2025年4月6日、町田福音集会
重田定義兄
ピリピ
4:13 私は、私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできるのです。
今日は、今、読んでいただいたみ言葉、すなわち、これは、パウロが、ピリピの教会の信者に宛てた手紙の中で、言っておりますが、この御言葉の意味を、ご一緒に考えたいと思います。したがって今日のメッセージは、どちらかといえば、信者向きと言ってもいいと思います。
人間、誰でも自分が強くなりたいということを考えている。そう思って、願望しているのではないでしょうか。それはスポーツに限らず、この世を生きていく上で、何ごとにおいても弱いよりも強い方が有利だからであります。強者は弱者に勝つのが、この世の常識だからであります。ですから、どうすれば自分が強くなれるか、人間はあらゆる知恵を絞って、また努力を尽くしてがんばります。
けれども、パウロはここで、自分の力や意志によって強くなるのではなくて、イエス様が自分を強くしてくださるのだというふうに言っているのであります。しかも、パウロは、強くなるのは、それは自分のためではない、それは、主のためであって、それによって、主がご栄光を表されるためである――そのために自分はどんなことでもできるんだというふうに言っておるのであります。
この点が、パウロとこの世の人々と全く違うところであります。これから、旧約聖書、および、新約聖書に記されているいくつかの例から、そのこと見てみたいと思います。
まず、旧約聖書。旧約聖書には、信仰によって、主に強められた人々の事例が数多く記されております。そのうちの、いくつかを見てみたいと思います。
まず、第一サムエルの17章を見てみたいと思います。ここには少年ダビデがベリシテ人の巨人ゴリアテを倒した記事が載っております。
第一サムエル
17:42 ペリシテ人はあたりを見おろして、ダビデに目を留めたとき、彼をさげすんだ。ダビデが若くて、紅顔の美少年だったからである。
17:43 ペリシテ人はダビデに言った。「おれは犬なのか。杖を持って向かって来るが。」ペリシテ人は自分の神々によってダビデをのろった。
17:44 ペリシテ人はダビデに言った。「さあ、来い。おまえの肉を空の鳥や野の獣にくれてやろう。」
17:45 ダビデはペリシテ人に言った。「おまえは、剣と、槍と、投げ槍を持って、私に向かって来るが、私は、おまえがなぶったイスラエルの戦陣の神、万軍の主の御名によって、おまえに立ち向かうのだ。
17:46 きょう、主はおまえを私の手に渡される。私はおまえを打って、おまえの頭を胴体から離し、きょう、ペリシテ人の陣営のしかばねを、空の鳥、地の獣に与える。すべての国は、イスラエルに神がおられることを知るであろう。
17:47 この全集団も、主が剣や槍を使わずに救うことを知るであろう。この戦いは主の戦いだ。主はおまえたちをわれわれの手に渡される。」
17:48 そのペリシテ人は、立ち上がり、ダビデを迎え撃とうと近づいて来た。ダビデもすばやく戦場を走って行き、ペリシテ人に立ち向かった。
17:49 ダビデは袋の中に手を差し入れ、石を一つ取り、石投げでそれを放ち、ペリシテ人の額を打った。石は額に食い込み、彼はうつぶせに倒れた。
17:50 こうしてダビデは、石投げと一つの石で、このペリシテ人に勝った。・・・・
ダビデは、ここで、この戦いは自分の戦いではなく、主の戦いだと言っています。主の戦いであるがゆえに、彼は主が、弱く小さい自分を強くされて、この恐ろしい敵に勝つことができると確信して戦ったのであります。そして、このダビデの信仰を良しとされた主は、ダビデを通して、ご自身のご栄光を現わされたのであります。
次に、ダニエル書の六章から、獅子の穴に投げ込まれたダニエルについて書かれているところを見てみたいと思います。ダニエルは、捕囚の一人としてバビロンに連れて行かれ、バビロン王の信頼を受け、大臣に取り立てられるほどに出世しましたけれども、その地でも、彼はまことの神に対する信仰を守り続けました。そのダニエルを妬んだ王の家来たちは、ダニエルを陥れようとして、バビロン王だけに祈ること、さもなければ獅子の穴に投げ込むという禁令を作りました。
それでも、主なる神様に祈ることをやめなかったダニエルは、この禁令を犯した罪によって、ついに獅子の穴に投げ込まれてしまいます。しかし、この禁令がダニエルを陥れるものであるということを知った王様は、翌朝、ダニエルの様子を見に、この獅子の穴に急いで行くのです。
ダニエル
6:20 その穴に近づくと、王は悲痛な声でダニエルに呼びかけ、ダニエルに言った。「生ける神のしもべダニエル。あなたがいつも仕えている神は、あなたを獅子から救うことができたか。」
