2025年6月2日月曜日

主イエス・キリストを着なさい

主イエス・キリストを着なさい
2025年6月1日、吉祥寺福音集会
黒田 禮吉兄

マタイ
22:2 「天の御国は、王子のために結婚の披露宴を設けた王にたとえることができます。
22:3 王は、招待しておいたお客を呼びに、しもべたちを遣わしたが、彼らは来たがらなかった。
22:4 それで、もう一度、次のように言いつけて、別のしもべたちを遣わした。『お客に招いておいた人たちにこう言いなさい。「さあ、食事の用意ができました。雄牛も太った家畜もほふって、何もかも整いました。どうぞ宴会にお出かけください。」』
22:5 ところが、彼らは気にもかけず、ある者は畑に、別の者は商売に出て行き、
22:6 そのほかの者たちは、王のしもべたちをつかまえて恥をかかせ、そして殺してしまった。
22:7 王は怒って、兵隊を出して、その人殺しどもを滅ぼし、彼らの町を焼き払った。
22:8 そのとき、王はしもべたちに言った。『宴会の用意はできているが、招待しておいた人たちは、それにふさわしくなかった。
22:9 だから、大通りに行って、出会った者をみな宴会に招きなさい。』
22:10 それで、しもべたちは、通りに出て行って、良い人でも悪い人でも出会った者をみな集めたので、宴会場は客でいっぱいになった。
22:11 ところで、王が客を見ようとしてはいって来ると、そこに婚礼の礼服を着ていない者がひとりいた。
22:12 そこで、王は言った。『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか。』しかし、彼は黙っていた。
22:13 そこで、王はしもべたちに、『あれの手足を縛って、外の暗やみに放り出せ。そこで泣いて歯ぎしりするのだ。』と言った。
22:14 招待される者は多いが、選ばれる者は少ないのです。」

読んでいただいた箇所は、ちょっと不思議な箇所であります。王子の結婚の披露宴に招かれた人たちが、一様にその招きを断った。それで仕方なく王は、通りで出会った人を皆、集め、客でいっぱいにしたと言う、この披露宴の話は、理解しにくい例え話の典型と言えます。

そして、もっともわからないことが、話の最後に出てくる礼服の問題であります。誰でもいいから連れて来なさいと言われたしもべが、無理やりに客を引っ張ってきたのですから、相手には当然、何の用意もありません。出席したらしたで、今度は礼服を着ていないから放り出せと言われたのでは、納得できるはずがありません。

イエス様の例え話の中でも、理不尽な受け取り難い内容のように感じられます。しかし、果たしてこの例えは、そのような理不尽な話なのでしょうか?今日はそのことを、ご一緒に考えてみたいと思います。

結婚の披露宴への招きは、実は、主イエス様を救い主として信じなさいという信仰への招き、天国への招きであります。この例え話の中の王は、天の父なる神様です。王子は主イエス様であります。

天国の宴会に招かれていた人々は、ユダヤ人であります。ところが、招待された客であるユダヤ人は、気にもかけず、自分の都合を優先して、宴会に出席しなかった――王の招待を断るというまことに無礼な態度を示したのであります。王を恐れなかったのであります。

そればかりではなく、ある者たちは王のしもべたちを捕まえ、殺してしまい、王は怒って人殺し者を滅ぼしてしまった。そういう話であります。そこで、今度は王は、招きに応じる人は誰でも天国の宴会に加われるようにしてくださいました。ここには、罪にまみれた人をどんな人でも、一人でも救いたいとする主なる神の切なる願いと忍耐を見ることができるのではないでしょうか。

異邦人である私たちが救われたのも、実は、このような主なる神の憐れみと恵みのゆえであります。

黙示録
3:20 見よ。わたしは、戸の外に立ってたたく。だれでも、わたしの声を聞いて戸をあけるなら、わたしは、彼のところにはいって、彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。

主イエス様は、戸の外に立って扉を叩かれるお方であります。けれども、無理に扉をこじ開けられる方ではありません。私たちが、自らの手で扉を開けるのを、忍耐深く待っていてくださるのであります。

主なる神は、良い人でも悪い人でも、出会った人の全てを宴会に招いてくださったのであります。しかし、ただ一つの条件があります。それは、神様の用意してくださった礼服を着て入場することです。

実は当時、王宮で宴会があった時、王宮の玄関で、王様が出席者に礼服を貸し与えたそうであります。招く側の王としては、突然の招きをするのだから、礼服まで用意しての招待であります。礼服は実は、用意されているのであります。

ところが、用意された服を着ないで出席する人がいた。この人は、この礼服が気に入らなかったのでしょうか?それとも、自分の服の方が立派だと思ったのでしょうか?

