2024年11月3日、吉祥寺集会
重田定義兄
詩篇
135:1 ハレルヤ。主の御名をほめたたえよ。ほめたたえよ。主のしもべたち。
135:2 主の家で仕え、私たちの神の家の大庭で仕える者よ。
半年ぶりに吉祥寺の集会で兄弟姉妹の皆様がたの前で、御言葉を取り次ぐことができます幸せを感謝いたします。なかなか、ズームで、こういうに参加することが難しくて、今日もなんだか、だいぶ担当の兄弟がたが苦労されたようですが、なんとかつながりまして、感謝です。
私は、今年で九十七歳――もうそろそろ九十八歳になりますが――という年寄りになっておりまして、体は、たいへん衰えて、ご覧のように酸素を一日中、吸っていないと息切れするような状態でありますけれども、幸いなことに、主が私を支えてくださいまして、このように、霊は元気で、声も大きく話せるようにしていただいたことは、本当に感謝なことであります。
今日は、私たちが主の御心にかなうしもべとなるには何が必要か――こういうことについて、ご一緒に考えたいと思います。
イザヤ書の後半には、主のしもべについて記している箇所がいくつかありますけれども、その一つをお読みいたします。
イザヤ
41:8 ・・・・わたしのしもべ、イスラエルよ。わたしが選んだヤコブ、わたしの友、アブラハムのすえよ。
41:9 わたしは、あなたを地の果てから連れ出し、地のはるかな所からあなたを呼び出して言った。「あなたは、わたしのしもべ。わたしはあなたを選んで、捨てなかった。」
この御言葉によって、主のしもべとは、主なる神様が用いようと、主ご自身がお選びになったものであるということがわかります。では、具体的にどのような者が、主に選ばれた主のしもべなのでありましょうか?旧約時代においては、主のしもべとは、預言者たちや、イザヤ書の46章3節に、『イスラエルの家のすべての残りの者』と呼ばれているような主に忠実に仕えているイスラエルの人々をさしております。
これは、主なる神様がアブラハムやモーセやダビデやヨブやイザヤに対して、『わたしのしもべ』と呼んでおられることからも知ることができます。では、主のしもべとされた彼らは、いったいどのようにして、主から召命を受けたのでありましょうか?
エレミアの場合は次のようなものでありました。
エレミア
1:4 次のような主のことばが私にあった。
1:5 「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、あなたが腹から出る前から、あなたを聖別し、あなたを国々への預言者と定めていた。」
1:6 そこで、私は言った。「ああ、神、主よ。ご覧のとおり、私はまだ若くて、どう語っていいかわかりません。」
1:7 すると、主は私に仰せられた。「まだ若い、と言うな。わたしがあなたを遣わすどんな所へでも行き、わたしがあなたに命じるすべての事を語れ。
1:8 彼らの顔を恐れるな。わたしはあなたとともにいて、あなたを救い出すからだ。――主の御告げ。――」
驚くべきことに、主は、エレミヤが母の胎内にあるうちから主のしもべとして選ばれていたのであります。
下って、新約時代には、主のしもべとは、人間の罪をあがなうために十字架にかかり、三日目によみがえった神の御子、イエス様によって選ばれ、弟子とされ、イエス様に従って福音を伝えるようになったものを指すようになりました。
例えば、パウロは、自分のことをローマ人への手紙で、
ローマ
1:1 神の福音のために選び分けられ、使徒として召されたキリスト・イエスのしもべパウロ、
と自己紹介をしておりますし、ペテロも、第二ペテロの初めに、『イエス・キリストのしもべであり使徒であるシモン・ペテロから』と、自己紹介をしております。そのほか、ヤコブやヤコブの兄弟ユダもその手紙で、それぞれ、自分をイエス・キリストのしもべと紹介しております。
しかし、主のしもべとされた人々に共通していることは、主のしもべとは何かを自覚して、自分の方から進んでしもべにしてくださいと願い出た人々ではありません。また、彼らに、主のしもべとしての資格が備わっているから、主がお選びになった人々でもありません。彼らの側に選びの何らかの理由があるわけではなくて、ただ一方的な主の選びによって、召し出された人々であります。
例えば、イエス様を最初にご自分のしもべ、弟子として召されたペテロとその兄弟アンデレ、そして、ゼペダイの子のヤコブとその兄弟、ヨハネは漁師でありました。彼らは、ガリラヤ湖で漁をしていた時に、イエス様から突然、『わたしについてきなさい。あなたがたを人間を取る漁師にしてあげよう』と声をかけられ、その意味も分からずに、ただイエス様の召しに応じて、すぐに網を捨ててイエス様について行った人々であります。
パウロの場合はどうだったでありましょうか?むしろ、神様に敵対していたものでありました。彼は、熱心なパリサイ派のユダヤ教徒であり、また、優れた律法学者でした。ですから、彼はキリスト信者が神を汚し、律法を軽んじていると思い込んで、ステパノなどのキリスト信者迫害に積極的に加わっておりました。
