2023年4月25日火曜日

すぐに起こるはずのこと【第3部】35.キリストによる支配の始まり

35.キリストによる支配の始まり

黙示録20章4節から6節まで

1.復活
[1]三種類の復活
[2]二つの異なった復活信者の復活と未信者の復活
[3]段階的な復活
2.よみがえった人々
[1]二十四人の長老たち
[2]殉教者たち
[3]殉教者と同じしもべ、兄弟たち

(4)また私は、多くの座を見た。彼らはその上にすわった。そしてさばきを行なう権威が彼らに与えられた。また私は、イエスのあかしと神のことばとのゆえに首をはねられた人たちのたましいと、獣やその像を拝まず、その額や手に獣の刻印を押されなかった人たちを見た。彼らは生き返って、キリストとともに、千年の間王となった。(5)そのほかの死者は、千年の終わるまでは、生き返らなかった。これが第一の復活である。(6)この第一の復活にあずかる者は幸いな者、聖なる者である。この人々に対しては、第二の死は、なんの力も持っていない。彼らは神とキリストとの祭司となり、キリストとともに、千年の間王となる。(黙示20・4~6)

この箇所の主題は「キリストによる支配の始まり」です。

私たちはこれまで、来るべき「キリストの国」について学んできました。主の弟子たちはイエス様に「今こそ、イスラエルのために国を再興してくださるのですか。」(使徒1・6)と尋ねました。弟子たちは「神の国」がこの地上に建設されるものと考えていたのです。しかし、その当時のユダヤ人たちは、イエス様がイスラエルの「メシヤ」、つまり「救世主」であることを決して認めようとしませんでした。ですから「神の国」はこの地上に建設されませんでした。

しかしまもなく、イスラエルは悔い改めるでしょう。そしてその時にこそ、「神の国」が到来します。ここにおける「神の国」とは、とりもなおさず、かつてはユダヤ人たちに拒まれ、捨てられたイエス・キリストによって始めて実現されるものに他になりません。この「神の国」が到来した時、かつては拒絶されたイエス・キリストが、今度は「王の王」、「主の主」として崇められるのです。

このことと関連して、次に二つの点について簡単に見ることにします。一つは「復活」について、もう一つは「よみがえった人々」についてです。

1.復活


「復活」については、この世の多くの所で語られていますが、そのほとんどが、死んでも「魂」は生き続けると言われています。しかし、「肉体」については滅び去るものであり、何の希望もなく失われるものだと口を揃えて言っているのです。

しかし、聖書は「復活」について、別のことを語っています。聖書では、「復活」を三種類に分けて説明しています。

[1]三種類の復活


まず、象徴的な意味での「復活」があります。これはイスラエル民族が「諸国の墓」から引き上げられて自分の国に帰り、悔い改めてまことの神に立ち返り、神に用いられるようになることを意味しています。これを第一の復活と呼びましょう。

主は私に仰せられた。「人の子よ。これらの骨はイスラエルの全家である。ああ、彼らは、『私たちの骨は干からび、望みは消えうせ、私たちは断ち切られる。』と言っている。それゆえ、預言して彼らに言え。神である主はこう仰せられる。わたしの民よ。見よ。わたしはあなたがたの墓を開き、あなたがたをその墓から引き上げて、イスラエルの地に連れて行く。・・・・わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る。わたしは、あなたがたをあなたがたの地に住みつかせる。このとき、あなたがたは、主であるわたしがこれを語り、これを成し遂げたことを知ろう。」(エゼキエル37・11~12、14)

第二に、霊的なよみがえりを意味する「復活」があります。それは人間であれば誰もが経験しなければならない「心」のことを意味しています。聖書は、「回心」して新しく生まれ変わらなければ、その人は「罪」と「罪過」によって死んでいる者だと言っています。つまりそのような人は、神に対しては死人同然であり、盲目で、見えない世界について語ることも、また聞くこともできない者だということです。

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、(エペソ2・1)

罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、――あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。――(エペソ2・5)

ただ、神のことばと霊によって新しく生まれ「回心」した人だけが、死からいのちへと移されることを体験的に、確信することができるのです。

このように、あなたがたも、自分は罪に対しては死んだ者であり、神に対してはキリスト・イエスにあって生きた者だと、思いなさい。(ローマ6・11)

第三に、すべての人間の肉体的なよみがえりを意味する「復活」があります。新約聖書では四十回以上も「復活」について語られていますが、そのほとんどすべてがこの肉体的、身体的な復活の意味で使われています。

このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。(ヨハネ5・28)

そして、すでに今から四千年も前に、ヨブはこの「復活」について語っています。

私は知っている。私を贖う方は生きておられ、後の日に、ちりの上に立たれることを。私の皮が、このようにはぎとられて後、私は、私の肉から神を見る。(ヨブ19・25、26)

