2004年7月11日日曜日

祈りの大切さ

祈りの大切さ
2004年7月11日、金沢よろこびの集い
ゴットホルド・ベック

使徒の働き
11:19 さて、ステパノのことから起こった迫害によって散らされた人々は、フェニキヤ、キプロス、アンテオケまでも進んで行ったが、ユダヤ人以外の者にはだれにも、みことばを語らなかった。
11:20 ところが、その中にキプロス人とクレネ人が幾人かいて、アンテオケに来てからはギリシヤ人にも語りかけ、主イエスのことを宣べ伝えた。
11:21 そして、主の御手が彼らとともにあったので、大ぜいの人が信じて主に立ち返った。
11:22 この知らせが、エルサレムにある教会に聞こえたので、彼らはバルナバをアンテオケに派遣した。
11:23 彼はそこに到着したとき、神の恵みを見て喜び、みなが心を堅く保って、常に主にとどまっているようにと励ました。
11:24 彼はりっぱな人物で、聖霊と信仰に満ちている人であった。こうして、大ぜいの人が主に導かれた。
11:25 バルナバはサウロを捜しにタルソヘ行き、
11:26 彼に会って、アンテオケに連れて来た。そして、まる一年の間、彼らは教会に集まり、大ぜいの人たちを教えた。弟子たちは、アンテオケで初めて、キリスト者と呼ばれるようになった。
11:27 そのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来た。
11:28 その中のひとりでアガボという人が立って、世界中に大ききんが起こると御霊によって預言したが、はたしてそれがクラウデオの治世に起こった。
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
11:30 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

12:01 そのころ、ヘロデ王は、教会の中のある人々を苦しめようとして、その手を伸ばし、
12:02 ヨハネの兄弟ヤコブを剣で殺した。
12:03 それがユダヤ人の気に入ったのを見て、次にはペテロをも捕えにかかった。それは、種なしパンの祝いの時期であった。
12:04 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。
12:05 こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。
12:06 ところでヘロデが彼を引き出そうとしていた日の前夜、ペテロは二本の鎖につながれてふたりの兵士の間で寝ており、戸口には番兵たちが牢を監視していた。
12:07 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。
12:08 そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。
12:09 そこで、外に出て、御使いについて行った。彼には御使いのしている事が現実の事だとはわからず、幻を見ているのだと思われた。
12:10 彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。
12:11 そのとき、ペテロは我に返って言った。「今、確かにわかった。主は御使いを遣わして、ヘロデの手から、また、ユダヤ人たちが待ち構えていたすべての災いから、私を救い出してくださったのだ。」
12:12 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。
12:13 彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。
12:14 ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。
12:15 彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。
12:16 しかし、ペテロはたたき続けていた。彼らが門を開けると、そこにペテロがいたので、非常に驚いた。
12:17 しかし彼は、手ぶりで彼らを静かにさせ、主がどのようにして牢から救い出してくださったかを、彼らに話して聞かせた。それから、「このことをヤコブと兄弟たちに知らせてください。」と言って、ほかの所へ出て行った。
12:18 さて、朝になると、ペテロはどうなったのかと、兵士たちの間に大騒ぎが起こった。
12:19 ヘロデは彼を捜したが見つけることができないので、番兵たちを取り調べ、彼らを処刑するように命じ、そして、ユダヤからカイザリヤに下って行って、そこに滞在した。
12:20 さて、ヘロデはツロとシドンの人々に対して強い敵意を抱いていた。そこで彼らはみなでそろって彼をたずね、王の侍従ブラストに取り入って和解を求めた。その地方は王の国から食糧を得ていたからである。
12:21 定められた日に、ヘロデは王服を着けて、王座に着き、彼らに向かって演説を始めた。
12:22 そこで民衆は、「神の声だ。人間の声ではない。」と叫び続けた。
12:23 するとたちまち、主の使いがヘロデを打った。ヘロデが神に栄光を帰さなかったからである。彼は虫にかまれて息が絶えた。
12:24 主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。
12:25 任務を果たしたバルナバとサウロは、マルコと呼ばれるヨハネを連れて、エルサレムから帰って来た。

13:01 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバ、ニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。
13:02 彼らが主を礼拝し、断食をしていると、聖霊が、「バルナバとサウロをわたしのために聖別して、わたしが召した任務につかせなさい。」と言われた。
13:03 そこで彼らは、断食と祈りをして、ふたりの上に手を置いてから、送り出した。

今、兄弟が言われたように、子どもは親の祈りを必要とするし、そして子どもは親のために祈ればすごいのではないでしょうか。これこそ幸せです。今の世界は、そういう世界ではない。もう、みんな自分のことしか考えられない。ですから、お互いのための祈りの大切さを考えてみたいと思います。

人間は、いちばん大切なことを忘れやすいのではないでしょうか。人間にとっていちばん大切なのは、やはり祈ること。聖書を勉強することもいいよ。けど、一方通行でしょう?

