34.サタンの影響の排除
黙示録20章1節から3節まで
1.縛られるサタン
[1]誰がサタンを縛るのか
[2]縛られるものの名前
[3]なぜサタンが縛られるのか
2.神の国の建設
[1]神の国とは何か
[2]神の国の基礎は何か
(1)また私は、御使いが底知れぬ所のかぎと大きな鎖とを手に持って、天から下って来るのを見た。(2)彼は、悪魔でありサタンである竜、あの古い蛇を捕え、これを千年の間縛って、(3)底知れぬ所に投げ込んで、そこを閉じ、その上に封印して、千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのないようにした。サタンは、そのあとでしばらくの間、解き放されなければならない。(黙示20・1~3)
1.縛られるサタン
ここの個所では「サタンの影響の排除」が主題となっていますが、その内容は「サタンが束縛されること」と「キリストの御国の建設」の二つに分けられています。
主イエス様はまもなく天に上られたときと同じ御姿をもって、再び地上に来てくださいます。その時はすべての人にわかるような姿で来てくださいます。しかし、主イエス様が再臨なさる前に、大きなさばきが来てこの世の悪を洗いきよめることをこれまで私たちは学んできました。黙示録16章では、悪の中心である「バビロン」がさばかれること、そして19章では、この地上を支配する「反キリスト」と「偽預言者」がさばかれることを見てきました。反キリストと偽預言者は、生きたまま地獄に投げ込まれます。また、ハルマゲドンの戦いのために集められた大軍勢もさばかれます。
これから私たちが学ぼうとしている20章1節から3節には、サタンの束縛について記されています。聖書を見ると、サタンはもともと、「いと高き御使い」だったのですが、ごう慢になり神に反抗したため神の怒りにあって、神にもっとも近い臨在の場から追放されてしまい、その時から「目に見える世界の君」となったことがわかります。このサタンは現在はなお、神に近づくことが許され、信者を訴えることができます。しかし教会の携挙の後、つまり大艱難が襲ってくるときに、サタンは神の臨在の場から追放され、もはや神に近づくことができなくなります。ところがそのような状態にあってもなお、サタンは反キリストや偽預言者を通して人間に影響力を及ぼそうと必死になるのです。そして、主イエス様が目に見える形をとって再臨してくださるとき、ついにサタンは束縛され、活動の自由を奪われます。
ここで「サタンの束縛」についての三つの問いを考えてみましょう。
第一の問いは「誰がサタンを束縛するのか」、第二の問いは「誰が束縛されるのか」、第三は「どうして束縛されるのか」というものです。
先ず、「誰がサタンを束縛するのか」という問いから始めましょう。
[1]誰がサタンを縛るのか
2節には、神に仕える「御使い」がサタンを縛ることが示されています。サタンに対する勝利は、イエス様の十字架によって実現されました。ですから、イエス様ご自身でなくとも、御使いがサタンを束縛することができるようになったのです。
このとき、六つの段階を通ってサタンは完全に縛られます。第一段階で、地上に投げ込まれたサタンを御使いが「捕え」ます。第二段階で、サタンは「千年間縛」られ、自由を奪わた状態になります。第三段階で、鎖につながれたままのサタンを御使いが「底知れぬ所に投げ込」み、第四段階で、御使いは「そこを閉じ」、かぎを閉めてしまいます。さらに第五段階で御使いがその上に「封印をして」しまいます。つまり、サタンは縛られ、閉じ込められ、封印された「底知れぬ所」の中でじっとしていなければならなくなるのです。もはや、サタンは世界に対していかなる影響力も発揮できない状態におかれます。しかし、千年経った後に、第六段階として、しばらくの間、御使いはサタンを自由にしてやります。
サタンは「鎖につながれた神の犬」とも呼ばれています。その意味は、サタンは「目に見える世界の君」ではあっても、自分のしたいことが何でもできるという訳ではなく、ただ神の許された範囲内で限られたことしかできないということです。サタンは実際は束縛されているのですが、それにもかかわらずあたかも自分のしたいことは何でもできるかのようにさまざまなことをして見せます。今もなお、サタンはほえたける獅子のように、また光の天使のように振る舞い、信仰者たちを惑わしたり訴えたりしようと必死になっています。
サタンはアダムとエバをだまし、ヨブを訴え、ダビデ王に対しては神によって厳しく戒められていたにもかかわらず民の数を数えるよう誘惑しました。