その彼が、さらにキリスト信者を迫害するために、ダマスコに行く途中で、復活されたイエス様に出会って、霊の目が開かれて、一転して、主のしもべして、異邦人に福音を述べ伝えるものとされたのであります。ガラテヤ書の一章の中で、彼自身こう言っております。
ガラテヤ
1:13 以前ユダヤ教徒であったころの私の行動は、あなたがたがすでに聞いているところです。私は激しく神の教会を迫害し、これを滅ぼそうとしました。
1:14 また私は、自分と同族で同年輩の多くの者たちに比べ、はるかにユダヤ教に進んでおり、先祖からの伝承に人一倍熱心でした。
1:15 けれども、生まれたときから私を選び分け、恵みをもって召してくださった方が、
1:16 異邦人の間に御子を宣べ伝えさせるために、御子を私のうちに啓示することをよしとされた・・・・
云々とあります。
ここで、パウロは、神様に敵対していた自分のようなものも、生まれた時から主のしもべとして、一方的に主によって選び分かたれていたと言っております。
私たちもまた、自分ではどうしてか全くわかりませんけども、主のあわれみをいただき、一方的に救いのご計画のうちに選ばれ、主のしもべにされるために罪からあがない出されたものであります。まさに、私たちの召しについて、パウロが次のように言っている通りであります。
第一コリント
1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。
1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。
このような私たちですから、とても主に用いられるしもべにふさわしいとは言えません。
では、真の主のしもべの模範と言えるのはどのような人なのでありましょうか?それは、私たちの救い主、イエス様ご自身であります。主なる神様は、御子イエス様を主のしもべの模範としてこの世に遣わされたのであります。イエス様が人としてこの世にお生まれになるはるか前に、主なる神様は、このことを預言者、イザヤを通して予告しておられました。
イザヤ
42:1 見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす。
42:2 彼は叫ばず、声をあげず、ちまたにその声を聞かせない。
42:3 彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともなく、まことをもって公義をもたらす。
42:4 彼は衰えず、くじけない。ついには、地に公義を打ち立てる。島々も、そのおしえを待ち望む。
神のひとり子でありながら、イエス様が神の喜ばれるしもべとして、この世においでになり、主なる神様の御心に忠実に従われ、ご自分を無にして、十字架の死にまでも従われたのであります。
ピリピ
2:6 キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、
2:7 ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。
2:8 キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。
イエス様が神の御子になるが故に、どんなことでもおできになる力を持っておられるのに、この世に遣わされたイエス様はご自分の考えや力によっては何一つなさいませんでした。何事もすべて、主のしもべとして、父なる神の御心に従ってなさったのであります。
ヨハネ
5:19 ・・・・まことに、まことに、あなたがたに告げます。子は、父がしておられることを見て行なう以外には、自分からは何事も行なうことができません。・・・・
と、イエス様がおっしゃった通りであります。また、イエス様は、とらわれる前夜、ゲッセマネで父なる神に次のように祈られました。
マタイ
26:39 ・・・・「わが父よ。できますならば、この杯(・・・・すなわち、十字架の死を・・・・)をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」
私たちは、このイエス様のうちに真の主のしもべのあるべき姿、すなわち、自分を無にする自己否定と全き従順を見るのであります。
他方、主の一方的な選びによって召し出された信者のほとんどは、先ほども申しましたように、初めから主に選ばれるしもべだったのではありません。なぜならば、私たちは救われてはいても、肉の体を持ってこの世に置かれている間は、まだ完全には自我が取り除かれておらず、そのために、私たちは、なかなか自分を主にあけ渡すことができないからであります。
たとえ、自我のゆえに主に従えないと気づいたとしても、自分で自分の自我を抑えることはできません。それを十分ご存知のイエス様は、私たちに様々な試練を与えて、御心にかなう主のしもべに成長させてくださるのであります。