以上、聖書に記されている三種類の「復活」について見てきましたが、「肉体的な復活」について、さらに、聖書は二種類あることを指摘しています。

[2]二つの異なった復活信仰者の復活と未信者の復活


聖書は肉体的な復活について、まず「信じる者」の復活があって、次に「信じない者」の復活があると言っています。これについて三つの証しを紹介することにしましょう。

第一はイエス様ご自身の証しです。

まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。(ヨハネ5・24)

その人たちはお返しができないので、あなたは幸いです。義人の復活のときお返しを受けるからです。(ルカ14・14)

次の世にはいるのにふさわしく、死人の中から復活するのにふさわしい、と認められる人たちは、めとることも、とつぐこともありません。(ルカ20・35)

イエス様は、「肉体の復活」は、「死者の中から」の復活と、「死者」の復活の二種類があることを示しておられます。

第二の証しはパウロのものです。

また、義人も悪人も必ず復活するという、この人たち自身も抱いている望みを、神にあって抱いております。(使徒24・15)

第三はペテロの証しです。

この人たちは、ペテロとヨハネが民を教え、イエスのことを例にあげて死者の復活を宣べ伝えているのに、困り果て、(使徒4・2)

そこで、次に、死んだ人々が「どこに行くのか」という問いについて考えてみましょう。

「肉体」は土に戻りますが、「霊」と「魂」は肉体を離れても完全な意識をもっていると聖書は言います。人間の霊と魂は、イエス様と共にいるか、離れているかのどちらかです。人間をこのどちらかに決定づけるものは、創造主なる神と、犠牲となってくださった御子イエス・キリストを信じるか信じないかにかかっています。

イエス様の復活の前は、死んだ人の霊と魂は例外なく「死者の国」へ行きました。この「死者の国」は二つに分かれていて、一方の場所ともう一方の場所との間には超えることのできない淵が横たわっています。一方は「パラダイス」、あるいは「アブラハムのふところ」と呼ばれ、もう一つの場所は「苦しみの場」と呼ばれています。

十字架上での死のあと、イエス様は「死者の国」へ降りて行かれました。そこで主イエス様は信じる者に対しては、イエス・キリストによって成就された完全な救いのみわざを伝えられました。そして信じない者に対しては、ご自身の悪魔に対する勝利を伝えられました。少なくともその時だけは、信じない者はイエス様に対して頭を下げたことでしょう。そして信じようとしなかったことが大変な間違いであり、悲劇的な過ちだったと知ったことでしょう。

その霊において、キリストは捕われの霊たちのところに行ってみことばを宣べられたのです。昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。(第一ペテロ3・19、20)

そのとき、悔い改めて信仰をもっても、もはや遅すぎるのです。主イエス様は墓からよみがえられたとき、パラダイスにいたすべての信者を共に引き連れて行かれました。

そこで、こう言われています。「高い所に上られたとき、彼は多くの捕虜を引き連れ、人々に賜物を分け与えられた。」――この「上られた。」ということばは、彼がまず地の低い所に下られた、ということでなくて何でしょう。この下られた方自身が、すべてのものを満たすために、もろもろの天よりも高く上られた方なのです。――(エペソ4・8~10)

イエス様は多くの捕虜を引き連れて天に行かれたとあります。「死者の国」で束縛され捕虜とされていたのは旧約時代の信仰者たちでした。

イエス様が復活なさってからは、信者の場合は死んで肉体が滅びると同時に、霊と魂はただちに天上のイエス様のみもとに行きます。

私たちはいつも心強いのです。そして、むしろ肉体を離れて、主のみもとにいるほうがよいと思っています。(第二コリント5・8)

私にとっては、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。しかし、もしこの肉体のいのちが続くとしたら、私の働きが豊かな実を結ぶことになるので、どちらを選んだらよいのか、私にはわかりません。私は、その二つのものの間に板ばさみとなっています。私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ1・21~23)

信じる者の滅びた肉体は、携挙が起こるときに栄光のからだに変えられ、イエス様のみもとに行った霊と魂と再び一つになります。

これに対して信じない者の場合は、肉体が死んでしまうと、生かされていない霊と魂は千年王国の終わるまで、苦しみの場にとどまらなければなりません。そして千年王国のあとで、長い間苦しみ続けた信じない者の魂は肉体と一つになり、いっしょにさばかれることになるのです。

[3]段階的な復活


聖書を見ると復活は段階的に行われることがわかります。先ず、「復活」という言葉で理解されることがらは、「イエス様を救い主と信じる人々の生かされた霊と魂が、栄光の体に変えられた肉体と一つにされること」です。これが「第一の復活」であり、これにあずかるのは主にあって死んだ信者だけです。「第一の復活」は主イエス様が十字架上で死んで、三日後によみがえったことと共に始まりました。

