたくなさの長い歴史があります。そのことを考えれば、私たちはこの御使いと同じように、「神よ。あなたは正しい」と言わざるをえません。
神のさばきには、理由があります。それまで、たくさんの預言者と聖者の血が流されてきました。これに対する神の答が、「血となった水」です。預言者、聖者の血を流させた人々は、蒔いたものを刈り取らなければならないのです。これらの人々は、神の言葉と神の霊と、神のしもべたちを拒みました。これらの罪に対する当然の報いが、「川と水の源に対するさばき」なのです。
次に、7節の「祭壇」もまた、神の義をたたえています。この「祭壇」は、6章9節にある殉教者たちの声を表わしています。殉教者たちの求めに対する答がここに記されているのです。神の正しさは、さばきによって明らかにされます。
川の流れは源から流れ出ています。私たちの周囲にある、教育、文化、宣伝、映画、テレビ、インターネットなどは、川の水と見ることもできます。人が神の言葉を聞こうとしない時には、これらのものは神の言葉以外の源から流れ出て、社会を汚染します。その一例として、神聖であるべき結婚を解消して、自由な行動に走り、真理を破壊する者は、それによって自らを毒することになります。神の言葉のみが清めの力を持っています。私たちは何に従って生き、何によって自らを養っているのでしょうか。
4.第四の鉢のさばき
第四のさばきは、人々を焼く太陽の火のさばきです。8節から9節を見てみましょう。かつて学んだラッパのさばきにおいては、太陽の三分の一は光を失って暗くされました。しかし、いまや鉢のさばきによって、人々は太陽の激しい炎熱によって焼かれることになります。
今地球は、人間の限度を超えた自然破壊によって、気候の温暖化が進んでいます。かつて緑に覆われていた地域には雨が降らなくなり、砂漠化しています。太陽は地球よりも、直径で約百倍、体積で約三万倍大きく、その熱は五千七百度あります。地球の気温が炎熱のように上がることは、決してありえないことではありません。その時には太陽は、恵みの光の源ではなく、激しい苦しみの源に変えられるのです。
この部分について、ある人は、「太陽は権力者の最高の権威の象徴にされてきたので、人々は終わりの時代に独裁者によって奴隷にされて苦しむ」という意味にとっています。またある人は、「太陽はイエス様を象徴し、残りの者たちの中に、ご自身のいのちと栄光を現わされるのだ」と見ています。主が、残りの者たちの中に栄光を現わされる時には、それは悔い改めたくない者たちに対する一つの証しとなります。しかしそれは、人々を悔い改めに導くのではなくして、反抗を呼び起こすことになります。神の存在はすべての者にとって明らかにされますが、しかし彼らは、悔い改めようとはしないのです。
5節から7節において、私たちは神をたたえる声を聞くことができましたが、今度は下からののろいの声を聞くことになります。それは獣に従う者たちの声です。
そこで、彼(獣)はその口を開いて、神に対するけがしごとを言い始めた。すなわち、神の御名と、その幕屋、すなわち、天に住む者たちをののしった。(黙示13・6)
人々は、この雹の災害のため、神にけがしごとを言った。(黙示16・21)
悩みの中で、彼らは神が生きておられることを知るのですが、悔い改めようとはしないのです。彼らは神に帰されるべき栄光を神に帰そうとはしなかったのです。エジプトのパロは苦しみの後で、悔い改めることをしないばかりか、かえって心をかたくなにしたのです。
同じように、終わりの時代において、「人々は心を神に向けようとしないばかりではなく、苦しみの中で、神をのろう」のです。人は神の前に降伏して恵みを求めるときに救いを得るのです。
私たちはここで、「さばき」が自動的に聖めや回心を行なうのではないことを見ることができます。この「さばき」は、悔い改めの用意のある人のためのものではありません。悔い改めのあるところには、希望もまたあるのです。悔い改めがなされるときには、なにごとも、望みがなくなることはありません。
多くの人々は、後になったら悔い改めよう、と言っているのです。しかし私たちは、悔い改めは、罪人が聖霊に導かれるときにおいてのみ可能であることを知らなければなりません。聖霊は意識的に悔い改めをしようとしない人を導くことはできません。苦難ではなく、聖霊が、悔い改めへと人を導くのです。