主は聖書をとおして語ろうと思っておられます。けども人間が聞く耳を持っていなければ、主は何にもできない。聞く耳を持つと、もちろん答えます。みことばに対する答えとは、祈りです。聖書はやはり祈りの材料です。祈ることがなければ救われ得ないのではないでしょうか。

「神さま。こんな罪人の私をあわれんでください」と、めちゃくちゃな生活を送ってきた男は祈って、結果として、義と認められ、よしとされ、救われた。祈ることこそが人間にとって、いちばん大切なのではないでしょうか。

もちろん、人間はなかなか祈らない、助けを求めない、問題、悩み、苦しみがなければ。ですから、主はあわれんでくださって、いろいろな問題を与えてくださいます。今、読みました箇所を通して分かります。大ききん、大迫害が起こったのです。全部、主のせいでした。

結果として、主の恵みによって救われた人々は、やはり前よりも祈るようになったなのではないでしょうか。信ずる者にいちばん足りないことは祈りなのではないでしょうか。確かに浅薄な祈りがあるでしょう。けど、主のみこころにかなう祈りが、我々の際立ってる特長となっているのでしょうか。

いったいどうして、多くの信者は、主をよりよく知りたいと思わないのでしょうか。どうして、主がもっともっと力あるわざを行なうことができないのでしょうか。なぜ、ある兄弟姉妹は、急に姿を消して、ともに主を知りたいと望んでいないのでしょうか。

われわれはみこころにかなう祈りをささげていないのではないでしょうか。祈りの不足は悪魔の勝利を意味します。私たちが、新たに自分の罪を認めることができればありがたいです。そのために、主のみこころにかなった、模範的な祈ってる教会の例を見てみたいと思います。

夕べのメッセージでは、生きてる教会について、あるいは死んでいる教会について証しされました。このエルサレムの教会だけではなく、アンテオケの教会も生きている教会でした。アンテオケの地方で導かれ、救われた人々は初めて、キリスト者と呼ばれたのです。彼らはキリストに似ている者です。やはり今までと違う者に変えられてしまったと、みんな認めざるを得なかったのです。

この使徒の働き12章に書かれている祈り会の結果は、とても大切でした。これはペテロの解放、エルサレムで起こった出来事というだけではなくて、24節に書かれてるように、主のことばは、ますます盛んに広まって行った。主イエス様は紹介されるようになった。福音は全世界に盛んに広められた。大切なのはそれなんです。

12章の1節に、「そのころ、ヘロデ王は、教会のある者たちに圧迫の手を伸ばした」と書いてあります。「そのころ」と書いてありますけど、いったい、どんな時だったのでしょうか。すなわち、大いなる祝福と霊的な勝利の時期でした。多くの人々は、主イエス様に出会って、奇蹟的に導かれるようになり、兄弟姉妹が喜びながら主を賛美し、前進したころでした。

パウロとバルナバはだいたい一年間、アンテオケの教会に奉仕し、主のすばらしい祝福を経験することができたのです。アンテオケの兄弟姉妹が、主にあって喜んで、交わりをしていたそのころ、預言者たちがエルサレムからアンテオケに下って来たと書いてあります。そして、御霊によって、「大ききんが起こる」と預言したのです。

これは実際的な挑戦を意味していました。すなわち、祝福されたアンテオケの教会の信者たちはどうするでしょうか?エルサレムに住んでる兄弟姉妹を助けるのでしょうか?このエルサレムにいる兄弟姉妹は、ききんによってひどい目に会ったのです。

使徒の働き
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。

「みこころはなんでしょうか」と考えながら、祈りながら決めたのです。「われわれの兄弟たちを助けなくてはならない」と決心しました。すなわち、アンテオケの兄弟姉妹は、「私たちはエルサレムからずいぶん離れているし、独立した群れであるから、こんなことは私たちの責任ではない」と考えようとはしなかった。本当の主の祝福があったらいつも、全世界の兄弟姉妹に対する愛があります。