今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから、終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。(第一コリント15・20~25)

主イエス様の死によって「死」は力を失いました。これが第一段階です。

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。(ヘブル2・14、15)

しかし、イエス様はいわゆる「初穂」にすぎません。というのは、死に対するイエス様の勝利を通して、多くの人々が同じように「栄光のからだ」をもつようになり、肉体的に復活するからです。

「第一の復活」の第二段階は次のように聖書に記されています。

私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・14~17)

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。(第一コリント15・51、52)

これこそ、近い将来この地上に起こる大きなできごとです。このとき、主イエス様は、「小羊の婚姻」のために、この世の人々の目には見えないかたちで、主イエス様を信じる人々を迎えに来られます。その時、キリストにあって死んだ人々は一瞬にしてよみがえらされます。死んだ後主イエス様のみもとにあった人々の霊と魂は、栄光のからだと結びつき、再臨なさるイエス様と共に、空中で地上の信者たちを迎えるのです。そのとき、まだ地上に生きている信者たちは瞬間的に「不死」のからだへと変えられてイエス様を出迎えるのです。

それから後の段階については、黙示録では簡単に記されているだけです。黙示録7章を見ると、御座の前に大勢の人々が群がっていることが記されています。

その後、私は見た。見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた。(黙示7・9)

黙示録11章にも肉体の復活について書かれており、二人の証人が神の力によってよみがえらされます。

しかし、三日半の後、神から出たいのちの息が、彼らにはいり、彼らが足で立ち上がったので、それを見ていた人々は非常な恐怖に襲われた。(黙示11・11)

同じく黙示録14章1節を見ると、十四万四千人の人々が小羊と共にシオンの山にいたと記されています。

主イエス様が目に見えるかたちで再臨なさる時にも、多くの人々が復活し栄光のからだを持つようになります。「第一の復活」の最後の段階として、千年王国を経た、主をおそれ信じる人々も死ぬべきからだを脱ぎ捨てて栄光のからだを持つことでしょう。

ここまで「復活」の種類と段階について見てきましたが、次に「よみがえった人々」について考えて見ましょう。

2.よみがえった人々


聖書には、よみがえらされた人々はキリストと共に支配すると書かれています。千年王国における平和の世界は「主イエス様の勝利」そのものを物語っています。主イエス様は悪魔に対してお一人で勝利をおさめられましたが、支配なさる時はお一人ではなく多くの者と共になさることを望んでおられます。

勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。(黙示3・21)

主イエス様が再臨なさる時には、からだをもって天上から地上におりていらっしゃる、ということは、聖書に明らかに記されています。千年王国に設けられる「座」(黙示20・4)とはこの地上における「座」に他なりません。しかし、もちろんこの「座」は最後の審判に設けられる座(黙示20・11)ではなく、千年王国の支配のための「座」です。

千年王国の「座」では三つの異なるグループがキリストと共に支配することになります。では、第一のグループに属する人々から見ていきましょう。

[1]二十四人の長老たち


第一のグループに属するのは、黙示録4章に記されている天上にいる二十四人の長老たちと、黙示録13章に記されている花嫁と、婚宴に招かれた人々です。これらの人々は、旧約時代から携挙に至るまでの間の、すべての信者たちでしょう。

私たちの神のために、この人々を王国とし、祭司とされました。彼らは地上を治めるのです。(黙示5・10)

「あなたがたは、聖徒が世界をさばくようになることを知らないのですか。世界があなたがたによってさばかれるはずなのに、あなたがたは、ごく小さな事件さえもさばく力がないのですか。私たちは御使いをもさばくべき者だ、ということを、知らないのですか。」(第一コリント6・2、3)

次の箇所を見ると、このグループに確かに旧約時代の人々も含まれていることがわかるでしょう。

「あなたがたに言いますが、たくさんの人が東からも西からも来て、天の御国で、アブラハム、イサク、ヤコブといっしょに食卓につきます。」(マタイ8・11)

イエスは彼らに言われた。「まことに、あなたがたに告げます。世が改まって人の子がその栄光の座に着く時、わたしに従って来たあなたがたも十二の座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(マタイ19・28)

私の考えでは、もしかすると、千年王国を支配するのは、まず花婿なる主キリスト・イエス、そして五旬節から携挙までの間に救われた信者たちすべて、つまりこれらの人々は「キリストの花嫁」と呼ばれていますし、さらに旧約時代の信者たち、これは婚宴に招かれた客人たちではないでしょうか。

次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。」(第二テモテ2・11~12)

「勝利を得る者、また最後までわたしのわざを守る者には、諸国の民を支配する権威を与えよう。彼は、鉄の杖をもって土の器を打ち砕くようにして彼らを治める。わたし自身が父から支配の権威を受けているのと同じである。」(黙示2・26、27)

