2013年3月31日日曜日

復活されたイエスさま

復活されたイエスさま
2013年3月31日、吉祥寺礼拝
ゴットホルド・ベック

ヨハネ
20:1 さて、週の初めの日に、マグダラのマリヤは、朝早くまだ暗いうちに墓に来た。そして、墓から石が取りのけてあるのを見た。

20:11 しかし、マリヤは外で墓のところにたたずんで泣いていた。そして、泣きながら、からだをかがめて墓の中をのぞき込んだ。
20:12 すると、ふたりの御使いが、イエスのからだが置かれていた場所に、ひとりは頭のところに、ひとりは足のところに、白い衣をまとってすわっているのが見えた。
20:13 彼らは彼女に言った。「なぜ泣いているのですか。」彼女は言った。「だれかが私の主を取って行きました。どこに置いたのか、私にはわからないのです。」
20:14 彼女はこう言ってから、うしろを振り向いた。すると、イエスが立っておられるのを見た。しかし、彼女にはイエスであることがわからなかった。
20:15 イエスは彼女に言われた。「なぜ泣いているのですか。だれを捜しているのですか。」彼女は、それを園の管理人だと思って言った。「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります。」
20:16 イエスは彼女に言われた。「マリヤ。」彼女は振り向いて、ヘブル語で、「ラボニ(すなわち、先生)。」とイエスに言った。
20:17 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」
20:18 マグダラのマリヤは、行って、「私は主にお目にかかりました。」と言い、また、主が彼女にこれらのことを話されたと弟子たちに告げた。

20:24 十二弟子のひとりで、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたときに、彼らといっしょにいなかった。
20:25 それで、ほかの弟子たちが彼に「私たちは主を見た。」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と言った。
20:26 八日後に、弟子たちはまた室内におり、トマスも彼らといっしょにいた。戸が閉じられていたが、イエスが来て、彼らの中に立って「平安があなたがたにあるように。」と言われた。
20:27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」
20:28 トマスは答えてイエスに言った。「私の主。私の神。」
20:29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」

ある姉妹からきれいなカードをもらいました。表に、『みことばの扉』と書かれていて、その扉を開けると、次のみ言葉が書かれていました。『主は生きておられる。』

その説明として、姉妹は証ししたのです。『私の娘が自殺したとき、私はこの事実を体験したのです。すなわち、主は生きておられる。』

ロシアの革命の前には、考えられないほど多くの人々がイエス様を信じていました。ロシアは、いわゆる、キリスト教の国でした。どこへ行っても信じる者はいっぱいいました。ご存じのようにスターリンによって変わりました。彼はずっと、『神はいない、神はいない』と言い続けました。

娘さんは後で、言ったんです。父親の死後、恐ろしくて顔を見られなかった。彼は、テーブルと椅子に向かって祈ったんです。けれど、スターリンの前にも、ロシアに多くの人々が、住んでいました。主にユダヤ人がいろいろな国から逃げて、ロシアとはひとつの逃げ場になりました。当時、復活祭がどんなふうにお祝いされていたかと言いますと、よみがえりを讃える教会の鐘が、一週間のあいだ、町々に響き渡り、人々はよろこびに胸を弾ませて主を賛美し、町で出会うと、『こんにちわ』の代わりに、『主はよみがえられた!』とあいさつしたのであります。返事として、『主はまことに生きておられる!』というあいさつだったそうです。

実に喜びにあふれ、活気に満ちた町々でした。

しかも、四十日後の昇天記念日まで、いつも、床にひざまずいて祈る習慣のあるロシアのイエス様の信者たちも、よみがえりのよろこびのあまり、その四十日間は、立って祈ったということです。またこのよみがえりから、昇天までのあいだに、誰が死ぬと、墓のまわりで、普通の讃美歌は歌われなかったそうです。死に打ち勝ったイエス様を讃えるよみがえりの歌だけを歌ったそうです。

それから、もうひとつ、非常におもしろい習慣がありました。復活の礼拝では、礼拝のさなかに、一同が大笑いし、復活の喜びを讃えたということです。うれしくて、うれしくてしかたがなかった。主は生きておられる!