使徒の働き
11:29 そこで、弟子たちは、それぞれの力に応じて、ユダヤに住んでいる兄弟たちに救援の物を送ることに決めた。
11:30 彼らはそれを実行して、バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。

決めただけではないんです。実行して、『バルナバとサウロの手によって長老たちに送った。』結局、彼らは、アンテオケからエルサレムまで遣わさせるようになったのです。こういうふうにバルナバとサウロは、起こったききんによってエルサレムに行ったわけです。

もしアンテオケの信ずる人々が、「エルサレムはエルサレムの問題ですから、われわれはもう独立ですし、この問題はわれわれの問題ではない」と考えたら、もちろんサウロとバルナバはエルサレムに行かなかったし、また、エルサレムで行なわれた主の大いなるわざを経験することができなかったし、アンテオケの兄弟姉妹は必ず束縛されたに違いない。また、サウロとバルナバは、こののち、宣教師として出かけなかったのではないでしょうか。

主の御声に対する従順は本当に大切です。この出来事によってひとつのことが明らかになります。すなわち、私たちの個人個人の問題、個人個人の困難は、主とのもっともっと大きな活動と関係しているということです。アンテオケの教会は主の豊かな祝福を経験し、主との親しい交わりを味わい、御霊の御声に従い、エルサレムに住んでる兄弟姉妹に援助を送ることに決めたとき、そのころヘロデ王は、教会、すなわち、エルサレムにある兄弟姉妹に圧迫の手を伸ばしていたとあります。

ご存知のように、このヘロデ王の攻撃は、もちろん悪魔の攻撃でした。主の赦された悪魔の攻撃でした。主が教会に新しい啓示、新しい祝福、新しい愛、また、勝利を与えると悪魔は、いつも激怒して、攻撃します。そして、私たちは、なんとしばしばそれに対してびっくりするのではないでしょうか。

何かが起こるとすぐ、私たちは、心配になって、悪いことが起こったのだろうと考えます。ヘロデ王は、教会の長老であるヤコブを剣で切り殺しただけではなく、ペテロをも捕えにかかって獄に投じたとあります。けど、この兄弟姉妹は、あまり大変だ、大変だと取り乱して、慌てふためいたりしなかったらしい。結局、これは単なる人間の考えてること、人間の憎しみの表われではなくて、悪魔の攻撃であることを悟ったからです。

ヤコブは剣で切り殺されました。ペテロは捕えられ、獄に投じられたのです。ペテロの状態は確かに、もう望みのないものでした。信ずる者となってどうしても、何をしても結局なんにもできなかった。

使徒の働き
12:4 ヘロデはペテロを捕えて牢に入れ、四人一組の兵士四組に引き渡して監視させた。それは、過越の祭りの後に、民の前に引き出す考えであったからである。

人間的に考えれば本当にもうたいへんな問題になったのです。エルサレムの大部分の信ずる者は、ペテロを通して導かれたのでしょう。五旬節のとき、ペテロを通して福音を聞いた三千人の人々が悔い改めて、イエス様を信じ、同じ日、信仰の証として水のバプテスマを受けたのです。

そのあとですぐ、男だけで五千人が導かれたのです。用いられた道具はおもにペテロでした。このペテロが今、刑務所に入れられた。大変な状況ではないでしょうか。しかし、

使徒の働き
12:5 教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。

適当に祈ったのではないよ。熱心に心からです。。そして、彼らは祈っただけではなくて、祈り続けた。何かがあると誰でも祈ります。けど何ヶ月か何年か祈っても、何も起こらなければ、止めてしまうこともあるのではないでしょうか。祈り続けることは大切です。

ヘロデや悪魔の攻撃に対する教会の答えは、熱心な祈りでした。獄に入れられたペテロだけが問題なのではない。ペテロの奉仕も結局、もうダメになってしまった。けど教会では、熱心な祈りが主にささげられたとあります。

確かに、鎖、兵卒、番兵があった。それにも関わらず、教会、すなわち、エルサレムにいる兄弟姉妹は、熱心な祈りを主に捧げたとあります。第一と第二の衛所、また、鉄門があったけど、教会では熱心な祈りが主にささげられました。主の使いはこの鉄門を開きませんでした。10節に書いてあります、「それがひとりでに開いた。」、すなわち、熱心な祈りによって開かれたのです。

