2024年10月27日、秋田福音集会
翻訳虫
詩篇
94:17 もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。
94:18 もしも私が、「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。
94:19 私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。
生活苦や病気など様々な悩みが頭の中で渦巻いて、まっすぐに進めないように思えるときに勇気を与えてくれるみことばではないかと思います。
しかし、この詩篇94篇の全体を読んでみますと、実際には、これは人から受ける不当な扱い、抑圧や迫害に対して、主の救いを求める祈りであることが分かります。
具体的に、誰がどのような状況でこの94篇を書いたのかはよく分かりません。ダビデが、信じていた家臣たちに裏切られたときの苦しみから生まれたのかもしれず、あるいは、人からいわれのない誹謗中傷を受けた誰かが詠んだのかもしれません。
私たちも、生活の中で人とのいさかいがあって、ささくれだったような気持ちになることはあると思います。
そのようなときに、この詩篇94篇は、神の暖かさを感じさせ、新しい力を与えてくれる箇所ではないかと思います。まずはじめに、この94篇を追いながら、作者が神に訴えていることを詳しくみてみたいと思います。
[1]復讐の神(1~7節)
94篇は、主を『復讐の神』と呼ぶところから始まっています。
94:1 復讐の神、主よ。復讐の神よ。光を放ってください。
94:2 地をさばく方よ。立ち上がってください。高ぶる者に報復してください。
作者は、傲慢な悪者に対する裁きを求め、彼らに報いを与えるよう、主に願っています。
94:5 主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのものである民を悩まします。
今に生きる私たちも、人からの悪意に満ちた攻撃を受けてうろたえることがあります。
この読み手は、主がこの状況に介入して、自分たちに悪をなす相手に対して報復されることを願っております。これが、この詩篇94の発端であります。
[2]神は知っている(8~15節)
続けて、作者は、神は人間の罪を全てご存じであり、神から隠しおおせるものなどないと語っています。
94:9 耳を植えつけられた方が、お聞きにならないだろうか。目を造られた方が、ご覧にならないだろうか。
人に悪を成しながら、神はそのことに気づくはずはないとたかをくくっている敵の傲慢さを、作者は否定しています。
94:11 主は、人の思い計ることがいかにむなしいかを、知っておられる。
神を信じる人間は、苦しみの中でも希望を失って打ちのめされる必要はありません。神は私たちに平安をくださり、次の試練が来る前に立ち直れるようにしてくださいます。
94:13 わざわいの日に、あなたがその人に平安を賜わるからです。その間に、悪者のためには穴が掘られます。
自分の目の前で、ただちに神のさばきが下り、悪者が罰を受けるというふうにはならないかもしれない。しかし、最善の時に、最善のかたちで神の義がなされることを、この詩人は確信しています。
[3]主が私の助けでなかったなら・・・・(16~23節)
それでは、誰が実際に、悪者から自分を守ってくれるのでしょうか?作者は、神に直接的な質問をぶつけています。
94:16 だれが、私のために、悪を行なう者に向かって立ち上がるのでしょうか。だれが、私のために、不法を行なう者に向かって堅く立つのでしょうか。
この問いに対する答えは、すでにでています。始めにお読みした部分です。
94:17 もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。
私たちを守ってくれる人は、神の他にはいません。イエス様が十字架に付けられた時、弟子たちは皆、イエス様を見捨てて逃げました。それでも、父なる神は十字架の上のイエス様とともにおられました。
神だけがどんな時も全面的に信頼できるただ一人の救い主であります。そして、最後の部分で、神が必ず義を成してくださるという確信がうたわれています。
94:23 主は彼らの不義をその身に返し、彼らの悪のゆえに、彼らを滅ぼされます。われらの神、主が、彼らを滅ぼされます。
主は、信じる者が苦しみを受けることを許しながらも、最後には勝利されるご計画をお持ちであります。この確信によって94篇は終わっています。
奇妙な死刑囚
詩篇94編を、詳しく読んできました。人間の心に生まれた憎しみや復讐心に心を支配されそうになっても、主の恵みとあわれみに自分をゆだねることで救いを見出すさまが、ここには歌われていたと思います。
この詩篇を読む中で、私は数年前に読んだある本のことを思い出しました。『奇妙な死刑囚(海と月社)』という本です。これは実話であり、実際に起こった冤罪事件について、その当事者が書き記した本であります。この本のことを少しお話ししたいと思います。