終わりの時代の苦しみは、「かまど」のようなものだと、マラキは言っています。(マラキ4・1)しかし神に従う者は、火に焼かれることはなく、主があなたの永遠の光となるのです。(イザヤ60・20)
私たちが「鉢のさばき」について学ぶとき、多くの象徴が暗示されていることを知ります。しかし私たちはこの「鉢のさばき」において、出エジプト記に記されている四つのわざわいがここに繰り返されていることを知ります。エジプトの四つのわざわいは、実際に起こったことでした。ですから、「鉢のさばき」も、必ず実際に起こることでしょう。
5.第5の鉢のさばき
第五の鉢のさばきは、10節から11節にある通り、暗やみと死のない苦しみがもたらされます。
さばきの御使いは順番に登場しますが、さばきは一つだけではなく、いくつかが同時進行で行なわれることもありえます。多くの御使いたちが、同時に神からの命令を受けて、それぞれのさばきを行なうことも十分にありえるのです。
第五の御使いは、獣の国を攻撃します。13章の2節にあるとおり、この獣がサタンであることは言うまでもありません。その攻撃の結果は、19章20節、20章1から3節までに記されています。このさばきは出エジプト記にある第九のわざわいを思い起こさせます。
主はモーセに仰せられた。「あなたの手を天に向けて差し伸べ、やみがエジプトの地の上に来て、やみにさわれるほどにせよ。」モーセが天に向けて手を差し伸ばしたとき、エジプト全土は三日間真暗やみとなった。三日間、だれも互いに見ることも、自分の場所から立つこともできなかった。しかしイスラエル人の住む所には光があった。(出エジプト10・21~23)
それは同時に、ヨエル書に告げられていることの成就でもあります。
この地に住むすべての者は、わななけ。主の日が来るからだ。その日は近い。やみと、暗黒の日。雲と、暗やみの日。(ヨエル2・1、2)
黙示録16章10節に書かれているとおり、反キリストの国は闇に包まれます。すべての者は、囚人のようにその場を動くことができなくなるのです。もちろん政府も、行政機関も、産業も、経済も、交通も、麻痺状態におちいることでしょう。
光よりも闇を愛する者たちは、闇の中に座ることになります。「悔い改めがない」ということは恐ろしい結果をもたらします。彼らはどんなことがあっても罪を認めようとはしないのですが、神のさばきは容赦なく下されます。つまり、人は神に対して「降伏」するか、あるいは「打ち砕かれる」かのいずれかです。
人の頑なさは、終わりの時代に、さらにひどくなります。地上のすべてのものが虚しいことを知りながらも、彼らは自分の力に拠って立とうとします。彼らは、へりくだること、悔い改めをすることを拒みます。人は自分のまちがいを認めてイエス様のもとに来ることをしないで、「意識して自分から」滅びへと向かうのです。終わりの世の特徴は、混乱と暗闇です。
6.第六の鉢のさばき
第六番目の御使いは、鉢をユーフラテス川にぶちまけます。その結果、神の大いなる日の戦いに備えて、王たちが集められます。この部分、12節から16節までに、七つのことが示されています。
最初に、ユーフラテス川が涸れます。かつてイスラエルの民を通すために紅海が二つに分かれましたが、ユーフラテス川は日の出るほう、東からの王を導くために涸れるのです。ユーフラテス川は、ローマ帝国とほかの諸国との境界線でした。水が涸れてしまうとその境界線はなくなります。そして、それに続いて、世界的な大きなできごとが起こります。つまり、「神なき世界の崩壊」です。
二番目に、この奇蹟の目的が記されています。すべての国民と国々が、パレスチナに集められるのがその目的です。五番目の鉢のさばきは、反キリストに向かって行なわれますが、六番目の鉢のさばきは、すべての国々に向かって行なわれます。人類の大部分は東洋に住んでいます。これらの国々がパレスチナへ入るためには、ユーフラテス川は涸れなければなりません。
三番目に、悪魔の竜と、反キリストと、にせ預言者が一つになるのを見ることができます。彼らの口から、汚れた霊が出てきます。彼らは悪魔の国について語るために出てくるのです。これらの蛙のような三つの汚れた霊とは、諸国の政府を欺く外交官、その背後にある政治家たちと見ることもできます。悪魔が政治を行ない、蛙はその政治家であり外交官です。政治家は、汚れた霊によって導かれるのです。