主イエス様が再臨なさるとき、サタンは鎖をさらにたぐり寄せられて、それまで鎖の届く範囲内では許されていた行動の自由も奪われます。そして千年の間、サタンは底知れぬ所に投げ込まれます。この底知れぬ所については、以前、聖書の次の箇所から学びました。
その星が、底知れぬ穴を開くと、穴から大きな炉の煙のような煙が立ち上り、太陽も空も、この穴の煙によって暗くなった。(黙示9・2)
彼らは、底知れぬ所の御使いを王にいただいている。彼の名はヘブル語でアバドンといい、ギリシヤ語でアポリュオンという。(黙示9・11)
そして彼らがあかしを終えると、底知れぬ所から上って来る獣が、彼らと戦って勝ち、彼らを殺す。(黙示11・7)
あなたの見た獣は、昔いたが、今はいません。しかし、やがて底知れぬ所から上って来ます。(黙示17・8)
主イエス様が地上で悪霊を追い出したとき、悪霊は底知れぬ所に自分を投げ込まないようにと、イエス様に泣いて叫びました。
悪霊どもはイエスに、底知れぬ所に行け、とはお命じになりませんようにと願った。(ルカ8・31)
底知れぬ所には、さばきの時まで閉じ込められている御使いたち、つまり悪霊となった御使いたちがいます。
神は、罪を犯した御使いたちを、容赦せず、地獄に引き渡し、さばきの時まで暗やみの穴の中に閉じ込めてしまわれました。(第二ペテロ2・4)
また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。(ユダ6)
次に第二の問いに移ることにしましょう。
[2]縛られるものの名前
ここで縛られるのはサタンです。そのサタンが、どんな名で呼ばれているかを見てみましょう。サタンは人間が誕生して以来、人類の敵そのものでした。このサタンは聖書中でいろいろな呼び名を与えられて出てきますが、そのさまざまな名前はサタンの「本質」をよく表わしています。そのうち四つの名前が20章2節に出てきます。
第一の名前は「古い蛇」です。創世記3章を見るとわかりますが、蛇の特徴は「人を欺く才能」にあります。サタンはいつも人間を神から引き離そうと試みます。その結果は、反抗、高ぶり、反乱などです。蛇であるサタンは上手に人をだまして誘惑します。
第二の名前は「悪魔」です。サタンは始めに人間を「だまして」罪に至らせ、そのあとで罪を犯した人間を訴えます。それによって人間を混乱させ、すべてをめちゃくちゃにさせようとします。
第三の名前は「サタン」です。サタンは神によって愛されている人々を「憎み」ます。サタンはイエス様の十字架による救いのご計画をだめにしようと必死になって働いています。サタンである悪魔は、いつも神と正反対のことをしようとします。
第四の名前は「竜」です。竜の特徴は「滅ぼす力」です。竜はイエス様の体である教会を焼き尽くし、飲み尽くそうとします。竜は人を脅したり、殺害したりします。サタンは最初から「殺人者」、「人殺し」と呼ばれています。
では最後に第三の問いを考えてみましょう。
[3]なぜサタンが縛られるのか
何千年もの間、サタンは全人類をだまし、惑わし、混乱させ、錯覚に陥らせてきました。また脅したり、殺したりもしてきました、神に反抗するよう仕向けたりもしてきました。人間はいつもサタンの嘘を信じ、神を無視して、神なしで自分の知恵や力によって、よりよい世界を築き上げようと努力して来ました。サタンは世界中の政治家たちを惑わし、戦争などの「力」によって、政治・経済・社会の問題を解決することができると思い込ませ、実際多くの戦争が引き起こされて来ました。さらにサタンは「よりよい教育」、「よりよい社会構造」、「新しい宗教」こそが、もっとすばらしい世の中を築きあげていくと人間に信じ込ませました。
サタンが縛られる理由は「千年の終わるまでは、それが諸国の民を惑わすことのない」(黙示20・3)ようにするためです。人類が欺かれることのないようにサタンが縛られてはじめて、約束された国、平和と真の正義が実現の可能性を持ちます。これこそが、サタンが縛られる理由です。
では次にイエス・キリストによる「神の国の建設」について見てみましょう。
2.神の国の建設
サタンは神の権威に徹底的に反抗する「敵対者」です。しかし、そのサタンが縛られたあとは、世界には神の権威だけが存在するようになります。これについて、第一に「神の国とは何か」、第二に「神の国の基礎は何か」、第三に「なぜ神の国の建設が必要なのか」ということを、ごいっしょに考えてみましょう。
[1]神の国とは何か