この本を書かれたのは、アンソニー・レイ・ヒントンというアメリカ人です。
1985年、アラバマ州バーミンガムで、ファースト・フードの店が強盗に襲われ、二人の店員が殺されるという事件が起こりました。ヒントンさんは黒人であり、当時、スーパーマーケットで働く、まじめな青年でしたが、この事件の犯人として逮捕されます。そして、裁判にかけられて有罪となり、死刑判決を受けました。ヒントンさんは、2015年にこの判決が覆されて、釈放されるまで、死刑囚監房に30年にわたって収監されていたという方であります。
アラバマ州というのはアメリカの深南部にあって、現代でも非常に人種差別意識の強い土地柄であります。黒人に対する憎悪と偏見に満ちた不当な捜査と裁判の中で、ヒントンさんに有利になる証拠は全て握りつぶされ、結局、裁判官は全員一致で、彼に死刑を宣告しました。
94:21 彼らは、正しい者のいのちを求めて共に集まり、罪に定めて、罪を犯さない人の血を流します。
この通りのことが現実に起こりました、その時のことをヒントンさんは、『奇妙な死刑囚』の中でこう書いています。
『その瞬間、私の全人生がこなごなに砕け散り、周囲に散らばったような気がした。世界は割れ、散り散りになり、私のなかのすべての善が同時に壊れた。』
熱心なクリスチャンである母に育てられ、主を信じる人であったヒントンさんは、判決を読みあげた裁判長にこう言っています。
『神は審理のやり直しをなさるでしょうし、そうなさらないのであれば、あなたがたは私の命を奪うでしょうが、けっして、けっして、私の魂に触れることはできないのです。』
ヒントンさんはこの判決を聞いたときも、必ず神の義がなされ、自分の無実は証明されると信じていたのであります。
94:15 さばきは再び義に戻り、心の直ぐな人はみな、これに従うでしょう。
しかし、死刑囚監房で電気椅子にかけられる日を待つ生活が始まると、ヒントンさんは、絶望の中で、主に対する信頼を次第に失ってしまいます。
『もはや、神は存在しない。私の神は私を見捨てた。私の神は過酷な神だ。神は私をお見捨てになり、死なせるのだ。神にとって、私はなんの価値もないのだ。聖書をベッドの下に放りなげ、こう思った。・・・・あそこに書いてあるのは、全部嘘っぱちだ。』
何度、再審を請求しても却下され、ヒントンさんの心の中には、彼を犯人と決めつけた検察官、有罪判決を下した裁判官への憎悪だけが渦巻くようになります。
『終わりのないループとなって、その(検事の)台詞が延々と再生された。・・・・私は完全にひとりぼっちだった。憎悪が膨れあがり、その狭苦しい独房のなかで爆発しそうだった。』
独房に入れられて数年のあいだ、繰り返しおそってくる怒りと憎しみに支配される中で、ヒントンさんの心から信仰は消えてしまいます。他の死刑囚が祈る声を聴いても、ヒントン氏には、もはやあざける思いしか浮かびません。
『まったく、この男は神が助けてくれると本気で信じているのだろうか?ここには神など存在しない。神は天上の高いところにいて、おれたちのことなんぞ、見やしない。』
しかし、ある日、ヒントンさんは隣りから聞こえる死刑囚の声を聴きます。その囚人は母親の訃報に接して独房の中で泣き続けていました。ヒントンは壁越しにこの囚人を慰めます。
『(私は)この三年間、マクレガー検事を殺すこと、そして自殺することばかり考えてすごしてきたし、間違いなく、それを自分で選んできた。私は絶望を選んだのだ。憎悪を選んだのだ。怒りを選んだのだ。だが・・・・私にもまだ選択肢はあるはずだ。希望だって選べる。信仰だって選べる。そしてなにより、愛を選ぶことができる。思いやりを選ぶこともできるのだ。私は、泣いている男に声をかけた。』
ヒントンは、ベッドの下に腕を伸ばし、埃のなか手探りをして聖書を取り上げました。長いあいだ、打ち捨てられていた聖書を開き、泣いていた隣りの死刑囚に語りかけます。
『私はドアのほうに戻り、「聞いてくれ!」と叫んだ。「神は高いところにお座りになっているのかもしれないが、低いほうにも目を配っていらっしゃる。・・・・そう信じようぜ」。私自身もそう信じなければならなかった。どこからか「アーメン!」という声が聞こえた。』
この出来事をきっかけに、ヒントンさんは、自分と同様におびえ、孤独にさいなまれている他の死刑囚たちのことを思うようになります。
死刑囚たちは、それぞれ独房に入れられていて、お互いの顔を見ることもできません。しかし、ドア越しに会話をすることはできます。この絶望的な状況の中で、ヒントンさんは、神と向かい合う気持ちを取り戻し、同時に人間性を取り戻します。
94:17 もしも主が私の助けでなかったなら、私のたましいはただちに沈黙のうちに住んだことでしょう。
ヒントンさんは読書クラブを作ることを思いたち、死刑囚の希望者を集めて、本を読む集まりを開くようになります。
ヘンリーとの出会い