「けれども、あなたがたこそ、わたしのさまざまの試練の時にも、わたしについて来てくれた人たちです。わたしの父がわたしに王権を与えてくださったように、わたしもあなたがたに王権を与えます。それであなたがたは、わたしの国でわたしの食卓に着いて食事をし、王座に着いて、イスラエルの十二の部族をさばくのです。」(ルカ22・28~30)

聖書では、教会とイスラエルの民とを厳密に区別しています。つまり、教会とは「天上」における神の民、また「天上」におけるイエス・キリストの花嫁を意味しています。一方、イスラエルの民は、この「地上」において神が選ばれた民であり、また「地上」におけるイエス・キリストの花嫁のようなものでしょう。イスラエルの民の目標は千年王国ですが、真の教会の目標は千年王国ではなく天国にあります。私たちの切なる願いは千年王国に入ることではなく、主イエス様のみそばにいることです。

次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。(第一テサロニケ4・17)

私たちのいのちであるキリストが現われると、そのときあなたがたも、キリストとともに、栄光のうちに現われます。(コロサイ3・4)

私の願いは、世を去ってキリストとともにいることです。実はそのほうが、はるかにまさっています。(ピリピ1・23)

真の教会は、婚姻によって主イエス様との関係を密接不可分なものとして強くし、イエス様が支配なさるときは花嫁も共に支配し、イエス様が御座にお着きになるときには花嫁も共に座に着きます。

「勝利を得る者を、わたしとともにわたしの座に着かせよう。それは、わたしが勝利を得て、わたしの父とともに父の御座に着いたのと同じである。」(黙示3・21)

「私たちと共に」ということこそ、主イエス様の切なる願いです。教会に与えられる祝福は永遠のものであり、決して千年間という限られた時間のものではありません。

ここで一つ注意するべきことは、主イエス様は花嫁と共に千年間この「地上にお住まいになる」とは、聖書のどこにも書かれていません。小羊の婚姻のあと、「天」こそが小羊の住まいとなり、そこから主イエス様は花嫁と共に支配なさるのです。

[2]殉教者たち


よみがえらされた第二のグループは殉教者たちです。彼らは叫んでいます。

小羊が第五の封印を解いたとき、私は、神のことばと、自分たちが立てたあかしとのために殺された人々のたましいが祭壇の下にいるのを見た。彼らは大声で叫んで言った。「聖なる、真実な主よ。いつまでさばきを行なわず、地に住む者に私たちの血の復讐をなさらないのですか。」(黙示6・9,10)

彼らは主の証しのために自分の命を捨てました。この人々こそ、千年王国を支配する第二の集団です。彼らは大きな艱難の時にイエス様に忠実に従った結果、命を失いました。そして次のように言い渡されています。

すると、彼らのひとりひとりに白い衣が与えられた。そして彼らは、「あなたがたと同じしもべ、また兄弟たちで、あなたがたと同じように殺されるはずの人々の数が満ちるまで、もうしばらくの間、休んでいなさい。」と言い渡された。(黙示6・11)

[3]殉教者と同じしもべ、兄弟たち


支配する者の第三のグループは、すぐ前の聖書引用箇所にでてきた、殉教者と「同じしもべ、また兄弟たち」です。彼らも自分の命を犠牲にしてまでも、主イエス様への愛を貫き通した人々です。主イエス様はこの人々のからだもよみがえらせ、共に支配させようとなさっています。彼らは「獣」やその像を決して拝みませんでした(黙示20・4)。彼らは勝利を得、打ち勝った人々の群れです。

私は、火の混じった、ガラスの海のようなものを見た。獣と、その像と、その名を示す数字とに打ち勝った人々が、神の立琴を手にして、このガラスの海のほとりに立っていた。(黙示15・2)

キリストと共に千年王国を支配する三つのグループを見てきましたが、これら三つのグループのうち、第二、第三のグループの人々の望みは、天上にあるというよりこの地上におけるものだと言えるでしょう。これらの人々はキリストのからだである教会の携挙のあと、信仰を持つようになります。それによってキリストの花嫁に属する者となり、キリストの共同相続人となり、キリストと共に支配するようになるのです。

ここで扱ってきた「第一の復活」にあずかった者に対しては、「第二の死」は何の力も持ちません。「第二の死」とは永遠に主イエス様から離れている状態を意味します。これに対して自然的な死である「第一の死」とは、罪の罰として魂と肉体が分離することを意味します。

この後、黙示録20章11節から15節の箇所で触れますが、「第二の復活」は千年王国のあとに起こるもので、さばかれるための復活であり、「第二の死」、つまり永遠の滅びに至るためのよみがえりを意味します。

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