マタイの22章12節にありますね、『あなたは、どうして礼服を着ないで、ここにはいって来たのですか』と、王は言ったとあります。12節の聖書の脚注を見てみますと、このように書いてあります、『原文に、「友よ」という呼びかけ語がある』と書かれています。つまり、『友よ、あなたはどうして礼服を着ないでここに入ってきたのですか』と、尋ねられたのであります。

王が忍耐をもって、誠意をもって尋ねておられるのであります。しかし、王が忍耐をもって尋ねてくださったにもかかわらず、礼服を着ていなかった客は黙っていたと書かれています。『黙っていた』とは強い拒絶の態度であります。イエス様を試そうとしたバリサイ人が返事に窮して取ったかたくな態度であります。その部分を読みたいと思います。

マルコ
3:1 イエスはまた会堂にはいられた。そこに片手のなえた人がいた。
3:2 彼らは、イエスが安息日にその人を直すかどうか、じっと見ていた。イエスを訴えるためであった。
3:3 イエスは手のなえたその人に、「立って、真中に出なさい。」と言われた。
3:4 それから彼らに、「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか。」と言われた。彼らは黙っていた。
3:5 イエスは怒って彼らを見回し、その心のかたくななのを嘆きながら、その人に、「手を伸ばしなさい。」と言われた。彼は手を伸ばした。するとその手が元どおりになった。

安息日に、イエス様が病人を癒されるのをじっと見ていたバリサイ人は、イエス様の言動に何も言うことができず、黙っていたと書かれています。

旧約聖書では、ダビデが罪を隠していた時にも、やはり黙っていたと表現されています。

詩篇
32:3 私は(・・・・これは、ダビデが自分のことを言っています・・・・)黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。
32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。

しかし、罪を悔いを改めた時に、ダビデは解放された喜びの声をあげることができたのであります。

詩篇
32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。「私のそむきの罪を主に告白しよう。」すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

三十二篇の一節から二節に戻っていただきます。

詩篇
32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。
32:2 幸いなことよ。主が、咎をお認めにならない人、心に欺きのないその人は。

王子の結婚披露宴のたとえの中に出てくる礼服というのは、イエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストを着ないで天国の宴会の席に着くことはできず、外の暗闇に放り出されます。イエス・キリストを着るとは、十字架に死に、よみがえってくださったイエス・キリストを信じることなのです。

私たちは一人残らず、外はきらびやかに見えても、美しい衣を着ていても、中身はボロボロの罪人です。しかし、あるがままの姿で、神様の与える救い主、イエス・キリストを着さえれば、天国に入れるものとなる。義のころもをまとって、天国に入ることができるのであります。

イエス様はすべての人を招待してくださりました。すべての人が救われることを望んでおられたからであります。私たち一人一人を主の婚礼の席に招待するために、イエス様ご自身が十字架で死んでくださった。それが聖書のテーマです。

私たちは婚礼に招かれており、しかも、その礼服まで用意して招かれているのに、その服を着ないで出席する――それが私たちであります。今、私たちはイエス様に招かれています。素直になって今までの自分を悔い改め、宴会に喜んで出席しようでありませんか。

さて、このイエス様からのメッセージは、実は、もうすでに救われた兄弟姉妹にも語られていることではないでしょうか。主イエス様を信じた私たちは、生きる望みを持つものに変えられました。それは、主が間もなく来られるという希望であります。しかし、信じる私たちが日々の生活において果たして主を本当に待ち望む生活を送っているかどうかが、大きな問題であります。

ローマ
13:11 あなたがたは、今がどのような時か知っているのですから、このように行ないなさい。あなたがたが眠りからさめるべき時刻がもう来ています。というのは、私たちが信じたころよりも、今は救いが私たちにもっと近づいているからです。
13:12 夜はふけて、昼が近づきました。ですから、私たちは、やみのわざを打ち捨てて、光の武具を着けようではありませんか。
13:13 遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみの生活ではなく、昼間らしい、正しい生き方をしようではありませんか。
13:14 主イエス・キリストを着なさい。肉の欲のために心を用いてはいけません。

パウロは、私たち信じるものに対して、三つの勧めを書いています。第一点目は、『眠りから覚めなさい、』ニ点目は、『やみのわざを捨てなさい。』、そして、三点目は、『光の武具をつけなさい』であります。

私たちは今日、終わりの時が近づいており、主が来られるのが近いことを知っているのではないでしょうか。そうであるならば、眠っていないで、はっきりと主イエス様の側に立たなければなりません。イエス様に目を止めながら生活する必要があるのではないでしょうか。

またパウロは、やみのわざを打ち捨てて光の武具をつけようではないかと勧めています。私たちは信じる者であっても、やみのわざによって罪に対して無感覚になり、この世と妥協するようになる恐れがあるからです。

エペソ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。

『堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい』と、パウロは書きました。そして、パウロはさらに、先ほどのローマ書13章で、主イエス・キリストを着なさいと書き記したのであります。私たちは果たして、イエス・キリストを着ているものでしょうか?