6:21 すると、ダニエルは王に答えた。「王さま。永遠に生きられますように。
6:22 私の神は御使いを送り、獅子の口をふさいでくださったので、獅子は私に何の害も加えませんでした。それは私に罪のないことが神の前に認められたからです。王よ。私はあなたにも、何も悪いことをしていません。」
6:23 そこで王は非常に喜び、ダニエルをその穴から出せと命じた。ダニエルは穴から出されたが、彼に何の傷も認められなかった。彼が神に信頼していたからである。
このように、捕らわれの弱い意味でありながら、主なる神様にどこまでも信頼したダニエルを、主は強めてくださって、そのダニエルを通して、主は異邦人の王に対しても、ご栄光を表されたのであります。
預言者のエレミヤについては、どうだったでしょうか。エレニアが主の預言者として召し出されたときの様子は、次のようなものでありました。
エレミヤ
1:4 次のような主のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。」
エルミアは、たいへん弱い性格の人であったようであります。しかし、主は、この弱いエレミヤを主の預言者に選ばれたのであります。そして、主によって強められたエレミヤは、主に信頼しつつ、激しい迫害を受けながらも、教えることなく、生涯、主のみことば、メッセージを伝え続けました。そして、主はそのエレミヤを通して、ご栄光を表されたのであります。
ヘブル人への手紙には、主によって強められた人々について、次のように書かれております。
ヘブル
11:32 これ以上、何を言いましょうか。もし、ギデオン、バラク、サムソン、エフタ、またダビデ、サムエル、預言者たちについても話すならば、時が足りないでしょう。
11:33 彼らは、信仰によって、国々を征服し、正しいことを行ない、約束のものを得、ししの口をふさぎ、
11:34 火の勢いを消し、剣の刃をのがれ、弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を陥れました。
主は、生まれつき強い者を、そのままではお用いになりません。それは、生まれつき強い者は、何ごとも、信仰でさえも、自分の強さによって対処できるという高ぶった自我の思いを持っているからであります。ですから、主はまず用いようとするものの自我を砕いて弱くされます。
次に、新約聖書から、その実例を二つ挙げてみたいと思います。
ひとつは、主イエス様の弟子ペテロであります。彼は生まれつき強い性質の持ち主でありました。その性質のゆえに、イエス様が弟子たちに、今夜、わたしが捕らえられたら、あなたがたは皆、わたしにつまずき、散り散りになる――そういうふうにおっしゃったときに、ペテロは何と言ったか。
マタイ
26:33 ・・・・「たとい全部の者があなたのゆえにつまずいても、私は決してつまずきません。」
このように彼は豪語しました。そして、続いて、イエス様がペテロに、今夜、鶏が鳴く前にあなたは三度、わたしを知らないというとおっしゃった時にも、彼は何と言ったか。
マタイ
26:35 「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」
と言い張りました。にも関わらず、ペテロはイエス様が預言されたとおり、イエス様を裏切ることになったことを通して、彼は完全に自我が砕かれたのであります。そして、そのようにして、砕かれ弱められたペトロを、主は御霊によって強めてくださり、その結果、彼は主の器として用いられ、迫害にあいながらも、殉教の死を遂げるまで、主の福音を力強く述べ伝え続けたのであります。
次はパウロであります。彼は、次のように証しをしております。
第二コリント
12:7 ・・・・私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。
12:8 このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。
12:9 しかし、主は、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。」と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。
12:10 ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。
パウロは、かつては自我の強い、誇り高い人でありました。これについて、彼は次のように告白しております。
ピリピ
