2025年1月5日日曜日

しらがになってもわたしを背負ってくださる主の恵み

しらがになってもわたしを背負ってくださる主の恵み
2025年1月5日、町田福音集会
重田定義兄

イザヤ
46:3 わたしに聞け、ヤコブの家と、イスラエルの家のすべての残りの者よ。胎内にいる時からになわれており、生まれる前から運ばれた者よ。
46:4 あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。

それではこれから、しばらくのあいだ、聴いていただきたいと思います。あらためて、新しい年をともに迎えました。今年もよろしくお願いいたします。

新年、最初の福音集会では、普通ならば、これから始まる一年の信仰生活の歩みについての決意などを述べるというようなメッセージになると思いますけれども、今日は、そのようなメッセージではなく、主が私を背負って運ばれ、生きて働いておられるのを、この私の目に見せてくださったという証しをさせていただきたいと思います。

主は、私たちにどのように接してくださっておられるのでありましょうか?もっとも多いのは、導くという接し方でありましょう。一例を挙げます。

詩篇
78:14 神は、昼は雲をもって、彼らを導き、夜は、夜通し炎の光で彼らを導いた。

『導く』というふうにここにあります。また、『ともにいる』という表現の接し方も多く見られます。マタイの28章20節でイエス様はおっしゃいました。

マタイ
28:20 ・・・・見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。

『ともにいます』とおっしゃいました。しかし、中でも私がもっとも力強く、また、ありがたく感謝な接し方と感じましたのは、さっき読んでいただきました。冒頭のみ言葉の言葉の中にあります。主みずからが、私を生まれる前から運び、しらがになるまで、年老いて――年を取るまで背負うという表現であります。

私は若い時、元気な時には、イエス様が自分を背負って運んでくださっているなどとは知りもしないで、信仰を持ってからも、しばしば、肉の思いに捕らわれて、喜んだり悲しんだりして、日々を過ごしていたような愚かな者でありました。しかしながら、年老いて体も衰えた今日、ようやくイエス様が、このように、愚かで取るに足りない者をも、今日まで背負って運んでくださり、主が生きて働かれるみわざをこの目に見せてくださったということに、気がつくことができました。

18年前になりますが、当時80歳の私は、体調の衰えを感じ、長年、住み慣れた荻窪の家を引き払い、町田市にある入居者数、約三百人、スタッフの数、約百五十人の大きな老人介護施設、サンシティー町田に入居しました。数多くある老人施設の中で、どうしてここを選んだのか、はじめは自分の考えで選んだと思っておりましたけれども、入居したあと、最初から思いがけないことが、次から次へと起こり、初めて、これは主が自ら私を背負い、運んでここに連れてきてくださったのだと分かるようになりました。これからその証しをさせていただきます。

入居の際の面接で、いろいろと話しておりますうちに、私は自然と、私たち夫婦はキリスト者であり、死後には天の御国に召してくださるという希望があるから、死を恐れることない。入居者にも、幸せに余生を生きるためには、何が必要かを知って欲しいと、自然にそのような話をしておりました。私の話を黙って聞いていた支配人は、突然、その話を我々、スタッフにして欲しいと言いました。思いもかけないことでした。そして、スタッフの研修会でした話が、後に、『高齢者の幸せのために』という小冊子になって、世に出ることになったのであります。

このような施設では、宗教的、あるいは、政治的なことは一切、タブーとされているはずなのに、どうしてこうなったのか。全て、イエス様がなさったことなのであります。サンシティー町田に入居してからしばらく経ち、クリスマスを祝う催しが、ホールで開かれました。ジングルベル、ホワイト・クリスマス、赤鼻のトナカイなどの歌や踊りがスタッフによってなされ、皆さんが手を叩いたり、一緒に歌ったりして喜んでいました。

その時、私にイエス様が働いてくださり、このクリスマス・コンサートこそ、絶好の福音の機会ではないか、この機会に本当のクリスマスとは、神の御子、イエス様が全ての人の罪を救うために、救い主としてこの世に来られたその日を喜び、祝うことである。そのことを、入居者に知ってもらうようなコンサートにしたいという思いが与えられました。

さっそく、集会の兄弟姉妹に協力をお願いしました。支配人も賛成してくれ、2013年、今から12年前に、集会の兄弟姉妹からなる合唱団によって、初めて、イエス様のご生誕を祝う数々の賛美の歌を歌うクリスマス喜びのコンサートが開かれました。

終わった後、数名の入居者が私のところに来ました。私たちも賛美の歌を歌いたいというのです。皆さん、未信者です。驚きました。まさに、イエス様が働いてくださったんです。こうしてサークル活動として、グローセリーベの会が誕生しました。それから、今日にいたるまで、新型コロナによる中断がありましたけれども、ずっとグローセリーベの会とクリスマス喜びのコンサートが続いております。グローセリーベの会は、初めは数名でしたけれども、だんだんと増えて、会員の数は現在16人となりました。これまでに亡くなった方も6人おられますけれども、皆さん、毎回、喜んで歌っておられました。イエス様は、この方々を天に召してくださったと私は確信しております。

会員の中で、初めから集っておられ、後に町田集会にも来られるようになった方もいます。会員の高齢化が進み、現在、平均年齢は84歳ですね。耳の遠い方、歩行器に頼らなければ歩けない方、体調を崩す方なども見えました。

しかし皆さん、練習の初めは声も小さく弱々しいですけれども終わるころには、声も大きく元気になってくるのがわかります。賛美の歌の歌詞が力を与えてくださったのであります。練習曲は、これまで日々の歌から、主の愛、恵み、十字架、救い、招き、平安、慰め、復活、天の御国など、約50曲に上ります。中でも58番の『理解できないが』が、定番中の定番です。