まず「イエス・キリストの国とは何か」という問いから始めることにしましょう。「イエス・キリストの国」は、多くの人々によって「千年王国」と呼ばれています。千年という数字は、黙示録20章1節から6節までに五回出てきます。そこで「イエス・キリストの国」とは、まさにこの「地上」において「千年の間」、イエス・キリストを自分の主と信じる者たちが支配する国であることがわかります。
しかしこの「千年王国」については、それが聖書の中で明記されていない以上、現実には起こりえないと主張する人もいます。しかしそのような解釈は正しくありません。確かに「千年王国」という言葉そのものは聖書の中で見うけられませんが、イエス様が約束された「平和の国が千年間続く」ということは、聖書の中にはっきりと書かれています。同じように、例えば「三位一体」という表現も、その言葉それ自体は聖書の中に見当たりません。しかし、父なる神と御子イエスと聖霊という三つの人格が一つに統一されているという事実は聖書がはっきりと語っていることです。同じように「身代わり」という言葉にしても、それ自体は聖書の中で使われていませんが、御子イエス・キリストが全人類の身代わりとして十字架にかかってくださり、全人類の罪を贖ってくださったことは、歴然たる事実であり、このことを疑うキリスト者はいないはずです。
また、「受肉」という特殊な用語も聖書の中には出てきませんが、それにもかかわらず、永遠なる神が御子イエス・キリストを通して「人間」の形をとってくださって、そこに神性と人間性が統一されたことは明らかです。
主イエス様の国は必ず到来し、主イエス様ご自身が建設なさり、王となられることは聖書の中の約束です。
[2]神の国の基礎は何か
第二の問いは、この「イエス・キリストの国」の聖書的な土台は何かということです。それはまず、旧約聖書の中に示されています。黙示録はもともと、「イエス・キリストの身体」である教会への預言です。一方旧約聖書は、当時の預言者たちが「イスラエルの民」を中心とした「神の国」の約束を預言したものにほかなりません。この「キリストの国とその意義」は、神を信じるユダヤ人にとって旧約聖書の中で最も大事なものの一つとして預言されています。「メシヤ」なる「救世主」が将来必ずいらっしゃるということ、そして、そのメシヤが神の国を建設し、ダビデの座に着くことは、旧約聖書の中ではっきりと約束されています。旧約聖書の預言者のほとんどすべてが、この「神の国の建設」をはっきりと予言しています。
さて、聖書が約束している「神の国」には三つの特徴があります。
第一の特徴は、王の王であるイエス様がダビデの座に着くということです。神の座は天上にありますが、ダビデの座は地上にあります。ですから、キリストの国は「地上」にあるということです。
見よ。その日が来る。――主の御告げ。――その日、わたしは、ダビデに一つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行なう。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む。その王の名は、『主は私たちの正義。』と呼ばれよう。(エレミヤ23・5、6)
その子はすぐれた者となり、いと高き方の子と呼ばれます。また、神である主は彼にその父ダビデの王位をお与えになります。(ルカ1・32)
第二の特徴は、「イスラエルの民」がキリストの国の中心を占めるということです。イスラエルは、世界の国々の避難所ともなります。
起きよ。光を放て。あなたの光が来て、主の栄光があなたの上に輝いているからだ。見よ。やみが地をおおい、暗やみが諸国の民をおおっている。しかし、あなたの上には主が輝き、その栄光があなたの上に現われる。国々はあなたの光のうちに歩み、王たちはあなたの輝きに照らされて歩む。目を上げて、あたりを見よ。彼らはみな集まって、あなたのもとに来る。あなたの息子たちは遠くから来、娘たちはわきに抱かれて来る。そのとき、あなたはこれを見て、晴れやかになり、心は震えて、喜ぶ。海の富はあなたのところに移され、国々の財宝はあなたのものとなるからだ。(イザヤ60・1~5)
あなたの門はいつも開かれ、昼も夜も閉じられない。国々の財宝があなたのところに運ばれ、その王たちが導かれて来るためである。(イザヤ60・11)
第三の特徴は、その実現こそ、世界中の人々のあこがれに他ならないということです。実は、イスラエルだけでなく、その他のどの民族にもこの地上に神の国を建設するという憧れはありましたし、それを予感させる時代は「黄金時代」と呼ばれたりして来ました。私たちは哲学や宗教、政治、文学などの中に、そのような理想を見いだすことができます。しかし、これらの考えの源はみな聖書からきていると言えるのです。