自己中心の思いの強いヤコブは、神様と格闘して、腿のつがいを外されるという痛い試練を与えられたことによって、自我が砕かれ、主のしもべとして整えられました。また、自他ともに義人と認められていたヨブは、妻子や財産や健康を奪われるという大変な苦しみを通して、自分の傲慢さを知り、自我が砕かれ、主のしもべとして整えられました。
ペテロはどうだったでしょうか?イエス様に、『死んでもあなたを知らないなどと言いません』と誓ったにもかかわらず、捉えられたイエス様の面前で、三度もその誓いを破った自分の弱さ、惨めさを味わい、粉々に自我が砕かれて、主のしもべとして整えられました。
パウロは、前にも申しましたように、自分がまことの主であらゆるイエス様を敵視し、その信者を迫害することに全てをかけていたものであることを、イエス様の光に照らされることによって知り、自分の犯してきた罪の大きさがどんなに恐ろしいものであったかを知らされた時に、悔い砕かれ、主のしもべとして整えられました。
彼らはいずれも、主から与えられた試練によって自我が砕かれ、その結果、自分を主に明け渡すことができ、その彼らを、主がしもべとして大いに用いられ、彼らを通してご栄光を現されたのであります。
これらの例は、私たち信者に何を示しているのでありましょうか?それは、主のしもべにふさわしいものとは、まず自分が弱いもの、自分の力では何一つ、主の御心にかなうことはできないことを徹底的に思い知ったものであるということであります。
自分の弱さ、無力さ、みじめさを思い知って、自分には何の力も誠実さもないことを悟り、その事実を通して、初めて、主のみこころにかなうしもべに必要な自己否定、自己放棄が可能となるのであります。
私たちはどうでしょうか?自分は弱く無力だと思う一方で、主により頼まずに、無意識に自分の力、自分の考えに依存してしまうようなものではないでしょうか?有名なブドウの枝と樹の例えで、イエス様の『わたしを離れてはあなたは何もすることができない』という御言葉通り、自分自身の力では、主のみこころにかなうことはできないという事実を知った時にこそ、自分の弱さ、無力さ、愚かさを実感することができるのであり、この場所に主のしもべの土台が据えられることによって初めて、パウロが言っている自分の古い人を捨てること、すなわち、自己否定、自己放棄ができるようになるのであります。
ガラテヤ
2:20 私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が(・・・・これは古い自分が・・・・)生きているのではなく、キリストが私の(・・・・自分の・・・・)うちに生きておられるのです。いま私が、この世に生きているのは、私を愛し私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです。
と言っておる通りであります。パウロが言っております、もはや自分が生きているのではなく、キリストが自分の内に生きておられるということは、言い換えますと、自分が今、生きているのは、自己否定した自分の中に、自分を主に明け渡したその空の器の中に、主の御霊が住んでくださって、その御霊に自分はおゆだねして生きているのだということであります。
このようにして、私たち信者が主の御心にかなうしもべとして整えるられるための最終段階は、砕かれたものが、自己否定によって主のご支配に委ねた空の自分という器を通して、自分のうちに住まわれる主の御霊が働かれることによって達成されるということであります。
このような器こそ、主の御心にかなうしもべなのであります。ルカの福音書の17章で、イエス様は弟子たちにこう言っておられられます。
ルカ
17:9 しもべが言いつけられたことをしたからといって、そのしもべに感謝するでしょうか。
17:10 あなたがたもそのとおりです。自分に言いつけられたことをみな、してしまったら、『私たちは役に立たないしもべです。なすべきことをしただけです。』と言いなさい。」
私たちも、心の底からこのように言うことができるのなら、その信者こそ、主のしもべとして相応しく整えられたものと言えるでしょう。
主が、自分に言いつけられたことを皆したなどということは、小さな私たち信者にとっては、到底、不可能に思われますけれども、ほんの小さなことでも、主の御心にかなうことをなし得た時、『私たちは役に立たないしもべです。この小さなことも主の哀れによってさせていただきました』と、心から言うことができたなら、どんなに主は喜んでくださることでしょうか。
主のご再臨の間近いこのときにあって、私たちは、主のしもべとして選ばれたという考えられないような恵みを心から感謝し、収穫は多いが働き手は少ないと嘆かれるイエス様にお答えして、主の御心にかなうしもべとして相応しく整えていただき、少しでも主の器として、主のしもべとして、主の御手によって用いていただけるように、ご一緒に祈りたい切に願う次第です。
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