2025年3月16日日曜日

もしそうでなくても

もしそうでなくても
2025年3月16日、市川福音集会
井上浩一兄

ダニエル
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。

今、お読みいただいたこのみ言葉は、皆さん、何度も聞いて、よくご存知だと思います。大帝国バビロニアのネブカデネザル王は、自らの巨大な権威と力を示すため、高さはおよそ27メートル、幅は2.7メートルの巨大な金の像を作らせました。そのお披露目の儀式の時に、王はその場に召された全員に、ひれ伏してこの金の像を拝めと命じます。そして、拝まない者がいたら、燃える火の炉に投げ込むとさえ命じました。

遠いユダの地から捕囚としてバビロンに連れて来られたダニエルの友人たち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、王に高官として召し抱えられ、この場にいました。しかし、彼らは王の命に背き、金の像を拝みませんでした。

ダニエル
3:12 「ここに、あなたが任命してバビロン州の事務をつかさどらせたユダヤ人シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴがおります。王よ。この者たちはあなたを無視して、あなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝みもいたしません。」
3:13 そこでネブカデネザルは怒りたけり、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴを連れて来いと命じた。それでこの人たちは王の前に連れて来られた。
3:14 ネブカデネザルは彼らに言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。あなたがたは私の神々に仕えず、また私が立てた金の像を拝みもしないというが、ほんとうか。
3:15 もしあなたがたが、角笛、二管の笛、立琴、三角琴、ハープ、風笛、および、もろもろの楽器の音を聞くときに、ひれ伏して、私が造った像を拝むなら、それでよし。しかし、もし拝まないなら、あなたがたはただちに火の燃える炉の中に投げ込まれる。どの神が、私の手からあなたがたを救い出せよう。」

三人の答えはこうでした。

3:16 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴはネブカデネザル王に言った。「私たちはこのことについて、あなたにお答えする必要はありません。
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

彼らがなぜ、王の命令に背いてまで、すなわち、死ぬことを覚悟してまで、金の像をひれ伏して拝まなかったのでしょうか。それは、彼らが聖書の御言葉に忠実に従ったからです。

出エジプト記
20:3 あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。
20:4 あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。
20:5 それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。・・・・

その結果、どうなったのか。三人は、火の燃える炉の中に投げ込まれました。しかも、怒りたけった王は普通よりも七倍、熱くされた炉の中に三人を投げ込ませました。この燃え盛る炉の周りにいた三人を連れてきた屈強な王の家来すら、焼け死ぬのほどの火炎でした。それでも、三人は焼け死ぬことはありませんでした。

ダニエル
3:23 シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの三人は、縛られたままで、火の燃える炉の中に落ち込んだ。
3:24 そのとき、ネブカデネザル王は驚き、急いで立ち上がり、その顧問たちに尋ねて言った。「私たちは三人の者を縛って火の中に投げ込んだのではなかったか。」彼らは王に答えて言った。「王さま。そのとおりでございます。」
3:25 すると王は言った。「だが、私には、火の中をなわを解かれて歩いている四人の者が見える。しかも彼らは何の害も受けていない。第四の者の姿は神々の子のようだ。」
3:26 それから、ネブカデネザルは火の燃える炉の口に近づいて言った。「シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴ。いと高き神のしもべたち。すぐ出て来なさい。」そこで、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴは火の中から出て来た。
3:27 太守、長官、総督、王の顧問たちが集まり、この人たちを見たが、火は彼らのからだにはききめがなく、その頭の毛も焦げず、上着も以前と変わらず、火のにおいもしなかった。
3:28 ネブカデネザルは言った。「ほむべきかな、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神。神は御使いを送って、王の命令にそむき、自分たちのからだを差し出しても、神に信頼し、自分たちの神のほかはどんな神にも仕えず、また拝まないこのしもべたちを救われた。
3:29 それゆえ、私は命令する。諸民、諸国、諸国語の者のうち、シャデラク、メシャク、アベデ・ネゴの神を侮る者はだれでも、その手足は切り離され、その家をごみの山とさせる。このように救い出すことのできる神は、ほかにないからだ。」

三人は焼かれず、その結果、ネブカデネザル王は三人を赦しただけではなく、28節で王は、彼ら三人がそこまで忠実に仕え、信じる主なる神を褒め称えています。

なぜ彼らは、自分がいのちを失うまで覚悟して、王の命令にそむことができたのでしょうか。彼ら三人の時代には、すでに次の御言葉が与えられていました。

イザヤ
43:1 だが、今、ヤコブよ。あなたを造り出した方、主はこう仰せられる。イスラエルよ。あなたを形造った方、主はこう仰せられる。「恐れるな。わたしがあなたを贖ったのだ。わたしはあなたの名を呼んだ。あなたはわたしのもの。
43:2 あなたが水の中を過ぎるときも、わたしはあなたとともにおり、川を渡るときも、あなたは押し流されない。火の中を歩いても、あなたは焼かれず、炎はあなたに燃えつかない。
43:3 わたしが、あなたの神、主、イスラエルの聖なる者、あなたの救い主であるからだ。・・・・

だから彼らは、このみ言葉により頼んだのだと思います。だからこそ彼らは、『しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません』と、断言できたのです。そして、イザヤの預言の通り、火の中を歩いても、彼らは焼かれず、炎は彼らに燃えつかなかったのです。常に、救い主である神の子が四人目として彼らとともにあり、彼らを守ったからです。