この12章の中で、教会の祈り、また、主にささげられた祈り、それから、ペテロのための熱心な祈りについて書かれています。まず、教会の祈りについて考えましょう。聖書は、ペテロの祈りについて語っているのではなく、教会の、すなわち、兄弟姉妹の祈りについて語ってます。

ペテロは自分の危険についてよく知っていましたけど、すべてのことをゆだねて、彼は寝てしまったんです。考えられない。兵士たちの間でぐっすり寝てしまったのです。彼は別に呑気だったのではない。ヘロデ王だって主が赦さなければなにもできない。私は主の中で守られてる。だから寝ちゃいましょう!

もし、私たちが明日の朝には、切り殺されるということ分かったら、寝られないかもしれない。ペテロは寝てしまった。本当の信頼とはそれなのではないでしょうか。主は支配しておられます。生きておられます。何でもできるお方ですと、ペテロは確信したのです。

ここで教会では、彼のために熱心な祈りが主にささげられたと書いてあります。私たちは、この祈り会に出席した兄弟姉妹の名前を知りません。大ぜい集まったと思う。マルコの実家だったんです。大きな家だったに違いない。だれとだれが出席したか分からないし、アンテオケから来られたバルナバとサウロも出席したに違いない。

けれども、彼らがいたかどうかは別にどうでもいいよ。大切なのは教会全体の祈りです。悪魔の攻撃に対する解決は、教会の協同的な祈りです。もちろん、悪魔は今までと変わらない。悪魔は今日も、ヘロデたちによって攻撃しています。主の道、主の方法に対する反対者が多くあるでしょう。けれども主も、われわれの愛する主イエス様も変わらない。昨日も今日もいつまでも変わらないお方です。だから、私たちはどういう状況に置かれていても大いに喜ぶことができる。

主は今日も祈りを聞いてくださるお方です。また、本当の教会も、もちろん変わりません。まことの教会は霊的な一致をもってます。御霊の力によって生きている霊的な一致はまことの教会です。この教会は変わらない。私たちはこの教会に属しているのでしょうか。本当に祈りをしてる教会に属しているでしょうか。

ここで、「教会では熱心な祈りが主にささげられた」と書いてあります。まことの教会の仕事や、教会の奉仕は熱心な祈りです。当時の兄弟姉妹は実際的に、「私たちはどうすることもできません」と認めたんです。彼らはだからこそ、徹頭徹尾、主の助けに頼ったのです。

「もし主ご自身が奇蹟を行なわなければもう見込みがない」と、彼らには、はっきりわかったのです。だからこそ彼らから、「熱心な祈りが主にささげられた」と、あります。彼らは熱心に祈り続けました。どうしてでしょうか。ちょうどその日、祈り会だったからではないよ。『ペテロは捕まえられた。刑務所にいる』と、みんなが分かったとき、だれも誘わないのに、みんながマリヤの家に集まったんです。

「祈りましょう。それしかない。」結局、みんなが、『自分たちの問題はそれだと思うよ。いろいろな悩みがあったはずですけども、もうそれは別にどうでもいい。一緒になって祈りましょう!』と、彼らは決めたんです。私たちの祈りは、時に義務的な祈り、浅薄な祈りなのではないでしょうか。悩んでる兄弟姉妹、困ってる兄弟姉妹とともに悩み、彼らのために熱心な祈りをささげているでしょうか。

ガラテヤ人への手紙、一文章だけですけども、まことの教会の特徴について書かれています。

ガラテヤ人への手紙
6:2 互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。

夕べのメッセージでも言われました。「主を知るために必要なのは、開かれた心の目です。」、そして、心の目が開かれれば、それはやはり御霊の働きの結果です。「目を覚ませ!」と、聖書によく書き記されています。生きている教会の特長とは、家族の救いであると言われたのです。

結局、家族の中で、ひとりだけ教会、集会に来ても、イエス様は満足しない。なにがあってもやっぱり、家族、親戚みんな、導かれなければ中途半端です。だから、「主イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われます。」

ある兄弟は、偵察のために集会に来たらしい。偵察官がいつか証し人になっちゃった。ありがたいのではないでしょうか。結局、自分の問題はたいへんかもしれないよ。けども、ほかの悩んでる人々のために祈るようになれば違う。ほかの人々の救いのために祈り続ければ、自分の問題も小さくなります。