我々の集会の冊子も、『主は生きておられる』となっています。ドイツ語では、もう一言、付いているんです、『我々の主は生きておられる。』

誇りとするところはそれしかないね。何があっても、我々の主は生きておられる。こういうふうに大いに喜ぶことこそが、悪魔にとっておもしろくない。

けど、悪魔でさえもイエス様の復活を否定することはできません。

私たちは、上を見上げて、望みを抱き、悪魔に打ち勝ち、よみがえられたイエス様とともに、天に座ししめられた喜びをあらたにすること、悪魔を大声であざ笑うことが許されています。

いわゆるよみがえりの書、コリント第一の手紙、15章に次のように書かれています。よみがえりについて考えると、やはりこの書は、いちばん大切なところのひとつではないでしょうか?

ここで、パウロはあまり元気ではなかったコリントにいる人々に書いたのです。それは、彼らにとって必要だっただけではない、我々にとっても必要なのではないでしょうか?

コリント人への手紙第一
15:3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
15:4 また、葬られたこと、また、聖書に従って三日目によみがえられたこと、
15:5 また、ケパに現われ、それから十二弟子に現われたことです。
15:6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現われました。その中の大多数の者は今なお生き残っていますが、すでに眠った者もいくらかいます。
15:7 その後、キリストはヤコブに現われ、それから使徒たち全部に現われました。
15:8 そして、最後に、月足らずで生まれた者と同様な私にも(・・・・とパウロは言っているんですね・・・・)、現われてくださいました。
15:9 私は使徒の中では最も小さい者であって、使徒と呼ばれる価値のない者です。なぜなら、私は神の教会を迫害したからです。

復活なさったイエス様は、私にも現れてくださったと、彼は告白しただけではなく、当時の知られている全世界に行って、それを述べ伝えました。私は証人です。私は出会いました。イエス様は生きておられます。

このパウロはなぜ、イエス様を信じるようになってしまったんでしょうかね?

監禁され、捕まえられたからです。理屈で攻められて、納得させられたからではない。また、脅かされて、強制されたからでもありません。パウロは、よみがえりのイエス様に主にお会いしたため、主のものとなり、この生きておられるイエス様を紹介するようになりました。

彼は、イエス様のよみがえりの書であるコリント第一の手紙の15章をコリントに住んでいる兄弟姉妹に書き送ったんです。どうしてであるかと言いますと、彼らにとってどうしても、必要だったからです。彼らは主のよみがえりを信じました。しかし、彼らの実際の生活に、主のよみがえりの力を持っていなかったんです。彼らは主を信じ、主に仕え、主のために奉仕をしようと試み、またそうしようとしていたでしょう。しかし、全部、失敗に終わってしまいました。

パウロはこのコリントの兄弟姉妹の失敗の原因の根本について書いたのです。すなわち、「あなたがたは、よみがえりを体験する前の状態にある、よみがえりの土台の上に生活していない」と、指摘していました。

もし、私たちが生まれつきの性質から解放され、イエス様のよみがえりの力に合わせられないなら、信仰生活は、上がったり、下がったりでしょう。

当時の弟子たちも、パウロも、よみがえりの主と出会い、自分の肉の力から解放され、御霊に動かされた生活に引き入れられました。これこそ、彼らにとって、まことの復活祭だったのです。

私たちも様々な苦しみを通してこの主のおどろくべきよみがえりの力を自分のものとする必要があります。

もう何十年も前ですけど、父の友だちが九十五歳になったとき、初めて会いました。彼は告白として次のように言いました。『イエス様は勝利者です。そして、イエス様の勝利は、私のものです。イエス様を持っているものは全てを持っています。イエス様を知らない人たちには、もっとも大切なものが欠けている。イエスさまに全幅の信頼を置いているものは決して、失望させられないことを、私は確信する』ということを、彼は証しとして語ったのです。