3:4 ・・・・私は、人間的なものにおいても頼むところがあります。もし、ほかの人が人間的なものに頼むところがあると思うなら、私は、それ以上です。
3:5 私は八日目の割礼を受け、イスラエル民族に属し、ベニヤミンの分かれの者です。きっすいのヘブル人で、律法についてはパリサイ人、
3:6 その熱心は教会を迫害したほどで、律法による義についてならば非難されるところのない者です。
このように、彼はたいへん自我の強い、誇り高い人でありました。しかしながら、彼の証しにあります通り、イエス様は、パウロの自由を砕いて弱くされた後で、パウロを御霊によって強めて、主の器として大いに用いられたのであります。
主の器とされたパウロは、コリント教会の信者にあてた手紙の中で――先ほど申しましたが――、自分は弱いものであることをよく知っている。だから、福音伝道の成果は、自分の人間的な知恵や力によってではなくて、御霊の力に支えられて行われた結果であるというふうに言っております。
第一コリント
2:3 あなたがたといっしょにいたときの私は、弱く、恐れおののいていました。
2:4 そして、私のことばと私の宣教とは、説得力のある知恵のことばによって行なわれたものではなく(・・・・すなわち、自分の知恵によってではなく・・・・)、御霊と御力の現われでした。
このように言っております。また、パウロは、次のようにも証ししております。
第一コリント
9:19 私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
9:20 ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。
9:21 律法を持たない人々に対しては、――私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、――律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
9:22 弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うためです。
これこそパウロが、『私は私を強くしてくださる方によって、どんなことでもできる。私が弱いときにこそ、私が強いからです』と証していることの具体的な表れでありましょう。
これまで、旧約聖書、そして、新約聖書に記されている主の器として用いられた人々について見てまいりました。そして、これらの人々はすべて、自分の弱さを知って、あるいは、主に弱められた結果、自我が砕かれ、自分自身を主に委ねることによって、主に自分を明け渡すことによって、主から力をいただいて強くされた人々であります。そして、このように、主によって強められた人々を通してのみ、主はご自身のご栄光を表されたのであります。
イエス様は、私たちすべての信者に対しても、これらの人たちと同じように用いたいと望んでおられます。主は私たちをご自分の尊い死によって、罪からあがない出してくださったのは、ただ罪から救い出すためではなくて、私たちを主のしもべとして、主の器として用いようという御心なのであります。そのためには、主によって強めていただかなければなりません。
しかし、主によって強められるためには、まず自分が弱くされ、自分の自我を主に明け渡す必要があるのであります。バプテスマのヨハネが、ヨハネの福音書三章30節で、『あの方は盛んになり私は衰えなければなりません』と言っているのはこのことであります。
私たちはどうでしょうか?私たちも心からヨハネのように言うことができるでしょうか?それとも、信じた後も相変わらず強い自我のままで日々、過ごしているでしょうか。それでは、主が私たちを主の御用のためにお持ちになれないことは、すでにお分かりだと思いです。
主イエス様のご再臨の近い今、私たちは自分の中になおも根強く残っている自我を主によって砕いていただき、弱められて自分を主に全て明け渡し、主の御前にへりくだり、み言葉を確信し、御霊に満たしていただくようにして、よって強められて、『私が弱い時こそ、私は強いからです』と証しすることができますように、そして、主の器として用いていただくことができますように、そのことを通して、主にご栄光を表していただくことができますようにと、心から祈りたいと願う次第であります。
最後に、私たちを強くしてくださる主のお約束のみ言葉をお読みして終わります。
イザヤ
41:10 恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る。
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