四番目に、その結果が記されています。14節にあるように、大きな群れ、軍勢がそこに集ってきます。イスラエルに対する戦いは、いまや神に対する戦いになります。あらゆる国家が世界を自分のものにしようと争います。しかしこの世は厳然として主イエスのものです。これらの軍勢はすべての犠牲をはらって、そのことを否定しようとかかります。
五番目に、これらの政治家には、「しるしを行なう」、つまり奇跡を行なう力が与えられています。エジプトの魔術師や反キリストが奇跡を行なったように、これらの政治家たちも奇跡を行なう力を持つのです。
六番目に、キリストの声が記されています。悪霊たちは、最後の戦いに備えて、あらゆる軍備を増強し、最後の戦いに備えようとします。しかし、黙示録の著者ヨハネは、この時、「わたしは間もなく来る」というイエス様の声を聞きました。主を信じる者は、悪霊である蛙の惑わしに誘惑されてはなりません。断固としてイエス様を待ち望まなければなりません。この最後の戦いにおいて、悪魔である竜は勝利者として自らを誇示しようと全力をあげます。しかしこの最後の戦いにおいて、悪魔の無力さが明らかにされ、主なる神が勝利者となられます。悪魔は千年王国の間、地の底に捕らえられるのです。
七番目に、16節において初めてハルマゲドンという地名が出てきます。これはカルメル山麓のメギド地方ではないかとも考えられています。というのは、ここで旧約の時代に大きな戦いが行なわれたことがあるからです。
王たちはやって来て、戦った。そのとき、カナンの王たちは、メギドの流れのそばのタナクで戦って・・・・(士師記5・19)
それでも彼(アハズヤ)はメギドに逃げたが、そこで死んだ。(第二列王記9・27)
ハルマゲドンの戦いにおいて、王たちの軍勢は集合しますが、戦いは実際には起こりません。主イエスがご自身で現われ、口の剣をもってすべての軍勢を滅ぼし尽くされるからです。
この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。(黙示19・15)
残りの者たちも、馬に乗った方の口から出る剣によって殺され、・・・・(黙示19・21)
ハルマゲドンにおいては、王たちは戦端を開く前に、自分が全世界の支配者である神になるのだということをてんでに要求し、神の栄光を、さも自分のものであるかのように、主張しあうのです。
12節にあるユーフラテス河が乾く、ということは、人類が、政治的、経済的、文化的、宗教的に一つにされることをも意味しています。各人は心の拠り所を失って、自分がよいと思うことを行なうようになるのです。人は良心を失って、悪魔の霊に支配されるようになります。人類ははじめて、神と神の民に対して反抗しようとして思想統一がなされるのです。このことは、少数の真の信者にとっては恐るべき状態です。
7.第七の鉢のさばきとイエス・キリストの国の実現
さて、16章の17節から21節において、主イエスご自身が圧倒的な姿を現わされて、勝利を明らかに示されます。
まず最初に、第七の御使いが鉢を空中にぶちまけます。つまり、怒りはすべてのものの上に注がれます。もっとも恐るべきことがいよいよ始まるのです。
これらのものは滅びるでしょう。しかし、あなたはながらえられます。(詩篇102・26)
「目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。」(イザヤ51・6)
「これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。」(マタイ24・29)
(主は)約束をもって、こう言われます。「わたしはもう一度、地だけではなく、天も揺り動かす。」・・・・私たちは揺り動かされない御国を受けているのですから、感謝しようではありませんか。(ヘブル12、26、28)
神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。(第二ペテロ3・12、13)
悪魔は空中の権を持つ暗やみの世界の支配者である、と聖書は告げています。
私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。(エペソ6・12)