終わりの日に、主の家の山は、山々の頂に堅く立ち、丘々よりもそびえ立ち、すべての国々がそこに流れて来る。多くの民が来て言う。「さあ、主の山、ヤコブの神の家に上ろう。主はご自分の道を、私たちに教えてくださる。私たちはその小道を歩もう。」それは、シオンからみおしえが出、エルサレムから主のことばが出るからだ。主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2・1~4)
エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。その上に、主の霊がとどまる。それは知恵と悟りの霊、はかりごとと能力の霊、主を知る知識と主を恐れる霊である。この方は主を恐れることを喜び、その目の見るところによってさばかず、その耳の聞くところによって判決を下さず、正義をもって寄るべのない者をさばき、公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、口のむちで国を打ち、くちびるの息で悪者を殺す。正義はその腰の帯となり、真実はその胴の帯となる。狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ11・1~9)
キリストの国、つまりキリストの支配される国は平和と正義と豊かさの国です。
千年王国については、もっぱら旧約聖書だけが語っているというのではなく、もちろん新約聖書もそれを証ししています。主イエス様が弟子たちに「御国が来ますように。」(マタイ6・10)と祈るように教えられたことも、その一つの例です。そしてそれに続く「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。」という祈りは、神の国が地上においても実現することを表しています。
しかし、なぜ新約よりも旧約聖書の方にこれほど多く出てくるのでしょうか。黙示録というのは、そもそもイエス様の「身体なる教会」の預言的な書物です。新約聖書ではその中心テーマは「教会」です。したがって新約聖書は、先ず「永遠のいのち」、「福音」といった目には見えない世界のことがらを強調しています。ですから新約聖書は千年王国についての詳しい説明を行なっていないのです。これに対して旧約聖書では、地上におけるイスラエルの民の将来、そしてまた諸国の民の将来について強調しています。しかし、旧約聖書ではまだ十分に説明し尽くされていない部分があり、それがヨハネの黙示録によって補われています。例えば「神の国が地上に存続する期間」、「サタンの束縛」、「千年王国前にある復活と千年王国後にある復活」、「神と対決するサタンの最後の抵抗」、「宇宙の没落」、「最後の審判」などについては黙示録に詳細に記されています。
[3]神の国の建設はなぜ必要なのか
最後に、神の国の必要性、つまり、「なぜ神の国が建設されなければならないか」について学びましょう。旧約聖書は、「神の国」について繰り返し何度も語っています。しかし、まだ、多くの約束が果たされていないのです。
あなたの神、主は、あなたを捕われの身から帰らせ、あなたをあわれみ、あなたの神、主がそこへ散らしたすべての国々の民の中から、あなたを再び、集める。たとい、あなたが、天の果てに追いやられていても、あなたの神、主は、そこからあなたを集め、そこからあなたを連れ戻す。(申命記30・3~4)
恵みとまこととは、互いに出会い、義と平和とは、互いに口づけしています。まことは地から生えいで、義は天から見おろしています。まことに、主は、良いものを下さるので、私たちの国は、その産物を生じます。義は、主の御前に先立って行き、主の足跡を道とします。(詩篇3・10~13)
他にも多くの聖句を見ることができます。次の箇所をあげておきますので、お読みになることをおすすめします。
(イザヤ12)(イザヤ24・21~27)(イザヤ25・6~9)(イザヤ32)(イザヤ35)(イザヤ49)(イザヤ52)(イザヤ54)(イザヤ55)(イザヤ56)(イザヤ59・16~21)(イザヤ60~63)(イザヤ65・17~25)(イザヤ66・10~24)、(エレミヤ16・14~21)(エレミヤ29・14)(エレミヤ30)(エレミヤ31)(エレミヤ32・36~44)(エレミヤ33)(エゼキエル36)(エゼキエル37・21~28)