キリストを着るということは、今まで自分の身に着けていた遊興、酩酊、淫乱、好色、争い、ねたみなどの古い罪の衣を脱ぎ捨ててしまいなさい。それに代えて、自分の上にすっぽりとキリストを着てしまいなさいということです。キリストを着るということは、神様の側に立つことを表しています。

キリストを着るとは、古い自分の生活の重荷を脱ぎ、キリストに結ばれることによって、古い自分に支配されない生活が始まることです。もはや、自分のために生きるのではなく、キリストの意のままに生きるものとなるということを表しているのではないでしょうか。

ガラテア
3:26 あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。
3:27 バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです。
3:28 ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男子も女子もありません。なぜなら、あなたがたはみな、キリスト・イエスにあって、一つだからです。
3:29 もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

キリストを着るとは、それは、今日、何を着ていこうかと、何着もある服の中から、あれこれと選んで、これを着るというような、そういう選択の問題ではありません。キリストを信じることは、世の中にあるいくつかの生き方のひとつとして選び取るということではありません。私たちには、キリストしかないという意味を込めて言っている言葉です。

ですから、キリストを着るという以外の生き方は、私たちにはあり得ません。パウロはそのことを、次のように証ししました。

ピリピ
3:8 それどころか、私の主であるキリスト・イエスを知っていることのすばらしさのゆえに、いっさいのことを損と思っています。私はキリストのためにすべてのものを捨てて、それらをちりあくたと思っています。それは、私には、キリストを得、また、
3:9 キリストの中にある者と認められ、律法による自分の義ではなくて、キリストを信じる信仰による義、すなわち、信仰に基づいて、神から与えられる義を持つことができる、という望みがあるからです。

それでは、イエス・キリストを着るために、私たちはどうすればいいのでしょうか。まず必要なことは、古い衣を脱ぐことです。古い衣は脱ぎ捨てるのです。もはや、以前の衣は必要ありません。古い価値観を脱ぎ捨てるのであります。そして、自分の弱さ、みじめさを認め、イエス・キリストの救いの衣が必要であるということを認めるのです。

イエス様を信じて生きることは、古い衣を脱いで、主イエス・キリストを着ることなのであります。

ゼカリア
3:1 主は私に、主の使いの前に立っている大祭司ヨシュアと、彼を訴えようとしてその右手に立っているサタンとを見せられた。
3:2 主はサタンに仰せられた。「サタンよ。主がおまえをとがめている。エルサレムを選んだ主が、おまえをとがめている。これは、火から取り出した燃えさしではないか。」
3:3 ヨシュアは、よごれた服を着て、御使いの前に立っていた。
3:4 御使いは、自分の前に立っている者たちに答えてこう言った。「彼のよごれた服を脱がせよ。」そして彼はヨシュアに言った。「見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう。」

ここに出てきます大祭司ヨシュアというのは、捕囚から帰還したイスラエルの指導者の一人であります。私たちがよく知っているモーセの後継者であるヨシュアのことではありません。

このゼカリア書3章は、預言者ゼカリアに与えられた幻が記されています。けがれた服を着ていることを、サタンが訴えている天上の場面であります。サタンの告発に対して、けれども主は、むしろサタンをとがめておられます。

それは、第一に、主がエルサレムを選ばれたからです。主の選びは、エルサレムが汚れに満ちているからと言って、無効になるものではないのです。これは信じる者、キリスト者に対しても同じであります。ですから、私たちがどんなに失敗しようとも、神が私たちをキリストにあって選んでおられるなら、滅んでいくことは断じてありません。

第二に、これは火から取り出した燃えさしではないかという理由があります。これは、試練の火の中からかろうじて生き残ったという意味であります。彼ら、ユダヤ人はすでにバビロン捕囚という激しい試練を通ってきました。そして、終わりの日には、イスラエル人は大きな艱難の中で救いに預かるという約束があります。したがって、神が彼らを救わないということは断じてないのであります。

そして、主の御使いは、ヨシュアの服を着替えさせておられます。新しく身につけたのは、大祭司の装束であります。

私たちもヨシュアのようにイエス様の前に立っています。おもしろくないことや、苦しみを通して、主に出会いました。そして、汚れた服を着て立っています。そこでイエス様は、私たちの汚れた服を脱がせようと告げられました。『見よ。わたしは、あなたの不義を除いた。あなたに礼服を着せよう』と、言われているのであります。

主イエス・キリストを着ると、私たちは自分が隠されて、主イエス様が現れてくださいます。肝心なことは、主イエス様が人々に見られ、イエス様が輝いてくださることであります。また、私たちは、キリストの香りを放つものであります。私たちの語る言葉を通して、また、私たちの行いや態度を通して、主イエス様が表されるようになれば幸いであります。

最後に、御言葉を二箇所、読んで終わりにしたいと思います。

エペソ
4:22 その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、
4:23 またあなたがたが心の霊において新しくされ、
4:24 真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

第二コリント
2:14 しかし、神に感謝します。神はいつでも、私たちを導いてキリストによる勝利の行列に加え、至る所で私たちを通して、キリストを知る知識のかおりを放ってくださいます。
2:15 私たちは、救われる人々の中でも、滅びる人々の中でも、神の前にかぐわしいキリストのかおりなのです。

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