現在、集会から6人の兄弟姉妹がたが入居者の救いを祈って、暑い夏も、寒い冬も、遠方から指導に来てくださっており、会員の皆さん、月一回の練習の日を楽しみにしています。練習後には、ラウンジで兄弟姉妹がたが、コーヒーを飲みながら交わってくださいますが、これも会員の皆さんにとっては、楽しみとなっております。

このような様々な事実を目にした時、会員の皆さんは、信仰の告白こそされておりませんけれども、素直に主を受け入れておられると思わざるを得ません。主は、皆さんを背負い運んでおられるのであります。

クリスマスの喜びのコンサートは、今では主催者がサンシティ町田となり、支配人をはじめ、施設を上げて、喜んで協力してくれています。昨年、12月21日に開催されたクリスマス・コンサートでは、グローセリーベの会員、集会の兄弟姉妹がた、そして、支配人をはじめ、サンシティー町田の職員、合計、約60人の大合唱団がステージに並び、約一時間にわたって、ハレルヤをはじめ、イエス様のご生誕を祝う多くの曲を合唱しました。

信者も未信者も一緒に、心を合わせて元気な声で、喜んで顔を輝かせながら、イエス様のご生誕を賛美するこのようなコンサートは、まさに主のお導きによるとしか、考えられないとと感動いたしました。

その時に、スタッフが取ってくれた写真がありますので、お見せしたいと思います。こういうものです。ご覧になれますか?こういうふうに、たくさん入居者の方も聞いてくださっています。最前列に座っているのが――小さくてわかりにくいと思いますが――、グローセリーべの会員の人たちで、ずっと後ろに並んでいる人たちが、集会の兄弟姉妹とスタッフの人たちです。このコンサートは、町田集会の兄弟が、音楽と映像ライブで録ってCDとDVDを作ってくださっています。

もう一つ、うれしいご報告があります。コンサートの終了後、出演者全員が、コーヒーとケーキをともにする交わりの時を持ちました。その際、コンサートでバイオリンの演奏をしてくれた集会の若い兄弟の親友で、ピアノの伴奏をしたTさんという東京芸大の青年と交わる機会が与えられ、その場で素直にイエスさまを信じるという奇蹟が起きました。主が働かれたのだと思います。彼の信仰が、主にかたく立つ信仰となるようにお祈りください。

以上、サンシティー町田に、入居してから今日まで、次から次へと起こった出来事を思い返しますと、まさにこれは、主のみわざとしか考えられません。そして、年老いて体も衰え、今は、酸素を吸いながら生きているようなこの私でをもなお、背負い運んでくださって、このようなみわざを見せてくださる主に、心から感謝するばかりであります。

イエス様が、背負い運んでくださるという恵みは、イエス様を主と信じるものであれば、どなたでも預かることができます。しかし、主が背負い運んでくださるという恵みに預かるためには、自我が砕かれる必要があります。

人生が順風満帆の時、自分の思い通りにことが運んでいる時には、その恵みはわかりません。自我が砕かれていないからです。それでは逆に、人生の様々な嵐にあって、自分の知恵や力で乗り切ろうと手を尽くしたけれども、どれも失敗して、自分の無力さを思い知り、自我が砕かれたとき、主が働かれて初めて、主が自分を背負い運んでくださるという恵みを体験することができるのであります。そのことは集会の兄弟がたによって語られるメッセージや集会の機関誌、主は生きておられるに載っている多くの兄弟姉妹の証しなどからも知ることができます。

私たちが、罪とは、人間に対する罪ではなく、神様に対する背きの罪であったことを知って、悔い改めることができたのも、自分の知恵によったからでありましょうか?そうではなく、イエス様によって愛され、かたくなな自我が砕かれ、弱められたからではないでしょうか?

また、イエス様の十字架の救いのみわざが、自分自身の罪のためであったと信じることができたのも、これは自分の知恵によったからでありましょうか。そうではなく、イエス様に愛され、自我が砕かれ、弱められたからではないでしょうか?

また、イエス様に自分を明け渡すこと、自分を委ねることができたのも、自分の力や努力によったからでありましょうか?そうではなくて、イエス様に愛され、自我が砕かれ、弱い者とされたからではないでしょうか?

それらがすべて、イエス様が私たちを背負い運んでくださるためにしてくださったことなのであります。そして、イエスさまが、その者に、もっともふさわしいかたちと方法で、ご自分のみわざを表してくださるのであります。

今年は、世の終わりがますます迫る年になるでありましょう。世界の情勢は、そのことを明らかに示しております。しかし、私たち信者にとっては、ご再臨がいよいよ近いという希望、イエス様に直接、お会いできるという希望の年であります。この時期にあって、主にある兄弟姉妹がともに主に背負われ、運ばれる恵みに預かって、喜びつつ、天の御国に携え上げられるよう、心からお祈りいたします。

最後に、日々の歌の137番の歌詞を読んで終わります。

私のそばには目には見えないが、
愛する主イエスが共におられる。
御国に上りて主の御姿を
この目で拝するその喜びよ。

生まれる前から私を背に追い、
しらがとなるともなお負いたもう。
御国に上りて主の御姿を
この目で拝するその喜びよ。

取るに足りないこの私さえも、
いのちに代えて贖いたもう。
御国に上りて主の御姿を
この目で拝するその喜びよ。

ありがとうございました。

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