主イエスさまは、『わたしは最初であり、最後である。永遠なる神である』と言われました、この考えられないほど偉大なるお方が、へブル書によると、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして、罪を取り除くために来られたのであります。

罪を取り除くことこそが、イエス様のこの世に来られた目的でした。聖書によれば、全人類は罪の重荷のもとに、嘆き、うめき、苦しんでいる。全ての人は罪を犯して、主なる神の栄光を受けられなくなると書いてあります。

罪の支払う報酬は死である。別の言葉で表現すると、罪は罰せられなければならない。主なる神はいかなる罪をも、見逃すことができません。罰がなければ、赦しはない。というこのことは、聖なる神の確実な判断そのものです。

聖書のよろこびの訪れとは、十字架における主イエス様の死を通して、全人類の罪がすでに忘れられているということです。私たちが受けなければならなかったはずの罰をイエス様がご自身の上に受けてくださいました。

十字架に付けられた方、すなわち、イエス様は、人類に対する父なる神の裁きを、ご自身の身の上に引き受けてくださり、完全なあがないを成就してくださいました。

イエス様がいけにえになることによって、自分の捧げられたいのちによって、罪を取り除かれたと聖書は言っています。

イエス様は、我々一人一人の罪のために、十字架に付けられました。すなわち、イエス様は葬られ、すべての罪人のために、死の刑罰を受けたのです。しかし、イエス様は死んだままではありませんでした。よみがえられました。生きておられ、全てを支配しておられるお方です。

釈迦は死にました。孔子も死にました。マホメットも死にました。コンスタンティンも死にましたし、日蓮も死にました。皆、死んだままです。

イエス様は、実際によみがえられました。イエス様は生きておられます。イエス様は、今日も支配しておられるお方であり、どこでも臨在しておられるお方です。イエス様は、罪の山のような重荷を背負って十字架につかれ、死んで、その重荷を除かれました。そして、勝利者として、墓からよみがえられました。

初代教会のよみがえりの主に出会ったものはみな、よろこんで証ししました。

使徒の働き
2:32 神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

使徒の働き
3:15いのちの君を殺しました。しかし、神はこのイエスを死者の中からよみがえらせました。私たちはそのことの証人です。

普通の裁判のとき、一人、二人の証人で十分だそうです。イエス様のよみがえりを経験した証人は五百人以上、そうなるともう何も言えない、認めざるを得ません。

このイエス様のよみがえりとは、いったい、どうして、そんなに大切なのでしょうか。三つの理由があります。

第一番目、イエス様のよみがえりは、イエス様の神性を証明しているから。すなわち、イエス様は、初めのない終わりのない永遠なる神です。イエス様は、前もって、はっきり当時の宗教家たちに言われました、「わたしのよみがえりは、わたしが永遠なる神であり、約束された救い主であることの証拠です」と。

二番目、イエス様のよみがえりは、イエス様が我々の罪を担われた証拠でもあります。イエス様の死という犠牲が、我々の罪をあがなうのに十分であると、父なる神が認められたことを意味します。

三番目、イエス様のよみがえりは、死に対する勝利を証明しています。イエス様は約束してくださいました。皆さんも暗記している言葉だと思いますけど、すばらしい言葉です。

ヨハネ
5:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。

嘘を知らないイエス様のすばらしい約束です。また、パウロも、ローマいる兄弟姉妹に書き記しました。

ローマ
8:1 こういうわけで、今は、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。

イエス様のよみがえりは、主なる神がいけにえとしてのイエス様を受け入れた証拠です。そして、主なる神は、それを三つの大きな事実によって証明してくださったのです。

ひとつは、エルサレムの宮の神殿の幕を裂くことによって。それから、空の墓によって。そして、イエス様が高められたことによってであります。

まず、エルサレムの宮の中の幕を裂くことによってです。これによって、イエス様の代わりの死が全人類を救うために十分であることを証明されました。神殿の中の幕は、聖所と、いわゆる至聖所を分けていたのです。大祭司は、毎年、一回だけ、流された罪のない動物の血を携えて、その至聖所に入ることができたのです。毎年、一回。