最近つくづく、信仰とは、この『もしそうでなくても』という言葉の先にあるのだと思わされます。

強大な力を持つ王は、自分の権威と力を示す、すなわち、彼自身を象徴する金の像を、人々がひれ伏して拝むようにと命じました。そして、人々にひれ伏して拝ませるために、もし拝まないのであれば殺すと命じたのです。それは、この世の人は皆、いのちを惜しむからです。だから王は、必ず皆が金の像を拝むと考えたでしょう。王だけではなく、誰もがこの命令に逆らう者がいるとは思いもしなかったはずです。

人は皆、死を恐れます。それは、死がいのちの終わりだからです。だから、どんなにひどい仕打ちも、死ぬよりましだから従うのです。しかし、主なる神を信じるシャデラクたち三人は、いのちを捨てる覚悟を持つことができました。なぜなら、彼らにとって死は終わりではなかったからです。

ダニエル
12:2 地のちりの中に眠っている者のうち、多くの者が目をさます。ある者は永遠のいのちに、ある者はそしりと永遠の忌みに。

ここには、ちりの中に眠っているものが目をさまし、永遠のいのちに預かること、死者の中からのよみがえりと永遠のいのちについて記されています。彼らは、死が終わりではなく、主なる神にあって永遠に生きるものとなれることを信じていました。

シャデラクたちが王に応えた二つの言葉、『もしそうなれば』と、『もしそうでなくても』とは、生と死の一線を越えるかどうかを示しているように思えます。

ダニエル
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。

これは、主なる神がこの世のいのちを守るということです。いわば、神に対する、この世の人の願いでもあります。

一方、『もしそうでなくても王様、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが建てた金の像を拝むこともしません』とは、いのちを捨てる覚悟に他なりません。どんな結果になろうとも、主からすべてを受け取るという覚悟です。

『もしそうなれば』、すなわち、神が助けてくださるという願いは、肉の願いなのかもしれません。本当の信仰ではないのかもしれません。しかし、『もしそうでなくても』、すなわち、いのちを捨てる覚悟を持つことは、生死の一線を超えるものです。何があろうが、御手にすべてをゆだねるという覚悟です。だから、本当の信仰は、『もしそうでなくても』の言葉の先にあるのだと思うのです。

私自身のことを顧みると、以前、お話ししたことがあると思いますけれど、私の妻は、約九年前に悪性の甲状腺がんで天に召されました。私は当時、治験が済んだばかりの新しい治療薬に望みをかけ、抗がん剤よりも画期的に癌を小さくするというこの薬を、これこそ最後に主が備えてくださった恵みだと信じ、この薬によって、主が妻を癒されるはずだと祈っていました。私は、『もしそうなれば』、必ず主がこの薬を通して妻を救ってくださると信じて祈っていたのです。まさにそれは私の肉の願いに過ぎず、結局のところ、この世のいのちを惜しんでいるだけだったのです。

一方で、妻の方は全てを主に委ねて、最後の最後まで、平安の中にいるように見えました。当時の私には、もしそうでなくても、すなわち、彼女が召されたとしてもと祈ることはできなかったのです。それは、彼女を失うことが怖かったからです。私の祈りは、生死の一線を越えてはいなかったわけです。でも妻の方は、まさに、もしそうでなくても、私はすべてをあなたから受け取りますという信仰に立っていたのだと思います。

主なる神は、モーセを通して語られました。

申命記
30:19 私は、きょう、あなたがたに対して天と地とを、証人に立てる。私は、いのちと死、祝福とのろいを、あなたの前に置く。あなたはいのちを選びなさい。

イエスを主と信じ、受け入れたものだからこそ、主は私たちに病や困難、重荷を与えられます。それは、私たちには分からなくても、主の目から見れば、それが主に似たものとなるために必要だからです。そして、これらの病や困難、重荷を通して、主は必ず、いのちと死、祝福と呪い、この二つの選択肢を私たちの前に置くのだと思います。

『もしそうなれば』と、自分の思いや願いを選ぶのか、それとも、『もしそうでなくても』と永遠のいのちに至る信仰を選ぶのかと、常に私たちは問われているように思えてなりません。

私たちはよく、『主にゆだねる』と言います。もちろん、『ゆだねる』とは、相手を信じて任せることです。でも、具体的に主に委ねるにはどうしたらよいのでしょうか。最近になってゆだねるとは、つくづく、ただ信じて受け取ることだと思わされています。

ローマ
11:36 ・・・・すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

すべて私たちひとりひとりに起こることは、神から発しています。そして、神しか、それを解決することはできません。そして、神によってなされたことを信じて受け取れば、神に至るのだと、み言葉は示しているように思います。

だから、『もしそうでなくても』の先にある信仰こそが、信じてすべてを主の御手から受け取る信仰ではないでしょうか。

私たちは、信じて御霊を与えられ、永遠のいのちを持っています。これは、み言葉にはっきりと示されている真理です。与えられた結果がなんであれ、全てを主からのものとして受け取ること、生死の一線を越えて、『もしそうでなくても』と、いのちを捨てる覚悟を持って受け取ること、それこそが永遠のいのちを受けた者の信仰であり、それが主にあるものに与えられた特権なのかもしれません。

そして、受け取ったものは、初めは重荷と感じるかもしれません。でもそれは、主の定めの時には、大きな恵みへと変わるのだと思います。

ダニエル
3:17 もし、そうなれば、私たちの仕える神は、火の燃える炉から私たちを救い出すことができます。王よ。神は私たちをあなたの手から救い出します。
3:18 しかし、もしそうでなくても、王よ、ご承知ください。私たちはあなたの神々に仕えず、あなたが立てた金の像を拝むこともしません。」

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