この王たちの時代に、天の神は一つの国を起こされます。その国は永遠に滅ぼされることがなく、その国は他の民に渡されず、かえってこれらの国々をことごとく打ち砕いて、絶滅してしまいます。しかし、この国は永遠に立ち続けます。(ダニエル2・44)
私がまた、夜の幻を見ていると、見よ、人の子のような方が天の雲に乗って来られ、年を経た方のもとに進み、その前に導かれた。この方に、主権と光栄と国が与えられ、諸民、諸国、諸国語の者たちがことごとく、彼に仕えることになった。その主権は永遠の主権で、過ぎ去ることがなく、その国は滅びることがない。私、ダニエルの心は、私のうちで悩み、頭に浮かんだ幻は、私を脅かした。私は、かたわらに立つ者のひとりに近づき、このことのすべてについて、彼に願って確かめようとした。すると彼は、私に答え、そのことの解き明かしを知らせてくれた。『これら四頭の大きな獣は、地から起こる四人の王である。しかし、いと高き方の聖徒たちが、国を受け継ぎ、永遠に、その国を保って世々限りなく続く。』(ダニエル7・13~18)
(ホセア2・14~23)(ホセア3・4、5)(ヨエル2・18~27)(ヨエル3)(アモス9・11~15)(オバデヤ17~21)(ミカ4)(ゼパニヤ3・9~20)(ハガイ2)(ゼカリヤ2・4~13)(ゼカリヤ10)(マラキ3・4)
神の御心はこの地上に楽園を建設することです。ところが、現実はどうでしょうか。この世には憎しみ、戦争、悩み、堕落などが山のように満ちあふれているのが実情です。もしも千年王国がなかったならば、サタンは勝利をおさめることになるでしょう。しかし神のご計画は、この世を消滅させることではなく、清めることです。そしてこの清めの後で、イエス様はご自分の支配のもとで、この世界がまったく新しく造りかえられる様を示してくださるでしょう。
次の約束はこの地上に対して与えられたものです。
国と、主権と、天下の国々の権威とは、いと高き方の聖徒である民に与えられる。その御国は永遠の国。すべての主権は彼らに仕え、服従する。(ダニエル7・27)
あなたは、ほふられて、その血により、あらゆる部族、国語、民族、国民の中から、神のために人々を贖い、私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。(黙示5・9、10)
この地上におけるイエス様のご支配は、天上において続けられ、そのご支配は「永遠」です。イエス様のご支配を通して世界的な武装解除が成就され、血が流されることはなくなります。こうして初めて、「真の平和」が実現されます。
主は国々の間をさばき、多くの国々の民に、判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍をかまに打ち直し、国は国に向かって剣を上げず、二度と戦いのことを習わない。(イザヤ2・4)
ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。その主権は増し加わり、その平和は限りなく、ダビデの王座に着いて、その王国を治め、さばきと正義によってこれを堅く立て、これをささえる。今より、とこしえまで。万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。(イザヤ9・6、7)
そこでは、「愛」そのものが、政治や経済の上位に立って治めるようになります。自分の利益だけを追求する考えや行ないはなくなり、もしそのようなことが行なわれたら厳しく罰せられるようになります。
イスラエルの民はもはや呪われた民ではなく、祝福された民となります。なぜなら、イスラエルの民はイエス・キリストを「メシヤ」、つまり「救い主」として受け入れるからです。主に選ばれた民イスラエルは祝福をもたらすものとなり、全世界に福音を伝える民族と変えられます。イスラエルの中央、エルサレムには新しい宮が建設され、そこで主イエス様がご支配なさるようになります。
「ユダの家よ。イスラエルの家よ。あなたがたは諸国の民の間でのろいとなったが、そのように、わたしはあなたがたを救って、祝福とならせる。恐れるな。勇気を出せ。多くの国々の民、強い国々がエルサレムで万軍の主を尋ね求め、主の恵みを請うために来よう。」(ゼカリヤ8・13、22)
「わたしはイスラエルには露のようになる。彼はゆりのように花咲き、ポプラのように根を張る。その若枝は伸び、その美しさはオリーブの木のように、そのかおりはレバノンのようになる。彼らは帰って来て、その陰に住み、穀物のように生き返り、ぶどうの木のように芽をふき、その名声はレバノンのぶどう酒のようになる。エフライムよ。もう、たしは偶像と何のかかわりもない。わたしが答え、わたしが世話をする。わたしは緑のもみの木のようだ。あなたはわたしから実を得るのだ。」(ホセア14・5~8)