「互いの重荷を負い合いなさい」とあります。「目に塗る目薬を買いなさい」と、主は言われます。自分のことばかりを考えれば、主の望む祈りはわいてきません。希望を失った兄弟姉妹、絶望してる兄弟姉妹の回復のために、どうしても教会全体の祈りが必要です。主が彼らの心の目を新しく開かなければ、彼らは、また、私たちも見込みのない状態に陥ってしまいます。

あの兄弟姉妹に対する責任は自分のものではないと考えてしまったら災いです。私たちが、主に祝福された者であるならば、これで十分だと思う人が多いのではないでしょうか。けど、これはありえないことです。不幸になる早道です。

体の血がちょっとでも止まると、体全部がそれを感ずるでしょう。ひとりの信者の信仰生活が制限されたら、教会全部がそれを感ずるでしょう。体のひとつだけでも病気だったら、体全部が病気なんです。ふたりの信者だけでも統一をもっていなければ、教会全部が前進しません。当時の初代教会は、心を一つにしてともに祈り続けた。

それから、主ご自身にささげられた祈りについてちょっと考えたいと思いますね。

12章の5節に、「教会では彼のために、熱心な祈りが神にささげられた」とあります。この最後の二つの言葉。すなわち、「神に」というのは、そんなに大切ではないと考えてる人もいるかもしれない。あるいは、私たちは別に偶像礼拝者ではないから、主にささげられた祈りは当たり前なのだと思う人もいるかもしれない。

まことの祈りは、主なる神にささげられた祈りです。当時の信者の祈りは、主ご自身にささげられた祈り。また、煩悶から出た叫びでした。偽善な祈り、また、習慣的な祈りは恐ろしいものです。傲慢はもちろん、ひどいものです。恐ろしいものですけど、祈りの場合にはこの傲慢は二倍の醜さを表わします。

それでは、私たちはどういう態度で祈るのでしょうか。人から褒められるためでしょうか。祈るとき、自分自身を、また、ほかの兄弟姉妹を意識しているのでしょうか。あるいは、主のみを見るのでしょうか。私たちのうちに熱心な祈りがあるのでしょうか。

もちろん自分だけで祈るときは一生懸命、祈るでしょうけど、ほかの兄弟姉妹が祈っているとき、私たちはほかの兄弟姉妹と一緒に心を合わせて祈るでしょうか。あるいは、この兄弟に対して、あの姉妹に対して、批評的な態度を取るのでしょうか。

エルサレムの兄弟姉妹はひとつでした。バルナバやサウロはとてもすばらしい祈りの言葉を使ったか。年寄りのお婆ちゃんは非常に恥ずかしがりながら祈ったか。教会は熱心に祈ったか。ある兄弟は熱心に祈ったか。ある姉妹が声を出さないで祈ったか、私たちはもちろん知りません。けど、言えることは彼らはひとつでした。

以前は喜んで集会に来て、ともに賛美し、『主のために生きたい!』と思った兄弟姉妹が、みえなくなってしまいました。どうしてでしょうか。分かりません。けど彼らは喜びも平安ももっていないはずです。私たちはこういう兄弟姉妹のために無関心なのでしょうか。あるいは、彼らのために熱心な祈りをささげるのでしょうか。

信ずる者の無関心によって悪魔は勝利を得ます。エルサレムにいる兄弟姉妹に書かれています。同じ教会では熱心な祈りが神にささげられたと書かれています。私たちもひとつになって熱心に、悩んでいる、困っている兄弟姉妹のために祈ってるでしょうか。

エルサレムにいる兄弟姉妹はひとつになって、ともに祈った。それから、主ご自身に向かって祈った。ほかの人は意識しないで主だけを仰ぎ見た。

最後に第三番目、エルサレムにいる兄弟姉妹は、もちろんペテロのために祈られたとあります。

ご存知のように、大ききんのあとで、大迫害が続いてきたのです。ヤコブは剣で切り殺されました。また、ペテロは獄に入れられたのです。すなわち、次の朝、ペテロも同じく、殺されるかもしれない。これは当時の兄弟姉妹のために厳しい信仰の試練、恐ろしい試みでした。悪魔は信ずる者たちを不安や絶望に陥れようと努力しました。