主なる神は、その至聖所で、ご自分のご臨在を啓示さたのです。イスラエルの民は、罪を犯したため、その至聖所に入ることを絶対に許されませんでした。大祭司でさえ、毎年、一回だけ入ることが許されました。そして、流された血を持って行く時だけ許されたのです。流された血は自分の罪のために、他の者が死に、自分の罪を贖ってくれたことを意味しています。

イエス様のよみがえりは、イエス様がまことの救い主であることの証拠です。イエス様が、救いの道を開かれたから、神殿の幕が裂かれたのです。下から上ではなくて、上から下まで。隔ての壁が取り除かれました。流されたイエス様の血に基づいて、私たちは、毎年一回だけではなく、毎日、何回も何回も、喜びをもって、聖なる主に近づくことができるのです。確かに、イエス様の復活は、主なる神がイエス様をいけにえとして受け入れた証拠そのものです。ありがたい。

二番目、空の墓によっても、イエス様の身代わりの死が全人類を贖うのに十分であると証明してくださいました。イエス様の墓にあまぬのはあったが、屍はなかった。ですから、空の墓は、主なる神がご自身の全能を現された場所です。空の墓は、救いが確実なものとなったと言っています。空の墓は、主なる神が主イエス様の成した救いの働きを認めたことを証明しています。空の墓は、イエス様がよみがえった証拠です。また、空の墓は、預言が成就された場所でもあります。空の墓は、我々に何を求めているのでしょうか?

マタイ
28:6 ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。
28:7 ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」
28:8 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。
28:9 すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。
28:10すると、イエスは言われた。「恐れてはいけません。行って、わたしの兄弟たちに、ガリラヤに行くように言いなさい。そこでわたしに会えるのです。」
28:11女たちが行き着かないうちに、もう、数人の番兵が都に来て、起こった事を全部、祭司長たちに報告した。

空の墓は希望の場所です。6節、「前から言っておられらように、よみがえられたからです。」空の墓は、喜びの場所です。8節、「彼女たちは、大喜びで、走って行った。」オリンピックでもないのに!空の墓は、慰めの場所です。10節、「恐れてはいけません。」空の墓は、崇拝の場所ですね。9節、彼女たちは「イエスを拝んだ」とあります。また、空の墓は奉仕の場所でもあります。10節、「行って、わたしの兄弟たちに、言いなさい。」

今まで考えたように、神殿の幕を裂くことによって、そして空の墓によって、主なる神が、犠牲としてのイエス様を受け入れたことがわかります。

三番目、イエス様が高められたことによっって、主なる神が、
犠牲としてのイエス様を受け入れたことがわかります。父なる神は、イエス様がよみがえられた後、ご自分の右をイエス様の座としてお与えになりました。右の座とは、栄光の場所であり、力の場所であり、尊厳の場所であります。

ヘブルを見るとこの事実について、次のように書き記されていますね。

ヘブル
1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

イエス様は、実際によみがえりました。このイエスを神は、よみがえらせて、そして、私たちは皆、そのことの証人である。主イエスがよみがえられたので、私たちは、またイエス様が再臨される証拠をも与えられています。イエス様は今日、来られるかもしれません。

イエス様はこの地上に、人間の体をとって来られましたが、しかし、いのちを与える力を持っておられたので、死なれた後よみがえることができたのです。イエス様は犠牲になり救いの代価を払って、亡くなられたのです。しかし、復活なさったイエス様は、今、欲する人に永遠のいのちを与えることができます。

ヨハネ
12:24 まことに、まことに、あなたがたに告げます。一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます。

一粒の麦が死んだならば、豊かな実を結ぶようになる。それと同じく、イエス様は亡くなられて、信じる者すべてに永遠のいのちをお与えになるのです。

主イエス様が暗闇から光へ、奴隷から解放へ、死からいのちへ導いてくださったことは、信じる者が皆、体験したところです。

主は、復活なさいました。主は生きておられます。

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