この神の王国は実際にはどのようなものとして現われるのでしょうか。あらゆる国の民が求めようとして得られなかったものが、その時はじめてイエス様によって与えられます。
まず、「正義」こそが神の国の特徴となります。今の世の中は至る所に罪と不義がはびこっており、それによってどれだけ多くの人々が苦しみの中に閉ざされていることでしょうか。しかし、その時には、イエス・キリストを通して、「正義」が支配する神の国が実現されます。
あなたは義を愛し、悪を憎んだ。それゆえ、神よ。あなたの神は喜びの油をあなたのともがらにまして、あなたにそそがれた。あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおがらにまして、あなたにそそがれた。あなたの着物はみな、没薬、アロエ、肉桂のかおを放ち、象牙のやかたから聞こえる緒琴はあなたを喜ばせた。(詩篇45・7、8)
正義と平和がキリストの国の特徴となります。不義は人々を争いと戦争に導きますが、正義が支配するところでは、人々の間に真の平和が実現されます。この地上における偽りのない平和はただイエス・キリストを通してのみ実現されるのです。
正義、平和とならんで「喜び」もまたキリストの国の特徴となります。今の世の中においては、人生の中で涙や悲しみ、失望は当然のこととなっています。しかしキリストの国においては絶えることのない祝福が「喜び」の源となってあらゆるところに充ち満ちています。
そしてキリストの国に住む人々の特徴は「健康」であることです。聖書には長生きと健康が約束されています。
そこにはもう、数日しか生きない乳飲み子も、寿命の満ちない老人もない。百歳で死ぬ者は若かったとされ、百歳にならないで死ぬ者はのろわれた者とされる。(イザヤ66・20)
彼らが建てて他人が住むことはなく、彼らが植えて他人が食べることはない。わたしの民の寿命は、木の寿命に等しく、わたしの選んだ者は、自分の手で作った物を存分に用いることができるからだ。彼らはむだに労することもなく、子を産んで、突然その子が死ぬこともない。彼らは主に祝福された者のすえであり、その子孫たちは彼らとともにいるからだ。(イザヤ6・22、33)
そのとき、盲人の目は開かれ、耳しいた者の耳はあけられる。そのとき、足なえは鹿のようにとびはね、おしの舌は喜び歌う。荒野に水がわき出し、荒地に川が流れるからだ。(イザヤ35・5、6)
「罪」の結果である「死」はまれにしか起こらず、大部分の人々には千年もの寿命があります。
また神の国の特徴は「幸せ」です。今この地上で呪われた状態にあるもののすべてが、その時豊かに実を結ぶように変えられます。この地上は文字通り「楽園」へと変わります。この「幸せ」、つまり「豊かさ」は、文明や文化がもたらす結果ではなく、サタンが追放された後、イエス様のご臨在のもとに始めて実現されるものです。この地上には、もはや毒草や猛獣などは存在しなくなります。
狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草を食べ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。(イザヤ11・6~9)
これまで見てきたように、イエス様の御国の中心はイエス・キリストご自身であり、その王国を通して、イエス様はご自身がどのようなお方であるかを、私たちに明らかに示してくださるのです。
わたしのしもべダビデが彼らの王となり、彼ら全体のただひとりの牧者となる。彼らはわたしの定めに従って歩み、わたしのおきてを守り行なう。(エゼキエル37・24)
わたしは彼らと平和の契約を結ぶ。これは彼らとのとこしえの契約となる。わたしは彼らをかばい、彼らをふやし、わたしの聖所を彼らのうちに永遠に置く。わたしの住まいは彼らとともにあり、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となる。(エゼキエル37・26~27)
すでに今、この時代にあってイエス様に目を向けている人は幸いです。
信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(ヘブル12・2、3)
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