確かにペテロだけが獄に入れられました。けれども、これは教会全体にとって恐ろしい試練でした。みな、ペテロのことを愛していたに違いない。このペテロは明日、殺されるかもしれない。もうダメ。諦めたほうがいいとは考えないで、彼らは熱心な祈りを主にささげたのです。

疑いもなくペテロだって完全ではなかったよ。彼も失敗しましたし、過ちも犯してしまったし、回復されてもやっぱり問題が起こったのですから。ガラテヤ人への手紙を見ると、一度、ペテロとパウロは喧嘩になったんです。ペテロは、主を見ないで妥協してしまった。それで、サウロは、「けしからん。あなたは悔い改めなければ信者は大変な問題になる。」だからもちろん、ペテロは必ず悔い改めた。けども、彼は決して完全ではなかったのです。

けども、兄弟姉妹は、「ペテロはもう少し注意したほうがいい」とは、思わなかったのです。あらゆる議論、あらゆる疑いは悪魔の働きの結果です。信ずる者の一致を壊すことが悪魔の目的でした。けども、エルサレムの兄弟姉妹が、信仰によってひとつになって、ペテロのために熱心な祈りをささげた。

彼らはペテロとともに悩みました。確かに私たちは今、当時の信ずる者たちのような迫害を経験してはいないでしょう。けれども、毎日、悪魔の憎しみを感じます。信ずる者の霊的な交わりをダメにするために、悪魔はあらゆる手段を用いて攻撃しています。批評、また、疑いによって本当の交わりは不可能になります。悪魔の目的とは、私たちが信仰や希望を失うこと、お互いの愛を弱くすることです。

エルサレムにいる兄弟姉妹は、この危険をすぐ感じました。だから彼らはひとつになってペテロのために熱心に祈ったのです。もちろん、ペテロのためだけではなく、主の栄光が現われるために祈ったのです。私たちは、一緒に祈るとき、はっきりとした目標をもちましょう。はっきりとした目的をつかむこと、また、一致することは、欠くべからざることです。

教会全体の祈りとは、いったいなんなのでしょうか。幾人か集まって、一人一人が自分の願いを祈ったり、感謝したりするのでしょうか。決してそうではない。集まってる兄弟姉妹が個人個人のものではなく、主イエス様のからだ、イエス様の代表であるべきです。すなわち、教会全体の祈りによって霊的な力が現われ、主イエス様の支配が明らかになります。

エルサレムの教会では、ペテロのために熱心な祈りが主にささげられ、こういうふうに主の支配が明らかになったのです。われわれの祈りによって、姿を消した兄弟姉妹の生活の真ん中に、主のご支配が明らかになりますように。

いったいどうして、エルサレムにある教会はペテロのために祈ったのでしょうか。ペテロを愛したからでしょうか。それは当たり前のことです。けど、そのおもな理由は主のみことばだったのです。ペテロは獄に入れられていたとき、教会の喜びや教会のあかし、教会の奉仕は制限されてしまったのです。また、主は栄光をお受けになりません。だから教会、ペテロのために熱心な祈りをささげたのです。

私たちはいったいどうして、離れた兄弟姉妹のために祈らなくてはならないのでしょうか。もちろん、私たちは、一人一人をどうしても愛さなければならない。そうしないと悪魔は勝利を得ます。けれども、主のみこころの方が問題です。兄弟姉妹が悪魔の獄に入れられていると、私たちの喜び、私たちの証し、私たちの奉仕も制限されます。束縛されます。また主はご栄光をお受けになれません。だから、私たちはどうしても離れた兄弟姉妹のために、熱心に祈り続けなければならないのです。

エルサレムの教会は自分のために祈りませんでした。いつも、自分、自分、自分のために祈ってる信者は前進しません。また、エルサレムの兄弟姉妹が、自分のために祈ったとした場合を想像してください。ペテロは必ずそのまま獄に入れられていて、次の朝、殺されたでしょう。けど兄弟姉妹は悪魔の攻撃に負けませんでした。自分のために祈ろうとしなかった。御霊に従い、ペテロのために祈り続けたのです。

結局、はっきりとした目的を持って祈りましょう。離れた兄弟姉妹のために祈りましょう。これは、主のみこころであるからです。イエス様は、「わたしが来たのは、彼らにいのちを得させ、豊かに得させるためである」と言われたのです。けど、悪魔の獄に入れられている兄弟姉妹は、この豊かないのち、また主の喜びを持っていない。エルサレムにいる兄弟姉妹はみな、ペテロのために熱心な祈りをささげました。すべての信者は、ただ一つの目的を持っていました。だから主は、ご自分のご栄光を現わしたのです。