このヒントンさん主催の読書クラブにヘンリー・フランシス・ヘイズと言う白人の死刑囚が参加を求めてきました。彼は、人種差別団体であるクー・クラックス・クランのメンバーであり、罪のない黒人青年をリンチにかけたうえで、惨殺したかどで死刑判決を受けていました。
ヒントンさんは、ヘンリーが黒人への憎悪から残虐な犯行を犯したことを知ったとき、さすがに、自分に問いかけました。彼を自分たちの仲間に入れるべきだろうか?彼は、聖書を開き、イエス様の言葉を見つけました。
ヨハネ
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
ヒントンは、ヘンリーに石を投げないことを選択し、彼を友人として受け入れるよう、他のメンバーを説得します。『あなたが何をしたとしても、神はあなたを愛している』という母の言葉を、ヒントンは思い出します。
『「一人ひとりの胸のうちを、神はご存じだ。その人間がなにをしたにせよ、しなかったにせよ、それは当人と神のあいだの問題で、他人には関係のないことだ」全員がうなずいた。』
こうして、ヘンリー・フランシス・ヘイズは読書クラブの仲間として受け入れられました。しかし、彼が処刑される日が近づいてきます。
人生の最後の日、ヘンリーはヒントンにこう言い残します、『自分は両親に黒人を憎むことを教えられてきた。でも、死刑囚として過ごしたこの十五年間、その黒人たちが自分に愛だけを示してくれた。自分は今夜、本当の愛とはどのようなものかを知ってこの世を去るのだ。』
ヘンリーが死刑場に向かう直前、二人の最後の会話です。
『「すまない、レイ。自分がしたことを後悔している」
「わかってる。神はご存じだ」
ヘンリーは私の友人だ。私が彼に思いやりを示したのは、私がそうするように育てられてきたからだ。この世の地獄で、私は夜になると頭を垂れ、また一日、生き延びられたことを実感した。あちこちから笑い声が聞こえる。力になろうとする手が差しのべられる。友情。苦しんでいる他者への思いやり。私は人間性を失うつもりはない。なにがあろうと、私から人間性を奪い去ることはできない。』
ヒントンさんは後に、このヘンリーのことを思い出して、こう言っております。
『ヘンリーのたましいは天国にいると、私は心から信じています。神が私を死刑囚官房に連れてきたのは、ヘンリーに会わせるためでした。私は、神が、ヘンリーに会うために自分を選び、そして、自分を通して、ヘンリーに本当の愛とは何かを見せてくれたことを誇りに思っています。』
主は、ご自分の民を見放さず、見捨てない
逮捕されてから三十年後、ヒントンさんの無罪を信じる人権派弁護士の助けを得て、ようやく再審が認められました。アメリカの最高裁は、有罪判決を覆し、ヒントンさんは釈放されます。
詩篇94篇の作者が、迫害の中にも神の恵みを見出したように、ヒントンさんも、この過酷な経験の中で神への信仰を取り戻しました。この94篇とヒントンさんの経験を重ね合わせるとき、明らかになることが一つあるのではないかと思います。
それは、人間が外からの攻撃に疲れ果てて、希望を失って、神への信仰を放棄してしまっても、神の方は絶対に人間をあきらめないということであります。
独房に入れられた最初の数年のあいだ、ヒントンさんは、聖書を開こうとも思わず、神について話すことも祈ることもやめてしまいます。
94:5 主よ。彼らはあなたの民を打ち砕き、あなたのものである民を悩まします。
あまりにもひどい逆境の中に置かれると、もう自分はあまりに弱く、苦難に立ち向かう力がないし、神は何もしてくれないと感じてしまうことがあるかもしれません。しかし、主の方は人を見捨てることなく、私たちを暗闇から引きあげるために、力強く支えてくれます。
94:14 まことに、主は、ご自分の民を見放さず、ご自分のものである民を、お見捨てになりません。
ヒントンさんの『足がよろけた』とき、すなわち、絶望や憎悪に心が支配されて、主への信仰を失いかけたときも、主の恵みが彼をささえてくださいました。
94:18 もしも私が、「私の足はよろけています。」と言ったとすれば、主よ、あなたの恵みが私をささえてくださいますように。
94:19 私のうちで、思い煩いが増すときに、あなたの慰めが、私のたましいを喜ばしてくださいますように。
希望を失ってすべてを投げ出したくなった時でも、主の恵みと慰めは消えることなく、見えないところで人間を支えてくださることを、このふたつの節が教えてくれるのではないかと思います。
ヒントンさんは、釈放された後のインタビューでこう言っています。『信仰は、日々のトラウマに支配されないようにしてくれる。人生がイエス様のように生きることでせいいっぱいになるからだ。私にはやるべき働きがあり、それは、他の囚人たちが、私の中のキリストを見るようになることだった。』
神は、私たちには想像もつかないような深遠なかたちで、苦しみを受ける人間を成長させてくれます。この苦しみがその人を訓練してキリストの姿に近づけてくれるのではないかと思います。
この事実を、ヒントンさんの経験を通じて、主は私たちに伝えているのではないでしょうか。