この悪魔に対して、神の激しい怒りが注がれるのです。それは悪魔の国と、悪魔の根源に向かって注がれます。
二番目に、ヨハネは大きな声が天から聞こえてくるのを聞きました。それは「成就した。」という声でした。「成就した」という言葉は、十字架の上でイエス様の「救いが成就した」ときに出てきました。しかし黙示録のこの箇所での「成就」は、「さばきが成就した」ことを意味しています。
イエス様は私たちの罪のために十字架についてくださいました。そして私たちに代わって罪のさばきを受けてくださいました。そのとき、神のさばきがイエス様に下されたのです。イエス様はすべてが「成就した。」と叫ばれました。このことによって、私たちは罪の赦しと永遠のいのちを主からいただいたのです。
もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。(第一ヨハネ1・9)
「父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。」(ヨハネ6・37)
しかし、イエス様を拒む者は、その時にさばきを受けます。イエス様を拒むことについては、出エジプト記9章13節から35節の、かたくななパロに主が雷と雹を降らせられた箇所が思い出されます。このようなわざわいをもってしても、エジプトの人々は決して悔い改めようとはしませんでした。現代では、どうでしょうか。
第三番目に、19節で「大きな都が三つに裂かれる」ことが書かれています。11章8節で見たように、この大きな都とはエルサレムのことです。これは、イザヤ書2章19節から21節、ハガイ書2章6、7節にある預言の成就を意味しているのです。ゼカリヤ書14章4節の預言のとおり、オリーブ山は二つに分かれ、都は三つに分かれるのです。
四番目に、19節で、大バビロンは神の激しいさばきを受けます。このことは、黙示録の17章と18章においてくわしく述べられています。バビロンは宗教的な誘惑者を意味します。
五番目に、18節で、大きな地震が起こり、すべてのものが地震に襲われます。20節には島や山々のことが記されていますが、「島や山々」は逃れの場所を意味します。しかし地震が襲うときには、これらのものは何の役にも立たず、安全な場所はどこにも存在しません。
第六番目に、21節で、大きな雹が天から降ってきます。この雹の重さはほぼ五十キロだと考えられます。ハルマゲドンに集る者たちは、この大きな雹で滅ぼされるのかもしれません。つまり、人間の栄光は失われてしまうのです。
第七番目に、24節で、人の心の中にある思いが明るみに出されます。この恐るべきさばきは、神の怒りの現われです。神は聖にして正しいお方ですから、さばきを行なわなければならないのです。
このさばきに対して、天は何と言っているでしょうか。また、人間は何と言っているでしょうか。それを3項目に分けて対比してみましょう。
まず、天からの声です。
・7節「あなたのさばきは真実な、正しいさばきです。」
・15節「わたしは・・・・来る。」これはイエス様のお言葉です。さばきは再臨の前触れです。
・17節「事は成就した。」これはさばきの完了を意味しています。
これに対して、人間はさばきについて次のように言っています。
・9節「神の御名に対してけがしごとを言い・・・・」
・11節「苦しみと、はれもののゆえに、天の神に対してけがしごとを言い・・・・」
・21節「雹の災害のため、神にけがしごとを言った。」
人々はさばきが神からのものであることを知り、神をのろうのです。神に対する拒絶はますますひどくなり、人々はさばきに向かって成熟していくのです。人は神の恐るべきさばきを知っても、悔い改めようとはしません。つまりそこには、恵みと赦しを求める悔い改めは見出されず、罪の中にとどまり続ける状態が続きます。さばきがひどくなればなるほど、彼らの心はますます頑なになっていくのです。
人はさばきを通して天国に行くのではありません。天国に行くただ一つの道は、主イエス様を通してのみ開かれているのです。
イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」(ヨハネ14・6)
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