このエルサレムの祈り会の結果とはなんだったのでしょうか。一言で言いますと、この祈り会の結果は、主の勝利の現われでした。悪魔は、どうにかしてこの信者たちを散らせようと努めたのです。彼らが不安や絶望に陥ってしまい、妥協し、止めるようにと。これが、悪魔の攻撃の目的でした。けども、教会ではペテロのために熱心な祈りが主にささげられた。結果としてペテロは解放された。けども、それよりも大切であったのは、24節に書かれているように、主のことばは、ますます盛んに広まって行った。これが祈り会のもっとも大切な結果でした。

使徒の働き
12:24 主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。

また、ヘロデ王も滅んでしまった。彼は神に栄光を帰することをしなかったから、ダメになって、結局、殺されてしまったのです。虫で。教会全体の祈りによって霊的な力が現われ、主の支配が明らかにならなければならない。エルサレムの教会はそうだったのです。

教会の祈りによって主の支配が明らかになりました。悪魔の道具であるヘロデ王は虫にかまれて息が絶えてしまった。主は働くとこういうものになります。祈りの結果として主が栄光をお受けになったのです。12章の始めに、「ペテロは獄に入れられていた。」と書いてあります。もちろん、ペテロが獄に入れられていたときは、教会の喜びも教会の証しも、教会の奉仕も制限されてしまったのです。

けれども、ヘロデや悪魔の攻撃に対する教会の答えは熱心な祈りでした。ある人は、「もう私はなにもできない」云々と言います。うそ!祈ることができる。助けを求めることができる。主は祈りを聞いてくださいます。

12章の終わりは語ってますね。『主のみことばは、ますます盛んになり、広まって行った。全世界に福音が盛んに広められたとあります。そして13章を見ると分かります。パウロとバルナバはエルサレムからアンテオケへ帰った。すぐに宣教師として出掛けられるようになったのです。そのときまで、『ユダヤ人はユダヤ人のためだけ、福音を宣べ伝えたんです。異邦人なんて救われる資格がない。みんな滅んでもいいだろう。』(と考えられていた。)

けども、そのときから異邦人に福音が宣べ伝えられるようになったのです。エルサレムの祈り会の結果であるに違いない。もうひとつの祈り会の結果とは、本当の礼拝です。夕べも礼拝の大切さについて話されたのです。ペテロには、御使いのしわざが現実のこととは考えられないで、ただ夢を、幻を見てるのだと思ったんです。けどこれは幻ではなかったんです。現実でした。

ペテロはすぐ信じませんでした。信じられなかったのです。また、祈ってるエルサレムの教会も同じく、ペテロの解放されたことをはじめは、信じませんでした。ありえない。女中に、「あなたは気が狂ってる」と言いました。けど、後で彼らはペテロを見て、必ず一緒に、本当の意味で喜びのあまり泣きながら感謝した、礼拝したに違いない。「主はすごい。」

エペソ人への手紙の3章を最後に読んで終わりましょうか。ここでも、「教会により」という表現が出てきます。

エペソ人への手紙
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により(・・・・信者ひとりひとりではなく、教会により・・・・)、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。

イエス様はいつも私たちが求め、また思うところの一切をはるかに越えてかなえてくださいます。だから賛美と誉れと栄光は自ずから出てきます。自発的に喜んでささげるようになります。

エルサレムに集まった兄弟姉妹は、この祈り会の重大さをあんまりよく理解していなかったかもしれない。けど彼らはただ、これだけは知っておりました。「今、祈らなければならない。祈らなければ喜びがなく、教会は広まれない。みことばは宣べ伝えられない。」このことを彼らは知っていたのです。

ペテロの解放に、これのことがらは深い関係があったのです。だから彼らはペテロのために熱心な祈りを主にささげたのです。彼らはこの祈りの結果、ヘロデ王が虫にかまれて殺され、主のことばが全世界に広まるということは考えもしなかったでしょう。

もし私たちが祈らなければ、「イエス様は主である。生きておられ、祈りをきいてくださる」という証しが私たちを通して立たず、また、私たち自身も信者として進歩がなく、そればかりでなく、離れた兄弟姉妹も元へ戻りません。だからエルサレムの兄弟姉妹を見習って、心を一つにして祈り続けましょう。

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